▼「国語学習の基礎基本は何か」という問いに対し、コミュニケーション能力の育成という仮説のもとに提案授業が行われた。参観の視点を子どもの発表や発言に置いたのでわかりやすかった。

▼授業記録は発言で埋まった。話脈が長いものもあるし、単語で貫いている子もいる。それらの発言を読み直しているうちに、3つの類型に気づいた。一つは、発言の対象を教師に向けているもの。問いに対して答えるという自然なものである。同じ内容を自分なりに言っているものもあるし、正解かどうかを確かめているものもある。心の中でひびき合っているのであろうか、形式としては、教師が受け入れてくれるかどうかが主な目的になっている。 二つ目は、友だちに向けてのもの。発言には勢いがある。発言に自信を持っている子から生まれる。相手が、それに応える力を持っていると討論のような形にまで高まっていく。そうでない場合は、話す力が優っている子に傾く。

▼ここまでは、さして珍しくもないが、もう一つの話し方として、自分自身に確かめるようにして話している姿があった。言葉を選び、考えながら話している。相手は教師でも友だちでもない。それが、意外に、他の子にひびいているのである。

▼子どもの姿を見るということは、新しい子ども像の発見。そこから生きた指導の術が生まれる。(吉永幸司)