CONCEPT

 

 

 

「器と否器のはざまで」

 

 

1948年、京都に於いて前衛陶芸集団「走泥社」が結成された。

それ以前は、壷や皿などの器物が陶芸表現の主流をなしていた日本の陶芸の伝統が突然、用を否とする否器物「オブジェ焼」が生まれ世の注目をあびた。

それは、戦後日本の美術史のなかで、必然的なことであったかも知れない。

1950年代、京都工芸指導所で焼き物を学んでいた私も,大きな影響を受け稚拙ながらもオブジェ焼に傾倒していったのである。

1967年走泥社に同人として参加し、以後は八木一夫、鈴木治、山田光、熊倉順吉など諸先生たちの薫陶を受け、オブジェ焼の製作をつづけ走泥社を中心に発表活動をつづけていたのである。その頃、走泥社では八木一夫先生がリーダーとなり研究会的な集まりというか呑み会のような議論の場が、京都の花街の安飲み屋で度々重ねられた。当時、走泥社の先輩たちはオブジェの他にも陶芸家として壷や皿などの器物はもちろん茶の湯の茶碗も造っておられた。特に八木一夫先生は“うちらは茶わん屋だっせ”の京ことばを揶揄的に使われるのが常であった、若い私は茶の湯の茶碗は権威的主義な古典の産物であると反発したのであるが、“茶碗もクラフトやで”と軽くいなされ、反論もできないありさまであった。以来今日まで、現代陶芸といえば否器物の造形といった風潮が教育の現場でも、発表の場でも是とされて今日に至っている。近頃、否器物の陶造形に於いて、とくに若い人たちの陶表現で、やや類似的でスタイル化した表現のものや、あきらかにどこかで見かけた形体が公募展で入賞していたり、あまりにも稚拙すぎるオブジェが町のギャラリーで見かけたりしていることに危惧と戸惑いを抱いているのは私だけなのか?

若い頃から権威主義として反発してきた古くからあるいくつかの団体展も私なりに時折鑑賞しているが、その中には技巧的にはもちろん、モダンクラフトとして高いレベルの器物も多々観られることに気づいている。

フォルムに穴をあければ器物、フォルムの口を閉じれば否器物といった初心回帰の原点で、古希を過ぎ老いた己の陶表現で器物と否器物の混在を試みても良いのでは?とゆれている頃々である。

             

 

2010   笹山 忠保

 

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