巻頭言
心 の 結 び
井 阪 恵 子

「もしもあのとき。」人生は、選択の連続である。本意であれ不本意であれ、最後に選ぶのは自分。 人生の山や谷は、限りない。分水嶺に足を踏み入れたとき、人は何を思うのか。前後左右を眺め回しても、聞こえるのは野鳥の声ばかり。遠い山々には春夏秋冬、芽吹く緑と白雪とが交錯している。期待と不安を抱いて、未知の世界への決断をする。これを「運命」と人は呼ぶのか。

 ある夏の夕暮れ、こんな出来事があった。庭に下りた私が、ふと手水鉢に目をやると、傍らには力無く横たわった蝉が一匹。放っておくに忍びず、少し硬直したその両脇を二本の指で拾い上げてみた。すると…。彼女の腹には、乳白色で半透明の卵が少し残されていた。六年間の生命を精一杯生き、次の世代に生命を託したのである。
 六年間…。小学校における生活が完結するのも、六年間である。その間に、私たちは子どもたちの中に何を残すことができるのか。美辞麗句などではなく、心を伴った言葉や動作を紡ぎ出し、よろこびをもてる瞬間をいくつ生み出すことができるのか。六年間を終えたとき、彼らは何を抱いて学舎を巣立つのであろうか。

 教職十三年目の今、二度目の一年生を担任させていただいた。二十一世紀の新年度に、彼らとともに六年間のスタートを切ったのである。入学式の日、金髪の男の子や、ピアスをした女の子をクラスに見つけた。彼らが自発的にしたのではないにせよ、一瞬戸惑ったことも事実である。
 そんな三十八名の子どもたちは、日々どのようにして言葉や心を結んでいるのであろうか。
 友だちが消しゴムをなくしたと言っては、一緒にさがしている子。隣に座っている子の帽子のリボンが歪んでいるからと、無言で直している子。平仮名の学習が終わったとき「もう、こんなに勉強してんなあ。ぼくら、すごいなあ!」と、学級のみんなに元気をくれる子。そうなのだ。選択をしたのではないにせよ、彼らは「一年一組」にいるのだ。彼らの「今」が「過去」になったとき、日々の言葉のやりとりを色とりどりの卵に換えて、その胸に抱いているようにしていきたい。

 二度と再生できない過去たちは、思わせぶりに手を振る。近寄ってみると、そこには多くの出来事が。絡まっている幾本かの糸を解きほぐしたとき、友だちとの心の結びが見えるような毎日を積み重ねていきたい。
 「運命」では片づけられない責任を、今あらためて感じている。
(奈良県北葛城郡上牧町立上牧小学校)