「書くこと」の授業改善を思う
森  邦 博

 「書くこと」の力をつけることをめざした研究授業を参観した。4年生と6年生である。授業は、相互批正する場面の授業改善をテーマにしていた。
 4年生では、学級新聞の記事を読み合ってアドバイスし合う活動、6年生では、友だちの作ったガイドブックの「おすすめのページ」を読み合ってアドバイスし合う活動場面である。展開もよく似ていて次のような順。

@学習のめあてを確認する。
Aグループで、友だちの書いたものを読み、メモをする。
B「よいところ、直した方がよいところ」をアドバイスし合う。
Cアドバイスを聞いて直せるところは直す。
D今日の授業を振り返る。
 授業の中に相互評価、個人評価を取り入れる授業の意図、加えて、教師のきめ細かで、適切な支援と評価を織りまぜることで、確かな「書くこと」の力をつけようと意図されたものである。

 さて実際は両授業とも、ABの活動に時間がかかった。担任の先生は各班を巡りながら一生懸命にグループの話し合いを指導しておられた。子どもに先生の熱心さが伝わったのか、しっかりとメモしよう、しっかりとアドバイスしようと努力している姿があった。充実した時間だったにちがいない。しかし、結果的に、Cの活動では「もうあまり時間がないから早く進めなさい」という指示が両方の先生の口から聞かれた。そして、Dの活動に入る頃には、授業の終わりの時間はすぎてしまっていた。

 4年生のある子は、「新聞記事はこれまでの作文と違うので、題名の次に名前を書くんじゃないことが分かった」と振り返っていたと、研究会の席で参観されたほかの先生からの報告があった。6年生では、「友だちの書いたものを直すのは初めてで、なかなか難しいことが分かった」と発表した子があった。
 これを聞くと、それぞれの子なりに1時間の学習活動で学ぶことがあったことはうかがい知れたが、気になったことは、Dの活動時間は少なくなっても(あるいはなくなっても)可、との意識が先生にあったのではないかと感じたことである。
 「パッパッパッっとやりなさい」との指示の言葉、1人にだけ発表させて、「時間がないから終わります」とのコメントしか先生からはなかったこと。Dの活動が付け足しのように位置づけられてしまった残念さはぬぐえなかった。

 授業で自分がどう変わったと振り返っているのか、丁寧にくみ取り、共有させたり、価値づける、この時間を大切にしたいと思った。
(大津市教育研究所)