達摩の坐禅  

                                      

 達摩については『達摩の語録』 1『ダルマ』 2など柳田聖山氏によって論じ尽くされたともいえる。ただ「二種入」 3を見た時、私は不思議な感慨に打たれた。そこには、禅宗の弊として指摘されるような本覚思想や戒行無視はもとより、それなしでは禅宗を語れないと思われる悟り・三昧・解脱・心・無心・仏性・自性・見性・頓悟などが何も説かれておらず、人の生き方としての仏道が透明に示されている。 どうしてこの教えが禅宗になったのだろう?いやどうしてこれが禅宗としては伝わらなかったのか、そんな思いがしきりにして、私なりの達摩の解読を試みてみた。

   一、達摩とはだれか。                  

 『洛陽伽藍記』に記載されている「西域菩提達摩沙門者、波斯国胡人」 4は、その内容から禅宗の達摩とは別人に思われる 5。『続高僧伝』の習禅篇には三人の達磨が登場する。 ひとりは最初にあげられる僧副の師であり、「達摩禅師有り。善く観行を明め巌穴に循擾し言問深博、遂に従って出家す。……定学を宗と為す」 6と記される。 『景徳伝燈録』には達摩の「門人道副」が言及され、僧副は普通 五年(524)に亡くなっている 7。次の釈慧勝にも「外国禅師達摩提婆より諸観行を学ぶ。一に寂定に入る」とある。

 また第五の菩提達摩は次の釈可において「年四十に登りて天竺沙門菩提達摩、嵩洛に遊化するに遇う。可、宝を懐て道を知り、一見して之を悦ぶ。奉って以て師と為す」とある人だ。一寺に住さず遊行し続けたこの達摩の際立った特徴は「観行」を教えたことだ。両高僧伝の習禅篇には坐禅や定学、禅定、観門等について多々言及されるが「観行」というのはここだけである。観とは壁観、行とは四行ではあるまいか。ほぼ同じ時代に観行を教えた三人の「達摩」をわたしは同じ人だと考える 8

 『続高僧伝』の達摩の伝記 9は、おおよそ525−43年に活動した弟子曇林の序10に依っており、それは敦煌本『二人四行論長巻子』の冒頭に一部残されていて『楞伽師資記』はこう伝える。

 「法師は、西域・南天竺国の人、是れ大婆羅門国王の第三の子なり。神恵疎朗にして聞いて皆な暁晤す。その志は摩訶衍の道に存す。……亡心の士は帰信せざる莫きも、相を取り見を存する流は、乃ち譏謗を生ず。時に唯だ道育、恵可なるもの有り。此の二沙門のみは、その年後生なりと雖も俊志高遠にして法師に逢えることを幸いとし、之に事うること数歳、虔恭に諮啓して、善く師意を蒙る。」  

 この「法師」を道宣が菩提達摩としたのだろう。『続高僧伝』には達摩は「在世に学流、帰仰すること市の如し。しかれども誦語窮め難し」11とあって、言葉には不自由したようだ。さまざまな達摩の論が伝わるが、今「二種入」のみを達摩の真説とし、「二入」が言及される『金剛三昧経』は「二種入」以後に中国か新羅でできたと考える。  

  二、達摩の坐禅  

 「二種入」は次のように始まる。

 「夫れ、道に入るは、途多けれど、要して之を言えば、二種を出でず。一には是れ理入、二には是れ行入なり。理入とは、教に籍りて宗を悟り、含生凡聖は同一真性なることを深信す。但だ、客塵に妄覆せられて顕了すること能わざるのみなり。 もし妄を捨てて真に帰し、壁観に凝住すれば、自他凡聖等一なり。堅住して移らず、更に文教に随わざれば、此に即ち理と冥府して、分別 有ること無く、寂然として無為なるを、之を理入と名づく。」

  ここでもっとも驚くべきことは、理入が理論で行入が実践なのではなく12、「壁観に凝住」とある通 り、理入が坐禅の実践であることだ。  もっとも「理入とは、教に籍りて宗を悟り」とあるから、そこに教えを媒介にして根本(宗)を見極めるということが含まれている。つまり「教外別 伝」ではまったくなく、すぐ後に「経に云わく」と三つ引用しているように、教えを必ず媒介する。五、六世紀にけい賓の諸禅師など多くの外国禅師が中国に来たのに、達摩が「法師」と呼ばれたのは一驚に値する。彼は「言問深博」「神意疎朗にして聞いて皆な暁晤す」とあるように聡明博識であり、弟子は数年間数えを学んでいる。では、そのことと「文教に随わざれば」「分別 有ること無く」とはどのように整合するのだろうか。これこそ禅問答とも止観とも違う壁観のポイントだ。

 『高僧伝』と『続高僧伝』の習禅者の大きな違いは、前者が寺に住さず五穀を食べず、深山幽谷に独り棲んで坐禅をし経を誦し、虎などを手なづける神異の行者であって経典や論を講じたりはしなかったのに対して、後者の多くは経論を甞み、三蔵13に通 じ、地論14や楞伽15・華巌16・涅槃17・法華18・維摩19などを講ずる者であったことだ。かれらにとって習禅は定で経論は慧であり、その定と慧を一致させることが課題であった。その一人が南嶽慧思だ。彼は法華経を研鑽するとともに常坐を努め、昼夜摂心し、力尽きた時、忽念として法華三昧を得たという。

 達摩も教に籍っており「二種入」には維摩経のほか二経と涅槃経と法華経の譬えが引かれているが、特定の経典に依ったわけでも、講じたわけでもなく、それらを自由に駆使して壁観を指し、また壁観から出る行を示した。文献重視の中国人にこの自由闊達が気に障ったことも「相を取り見を存する流は、乃ち譏謗を生ず」とある理由であろうが、そもそも定慧一つの行である理入としての壁観が分からなかったからであろう。

 教理である十二因縁や四聖諦や五蘊は、もともと坐禅において観察され現証された内容であり、初期の経典では禅思(ディヤーナ)は定慧ひとつのものとしての坐禅であった。たとえばこう鋭かれる。

 「爾の時世尊、諸の比丘に告げたまわく、『常に応に方便して、禅思を修習し、内に其の心を寂にすべし。所以は何ん、比丘、常に応に方便して、禅思を修習し、内に其の心を寂にせば、実の如く観察すればなり。云何が実の如く観察するや。此れは是れ色、此れは是れ色の集、此れは是れ色の滅、此れは是れ受・想・行・識、此れは是れ識の集、此れは是れ識の滅なりと。云何が色の集、受・想・行・識の集なるや、愚癡無聞の凡夫は苦・楽・不苦・不楽の受に於て、実の如く、此の受の集、受の滅、受の味、受の患、受の離を観察せず。実の如く観察せざるが故に、受に於て楽着して取を生ず。取に縁りて有あり、有に縁りて生あり、生に縁りて老病死憂悲悩苦あり。是の如き純大苦聚は、集よりして生ず。(中略)是の如き純大苦聚は、皆悉く滅を得。是れを色滅し受・想・行・識、滅すと名づく。是の故に比丘、常に応に方便して、禅思を修習して、内に其の心を寂にすべし。」(雑阿含第一誦)20

「爾の時世尊、諸の比丘に告げたまわく、『常に勤め禅思し正方便を起こし、内に其の心を寂にすべし。所以は何ん。比丘禅思し、内に其の心を寂にするを成就し已らば、実の如く顕現す。云何が実の如く顕現するや。謂ゆる此の苦聖諦実の如く顕現し、この苦集聖諦、苦滅聖諦、苦滅道跡聖諦、実の如く顕現す』と。」(雑阿含第三誦)21

 ところが坐禅において現証されるべき事柄が、やがて観念の対象となる。スッタニパータ後期22では、決定的な知慧と禅定の乖離が見られる。たとえば苦集と滅道が禅定の内容自体ではなく、教えとして思惟の対象になる。 「さて尊師は黙然としている修行僧の群を見まわしてかれらに告げていった、……『諸々の修行僧らよ、汝らが、善にして尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、なぜであるか』と、もし汝らに問う者があるならば、修行僧らよ、かれらに対してはつぎのように答えねばならない。『二種ずつの真理を如実に知らんがためである』と。しからば汝らのいう二種とは何であるか、というならば『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが一つの観察である。『これは苦しみの止滅である。これは苦しみの止滅に至る道である』というのが第二の観察である。」23

 二種の観察とはこの節では素因とその滅、無明とその滅、形成力とその止滅、識別 作用とその止滅、接触とその離脱、感受とその止滅などとなっている。観察の内容が多様になり、坐禅の技術も数息観や四禅定などが説かれると、観察と止定は区別 され止観(シャマタ・ビバシャナ)となる。止観は原姑経典に仏教独自の用語として説かれ24、定慧が止と観として分離されている。

 そして教義となったことを観念的に観察することが定形化されて、身は不浄、受は苦、心は無常、法は無我などと観察する四念処をはじめとする、さまざまな観に発達したのである。さらに大乗経典の湧出によって、観から遊離した教が慧学として発達し、さまざまな止観はむしろ定学として論書や禅経に説かれるに至った。  大乗仏教の課題が、大乗経典の慧と坐禅による定学の一致となったことは、ある意味で当然なのだ。ところで中国での当時の習禅は、例えば『達摩多羅禅経』では数息観、不浄観や十二因縁観であり、浄土系禅に影響を与えた観仏や念仏であった。

 仏(跋)陀に指導された僧稠の禅は四念処を含む止観である。原始経典以来のヒンドゥー教の影響の考えられる九次第定は、僧実が勒那三蔵から授かっている25。少し遅い成立の『大乗起信論』も止観を説き、慧思の十六特勝を含む禅行も次の天台智●では止観に体系づけられた。

 では、達摩はどうだったのか。観行は僧副が「定学を学び」、慧勝が「寂静に入った」とあるから形の上では同じ坐禅であっただろう。だが壁観という観行であり26、しかも壁観というのは、達摩独特の言葉だ。

 『金剛三昧経』の作者はその言葉の訳の見当がつかず「覚観」に改めた。チベットの理入説では「壁面 を観るが如くす」、あるいは「光明」とある27。南宗禅の『宛陵録』『景徳伝灯録』では壁に向かう「面 壁」とし、『禅源諸詮集都序』や『釈門正統』では壁をものを隔てる譬えと解し28、またインドや西域の龕窟では壁に仏像があることから壁が見るとも解釈された29

 いったいどう解するべきか。坐禅は半眼であるから「壁を見る」わけではない。不浄観や観仏は何か対象を観想し、縁起観などは教理を観念することであるが、「更に文教に随わざれば」とあるからには、もはや言語や感覚の対象となるべきことがらは何もない30、「寂念無為」ということだ。心意識の能動的働きがやむのであれば、壁が観るということもありえようが、画像のない壁や樹下露地の坐禅の場合、難がある。

 隔てる壁ととるのは、閉じ篭りになるし、もし、「壁観において妄を捨てて真に帰し」といわれるならば、坐禅し煩悩の塵を壁のように隔てて払い、心を鏡にすることになって、それではすでに「二人四行論長巻子」がそうであるように『楞伽経』や『大乗起信論』の論理になり、心を鏡のように澄ませて妄想を静めて性を見る(始覚)ことに発展する。

 わたしは壁は鏡に対立する譬えとみる。そして壁観の意味は『伝燈録』の「別 伝」として「外に所縁を息めて、内心喘ぐことなく、心牆壁の如くにして以て道に入る」と注されているように、身心を壁のようにすることだと思う。「凝住」や「堅住して移らず」は、心の働きをやめて兀兀と坐定している様を示していよう。壁で隔て守るようなものは何もない。南宗はこれを継承して、北宗が壁を作って自性清浄心(宝鏡明珠)を守ったのを批判して、壁観に帰り、牆壁瓦礫を打ち出したのではないだろうか。守るものがないという点を後の第四称法行が次のように明らかにしている。 

 「第四に称法行とは、性浄の理を、之を目けて法と為す。此の理は衆相斯に空じて、染無く著無く、此も無く彼も無し。『経』に云く、『法は衆生無し、衆生の垢を離れたるが故に、法は我有ること無し。我の垢を離れたるが故に』と。智者は若し能く此の理を信解すれば、応当に法に称って行ずべし。」

 先の「含生凡聖同一真性」を、人間に内在するものとしての「仏性」「真如」「自性清浄心」等と同一だとすれば、あきらかに本覚思想となる。しかし達摩の場合、「法は衆生無し、衆生の垢を離れたるが故に、法は我有ること無し。我の垢を離れたるが故に」といわれているように衆生と人間は絶対的に断絶している。人間の努力で到達できることはすべて衆生の範囲のことであり、我の経験である。始覚であれ、法華三昧であれ、そういうものは私が得たという覚知に属す。性を見るというがいったい誰が見るのか。見る誰かがある限り、我の事柄であり無我ではない。

 もろもろの対象を立てる観法はすべて見る我を前提にしているのだ。いっさい対象を立てない在り方が「理と冥府して、分別 有ること無く、寂然として無為」といわれる。理とはすでに指摘されているように中国の思想であるが、この場合ダルマ(法)という意味が強い31。つまり法とぴたりと合って人間の計らいをなくしたところが理入であり、壁観である。

 本覚思想と紛らわしい「真性」は、従って「性浄の理」とか「法」とかと同義であり、人間に内在するものでなく、人間によって称えられるものである。「同一真性を深信す」といわれるように、それは人間が証すべきことではなく、むしろ信ずべきことなのだ。人間の覚知を超えるところは信ずるほかない。だが、それは盲信ではなく教や経による信解である。壁観である坐禅をじっとして、分別 をやめて、ひっそりとして何もしない時、はじめてそこに含生凡聖の同一真性が現成する。坐禅のところに「顕了」しているのであって、私が真性を顕了させることではない。したがって「妄を捨てて真に帰す」とは坐禅における払塵の計らいではなく、浮世の生活を捨て、仏道へと回心して坐禅することであろう。  

 さらに理入の際立った特徴は曇林が序で「誨うるに真の道を以てす。是の如く安心し、是の如く発行し、是の如くに物に従い、是の如くに方便する、此れは是れ大乗安心の法なり。錯謬すること無から令めよと。是の如くに安心するとは壁観」と道破したように、壁観の坐禅を安心の法としたことだ。達摩の坐禅は特珠な三昧や悟りを求めないから、そこに到達するための努力は要らない。当時の習禅は解脱に到達するための一種の苦行であった。

 『続高僧伝』の遺身篇には十四人の死を賭した修行者の事跡が措かれている。それは得るべき解脱や三昧があるからだろう。止観の行や楞伽経に説く行には求めるべき高い境地があって難行苦行であり、だれでもが得られる安楽行ではない。『続高僧伝』の慧思の項には労苦、苦節、苦切呵責、常坐苦行という言葉が見え、じっさいに慧思は身体を揖なうほどの苦行をした。

 ところが達摩の壁観は到達すべきところがない。悟るということがないから頓ということもいわれない。慧思は「一念頓」に悟ったが、壁観は頓悟ではない。また坐禅の長さや特珠な三昧にこだわらない。すでに訳経者の彊良耶舎も「七日不起常以三昧正受」32と伝えられるが、伝説のような「面 壁九年」という苦行は実際の達摩にはない。出家修行者を道場に集めたということも伝わらない。

 達摩とはぼ同時代に慧思の師事した慧文は数百人を集めて禅道場を開いていた。道場ももたない達摩がなぜ嫌われたのだろうか。それは達摩の壁観がだれにでもできる安心な行であり、貪著して何かを求め続けるがゆえの不安から、人々を解放したからではあるまいか。

 「その志は摩訶衍の道に存す」といわれるとおり、達摩が中国ではじめてだれでもが救われる摩訶衍、大乗の道を示した、それが壁観である。それを曇林は「大乗安心の法」といい、道宣は「大乗壁観その功徳最も高し」と許す。大乗といっても新しいことではない。

 ゴータマ・ブッダの当時は長老偈や長老尼偈にはっきり記されるように、誰でも禅思を努めて安楽を得、生死の彼岸に達した。その同じ安楽な禅那(ディヤーナ)がここに再発見されたのである。だれでもが安心し解放されることは、達人宗教や権力がいつでも忌み嫌うことである。

 安心といえば、禅の伝統では『宝林伝』から『祖堂集』『景徳伝燈録』に伝えられる安心問答が達摩と慧可との間にあるが、それは元来慧可と弟子の問答であった33。南宗禅ではこの安心問答は心不可得や無心に通 じていき、そこに坐禅が抜け落ちる。一方、北宗は修行としての坐禅に固執して安心を忘れる。序では達摩の言葉として安心が二度語られるのに、曇林が重ねて「安心とは壁観」と念を押したことはよくよく心に留めなければなるまい。    

1、柳田聖山、『禅の語録1 達摩の語録』筑摩書房、1969

2、柳田聖山『人類の知的遺産 ダルマ』講談社、1981. (講談社学術文庫、1998)

3、「二種入」は『少室六門』中の一文書の呼び名である。これは『続高僧伝』の達摩の説とほぼ一致し、二入四行論といいうる内容であるが、曇林の序には「大乗入道四行」とあり、朝鮮本は安心法門を含む語録を添えて「菩提達摩四行論」とし、柳田聖山氏の『達摩の語録』は朝鮮本より長い語録を含む敦煌本『二入四行論長巻子』を「二入四行論」としている。そこで混同を防ぐためここでは「二種入」とする。

4、T5, 1000b

5、松本文三郎氏はこれを同一人とするが(『達磨の研究』69頁)、きらびやかな建造物に嘆息して歌詠讃歎し、連日「南無」と唱えたのは浄土系の人であろう。年齢の一致は道宣が『洛陽伽藍記』と曇林の『四行論』という二つの資料を合わせて菩提達摩とした結果 と考えられる。なお柳田聖山氏も(『ダルマ』113頁)村上俊氏も同一と見ている(「訥弁の達磨」『禅文化』158号87頁以下)。

6、T50, 550b

7、『続高僧伝』巻第十六(T50, 550bc)

8、もう一人『高僧伝』に「■賓に於いて達摩比丘従り禅要を諮受す」と伝えられる『達摩多羅禅経』と関係する達摩があり、これも道宣が達摩を一五〇余歳としたことに関わってくるかもしれない。なお『歴代法宝記』(八世紀末)では菩提達摩多羅となっており、チベットではすべてそれを受けている。また『伝法正宗記』(1061)には「初名菩提多羅、亦達摩多羅と号す」とある。

9、『続高僧伝』では西域が取れて、婆羅門国王の第三子が婆羅門種に変わるなど若干の変更がある。

10、序の本文は、序の内容からして「二種入」だけだと思われる。このことは『楞伽師資記』でも『続高僧伝』でも明らかである。

11、『続高僧伝』巻第二十(T50, 596c)

12、『金剛三昧経』の理入説は「二種入」にかなり近いが元暁の『論』は「理入者、順理信解、未得證行故、名理入位 在地前」とあって、理論という意味に誤解している。

13、智遠(T50, 556a)

14、僧達(T50, 552c)

15曇遷(T50, 571a)

16、慧命 (T50, 561a)、曇遷(T50, 571a)、道昂 (T50, 588a)、曇栄(T50, )

17、智金皆(T50, 570b)、智周(T50, 580b)

18、慧思(T50, 563b)、智金皆(T50, 570b)

19、慧命(T50, 561a)、灌頂(T50, 584b)

20、『国訳一切経』第一巻85頁102=S22: 5−6 同様な教えが103−153まで続いている。参照雑阿含11911

21、『国訳一切経』第二巻362頁11999=S.22 : 56 −2

22、スッタニパータ4章5章は最も古い経であることが定説となっているのに対して、はじめの三つの章はそれよりも遅い成立とみられる。

23、スッタニパータ723と724の間の長行(中村元『ブッダのことば』岩波書店130頁)

24、ただ、初期のものには説かれない。雑阿含第三因縁誦12077には止観という語が見えるがパーリの並行経はない。中村元氏によれば止と観は別 々に原始経典においてもかなり遅れて成立したもので、仏教特有の要語であるという。(『止観の研究』36頁以下、1975, 岩汲書店)   

25『続高僧伝』巻第十六(T50, 557c) 

26、唐代の智巌による『華厳孔目抄』で真如観・唯識観などとともに壁観が十八種の応病施薬の施設とされる(柳田聖山『達摩の語録』30頁)のは、すでに壁観が面 壁の意味で禅宗の伝統となっているのを踏まえた宗派的教相判釈ではなかろうか。

27、小畠宏允、「チベットの禅宗と『歴代法宝記』(「禅文化研究所紀要」第6号、161頁)

28、柳田聖山、『禅の語録1 達摩の語録』30頁

29、柳田聖山 『ダルマ』(講談社学術文庫)104頁以下、170頁以下

30、摩訶衍の「波羅蜜義」には「観察せぬ 状態に入った時」、真に六波羅蜜が成就されると説く。(『大乗仏典・敦煌2』292頁)

31、柳田聖山氏の『達摩の語録の「理入」の説明に『註維摩経』などが引かれて、これが中国の思想表現であると説かれる。

32、『高僧伝』巻第三十六(T50, 343c)

33、『二入四行論』58 (『達摩の語録』217頁)

34、行入は「中下根の為に施設したもの」で「第二義門」だという解釈がすでに禅宗の片寄りである。(柴野恭堂、臨済禅叢書1『達摩』92頁、東方出版、1941)

35、達摩の伝記で「聞きて皆暁悟す」とあるのもその意味である。

36、三祖道信の書も「入道安心要方便法門」という。

37、柳田氏は四行を「世間との妥協であり、壁観を完全なものとする条件であったとみてよい」(『ダルマ』182頁)とするが、私には、むしろ壁観からおのずと出てくる生き方だと思われる。

38、釈法期は十住観門を修したが最後の第十師子奮迅三昧を得られなかったという。(T50, 399a)

39、『二入四行論』19に「今、若し法の仏法僧に依って行道する時は、善悪好醜・因果 是非・持戒破戒等の見有ることを得ざれ。若し人、是の如き計■を作す者は、皆な是れ迷惑し、自心現量 するのみにして、境界の自心より起こることを知らざるなり。……若し人、戒を破り殺を犯し、淫を犯し盗を犯して、地獄に堕するを畏れんとき、自ら己の法王を見れば、即ち解脱を得ん」とある。(『達摩の語録』105頁)

40、このことはすでに『二人四行論』の19にのべられている。 41柳田聖山氏の『達摩の語録』の報怨行の説明(41頁)「人間万事塞翁が馬」もそういう思想である。 42柳田聖山、『禅の語録1 達摩の語録』25, 26頁 43ここは新約聖書マタイによる福音書5章44, 45節を想起させる。 続く