巻頭言
真 の 楽 し み
倉 澤 栄 吉

 僕は
 楽しくて
 得になることしか
 してません
      永 六輔

 右のようなはがきを、灰谷健次郎は、壁に張って、「達人やなあ、と脱帽した」と書いている。(『いのちまんだら』1998.9月 朝日新聞社 84〜85ページ) 「人間、好きなことをしていれば、仕事の分量も時間も、あまり関係ないのではないか」とも述べている。(右書83ペ) 吉永さんほどではないが、私も相当忙しい。年齢のわりに不相応の仕事を引き受けているので(以前と同じ仕事量でも、年とともに怱忙感は増すものだ。)灰谷の述懐は心に浸みた。共感した。楽しくやろう。

 ところで、この「僕は」を、「子どもは」に換えたらどうだろう。子どもは、楽しくて得になることしかしない人種である。

 「学校は」と置き換えると? 学校は楽しくて得をすることばかり教えるところではありません」というのが、一応の答えであろう。苦しいことをも体験させるし、辛いことに堪えさせる時もある。しかし、中教審や教課審は、やたらに「学校は楽しいところでなければならぬ」と言う。知識や理解、そして技能を重視しすぎた旧来の教育へ、発想の転換を求めたのである。これに対して一部の教育学者や評論家は、知識体系の軽視は不可、文化向上の指標は捨てるべきでない、と批判的である。この相反するような二つの立場に、私ども教師は揺れている。この揺れは簡単におさまらないし、おさめるべきものでもない。「学校」を「人生」に変えても同じ考察ができる。

 それなら、「ゆとり」としたら? ゆとりは普通、悦楽の部に入る。が、さて、遊びほうけて楽しいか。ひまがありすぎて、寂しくないか。

 子どもは楽しがり屋である。最近、どこの教室を訪ねても、子どもたちは明るい。よく笑う。屈託がない。が、少し度を過ごして、フザケているようでもある。学習材に直面し、学習材と戦って、悩み迷い困っているときの「真剣な」「思いつめた」表情を、見ることが少なくなった。

 楽しいばかりが良いのではあるまい。楽しがって得をしたということと並んで、否それ以上に「楽しくなくて得になる」ことも必要なのではないか。

 真の楽しみは? 難問である。
(日本国語教育学会会長)