巻頭言
カ リ キ ュ ラ ム の 多 層 化 を
倉 澤 栄 吉

 藤田英典の 『教育改革』 (岩波新書 1997年)から始まって、佐藤学の 『教育改革をデザインする』 (岩波書店 1999年)、そして苅谷剛彦の 『教育改革の幻想』 (ちくま新書 2002年)に至る一連の学者たちの慎重論・批判の論が渦を巻いた。
 読売新聞の連載記事「どうなる学力」(3月6日、3月8日)には、文部科学省の「教育改革フォーラム」(於千葉)の様子を報じ、不安抱え「ゆとり」始動 省が揺れ教師に戸惑い という見出しをつけた。
 教育関係者の多くが、文教行政に不信感を投げつけているのだ。学習指導要領がこれほどまでに冷遇されたのは、今までになかったことである。

 教育内容の「厳選」の厳とは、上限のゲンかそれとも下限のゲンか。全く正反対の解釈が、一年と経たないうちに、上から降りてきたのだから、受ける方が不安になり戸惑うのも無理はない。
<子らにゆとりを>の中教審の改革方針は間違ってはいない。すべての子に<学力の向上を>、これも親たちの不易の願いである。前者と後者とは果たして「矛盾」しているのだろうか。

 ゆとりを求めていても、子どもたちすべてではない。学力向上をの「学力」について、すべての子が自覚しているわけではない。塾通い、おけいこごとを日常化している子もあるが、山村漁村の小規模校の子らは、日々の学校生活を、ゆとりとは無関係に、目いっぱい楽しんでいる。一つのクラスの中には、学校・学級のカリキュラムには追いつけない子も必ずいる。教室のうしろの方に一人か二人は「内職」をしている子がいる。トットちゃんは窓の外の風景を見ていた。わかりきったことを暗記せよと強要されてやる気を失っている子もいる。あと4〜5分待てば完全正答ができるのに先生はスピードや間の調節をしてくれない。ーー 数えあげればきりがない。上限か下限かというが、上限を目ざすべき子もおれば、下限のレベルが良い子もいるのである。
 カリキュラムは、一人一人の学習者に即して計画実施すべきものである。上か下か中位かと、目標や内容を唯一つに決定するべきか否か。一人一人の子に即して、上を目ざす子もおれば、下を、時間をかけて追求する子もいていい。「みんちがってみんないい。」 願う、カリキュラムの多層化を。  (3月8日)