中国禅宗スタイルの創始者・慧可  

  以下の論考はすべて恩師・柳田聖山師の『達摩の語録』『初期の禅史1』をはじめ初期禅宗史の諸論文に触発され、教示されたものに、拙い私見を加えたものである。はじめにその学恩に深く謝意を表したい。

第一章 慧可と初期禅宗  

1)達摩門下の生き方と文字

 中国に生れた禅宗の影響は、地理的には韓国・日本・ベトナム、そして欧米にまで、時代的には六世紀半ばから現代まで及んでいる。しかし、そのスタイルを確立したのは、達摩というよりは弟子の慧可だったのではなかろうか。

 それというのも達摩の思想は、インドの言葉に通 じていた弟子の曇林のおかげで、辛うじて『略弁大乘入道四行』(以下、略して『四行論』とよぶ)が遺されているが、その本領は壁観の坐禅と頭陀行(托鉢遊行)という生きざまにあった。坐禅と頭陀行は、ゴータマ・ブッダ以来の仏教徒の生きるスタイルだったのだが、中国でやっとその本来のあり方が土着したということであって、それは禅宗という独自のスタイルの一面 にすぎまい。もっともその達摩の生きざまにおける確かさこそが、従来の経典、教理の知的理解をすっかり色褪せたものにしたと推察される。そのことを最初の禅宗史書『伝法宝紀』の後書きは「天竺の達摩は裳(もすそ)をかかげて迷えるを導き、其の言語を息め、その経論を離る」と活写 する。

 達摩は中国語に不自由したことに加え、「幽せきなれば則ち理性通 じ難し」と評されるように、伝えるべき事柄自体が幽邃で言い表わし難いものであった。それゆえ、わずかに達摩の仏法を理解し得た者たちは、言葉での伝達が難しい「それ」を、言葉を超えて了解し身にうなづく術(すべ)を身につけた。したがって、高僧伝や禅宗史書からは窺い難い達摩の真意は、むしろ名も知られない弟子達によって、生きざまとして確かに伝わり、ある意味ではその無名の行者こそが、よく達摩の伝統を継承しえたのだろう。

 無名であるためには、大寺、官寺ばかりでなく、およそ寺という自己の本拠地を持たないことが重要である。頭陀行は、まさにそれを可能ならしめた。さらに、中国に入った仏教が、文献理解が先行する知識階級のものであったのを、庶民のものとするためにも、文字を離れることが必要だったのだろう。

 慧可の弟子達も「那禅師という者有り。俗姓馬氏。年二十一にして東海に居り、礼易を講ず。行学するもの四百、南に相州に至って可の説法に遇う。乃ち学士十人と出家受道す。諸の門人は相州の東に於いて斎を設けて辞別 するに、哭す声は邑を動ず。那は俗を出てより手に筆および俗書を執らず。・・・慧滿という者有り。栄陽人。姓は張。旧は相州の隆下寺に住む。那の説法に遇って便ち其の道を受け、専ら無著に務む。一衣一食但二針を蓄う」と伝えられる。  無一物で遊行する慧可の説法に出会い、その生きざまを継承するという形でみごとな自己変革をなし、文字を棄てた那。彼もまた寺と書を放棄し、遊行して恵満に説法する。その生き方全体が恵満に継承され、彼もまた無一物の乞食僧となる。無名にあえてなることで、歴史から自らを隠すのが、達摩門下の生き方である。

 いわゆる「二入四行論長巻子」に出てくる達磨の弟子二十余名は、ほとんどその伝が不明である上、あえて文字を記さないという方針を採ったと思われる。例えば縁法師はいう。五四「我れ法有るも、何を以て人に教示することを得んや。我れ那んぞ汝に向って道うことを得んや。乃至、名有り字有れば、皆汝を誑惑す。大道の意は那んの芥子許りも汝に向って道うことを得んや。若し道うことを得れば、即ち何物の用をか作さん」。五五「又た曰く、若し妙解を求めず、人の為に師と為らず、亦た法を師とせざれば、自然に独歩せん」。

 おそらく道育はじめ幾多の達摩の弟子達は、その言を伝える弟子も持たず無言のまま歴史の中に埋もれたのだろう。

 その聖なる沈黙を破って、真新しいスタイルで、己れ自らの言葉をもって表現した人、それが慧可だったのではあるまいか。慧可は論理的な辯才というよりは、「可は乃ち其の奇弁を奮って其の心要を呈す。故に言、天下に満つを得」と『続高僧伝』が伝えるように、人の意表を突くような当意即妙の弁が立ったがゆえに、彼の言葉が広まったようだ。それに対して「文に滞るの徒、是非を紛挙す」とあるように、経論の文字に執する伝統的な仏教学者たちは、慧可らを批判し排斥した。慧可が曇琳と共に批判され「賊に遭って臂を斬られ」たのは、そのスタイルもさることながら、内容が後に詳述するように仏教教学を無化せしめかねない爆弾であったからだろう。

 その慧可に直接続く人々は、表面 的には系統が絶えたり、経典の義解に落ちてしまった。 また第三祖とされる僧粲については、『続高僧伝』法沖章に慧可の嗣として一度だけ名が見えるのみである。四祖道信は、『続高僧伝』では無名の二禅僧に禅業を習ったが、神異の僧という描写 ばかりで、文字を介する思想は、ほとんど伝えられない10

 達摩の教えた生きざまは、その道信が一時は吉州の官寺(廬山大林寺)に住み、やがて黄梅双峯山で、従来の習禅の僧たちと同じように「五百」といわれるほど多くの弟子を擁したことによって崩れる。その大叢林の行に天台系の止観やあるいは念仏の行が混じり、また弟子には三論、華厳、唯識などの義解の徒も交じる。五祖弘忍は、『伝法宝紀』や『楞伽人法志』に依る限り、道信の下で肉体労働もした木訥な人で、文記を出す事がなかったといわれるが、彼の説とされる『修心要論』11があり、晩年には都の多くの貴紳が帰依したと伝えられる。道信の弟子である牛頭法融は『絶観論』を著わし、弘忍の弟子、神秀は帝都長安に進出し『観心論』などを著した。

 だが、慧可のスタイルを再び甦えらせるのは、そういう筆の立つ人々ではなく、南中国の片田舎で文筆の技をもたなかった慧能である。慧能はついにものを書く学者にならなかったが、明晰な理性によって機智に富んだ対話をなし得たのであり、そこに慧可のスタイルがあらたな装いをもって中国禅宗を再び活性化させる。

2)誤認された慧可のイメージ  

さて、慧可の思想のスタイルは、何において見い出されるのか。

 従来は『続高僧伝』のほかには、ほとんど慧可の資料と見なされるものはなかった。そればかりか、最初の禅史『伝法宝紀』は、達摩の黙照に続いて「是の故に、慧可、僧粲は理として真を得たれば、行じて轍迹無く、動いて彰記する無し。法匠は潜かに運び、学徒は黙して修す」と、慧可があたかも、弁説を振るわなかったかのように伝える。

 さらにこの『伝法宝紀』の慧可伝は『続高僧伝』に依拠しつつも、多くのフィクションを付加する。すなわち、『続高僧伝』の腕を斬られた時の「法を以て心を御し痛苦を覚えず」12という下りを、「(達磨)大師言わく、『能く身命を以て法の為にして惜しまざるや』。便ち其の左臂を断ちて顔色異ならず、また遺士の若し。大師、その道を聞くに堪えたるを知って、・・・大師、西に還ることを示し、後に少林寺に居る」13と変える。

『続高僧伝』では、断臂は賊によるのであり、慧可が少林寺に居たという記録はない。

 続く『楞伽師資記』の慧可伝は、「経に曰く」として『楞伽経』『十地経』『華厳経』、俗書の引用があり、特に『華厳経』の引用は長くて、とうてい慧可の行実とは思われない。又、ここでは先の断臂の記事に、さらに雪中に教えを乞うて三更に及んだと、想像を膨らました加筆がなされる。さらに『祖堂集』に至って、その雪は腰にまで及び、慧可は啼泣して求法することになる14

 そして有名な安心問答が、達摩との間で交わされたことになり、『歴代法宝記』に始まる伝説では、最後に達摩の三弟子の中で慧可が髄を得て、他は皮肉と骨を得たにすぎないと記される15。これらの禅史録の記述が、『景徳伝灯録』に定着し、慧可のイメージとして、わたしたちに余りに強固に染み付いてしまった。しかし、これは慧可の本当の姿を伝えていない。

 鈴木大拙は、敦煌本の「二入四行論長巻子」と名づけたものを、本文及び雜録1と雑録2に分けたが、その雑録2の五七ー六三(七四まで柳田聖山『達摩の語録』の番号により漢数字で表す16)、後に発見された雜録3の83(76以降は柳田聖山『ダルマ』の番号により、アラビア数字で表す17)に、慧可の言葉が伝えられている。だが、それらを慧可の思想として明確にした論文はほとんどないのである。ただ、雑録1について、それを慧可の言葉とする説があった。

 宇井伯寿は、冒頭の手紙(三)が編集者の言であり、次の手紙(四)は慧可への向居士の書であること、雜録第一(五ー四九)を、老経などが引用されているので、慧可の言を記したものとし18中川孝は最初の手紙(三)は慧可の経歴であり、雜録1は慧可と弟子の問答とした19

 いっぽう、鈴木大拙は、『楞伽師資記』に「此の四行、是は達摩禅師、親しく説く。余は則ち弟子曇林、師の言行を記して、集めて一巻と成す。之を達摩論と名づく也」20と言及される曇林の記した達摩の言行録「達摩論」が、雜録第一に当たるのではないかという21

 この説は『続高僧伝』の曇林の序の引用の後に、道宣が「真を識る士は従奉し悟に帰す。其の言語を録して誥巻、世に流る」22と、達摩の語録があったと記すこと、雜録1の一部分が『宗鏡録』の九七、九九巻に『安心法門』の言葉として入っていて、その「安心法門」は、さらに『少室六門』中の「安心法門」に伝えられ、達摩の言葉として伝承されてきたことからも補強される。柳田聖山は、編者については特定することを留保して、その言葉を広く初期禅宗の思想とみなす。

 はたして雑録1は慧可の言葉だろうか。その点を、鈴木の区切り方を含めて検討したい。

 まず、本文とされるものが向居士の手紙を含めて、引用偈文の前までとされているが、『四行論』は、内容から見ても、『景徳伝灯録』や『楞伽師資記』に引かれた文によっても、明らかに第四称法行の結語「是為称法行」で終わっている。したがって「本文」に当たるものは、柳田がなしたように、ここで終わるべきである。

 次に柳田が仲間の手紙1、2としたものは、どこまでで、どこで区切るべきか。それについてはすでに論じた23ように、「吾恒仰・・」から「坐禅して終に本性を見るべし」までが慧可の手紙であり、「会也融心・・」から「言巨論玄旨」までが向居士の手紙24、五〜六の諸偈等の引用は、慧可の手紙で「入道方便偈等」といわれた「偈」である。なぜなら「暇あらば、披攬せよ」といわれているものが、そのすぐ後に続く一偈や二偈であるはずはなく、この五、六の諸偈はゆっくり味わうのに十分な意味深長な偈や論だからである。

 偈等の引文を含む手紙1は、向居士への返書とは別 に、慧可が「有縁同悟の徒に寄せ」た書であって、それは今見るように、初めから向居士の手紙を偈文との間に挟む形でセットになって流布していたのではなかろうか。この部分を今、仮に慧可の「愍二見書」と名付けておこう。問答体である七については後に論ずる。八は「三藏法師言」で始まっており、三藏法師は達摩であろう。

 雑録1の九「問う、何を仏心と名ずくや」で始まり、五十「縁法師曰」の前まで、その大部分を占めるものこそ、先に言及した『続高僧伝』僧可章の「其の言を発するは理に入て未だ鉛墨を加えず。時に或るひと之を纉む。乃ち部類を成す。具さには別 巻の如し」とあるものではなかろうか。また、ここに「部類を成す」とあるが、様々な発言を集めたものを「部類」と呼ぶことは、『続高僧伝』武帝章に「梁祖の広く定門を闢くに逮んで、揚げて宀禹内に心学有る者を捜して、総て楊都に集めて、深浅を校量 して自ら部類を為す。」25という叙述からも明らかである。それはまた『伝法宝紀』僧可伝において「ゆえに門人は潛かに存録する有り。」26といわれるものでもあろう。

3)思想用語による慧可の資料の確定

 そこで今、九「問う、何を仏心と名ずくや」から四九「亦是妄想」までが、まとまった慧可の語録であることを論証したい。序でながら雑録2とされたところは、発話者が明記されているから、明らかに達磨門下論である。

 雑録1は、以下の理由でインド僧・達摩の語録ではありえない27。 

 まず、すでに指摘されているように中国の古典や論書が引用されていることである。つまり「老経に云う」と記されて、『老子道徳経』四十一章(十五答)六十四章(三二問)が引用され、「論に曰く」と僧肇の『物不遷論』(三十)が引かれ、『涅槃無名論』(十、十四)や、二五「触事、触物」など、『般 若無知論』などの影響を受けているものある。

 達摩は『四行論』で、主要大乗経典の要旨を「経に曰く」と引いているが、それは梵語で諸経典の内容を知っていて漢訳を読まなかったであろう達摩に相応しい経の大意であって、経の文字の引用ではない。そのインド人の達摩が、道教の書や中国の論書を引用するはずがない。

 次に、これもすでに指摘されていることだが、用語の点でも、気力、規域の外(二十)、虚無(二五)、大道(三十、三一)、大物(二一)、規鈍心(二一)、惇朴心(二二)、己れなる者(二五)、道体(十八)、心体(四三、四八)、五道将軍(十八)など、中国の思想用語が使われている。

 これらの用語は、雑録2の達磨門下11人の禅師の言葉においては「道体」(六七暄禅師)以外は見られず、雑録1に特有な用語である。いっぽう、達摩門下は慧可だけでなく、みな馴染んだ中国の思想用語で語ったらしく、縁禅師には、体気(五一、五五)、精神(五一、五五、五六)、負失(五四)、憐禅師には、無体(七二)、直用(七二)、覚禅師には、道迹(七四)などの経論にはあまり見かけない用語がある。

 では、これが積極的に慧可の言葉であるという根拠は何か。

 第一に『楞伽経』の影響である。慧可がなんらかの形で『楞伽経』に依ったことは、『続高僧伝』で「初め達摩禅師、四巻楞伽を以て、可に授けて曰く、我、漢土に惟だ此の経のみ有るを観る。仁者、依行して自ら度世を得よ」28とあり、慧可の弟子も「故に那、満等の師、常に四巻楞伽経を齎し、以て心要と為さしむ」29と記されることから明らかである。雑録2の慧可の語には六三「楞伽経に・・説く」と、明らかにその経名が挙げられる。また『続高僧伝』法沖章で、慧可の弟子の系譜の中に、『楞伽経』の論釈を作った人々が挙げられている30

 問答の第一、九は「何をか仏心と名づく」で始まっており、最初に「仏心」が問題になっている。『四行論』には、心を安んじるという意味で「安心」といわれるばかりで、特別 な「心」の用法はなかった。まず「仏心」が問題にされるのは、『楞伽経』のはじめに大慧の質問を受けて世尊が言った「諸仏心第一31」やその別 名「一切仏語心品」の影響が考えられる。それゆえ最初に『楞伽経』と結びつく「仏心」を問わしめているのは、慧可ではなかろうか。

 「心」と関連して「自心現量 」という『楞伽経』の根本用語32が、雑録1(十三、十九)にあり、四八には「自心現境界」33という楞伽経と同じ表現があり、とりわけ「妄想」と「自心」という楞伽経で瀕用される言葉34が多く見られる。慧可は雜録2の五九でも「妄想自心現」と述している。雑録2の他の11人の禅師には、「自心」も「現量 」もその他の『楞伽経』の用語もなく35、引用されている経は、経名が挙げられている『仏蔵経』(六八)のほかは『維摩経』(六九、七一、七三)、『濡首菩薩無上清浄衛経』(六九)などで『楞伽経』はない。

 ところで『楞伽師資記』において不思議に思われることは、「楞伽師資」と名付けられているにも拘わらず、『楞伽経』への言及は、慧思の『大乗止観法門』にも引用される『楞伽経』の言葉「一切涅槃無く、涅槃せる仏有ること無し。仏の涅槃あること無く、覚と所覚を遠離し、若しくは無、若しくは無有、是の二は悉く倶に離る」36を、求那跋陀羅章に引用し、それに続く言葉を恵可章にも引用するくらいで、粲、道信、弘忍、神秀のいずれの章にも、『楞伽経』は「諸仏心第一」という言葉以外は引かれないことである。

それゆえ「楞伽」という表題の形容は編集者である浄覚が、『楞伽人法志』からスローガンとしてのみ継承したように思える。実際には、おそらく初期禅宗の中で慧可の系統のみが『楞伽経』の影響を受けたのであろう。

 第二に、もっとも有力な証拠は、次に列挙するように内容や用語において、雑録1(九〜四九)が、「愍二見書」(三)と雑録2の慧可の言葉(五七〜六三)とに一致することである。

 慧可の五七前半は「人有って可師に問う、若為が聖人と作るを得るや。答う、一切凡聖は皆妄想計校を為して是を作る」といわれる。この答は「愍二見書」の三「上は諸仏から下は蠢動に及ぶまで、妄想の別 名にして、心に随って指計するに非ざるは莫きことを」と同一趣旨である。五七の「計校」つまり「はからいおもう」という特殊な用語は、雑録1(十三、十九、二五、三七)と雑録2慧可の言葉(五七、六〇)の双方にだけ使われる。

 また同じ趣旨である慧可の五七「一切凡聖は皆妄想計校を為して是を作る」は、十三「三世諸佛の正覚なる者は、並びに是れ衆生が憶想分別 なるのみ」と軌を一にする。また、それは三五「法界の体性中には凡聖有ること無し」や、二四の「凡聖双絶す。・・・一切の凡聖の境界を超過し」という表現と表裏として響きあう。

 慧可の五七後半は「又問う、既に是妄想ならば若為が道を修せん。答う。道は何物に似てか、之を修せんと欲するや」とあり、通 常の修道という概念を、まったく顛倒させている。その意味では、三一「一箇の物を知らざるを、名ずけて道を修めると為し、一箇の物を行ぜざるを名ずけて道を行ずと為す」と対応する。

 慧可の五九、六一は、慧可独特の罪業論である。 五九「又た問う、弟子の与めに懺悔せしめよ。答う、汝の罪を将ち来たれ、汝が与めに懺悔せしめん。又た言う。罪は形相の得べき無し。何物を将ち来たることを知らんや。答う、我れ、汝が与めに懺悔せしめ畢りぬ 。向舎し去れ」。

 これは雑録1の三五「法界の体性中には凡聖有ること無く、天堂と地獄も亦た無し」と同様に37、地獄とか罪とかは、二見に執する心が現わし出したものに過ぎないから、除くべき実体はないという趣旨である。

 六一「我は地獄を畏れて、懺悔修道す。答う、我は何処にか在る。我は復た何物にか似たる。又た言う。処を知らず。答う、我すら尚お自ら処を知らず。阿誰か地獄に堕つる。既に何物に如似たるかを知らずんば、此れは並びに妄想して有を計するのみ。正に妄想して有を計するに由るが故に、即ち地獄有り」。

 これは、まさに二六「阿誰有れば道を修めることを須いんも、若し阿誰無くんば道を修めることを須いず」と同じ立場から地獄に堕ちる「人」を空無化している。

 地獄に堕ちるのを畏れるというのは、十八「心識の筆子もて刀山剣樹を画き作し、還って心識を以て之を畏るるなり」や十九「若し、人、戒を破り殺を犯し、淫を犯し盗を犯して、地獄に堕することを畏れんとき、自ら己の法王を見れば、解脱を得ん」と、その帰趨を同じくする。

 慧可の六〇には「又た問う、十方の諸仏は皆な煩悩を断ちて仏道を成ずることを得たり。(答う)汝は浪りに計校を作して、一箇の底莫無し。又た問う、仏は何を以て衆生を度するや。答う、鏡中の像が衆生を度する時、仏は即ち衆生を度せん」とある。これは、仏と衆生、煩悩と成仏の対立という典型的な二見を立てる見解に対する批判である。これは雑録1で答え方は異なるがまったく同じ趣旨として次のようにいわれる。

十三「問う、十力四無処畏、十八不共法もて菩提樹下に道成じて正覚し、能く衆生を度して、乃至涅槃に入るは、豈に是れ覚に非ずや。答う。亦た是れ夢なるのみ。・・但だ有心もて分別 計校し、自心現量する者は、皆是れ夢ならくのみ」。38

 慧可は非常に具体的な譬えをもって、妄想の起こるしくみを明らかにしている。

六二「又た問う、其の道は皆な妄想の作せる者ならば、何者か是れ妄想の作せるものなる。答う、法は大小、形相、高下無し。譬えば家内に大石有りて庭前に在るが如し。従い汝がその上に眠り、その上に坐するも、驚かず懼れず。忽念として発心して像を作らんとし、人を雇うて仏の形像を画き作せば、心は仏の解を作し、即ち罪を畏れて敢て上に坐せず。此れは是れ本の時の石なるも、汝の心が是を作すに由るのみ。心は復た何物にか似んや。皆な是、汝が意識の筆子頭もて画いて是を作し、自ら忙て自ら怕るるも、石の中には実に罪福無し。汝家の心が自ら是を作すのみ。人の夜叉・鬼形を画き作し、又た竜虎の形を作して、自ら画いて還って自ら見、即ち自ら恐懼するも、彩 色の中には、畢竟じて畏る可き処無し。皆な是、汝家が意識の筆子もて分別して是を作すのみ。阿寧ぞ一箇の物有らんや。悉く是れ妄想して是を作すのみ」。

 これは雑録1の次のところとまさしく呼応する。 十八「心識の筆子もて刀山剣樹を画き作し、還って心識を以て之を畏るるなり。意識の筆子もて色味声香触を画き作し、還って自ら之を見て、貪瞋痴を起こし・・・」

 この六二で使われる「一箇の物」という言い方も、雑録1(十七に2回、三一に4回、「一箇」は二一)と雜録2慧可の言葉、(六二、「一箇」は六〇)にのみ見られる。

 第三に、慧可は『続高僧伝』に「外は墳索を覧に、内に蔵典に通 ず」39とあるように中国古典に通じていた。『老経』が引かれるのもそういう慧可の経歴と相応する。

 以上、雑録1(九〜四九)と、雜録2慧可の言葉、および「愍二見書」(三)との照応によって、雑録1の九〜四九、は、慧可の言葉であることが明らかになったと思う。

  4)「二入四行論長巻子」の編集

 慧可の思想に入る前に、テキストの諸問題をみたい。

 現存する所謂「二入四行論長巻子」の諸テキストは、長さがまちまちである。敦煌出土の北京本(宿九十九号)とスタイン本S2715は、七五までであり、ペリオ本P3018は断巻というより、他の書写 の間に三一〜六五が写されている。40 他の敦煌の残巻には75までのS3375、P4634の他、88、87を含むp2923、88以下92までのP4795など41がある。

 朝鮮刊の天順本『菩提達磨四行論』は93までである。朝鮮本『禅門撮要』が第四九で終わっているのは、明らかに後代の削除と見られるから、これは論外とする。チベット本は「二入四行論長巻子」の一部と並行する『大臣実録』(76〜79の要約、80〜92)と『禅定灯明論』(69〜92)の二種のテキストがある。

 このようなさまざまな長さのテキストが、なぜ、どのように、編集されたのか、そしてなにゆえ慧可の語録であった九から四九が、それと知られないまま、大部分が敦煌に秘められたままになったのかを考えてみたい。

 まず、達摩の『四行論』が独立したものだったことは、『続高僧伝』『楞伽師資記』『景徳伝灯録』の単独記載から明らかである。  ところでいままで取り上げなかった雑録1の七「有る人曰く・・・」の由来について、チベット本が重要な示唆を与える。チベット本は、その大部分が雑録2の最後部と雑録3の諸禅師の言葉であるのだが、その後にさらに、この七の三つの問答と完全に並行する言葉があるのだ。

 今、それを沖本克己の訳によって漢本と並記すれば次のようになる。

SMG130,4

「またある者が語った、『一切法は有るにあらず』。説く、『汝は無を見たのか、有から無になるなら、無から有となる故に、それ自ら汝が有なのである』。 ある者が語った、『自ら一切法は不生なるを見るのである』。説く、『汝が不生を見たのであるか、生から不生になるなら、不生から生となる故に、それ自らが生ずるのである』。 また語った、『自ら、一切法において無心を見るのである』。説く、『汝が無心を見るのであるか、心から無心になるなら、無心から有となる故に、それ自ら汝の心なのである』。」42

並行雑録1

七「有る人曰く『一切の法は有ならず』と。

難じて曰う、『汝は有を見るや。有を有とせざるも、有ならざるを有とするは、亦た是れ汝が有とするなり』。

有る人曰く『一切の法は生ぜず』と。

難じて曰う、『汝は生を見るや。生を生とせざるも、不生を生とするは、亦た是れ汝が生とするなり』。

復言く『我は一切を見て無心なりと』

難じて曰う、『汝は心を見るや。心を心とする無きも、無心を心とするは、亦た是れ汝が心なり』。

 これはチベット本では、次のような『四行論』の一部引用と、八の「三藏法師曰く」に並行する文の間にある。

  SMG130,2、3

「『大論』によれば、もし真実ならざるものを捨てて、如に向い、認識をたち切り亮々と住すること自と他もなく凡夫と聖人も等一で、変化することもなくしっかりと住するならば、それだけで経の教えに従わないのである」。43

並行する『四行論』はこうである。

「もし妄を捨てて真に帰し、壁觀に凝住して、自他凡聖等一に、堅住して移らず、更に文教に隨わず」。

 雑録1の八に並行するチベット本は、こういわれる。

「先徳大師が説いたもの、『不解ならば人が法を追う。解したなら法が人を追うのである。解したならば識が色を集め、迷うならば色が識を集めるのである。色によって識を生じないのであって、即ちそれが色を見ないと名付けるのである』といわれるのである」。

 雑録1の八では「三藏法師曰く」といわれていた。それがチベット本では『大論』を書いた「先徳大師」とよばれている。「先徳」は『禅定灯明論』ではすべての禅師につけられている称号だから、固有の名は「大師」である。この「大師」は、『大論』の引用が『四行論』と並行するので、『四行論』の述者である菩提達摩すなわち達摩大師にほかならない。

 このことは、これらの法語(七、八)は、ある時期まで、達摩の言葉としてまとまって伝承されていたことを暗示する。

 ところで、九から四九をまとめた人は、慧可自身ではあるまい。手紙でさえ、「可、筆を命じ」と弟子に書かせている慧可である。すでに述べたように『続高僧伝』に「其の言を発するは理に入て未だ鉛墨を加えず。時に或るひと之を纉む」とある「或るひと」、あるいは『伝法宝紀』の「ゆえに門人は潛かに存録する有り」とある「門人」が筆録、編集したものが、この論の最初の形であったのだろう。

 それをさらに次の編集子が『四行論』(一、二)と手紙二通 (三〜六)とともに合わせてこのテキスト(一〜四九)にしたのかもしれない。もっとも現存する古テキストで四九で終わっているものは存在しないが、『宗鏡録』第九七巻に伝える「安心法門」には八〜四九が抄録されており、その原テキスト形態を示唆している。また、五十以下は縁禅師(五〇)を中心にした達摩の流れを汲む禅師たちの問答であり、明らかに別 に編纂されたものといえる。

 このテキスト(一〜四九)は、発語者の名前が「三蔵法師」として一度言及されるだけであるから、おのずから全体が達摩の問答だとみなされたのではなかろうか。『楞伽師資記』の編者浄覚(683ー750?)が、「余は則ち弟子曇林、師の言行を記して、集めて一巻と成す。之を達摩論と名づく也」というのは、このテキストがすでに過って「達摩論」とみなされていたことを示すのではなかろうか。人はしばしば内容によってではなく、著者の名前によって書物を評価する。鋭い舌鋒のゆえに敵が多く、したがって評価も揺れる慧可の名前を表に出しにくい事情もあったのかもしれない。

 このテキスト(一〜四九)が、少なくとも唐代には達摩の論として流布されたことは、『百丈広録』(百丈懐海720ー814)に「此土初祖云」として引用される語が十七、十八に見い出されること、浄覚が『四行論』を「安心論」ともいっており、その表現が『宗鏡録』(904ー976)にも「此土初祖菩提達磨多羅の安心法門」(巻98)として伝承されたことからも窺われる44

 ところで、チベット本『禅定灯明論』は細字注に、「34人による教示」45とあるように、雑録2とは異なる師名を最初に11人あげて、その後に淵禅師(雑録2の六八)から始まる諸禅師の句を、ほぼ雑録2と同じの順序で挙げているが、思うにまったく別 系の禅師語録である。

 一見するとチベット本は「二入四行論長巻子」の一部のようだが、その書名の一つ『禅定灯明論』から推察されるように、一禅師につき一法語の集成で、内容もがらりと変わっていて、伝法史という様式の先駆けと思われる。その中にはすでに弘忍(601ー674)と比定される82忍法師があり、慧可の時代からほぼ百年近くも経て編まれたと思われる。  所謂「二入四行論長巻子」で柳田聖山によって雜録第3と名付けられている部分は、チベット本『禅定灯明論』とは順番が違っている。すなわち『禅定灯明論』では雜録3の81「三蔵法師」82「忍禅師」83「可禅師」84「亮禅師」85「曇禅師」に当たるところが、81は22人目「先徳大師」になり、以下30人目から33人目に忍禅師以下が当たっている。

さらに、先に述べたように、その後に達摩『四行論』の一部があり、法語(七に並行)がきて、最後の34人目が「先徳大師」(八に並行)で終わっている。これらが最後部にあるということは、チベット本を伝承した集団が、こういう達摩の系譜を自らの伝承に後になって取り入れることによって、達摩の法系に連なろうとしたことを意味するのではなかろうか。

 つまり『禅定灯明論』はその思想の質も落ちていて、元来「二入四行論長巻子」とは関係のなかったものである46

 そのことはペリオ本P3018は六五で終わっており、P3018と『禅定灯明論』はまったく重複しないという事実によっても示される。このペリオ本は七五までの諸テキストの原形かもしれない。また『宗鏡録』九八巻の末尾に記される「二入四行論長巻子」と並行する禅師の名が、梵禅師(76)、蔵禅師(70)縁禅師(91)安禅師(72)覚禅師(75)円寂尼(78)慧禅師(86)朗禅師(92)と、ペリオ本P3018とはひとつも重ならないで、すべて『禅定灯明論』と重なることも、両本の別 行を示す。

 これらを勘案すると、初期のテキスト(一〜四九)に、五〇〜六五までの達摩の弟子語録が合して編集されたのものが、縁法師の名が出てくるペリオ本P3018である。その末尾に「菩提達磨論」と記されているのは、浄覚が先に言及した部分に続けて「更に人の偽りて『達摩論』三巻を造れる有るも、文は繁く理は散じて、行用するに堪えず」と書いたように、弟子の語録を達磨論と僭称する風潮を反映しているのかもしれない。

 さらに、その六五までの「菩提達磨論」に、新たな諸禅師の言葉(六六ー七四)が付加されて、今の「二入四行論長巻子」の定本ともいうべき北京本(宿九十九号)、スタイン本S2715、その残巻であるS3375、P4634ができたのだろう。それらの「二入四行論長巻子」は、P3018、P2923に記される「縁禅師」(五〇)の名を消して47「法師曰く」とすることによって、慧可の名が最初に出てくるのは五七となり、そこまでがすべて達摩の言葉と看做されることになったのである。

 ところで、天順本のようにさらに93までを含む長い「二入四行論長巻子」が存在するということは、チベット本『禅定灯明論』の原本になったものを、後にさらに75までの「二入四行論長巻子」が取り入れて増広していった為だと思われる。その際、81の三蔵法師以下の順番を変えて、全体としての違和感を少なくしたと思われる。

 杜朏(?ー713)は『傳法寶紀』の序で「今、人間に或いは文字有りて、『達摩論』と称する者は、蓋し是れ当時の学人が、自得の語に随って以て真論と為し、書して之を宝とするもの、亦多くは謬れり」と言及しているのは、このような増広本なのかもしれない48。だが、こういう悪評ゆえに、「二入四行論長巻子」は、やがて目覚ましく展開する六祖門下の陰で、忘れ去られた49。貴重な慧可の語録(九〜四九)は、その『達摩論』に埋もれたまま慧可の思想としてはついに日の目を見なかったのである。

1,『楞伽師資記』にある。これを「略して大乗の入道四行を弁ずる」と、内容の説明とする(柳田聖山『初期の禅史1」128頁か、「曇琳の序」が附せられた一書のという題とするか、両者が考えられるが、今は題と取る。

2,柳田聖山『初期の禅史1」415頁

3、 『二入四行論』序によれば、南天竺出身であり、北西インドの人よりも中国との接点が少なかったと思われる。

4、 『続高僧傳』T50、596c

5、『続高僧傳』T50、552a

6、『続高僧傳』T50、552c

7 『続高僧傳』恵可章に説かれる恵可の弟子は化公、向居士、彦公、和禅師、那禅師、慧滿があるが、『続高僧傳』法沖章には、那禅師の弟子四人について、「名づけて京師西明(寺)に住すも、身亡じて法絶える」と後注されている。その他の人々も惠禅師、盛禅師端禅師、長藏師、真法師、玉 法師に対しては、「已上並口説玄理不出文記」と注されて、文献的に法系が残っていない。

8、『続高僧傳』法沖章は、慧可によって楞伽経を伝持して義解や疏を作った人10人、慧可の系統ではない楞伽経の論師を2人を挙げる。T50、666c

9、 西口芳男氏により、『続高僧傳』巻11の辯義伝に、僧粲禅師が以下のように言及されているとの御指摘を受けた。仁寿四年(604)に辯義が廬州獨山に入った時、水がなくて難儀であった。もとは一泉があり、僧粲禅師が焼香して水を求めたところ、奔注したというが、粲が亡じて後は水が涸れて積年である。(T50、501c)西口氏によれば、印順氏はこの僧粲禅師と第三祖僧粲を同一人であるとし、これを根拠にして、道信が舒州山完公山で遇った二人の禅師の一人は僧粲に違いないという。(『中国禅宗史』)すでに『伝法宝紀』で、粲は「後に周武の法を破る(574年と577年)に遭い、山谷に流遁して十余年を経たり」と記されており、道信は開皇の頃(581〜600)、山完公山で僧粲に遭ったとされるから、辯義伝の僧粲禅師とは年代的には妥当しよう。                   

10、  『楞伽師資記』の道信章は全体の三分の一以上を占めているが、それらを史実とするには余りに問題があり、詳しい検証が要される。

11、 『禅門撮要』では『最乗上論』といわれる。

12、 『続高僧傳』T50、552b

13、柳田聖山『初期の禅史1』336頁

14、 なお、荷澤神會の『雑徴義』石井本には、慧可の雪中断臂が説かれ、達摩から金剛経を授けられたとあるが、後代の筆と思われる。

15、柳田聖山『初期の禅史』68頁

16、西口芳男氏より「東方学報・京都第五七冊」597〜599に3本の番号の対校があることを教えられた。

17、柳田聖山『達摩の語録』(筑摩書房、ちくま学芸文庫、1996)は74までであるが、『ダルマ』(柳田聖山、講談社、人類の知的遺産、1981)は前者の2を2と3に分けるので、後者の番号が、3以降は一つづつ増える。雑録3は76からはじまるが、その前の75は『達摩の語録』では74になるために、75はこの論文では欠けることとなる。

18、宇井伯寿『禅宗史研究』53ー56頁、1935、岩波書店

19、中川孝「菩提達摩の研究」「文化」第二十巻四号、1956

20、柳田聖山『初期の禅史1』234頁

21『禅思想史研究第二』1951、(鈴木大拙全集第二巻、岩波書店)、111頁

22 T50、551c

23、 拙論「達摩とその弟子(慧可)の思想的違い」「宗学研究」第41号、1999駒沢大学

24、 天順本では「会也」は前の手紙の結語として、「融心令使」以下を手紙の結部まで一連のものとしている。敦煌本では全体が切れ目なく続けて書かれている。

25、 T50、596a

26、柳田聖山『初期の禅史1』366頁

27、「二入四行論長巻子」ペリオ本3018が31以下を「菩提達摩論」と記す。スタイン2715は75の後に「論一巻」と記す。

28、 T50、552b

29、 T50、552c

30、 また『続高僧傳』法沖伝に楞伽経の伝統を「恵可禅師創て綱紐を得る。・・・可禅師の後、粲禅師、恵禅師、盛禅師、那老師、端禅師、長蔵師、真法師、玉 法師。以上並び口説玄理して文記を出さず」とし、抄や疏を書いた人として豊禅師、明禅師、胡明師を挙げている (『続高僧傳』巻三十五 T50、666b)。

31、 T16p481c なお「仏心」という言葉は『楞伽経』の中でここのみに使われる。もっとも『楞伽経』のすべての巻首に「一切仏語心品」と添えられている。

32、T16p485aなど四十回

33、T16p480a、486cなど五回

34、「妄想」は493回、「自心」は118回用いられる。

35、 ただし、「妄想」は54縁禅師、65楞禅師にある。また92朗禅師には「妄想計校」があるが、慧可の言葉の錯入と思われる。「心が若し起こる時も即ち法に依って看て滅せしめよ。色法に依って看れば見ず。色の惑、起こり、色を見て色の解を作すも、心は是れ色の法を作す。法に依って看るに、実に物の見る可き無し。乃至、一切の法と云うは、都て是れ妄想計校なり。作せば是れ実の処あること無し。所有の見処は皆な自心が現ずる妄想。道は何物に似てか、而も之を修せんと欲するや。煩悩は何物に似てか、而も之を断たんと欲するや。」  前半は、17「心が若し起こる時も即ち法に依って起こる処を看よ。・・・即ち法に依って起こる処を看よ。起こる処を見ざれば、即ち是れ修道なり。」とよく似ている。中間は57前半「一切凡聖は皆妄想計校を為して是を作る」と酷似しており、後半は57「道は何物に似てか、之を修せんと欲するや」とまったく同じである。

36、 T16p480b、なおこれは『頓悟真宗論』にも引かれる。

37、 向居士の4「煩悩を除いて涅槃を求めるものは、形を去って影を求むるに喩え」も同じ趣旨である。

38、 向居士4「煩悩を除いて涅槃を求めるものは、形を去って影を求むるに喩え、衆生を離れて仏を求むるものは、声を黙して響を尋ねるに喩う。故に知る、迷悟は一途、愚智は別 に非ざることを」も同じ趣旨である。

39、『続高僧傳』T50、551c

40、田中良昭「四行論長巻子と菩提達摩論」『印度学仏教学研究』14ー1、217頁、1965

41 柳田聖山「達摩の語録」34,35頁によればその他、断巻としてP116(チベット本)P2923、P4634、S1880,S7159、S7961、チベット本カーテン・デガがある。

42、 『研究報告第五冊』沖本克己、70頁、(花園大学国際禅学研究所、京都、1997)

43、 『研究報告第五冊』71頁、

44、 『達摩の語録』36頁による。

45、 『研究報告第五冊』70頁、

46、 並行する敦煌写本P2923(87、88a)、P4795(88a〜92)もその異本として同じであろう。

47、 田中良昭「四行論長巻子と菩提達摩論」218頁

48、その他にも、たとえばP2045に挙げられる文献『三蔵法師菩提達摩絶観論』などいろいろあったのだろう。

49、もっとも天順本『菩提達磨四行論』は93まで増広して版行して今に伝えられている。