巻頭言
「 や さ し さ 」 と は
中 西  健

 夏の終わりに地域の方々が集まって草引きをしている時であった。始めて間もなく、
「○○ちゃん、暑いから日陰で休んでいなさい。」
「○○ちゃん、しんどくなったらしなくていいよ。」
 小学生の子を持つ親の言葉である。少し気になる言葉掛けである。

 最近「やさしい」という言葉がよく使われる。人・自然・環境に対して「やさしい」ことが求められているからだろう。子育てについても「人にやさしい人になって欲しい」という願いはすべての親に共通しているにではないかと思う。

 ところで、「やさしい」の漢字には「優しい」と「易しい」がある。言うまでもなく前者は「穏やかな」様子と「思いやり」の心をい意味し、後者は難易の易で「難しくない」「たやすい」ことである。今、この「易しい」も随分求めれている。ボタン一つでご飯が炊ける、洗濯できる、コンピューターのマニュアルも「易しい」がキーワードになっている。手間のかからない便利さ・利便性が追求されているのである。この「易しさ」の無制限の追求が自然破壊や環境汚染につながって「優しくない」社会を生み出したとも言える。

 「優しさ」を求める一方、「易しさ」も求めることはおかしく思われる。人任せ機械任せで楽をしようとしていて、どうして人や自然や環境に「優しい」心が育てられるのだろうか。「易しさ」に慣れることから手作りや手仕事の手間が疎んじられ、苦労や喜びも無縁となった時、心の方も人や環境の「痛み」を思いやることから無縁になっていくのではないかと思えるのである。

 子育ての現場にも文明の利器は活用されている。各々それなりの価値や意味があると思う。しかし、子育ての本質は、やはり人間の等身大の手間仕事ではないかと思う。人任せ機械任せでなく、子供の表情・仕草・言葉・全身の様子などからなにかを感じ、それに応えてあげることは、その場で子育てに当たっている人自身の全人間的な感性と能力にかけられた仕事ではないかと思う。言葉だけでない「優しさ」を持ち、それを子供にぶつけた時、本当の「優しい」教育ができるはずである。

 本当の「優しさ」とは決して「安易」ではない。むしろ「安易」を排する「厳しさ」も「勇気」も「強さ」も「忍耐」も含まれていて始めて、人や自然や環境に対する「優しさ」を育むことにつながると思うのである。
(大津市立仰木の里小学校PTA会長)