『 死 ぬ 』 の 反 対 の 言 葉 は
岡 嶋 大 輔

 2年生の教室。語彙の広がりに興味を持ち始めるようになるのがこの頃からなのか、自然に言葉遊び的なものがはやる。だじゃれからなぞなぞ、早口言葉など、どこから探してくるのか、友達どうしで言葉で遊ぶ姿が見られるようになってくる。そうやって、日常的な言語感覚を磨くのだろうか。

 語彙の広がりが見られる中、その分類整理、もしくは、さらなる語彙の広がりに結びつけられるような礎の一つとして「反対の言葉」の授業をした。
 集めてきた反対の言葉を、子どもどうしがクイズ形式で紹介しあうという場面のこと。
「『死ぬ』の反対の言葉は何ですか。」
と、ある子どもの問題。私は、当然のようにその答えは『生きる』だと思っていたのだが、答えに予想外のものが出てきた。
「『生き返る』だと思います。」
「えっ、『生きる』じゃないの。」
「だって、生きている人が死ぬのが『死ぬ』で、死んでいる人が生きるようになるのが『生き返る』でしょ。」
2年生といってもあなどれないと思った。深く考えてもいるし説得力もある。

 また、違う子どもが発表する。
「私は、『生まれる』だと思います。ここからいなくなるのが『死ぬ』で、ここに出てくるのが『生まれる』だからです。」
 だんだんと国語から離れた方向に行きそうなので、これ以上は、『死ぬ』の反対の言葉について深くは追求しなかったが、それぞれの発表に、言われればそうだ、と感心する子どもたち。私も、なるほどと思うと同時に、自分自身の言葉に対する感性の鈍さを感じた。
「なるほど、先生は『生きる』としか思いつかなかったけど、たくさん出てきましたね。びっくりしました。もう一つびっくりしたのは、どれも、その通りだと思えるものだったことです。どれも違うけれど、どれも納得できますね。反対の言葉は、見方によっていろいろ出てくるのですね。」
とコメントをした。ただ、全てを認めてくくったことについては、議論の分かれるところかもしれない。

 今回のこの一コマで、私は人それぞれの言葉のとらえ方の微妙な違いをあらためて感じ、「反対の言葉」という視点から新たに見える言葉の世界があることを知った。
 何より、知識から機械的に『生きる』と答えるのではなく、素直に自分なりに思いをめぐらせて一つの言葉を導き出す子どもの姿に拍手をおくりたい。
(甲賀町立佐山小)