詩 「 道 程 」 を 読 む
吉 永 幸 司

 6年生の補欠授業は新出漢字の練習であった。予定がかなり早く進んだので、詩の指導を行った。
 その数日前、数人の子ども達と話し合っている時「道程」(高村光太郎)を話題にしていたという伏線があった。密かに6年の子がどのように読むかにも興味を持っていたのも実践の動機であった。

 指導の始まりは詩を一行ずつ板書することから。(子ども達は視写)
 僕の前に道はない
 (なに?それ)
 (道って何だろう)
 僕の後ろに道は出来る
 (道がある)
 (できた?)
 このようなつぶやきが出た。
 ああ 自然よ
 父よ

 この部分になるとつぶやきが出なくなった。写すことに夢中になっている子や次を期待する子、そして、読み返す子など、自分なりの学びのスタイルである。
 僕を一人立ちにさせた広大な父よ
 僕から目を離さないで守る事をせよ

 ここまできて、音読をさせた。
 (これでおしまい?)
 (何かもっとありそうだな)
 視写の小休止は、詩の世界との対話であるらしい。音読を入れたのは、写す子の差を調整するためであった。
 常に父の気魄を僕に充たせよ
 この遠い道程のため
 この遠い道程のため

 後半は一気に書いた。そして、子ども達のつぶやきを待った。

C 道って初めからあるのに何でこんな詩を書いたのだろう。
C 気はくって何?
C 父ってお父さんのこと?
 この他、いろいろつぶやきが出たが、子ども達と考えたのは、
 ○「道」ってなんだろう。
 ○「気はく」の意味は?
 ○「父」「自然」何を表しているのだろう。
 時間の関係で深い話し合いはできなかったが、
「普通の道ではないようだ」
「父というのは、お父さんもあるけど、もっと大きい存在のもの」
「気迫は励ましかな?」等話題が広がった。
 授業のまとめは、音読と感想を書くことで意味を一つにまとめるということはしなかった。そのことがよかったかどうかは定かではない。
「むずかしい詩だったけど、読んでいて何か分かるようなところもある。」(男児)
 少し背伸びして考えることも大事なことと考えての授業であった。
(大津市立仰木の里小)