CONCEPT
「私作について」 私が現代陶芸の創作を始めたのは、1958年京都の工芸指導所の学生になった頃からである。当時、京都では 八木一夫(YAGIKAZUO)や鈴木治(SUZUKIOSAMU)、山田光(YANADA HIKARU)など、日本の現代陶芸の先駆者たちが、走泥社(SOHDEISIYA)という前衛陶芸のグループを結成して間もない頃で、工芸指導所で八木一夫や鈴木治が先生として時々、デッサンや手びねりなどの造形を教えに来られており、その影響が私のオブジェつくりのきっかけになったのである。 当時は、作品として稚拙でも、かまわないから人の真似ではなく、自分にしか出来ない新しい陶造形の表現を試みることを強く意識することを教えられた。そのことが、50年近くの時�ヤを経た今日でも、私の作品をつくる上で、最も、重要な要素の一つとなっている。 1967年、前衛陶芸グループ走泥社同人に加わり、同会を中心に発表活動を続けてゆくことになる。又、その後、アメリカやヨーロッパに幾度か、出かけヨーロッパではキリストを中心とした宗教美術や建築など、そして印象派からキュービズムまで多くの美術館や教会を見ること、そして、アメリカで、当時活発であったコンテンポラリーアート、とくにヨーロッパから伝わったダダイズムから進展して行ったポップアート、ミニマルアートなど、多くの美術の歴史的な展開を体験することができた。当時とくに私は、ドナルド・ジャッドなどのミニマリズムに興味をもつようになった。 私は、陶の表現において、常に同じ技術で一つのスタイルを守ってゆくのではなく表現の意識やイメージの変化に応じて、制作方法や焼成の手段に至るまで自由に、新しいものを取り込んでゆく方法で、作品の制作を展開していった。 私の制作の過程で大きな意識の転機を迎えるきっかけとなったのには、幾つかの動機の中で1970年後半に禅の思想と千利休の茶の美意識の関係に興味を抱いたこと、それは、侘び(簡素)と、さび(数奇—発見)の原理と、私がアメリカ美術にあこがれをもっていたミニマルアートの共通項の様なものを考えたからである。 そしてもう一つ、同時期に当時、造形家として世界の頂点におられたイサム・ノグチ氏に会えて、日本人としてのアイデンッティティーの問題の精神的な面を教えられたことである。 その頃から、私の屏風の陶のシリーズや、人が居住する家、死んだ人が居る墓や、墳形などイメージ化した形態のシリーズが生まれてゆくのである。 2006年の韓国キメクレーアーキミュージアムの国際展の招待展示は、日本の縄文から弥生の時に至るプリミティブなイメージを、より簡素に禁欲的な空間をどれだけ表現することが可能なのかを企んで表現した陶作品である。
2005年 笹山忠保 |