国 語 教 育 の 明 日 を
中 嶋 芳 弘

 書写・書道の実践・研究が中心であった私に、今は亡き高野先生が「オブザーバーとしてでも、覗いてみたら」と声をかけて下さった。私の実践は甘いものではあったが、以来、実践を見つめながらの20年があっと言うまであった。当時、20代後半であった私も50才になろうとしている。

 数年前、大津で「国語科教育21世紀に残すもの、残さないもの」というテーマのもと「国語教育フォーラム」が催された。その後の懇親会で、日本の国語教育の推進役を務めていてくださる諸先生と膝を接してお話ができた。こんな機会に何度か臨むことができたのも「さざなみ国語教室」に参加させていただいたればこそである。先生方とお話する中で、日ごろ感じていることがはっきりとしてくることも少なくない。

 書写指導について、
「書き順ひとつとっても右と左はなぜ書き順が違うんでしょう。文字の歴史は置いておいて、原則に従って統一してもよいのではないかという声もあるのですが、書道界の声が大きくて。」
とK先生。伝統に寄りかかって、工夫や改善が少ないとの響き。児童の実態を見つめ、柔軟に研究的に進んでいく必要があるという指摘として受け止めている。

 さて、国語科の指導においては、「言語の力」を大切にと言われて久しいが、現場の実践は目新しい「活動」中心に流されているように感じることがある。
 国語科での学びが「総合的な学習の時間」の活動に生きて働くには、国語科で身につける「言語の力」が明らかにされ、教えるべきことがしっかりと教えられていなければならない。しかし、言葉は不適切かもしれないが、「総合」のように動き回っている「国語」を見ることがある。活動はあっても言語学びの乏しい実践である。
 「話すことの力は、話すことで育つ」「書くことの力は、書くことで育つ」「読むことの力は読むことで育つ」と考えている私であるから、「活動」があることは今日的な指導の方向としては良いと思っている。ただし、子どもを見据え、どんな言語の力をということが確かであるならば。

 かつての国語科の実践者の多くが、能書家であり、文を良くし、児童に教えるべきことをしっかり持っていた。現代は、「書を読み、文を書く」だけでなく、コンピュータも使いこなさなければならないのだから大変である。だからこそ活動を工夫するだけでなく「鉛筆の持ち方」「話をするときや話を聞くときの姿勢」……教えるべきことをきちんと教えられる教師でありたいと思う。
(彦根市立旭森小)