生 き る 力
杉 澤 周 一

 5年生の国語の少人数授業を担当している。4年生の時から2年目である。

 担任の先生と相談して、スピーチに取り組んできた。マンネリ化させずに力が伸びていくことを自覚させようと段階を設けた。4年生は、原稿があるかないかと時間とを組み合わせた9段階。5年生は。原稿やメモの有無の組み合わせで5段階。(詳細は前号)
 子どもたちは毎朝と授業中と続けていた。5年生から担任をした先生も「スピーチでよく話しますね」と話された。

 しかし、愕然とすることがあった。先日、読書集会があり、各学級が学級の読書活動や朗読などを発表した。5年生の時間になり、数人の子どもが学級の様子を話し始めた。いつも、教室ではっきりした口調と声の大きさで話しているのに、原稿を見るために下を向いたまま一度も顔を上げることなく、しかも聞き取りにくい小さな声で発表を終えた。一人ではなく、何人もがそうだった。

 教室でのスピーチとの違いは何だろうか。全校児童の前で緊張したからだろうか。それとも、担任の先生の事前指導が不十分なのだろうか。そうは思えなかった。
 教室では話せる。全校の前では話せない。これは、教室での活動が生きる力に結びつくものではなかったのだ。その子どもたちは教室で学びの実感が持てていなかったからではないだろうか。私たちが、スピーチという活動を形としてやらせ、子どもたちは、私たちの言うとおり従順に活動を上手にこなしていたのではないか。

 ある子どもが、教室でスピーチで学びを実感し、自分に力がついてきたことを自覚しているならば、自ら、少なくとも原稿から目を離し、全校の子どもたちの方を見る場面があったはずだろうし、みんなに届く声を出せる自信とそうすべき自覚を持っていたと思う。内容から考えてみても、メモで話せる発表もあった。
 そう教えたはずだだし、そういう学習活動をさせたはずだった。しかし、全体的に指導したつもりでいるだけで、一人一人を見取り、個に応じてきめ細かい指導をしただろうか。そして、その子どもの学びの自覚を確認しただろうか。

 ほんとうの生きる力を育てるには、その子どもの実態とめざす学びとその間に構築する変容につきあわなければならない。子どもに学びの自覚をさせ、教師がそれを評価できたとき、教えたといえるのではないか。評価規準とその基準を意識するようになり、教科の授業は以前より個の変容を捉え指導するようになった。スピーチのような帯の活動も気を引き締めなければと自戒した。
(能登川町立能登川西小)