巻頭言
<年頭所感> 子どもの側からの総合的な学習
倉 澤 栄 吉

 「総合学習」の声を耳にして久しい。滋賀大に帰られた稲垣忠彦さんの『総合学習を創る』(岩波書店 2000年2月)を読むだけで満腹するはずだが、なんと多くの提言・解説・論考がとび交ったことだろう。そのほんの一部しか読んでいない私だが、正直言ってウンザリした。国語教育における「単元論」と、少しも変わっていないではないか。

 理論としての「総合(的)学習」の何十何百倍の「実践」例が溢れ出た。それらの殆どは、「学習指導要領」に示された例示−−情報・国際・環境・福祉・健康−−のわくの、しかも限られた種類の内容であった。国際といえば、「英語の習得」、環境は「公害」、福祉は「老人見舞」というように。

 もともと、単元も総合も、児童の側からの発想であった。が、現実には、子どもがつき当たったモンダイでなく、大人の目で見、頭で感じた問題だから、子どもは誘いに乗ったが、そして学校をとび出して、インタビューをし、図書館などで調べはしたが、すべては「大人の世界」が相手なのであった。子どもの科学館・セミナー・遊園地・音楽会・山奥・お化け・マンガの世界・長欠・不登校・死などの問題・実態・未来を、子どもの目で「課題」としてとらえる視座が弱かったのである。

 実践の現場で、教科書中心の教科学習にあきあきして新風を求め、「教えられるから学ぶへ」、大きく方向を転換しようとの声が挙がり、大きくなって、下からの要望が何年か経って結実し、それを行政が受け容れて「総合」という看板に公示されたという経過で「横断的」総合的カリキュラム」に塗り替えられたものではない。ましてや、「子どもの側からの発想」に依拠して総合的学習に成っていったものではない。上から降りてきたのである。

 先日、日本教育研究団体連合会(日教研連)の研究大会が東京であった。そこでも総合的学習の話題が論じられたが、小・中はともかく、高校ではまだまだ及び腰である。ましてや大学ではとても…、総合的学習の時間が設けられても、この時間の運命や如何に。

 多くの学者や理論家は、総合の運命・未来に、確信を持ってはいないらしい。否定はしていないが、本気で後押しをしてはいないようだ。総合的学習活動の未来は、教育理論としては、海のものとも山のものとも言えない現在である。
(日本国語教育学会会長)