巻頭言
『学校ごっこ』
福 本 義 久

 中1の長女が小学校に入学してしばらくの間、一家団欒の場は、『学校ごっこ』なるむすめの一人芝居で盛り上がったものです。
 あるとき、私が児童役として『学校ごっこ』に飛び入り参加したところ、先生役のむすめは、「廊下は走ってはいけませんよ。」「お友達とは仲良く遊びましょう。」などの注意ばかりをして、なかなか授業を始める気配がありません。そこで、「先生、はやく勉強を教えてください。」と私がせがんだところ、すかさず「ごっこは教えないの。」という返事が返ってきました。
 私は、この一言で、突然現実の世界に放り出されたような、背筋が凍りつくような大きなショックを受けたのでした。

 折しも、教育現場には「支援」を曲解した「指導放棄」が蔓延し、指導案を書くのは、指導者ではなく支援者、本時案でも支援中心の学習活動が展開されていました。そのため、「先生は、教えてはいけない。子ども主体の活動が大事なのだ」ということがまことしやかに議論されていたのです。私自身は、このような教育の在り方に大きな違和感をもっていましたから、少々肩身の狭い思いをしながらも、「支援」は「指導」の一部でしかないという立場で、教えるべきことは教える、考えさせることは考えさせる学習指導を進めているつもりでした。それが、『教員の本分』だと考えたからです。

 今、果たすべき本分を全うしていない『○○ごっこ』が、社会ではまかり通っているように思います。偽装、隠蔽、欠陥工事、等々枚挙にいとまがありません。かくいう私も実は『先生ごっこ』をしているに過ぎないのかもしれないと自省の念に駆られることがたびたびあります。

 昨年、木村拓哉主演で話題になった映画『武士の一分』では、武士として譲ることのできない一身の面目や名誉を守ることの尊さが描かれていたと思います。それは、「武士の一分が立てばそれでよい」という果たし合いの場面の言葉から推測できます。
 翻って、私は『教員の本分』のわずか「一分」、十分の一だけでもいい、『教員の一分』が立てられるような教員でありたいと襟を正す毎日です。そうでないと目の前の子どもたちはもちろん、私の目を開かせてくれた長女にも申し訳が立ちませんから。
(奈良県御所市立葛小学校)