巻頭言
「教える」ということ
田 井 康 雄

 「教える」ということに対して我々教育者は非常に難しい立場に立っている。「教える」ことは「教えられる」側が「教えられた」と実感し、何らかの内容や技術を習得したと感じたときに成立する。我々が教えたつもりになっていても、それが被教育者に伝わっていない場合、「教えたこと」にはならない。

 教育という言葉はそのような内容をうまく表現している言葉だと思う。「教え−育てる」ことが完了して、教育が成立するということができる。しかし、ここにも新たな問題が生じてくる。つまり、教育者が教育意図をもって被教育者に接するとき、被教育者が教育者の意図するものに反することや、意図すること以外のものを受け取ることが往々にして教育現場においては生じる。まさに、「人間が教育的有機体である」という証拠がここにあらわれてくる。

 教えられる側は教える側からの教育的はたらきかけや教育意図を無機的に受け入れるのではなく、有機的に受け取っているのである。それゆえに、教育者の「教える」が被教育者の「教えられる」と必ずしも一致しないのである。したがって、教育者は被教育者の立場や考え方を想像しながら「教える」のであるが、被教育者自身自らいかに「教えられる」かを意識すらしないことが多い。普段の人間関係において、さまざまの誤解や確執がそれぞれの人の本心に反して生じてくるのは、このような相互コミュニケーションの間に生じる矛盾に起因している。

 プロの教育者である教師はこのような「教える」と「教えられる」の間に生じる矛盾の発生を予測し、被教育者(とりわけ、子ども)の「教えられる」の構造を考慮したうえで「教える」活動を行わなければならない。

 子どもの立場に立った教育が求められていながら、学力低下や子どもの理科離れが問題になると、そのための対症療法的な教育施策がとられる現在の教育行政の貧困さには目を覆いたくなるものがある。教育は個々の教育問題の根本にあるものを探究し、そこから、改善策を模索していかなければならない。「教える」ことの真の意味を知り、それを受けて成立する「教えられる」子どもの実態を把握し、子どもの自己形成の構造にあわせた「教えるー教えられる」を探究することこそプロの教育者としての使命ではないだろうか。
(京都女子大学教授)