巻頭言
言葉を選ぼうとする力
大 杉  稔

 「舌頭に千転せよ」。俳聖と讃えられる芭蕉の残した言葉である。できあがった句を、さらに舌頭にて千たび繰り返して唱詠し吟味せよという教えである。わずか十七音の言葉の世界であるがゆえの厳しさがよく伝わってくる。
 千転とまではいかないにしても、およそ言葉を使うときには、「選ぶ」ということが何より大事であろう。しかし、現実には、子どもは言葉を選べていないことが余りにも多い。

 作文で、会話文のかぎの前後に添えられる「〜と言いました」はその好例である。この言葉は、不思議なほどに固定的である。
 例えば、「お姉ちゃん、いっしょになわとびしよう」に続く言葉は、やはり「さそいました」であろうし、そんな妹の言葉を受けての応答「うん、いいよ」なら「答えました」が相応しい。それなのに、子どもはなかなかそうは書かない。「言いました」の一点張りである。

 私は、以前2年生の担任であったとき、日記帳を埋め尽くしていたこの「言いました」を何とか一掃できないものかと思い立った。そこで、子どもたちが「言いました」に代わることばを使うたびに、それを短冊に書いて、教室の壁に並べて張っていくことにした。
 初めのうちは「大きな声で言いました」のように、ただ形容する言葉が加わるだけのものが多かった。しかし子どもたちは、この張り紙の意味を理解するに従って次第に勢いづき、「ささやきました」「さけびました」といった音量に関わるバリエーション、また「教えました」「たのみました」のように行為の種類を表すシリーズ等、楽しみつつ言葉を広げていった。そして、学年を修了するころには、短冊が教室を一回りするほどに「『言いました』の言い換え言葉」がたまったのである。当然日記帳の言葉も豊かになった。

 「うちの学校の子どもは語彙が少なくて…」。国語の研究会などでよく耳にする教師の嘆きである。
 しかし、この捉え方は本当は間違っているのではないか。「言葉を知らない」のではなく、知っているのだけれども「選んで使おうとしない」だけではないのか。
 この2年生の実践で、それは確信できた。なぜなら、百を超えて広がった言い換え言葉のうち、こちらが教えてやったものは5つほどしかなかったからである。
 自分が、今、知っている言葉の中から、状況や目的に、より合うものを選ぼうとする力。それこそが、真の国語力ではないだろうか。
(高島市立今津東小)