初       心
池 嵜 繁 伸

 さざなみ国語教室の例会に初めて参加したのが今から約八年前。教師になって二年目のことである。大先輩の先生方の話についていくこともできず溢れ出るパワーに圧倒され、部屋の片隅で小さくなっていたことをよく覚えている。今でもさほど状況は変わらず、「あれからもう八年も経ってしまったのか…」という感じである。
 次の文章は、この「さざなみ国語教室」に初めて載った原稿の一部である。

この春よりさざなみの集いに加わった私の心を、『言葉を大切にする』という文句が揺さぶった。 (中略) 
 その言葉が、聞き手に受けとめられ、聞き手がそれに対する反応を示したとき、はじめてその言葉が「言葉」たり得たわけである。
『言葉を大切にする』ということに無関心なままでいると、言葉の吟味を怠り、その言葉がどんな作用をしたか確かめもせず、やたらに言葉を乱発してしまうことにもなりかねないわけである。
 このような言語環境の中で育った子どもたちは、言葉を無視、軽視するようになり、果ては、だれの言うことも聞かなくなり、やがて言葉の機能を失った騒音を乱発するようになるのではないか。これは、非常に恐ろしいことである。
 ひとつひとつの言葉に、発言した者が責任を負うということが『言葉を大切にする』ことにつながるのではないだろうか。とくに、子どもたちにかかわるときには、言葉のひとつひとつを心して発するようにしなければならない。なぜなら、子どもたちにとって教師は言語環境の重要な一部分だからである。
今読み返してみると、八年前の自分と対面しているようで何か懐かしいような照れくさいようなそんな気がしてくる。
 当時五年生を担任していた。今、二度目の五年生担任である。以前に比べ、子どもたち一人ひとりの抱える課題が複雑になり深刻化しているように感じる。ちょっとしたことで「キレる」子ども。自分の苛立つ気持ちを「ムカツク」という一言でしか表現できない子ども。
 このような子どもを前にし、教師はどうあるべきか。まず、子どもの心まで受けとめることのできるよき聞き手になること。そして、子ども一人ひとりに確かなコミュニケーション能力を身につけさせることが大切だと考えている。
 『言葉を大切にする』ということにこれからもこだわり続けていきたい。
(彦根市立城陽小)