巻頭言
子どもは一冊の本である
光 成 直 美

 子どもは一冊の本である。

 新任時代に読んだ本の中の言葉で、今でも忘れることがないフレーズである。指導技術も何もない私が、子どもという本から何かを読み取りたい一心で、新任よりずっと日記を子どもたちに書かせてきた。いつしかその日記は「こころ」というタイトルを身につけ、子どもとの対話や学級づくりに欠かせない存在となっていった。

「マラソン大会の練習が始まった。『今年も一番だね。』とみんなに声をかけられる。うれしいけどちょっぴりつらい。私は、一年から四年までずっと一番で、みんなからそれを期待されている。…(略)」

「ぼくは、運動がきらいだ。なぜかというと、ぼくは自分でもはずかしいくらい太っているからだ。(略)ぼくは食べることが好きで、ごはんが特に大好きで、一度くらい何も言われないで食べられたらなあと思う。(略)でも、五年生のマラソン大会は運動の嫌いな僕にとっても一生忘れられない思い出になった。…(略)」

 どちらも、当時担任をしていた子どもが、持久走の取組み中に綴ったものである。素直な心の内を読み合うことで、誰しも自分とよく似た弱さや葛藤があることを知り、教室の中にほっとした空間が生み出されていく。お互いの気持ちを分かち合った子どもたちは、足の速い子も遅い子も「お互いを励まし合うこと」「絶対に歩かず、自分のペースで完走すること」という目標を掲げて練習に取組み、マラソン大会の日を思い出に残る一日とした。

 「こころ」の最後の頁にこんなことを書き留めた子がいる。
「ぼくが、この『こころ』と出会ったのは、五年生になった時です。(略)以前は、自分の思っていることを余り書いていませんでした。でも、今は、うれしかったことや残念だったことが書きたくなります。時には、納得できないことも書きます。『こころ』を書いた時とてもすっきりするのです。…(略)」

 書いて表現するということは、自分を解き放ち自分を見つめていくこと。書くことで自分づくりをしていくこと。そして、それを共有し合うことで繋がりを築きあげていくことだと年を重ねるたびに思う。そして、当時、担任であった私は、「子ども」という読みごたえのある本から読み取ったことを赤ペンで書き綴りながら自分づくりをしていたのかもしれない。
(尾道市立長江小学校長)