巻頭言
大和言葉が奪われなかった喜び
川 嶌 順 次 郎

 県下の国語教育をリードされている専門家の方々に、お粗末な偶感で求めに応じさせていただくことをお許しください。
 学生さんたちと人権の問題についていろいろと考えていると、日本の文化を改めて見直すことも少なくはなく、大和言葉と言われるものもその一つです。

 キリスト教国の人たちは「万人は神の前において平等」と信じてきたし、ローマ時代には「万人は法の前において平等」を発見したのだから、近代欧米の人権思想はこの二つを基礎にしていると考えられます。それでは日本ではと言う時、「和歌の前において平等だった」と説く人があり、はっとさせられます。なるほど万葉集では作者が天皇、農民、兵士、乞食等々あり、男女差別もカースト的偏見もない。和歌を(詩を)こよなく愛し、歌に優れた人は、身分を超えて尊敬された。衣通姫が歌神となって祀られているように。この伝統は現在の「歌会始」にまで続いていて、国籍も男女も問わず、誰でも応募でき、入選すれば皇帝の招待を受けられるというのだから、こんな素敵な行事は世界に例を見ないのかもしれません。

 しかもその歌は、古代から母国語であり母語でありました。二千年奪われることのなかった大和言葉であり、言霊のある言葉でした。これなくして日本人の感情は表現できなかったのであり、如何なる外来語にもとって替わることはできないものであり、漢語がいくら入って来ても、歌と祝詞だけは母語だった。そして歌があるからこそ、外来語に侵されてしまうことがなかったと言われます。

 中国語に変わらないどころか、むしろ漢字から平仮名と片仮名を創り、外来文字(漢字)を加えて三種の文字を生み、七通りの文字表現を可能にさえしたのだからこれもまた世界に例を見ないのではなかろうかと思われます。

 芭蕉の句が誰にでも心引くのは大和言葉ばかりを使っているからであり、新しい時代では「兎追いし」の「ふるさと」もそうである。何代にも亘って用いてきた言霊のある母国語をいただくことに改めて喜びを感じ、それが侵されなかったのは和歌にあることを思うとき、改めて悠久の日本文化に新たな感慨を覚えずにはいられません。
 U−CANで短歌の勉強を始めました。
(京都女子大学講師)