巻頭言
「国語力」は「人間力」に関して
村 田  昇

 過日、京都女子大学附属小学校長吉永幸司氏から同校著『国語力は人間力』(明治図書刊)と『京女式ノート指導術』(小学館刊)が贈られてきた。共に小学校における国語教育の在り方が実践例に即して具体的に考察されており、実に意義深い書物であると感服している。

 特に注目したいのは、書名となっている「国語力は人間力」が単に国語教育の目標ではなく、当校の学校教育目標とされている点である。

 言葉は、一定の自然環境、風土、習慣等と関わりながら住民たちの共同生活を通じて形成され、歴史的に積み上げられてきたものである。人間はその言葉を通じて自己の意思や感情を表現するとともに、他人の発言にも耳を傾けながら親交をもち、相互関係を図る中で実生活を営んでいく。実際、人間は言葉なしには自分の意見を述べ、他人と交わることはできないし、社会生活も営むことはできないのである。これは人間のみがもつ特性と言うべきであろう。この意味において、アリストテレスが「人は動物の中で言葉(ロゴス)を有する唯一のもの」であるとし、ドイツの言語哲学者フンボルトはより以上に、「人間は言語によってはじめて人間である。しかし、その言語を考察するには、すでにまず、人間でなくてはならない」と述べている。だから、言語は人間を人間ならしめている素質や自然的な発動であると言わなければならないのである。

 やがて文字が生まれ、普及すると自分の生活等を記録し、思念等を書き残しておくようになる。そして、後でそれが読み直されることによって、思考がなされ、自己が客観視されていく。また、他人の生活記録や思念が文章化されたもの、さらには文学作品を読み、そこから色々なことを学びとり、それによって自己の情感や思考も表現力も豊かとなり、深まっていく。そうして、やがては「文は人なり」と言われているように、文章を通じて自己の個性が表現されるようになっていくのである。

 プラグマティズムに影響された戦後教育では、この言語の本質が見失われ、「言語はコミュニケ−ションの単なる道具である」と考えられがちであった。その流れは今もなお一部に引き継がれ、国語教育の低下を招く原因となってはいないだろうか。この意味において、「国語力は人間力」が学校教育目標に取り入れられたことの意義は大きいと考える。

 なお、これが実を結ぶためには、いわゆる古典的名作等の音読が教師による範読と共に肝要なことを一言しておきたい。
(滋賀大学名誉教授)