巻頭言
「劣等生」から「優等生」まで
稲 村  守

 私はいわゆる「劣等生」と「優等生」を何度も経験した。小学生の低学年の頃、全く凡庸な子であった。というよりも五段階の1か2、たまに3があったかどうかだったのではないだろうか。運動会も苦手でいつもビリ。女の子にドッヂボールを肩に当てられ、何ヶ月も包帯で右手をぶら下げていた。

 それが3年生の半ばころ、お医者さんの娘で学年一と言われた才媛の隣の席(2人掛け机だった)となった。そしたら先生もびっくりする位、急に成績が上がったのである。教えてもらったのは「テストが配られたらぼやっとしてないで、問題を読み始めること」位で、特別なご教授は受けた覚えはないのだが…。

 5、6年生になったときにはその才女と別のクラスとなり、「残念」なことにABCの三段階評価となったが、体育実技以外はAで、いつのまにか絵などもうまくなっていて、学級委員長や新聞部長などになった。この2年間はそれは厳しい女の先生で、引く線が0.5ミリずれても、血が出るくらい耳を引っ張られた。しかしそのおかげで、中学校の勉強はたいへん楽だった。300人中2番で、1年の終わりにはずっと1番の才媛も抜くことができ、2年では生徒会長にもなった。そして山形県の進学校と言われ、各中学から1〜2名位しか合格しないというH高校に合格できた。直接関係ないことだが、その才媛も一緒に合格したがだいぶ容色が衰えていた。

 私も中1の夏に、人並みに恋をした。全くの片思い。雲の上の生徒会副会長の1年上の才女であった。夏が終わると私は卓球部に入り、うさぎ跳びや長距離の「しごき」に耐え、卓球はいつまでもうまくならなかったが、長距離走はクラス1、2位になった。

 その先輩もいて周囲に祝福され夢と希望に満ちて入学した高校は、朝から晩まで大学進学の話ばかりしているところで、一遍で興ざめした。授業をさぼり古本屋回りをし、卓球クラブの時だけ登校した。下から1、2位の点数で何度も職員室で怒られた。暗い3年間だった。

 しかし大学ではその古本屋で培った読書量のおかげで、クラスの学習会のリーダーになり、学内一権威ある教授を批判する論文を学内機関誌に発表し「君は大学院に行くものと思っていた」と皆に言われた。起伏激しい16年だった。「教育問題」への私の思いは強い。
(大津市立仰木の里小学校PTA役員)