『オレ様化する子どもたち』
中 嶋 芳 弘

 青少年が関わる事件が頻発し、教育現場での子どもの現状が問題視され、そういった子どもへの関わり方が問われている。
 「オレ様化する子どもたち」(中公新書ラクレ)の著者・諏訪哲二氏は、長年、子どもたちの変化と対峙してきた経験から、「新しい子どもたち」を語っている。「端から自分と大人は対等だと思っている。彼ら・彼女らは、他者との比較を意に介さない。自分の内面に絶対的な基準を持つ『オレ様』になったのだ」として「オレ様化」の原因を探り、子どもたちの「個性化」と「社会化」の在り方を考察している。
 その終章で著者は、おおよそ、次のように述べている。

 「子ども・若者問題」は教育の内部(だけ)から発生しているものではないし、また、国民国家や市民社会の内部(だけ)から発生」しているわけではない。普通教育においてまず重視されるべきものは、「個性化」よりも「社会化」である。近代的な「個」が形成されていくのは、赤ん坊や乳児がそのまま大きくなることではまったくないからである。子ども(ひと)は市民杜会的な「個」になるまえに、共同体的な「個」を通過する必要がある。いったん市民(国民)として自立したうえで、「自分がどう生きていくか」(「個性化」)はまったくその「個」の自由に委ねるべきである。いわゆる「人間的成長」ないしは「人格の完成」のレベルも同じく「個」に委ねるべきことである。逆に言えば、公教育(普通教育)は近代的な市民(国民)形成にかかわるものとして自己限定すべきなのである。

 子どもたちをどうとらえ、「新しい教育観」をどう位置づけ、これから現場はどうしていけばよいのか、その示唆に富んだ好著である。

 私の勤務する学校では、職員室や保健室に出入りするときの言葉の例が、ドアにはってある。「失礼します。○年○組の○○です。○○先生に用事があって来ました」場に応じたあいさつなど、多くの大人が当たり前だと感じていること。それは、コミュニケーシン力の基礎であり、幼い頃からきちんとしつけ、教えていくべきことである。

 ふと、アメリカのある学校で見た授業を思い出した。それは、低学年の子達を目の前に集め、話を聞かせ、手を挙げさせるのではなく指名して順に発言させていたその学校で人気の高齢の女性教師の姿である。
(彦根市立河瀬小)