巻頭言
記憶の中で
小 瀧 真 里

 真っ白な壁、古びたベッド、医療器具で足を吊され泣き叫ぶ赤ん坊・・・。激しく泣き叫んではいるが、なぜか、そこは日だまりのように温かく心地がよい。
 子どもの頃、幾度となく繰り返し夢に見た光景である。小さい頃は、この光景が何であるか理解ができなかった。小学校の高学年になった頃だったろうか、繰り返し見るこの夢を母に尋ねてみた。すると、泣き叫ぶ赤ん坊は私自身であること、逆子で生まれてきた私は、先天性の股関節脱臼を患っていたこと、一才になり、歩き始めてやっと両親が病気に気づいた頃には、医者から手遅れだと言われたことを告げられた。しかし、子どもの頃の私は、運動することが好きで、何不自由なくかけ回ることができたのだ。その理由はこうだ。落胆する両親に「腕のよい整体師を知っている。」と祖父が声をかけてくれた。そして、祖父は、ほぼ毎日、私をおぶって、その整体師のもとに通ってくれたのだ。おかげで、私は手遅れどころか、リレーの選手や剣道の有段者にまでなることができた。
 夢の中で、激しく泣いているのに温かな空間に感じられたのは、祖父が私に向けてくれた深い愛情のせいだろうか。この頃、私は一才から三才だったそうで、ほとんどのことを覚えていないが、重いギブスにむずがる私に絶えず語りかけてくれたのだろう、祖父の声はよく覚えている。間違いなく言えることは、祖父が、私の中に「愛情」という記憶をプリンティングしたことだ。この記憶は、私が、人生の苦難を生き抜くエネルギーの源となっている。

 私は、教師として、子どもたちに「愛情」のこもった言葉を伝えてきただろうかと自問してみる。彼らがいずれ世の中に出て、様々な困難にぶつかったとき、それを乗り越えるだけのエネルギーを持った「言葉」である。もちろん、肉親から授かる愛情とはまた違った次元で、私たち教師にも子どもを支えるエネルギーを与えることができるはずである。そうでなければ、教育が「生きる力」をはぐくむことを目指せるはずがない。「言葉」の持つ感触であったり、心地よさであったり、温かさであったり、時には厳しさであったりを伝えられる教師でなければ、混沌としたこれからの社会を生き抜く子どもを育てることはできないのだと、自分に言い聞かせる毎日である。
(京都府福知山市立昭和小学校)