巻頭言
日に新に 日日に新に 又日に新ならん
杉 山 允 宏

 世紀末現象と言うのは、世紀の終わり頃に引き起こされてくる世の中の頽廃的な社会的現象を総称して言われることである。日本においてもそれらに匹敵するような出来事がたくさん見られた。例えば、十七歳年齢の悲惨な殺人事件、教育界におけるいじめや登校拒否などによる子供たちの精神的不安、経済界における汚職・リストラによる自殺行為、セクハラ、ストーカーといった多様な社会組織下における人間世界のやるせない、許せない、非人道的な非道徳的な社会事象がまたかまたかと連続して引き起こされてきた。知恵ある人間は如何に生きていくかを問われ、新たな生き方や考え方を探索しようとしていく。二十一世紀は地球レベルで人間のこころの在り方やあらゆるものとの共存・共栄を求めて生きていく精神の醸成が重要と考え始めてきた。

 冒頭の語は中国慇の始祖湯王(前1853〜前1753)が治国平天下の道を行うのに、寸陰を惜しんで朝夕洗面手洗いの盤に刻んでこれをながめ、自ら修養の鑑誡にしたものと言われている。新というのは最新流行型の新でもなければ新しがりやの新でもない。日新これを盛徳と言う、生き生き活動するもののあらわれを新といい、沈滞して流れぬものを古いというのである。さらにいえば、木の葉が芽生え、葉がひろがる、花が開く、みな新であれば、木の葉が紅葉し、落葉して風にひるがえる、それさえ新しい。流れる川の水の刻々の推移の面白さはまことに日に新しく日日に新しい水の徳の然らしめるものというべきものなのである。

 司馬温公はまたつぎのように述べている。「君子の学は、必ず日に新なり。日に新なる者は、日に進むなり。日に新ならざる者は必ず日に退く。未だ進まずして退かざるものはあらざるなり」と。

 朱子のいうところにしたがえば「初学徳に入るの門、学者必ず是に由って学べば、道に差わず」とあって、古来、政経に志すものの第一に学ぶべき書とされたものが「大学」の朱子定本、伝の二章にみえるものである。

 新世紀に入った途端、人類の共存・共栄を憂うべきアフガン戦争という悲惨な事態が進行しているが、こころの在り方を問い続けながら、親、兄弟、友人、隣人、未来を担う子供達を愛し、自然環境の美しさに浸り、漂いながら、学びて時に之を習う・・・。日日に新に、人間一生勉強を忘れないで、自分を尚めたいものである。
(愛媛大学教育学部)