第32回国語研究集団合同研究会で学んだこと
岡 嶋 大 輔

 8月21、22日、岐阜市で、「国語学習の創造」を研究主題として、第32回国語研究集団合同研究会が開かれた。

 1学期に実践された授業の発表があり、その発表を受けてさかんに質問や意見が交わされた。 その中で、興味深かったのは、読み取ったことを子ども同士が交流する時の指導者の出方についての話題である。
 端的に二つの交流の形に分けて表してみると、一方は、指導者が子どもの思いや考えを把握した上で、それらを整理しながら交流のテーマと道筋を作り出していくという交流の形。
 もう一方は、指導者は子どもの思いや考えを把握してはいるものの、交流のテーマと道筋の形成はほとんど子どもに任せてしまうという交流の形である。

 前者は、指導者も子どもも「読むこと」のめあてを明確に持ち、それに向かって子どもの思いや考えを整理し、生かしながら学習を進めることができる。つまり、集団で高め合いながら「個人の読む力」をつけることになると考える。
 後者は、友達の思いや考えを「聞き」、汲み取って話をつなげながら自分の思いや考えを「話す」経 験を積み、学級としての「読み」の文化を長い時間をかけながら形成することができる。つまり、「そ の集団の中で高め合って読む力」をつけることになると考える。
 後者は、集団として子どもが力をつけていなければ、交流の内容としてポイントがずれたり、偏りを生じたりする恐れがある。一時間の学習としてどんな「読み」の力がついたのか分からずに終わってしまうかもしれない。そのような違和感を感じつつも、子どもたちが子どもたちの力で自分たちの読みを作っていく学習に魅力を感じ、新しさを感じた。

 その日の講演で、細谷直樹先生は、次のような話をされた。
 「指導者は、読み切ってから授業をしているとは思うな。絶対の読みはない。だからこそ、学問は前 進する。分からないことを自覚して、子どもと一緒に悪戦苦闘する。その苦闘を通して学ぶ。子どもは、その教師の姿を見る。子どもの質問がきっかけになることもある。指導者の『自分はまだまだ』とい う姿勢が大切である。」 先に述べた二つの交流の形にどちらが正解ということはないのだろう。細谷先生の話にある「姿勢」の結果が形に表れるだけである。「この教材文には、このようなめあて」「読みの交流にはこの形」と、どこかで決めてしまっていたのを叱られた気がした。
(甲賀町立佐山小)