ハ ロ ー は い ら な い
好 光 幹 雄

 「ハロー、ハローって言いに行こうか。」
 ハンガリーとアメリカからの研修生を迎えて、二年生の子どもたちが教室から飛び出して行こうとした。留学生と交流を図りたいと願うのは微笑ましいことである。
 しかし、本当に「ハロー、ハロー」でいいのだろうか。昨年の交流会でも大勢の子どもたちにサインを求めて取り囲まれた研修生は、身動きができなかったという。研修生の目的は何もサインをすることではなかったはずなのに。

 以前、人権を考える集会でこんなことが話題になったと聞いた。
 日本人と結婚された外国の方が、仕事に出かけてもちょっとした買物や散歩に出かけても「ハロー、ハロー」と声を掛けられるのだと。無愛想にもしていられないので、にこにこして、「ハロー」と応えられるのだそうだが、しかし、外から帰ってくると「私は、ハロー人形じゃない」と言ってよく憤慨されるのだそうだ。日本語が話せるのに、そして現に日本に住んでいるのに、観光客同然全くの異邦人扱いをされる。逆に、外国人による犯罪が増えているからか、時には、不審者扱いまで受けてしまうと。
 こんな話を聞いて日本人の国際感覚って何だろうかと考える。何でも見かけで判断し、相手が望んでいないにも関わらず勝手に相手に合わせようとする。否、相手に合わせてあげているという自分の思い上がりを無意識に押しつけてしまっている。小さな親切のつもりが、実は大きな迷惑になっていることに気付かないまま。同じようなことは、障害を持っている方からもよく聞く。自分でできることは自分でしたいのに・・・と。

 そこで子どもたちにこう話した。
「ハローはいりません。挨拶をするのなら“こんにちは”でいいのです。日本や日本語を勉強しに来た外国の学生さんですよ。日本語の挨拶ぐらいちゃんと勉強して分かっています。そんな人たちにハローと言うのはかえって失礼です。あなたたちのハローを聞きに来たのではありません。こんにちはを聞きに来たのです。日本の子どもたちの美しい日本語を聞きに来たのです。」と。
 私の話は、とっさのこととは言え、子どもたちの喜びに水を差す形になった。もっと違った言い方をすればよかったのにとも思う。
 しかし、ハローが通じない国の人ならどう挨拶をするのだろうか。言葉が通じないなら挨拶しないことになるのだろうか。言葉って何だろうか。そして、本当に相手を尊重するとはどういうことなのだろうか。このような投げかけがなければ国際理解教育というものは名ばかりになるではなかろうか。
(大津市立堅田小)