巻頭言
息 子 の し っ ぺ 返 し
北 尾 正 幸

 私は二〇〇〇年四月から、教師の皆さんの仲間入りをして校長に就いたが、それまで三十数年間は新聞記者だった。

 初めの十年は第一線での取材記者で、事件・事故の取材が主な、いわゆる事件記者だった。中の十年はデスク。一線の記者が取材して書いた記事やコラムに間違いはないか、論旨は通っているかをチェックする。後の十年は高松、大津、奈良、神戸の支局長で、その県での新聞社の代表を務めた。
 最後の約三年は、新聞社が主催するセンバツ高校野球やびわ湖毎日マラソンはじめ各種の展覧会などを仕切る事業本部長だった。
 事件記者時代は、帰宅は午前様、朝は日の出前に出勤するという夜討ち朝駆けで、一人息子が生まれて以降ほとんど、息子が目覚めている時の顔を見たことはなかった。
 デスク、支局長時代は奈良の自宅に妻と息子をおいての単身赴任の期間が長かった。自宅に帰って、小学五年になっていた息子とキャッチボールをして「さあ、勤務地の高松に戻る」という時に、息子の両眼からポロポロと、涙がこぼれ落ちたのを、今でも忘れられない。

 その息子が大学三年になって、就職活動スタートという時に、父親面をしながら「新聞社か関連の放送会社に就職するのなら、それなりの準備をしないと」と息子に言った。
 その発言を予想していたように、すぐにかえってきた返事は「家庭を大事にしないような職業には就かないし、そんな会社には行きません」だった。
 そして選んだ仕事が教師で、生まれ故郷の鳥取県で年に二、三人しか採用されない正規の教諭になって今、鳥取市立の中学校で社会科を教えている。
 家庭無視、家庭不在、家族犠牲をもたらした父親に対する強烈なしっぺ返しで、これまた、ポロポロとこぼれた息子の涙と共に忘れられない。

 その父親が還暦を迎えて中・高一貫五百人規模の私立中学・高校長になり、昨年四月からは生徒二千七百人を擁する大規模高校の校長になったのだから、息子としても心中穏やかではなさそうである。
 私の言動で、息子が今度は教師という職業までも捨ててしまっては大変なので、「おまえが先輩」と息子を立てる毎日である。それが、しっぺ返しに対する恩返しということなのだと思っている。
(岡山理科大学附属高等学校長)