§2ギリシャ

10月28日出発

 船はギリシャのピレウス港から出る。古山葉子ちゃんが一億円値切ったとかいうギリシャ船籍のオセアノス号で行くからだ。ギリシャは一度は行ってみたい国だった。何年か前に、新約聖書学者の友人が、ギリシャではやはり新約聖書の言葉ギリシャ語が話されている!と感激してギリシャから手紙をくれたからだ。一度はそのギリシャへ、の夢が叶う。だからできるだけそこに長く留まれるようにオプショナルを申し込んで四日ほどの滞在ゆとりをもった。けれども、私の場合は入院か船旅かという状況だったので、期待というようなものは何もない。ただ、成田へと体を運んだのだ。

 成田から飛ぶことを、深くは考えなかった。関空はそのころあったのだろうか。けれども成田闘争のシンパとして一坪地主でもある私はもっと慎重であるべきだった。成田でどぶろくを作って瓢鰻亭主人としてがんばっていた水先案内人(講師)の前田俊彦さんは、ちゃんと成田を避けて、しかしながら乗り換えを間違えてローマまで行ってしまったのである。こういう節を曲げないという気迫が、どうも私たちの世代以降は希薄である。

 成田に着くと、若い子たちが「ピースボート」と書いたボードをもってあちこちに立っていた。三々五々、それらしき人があつまって来たが、若い女の子が目立つ。すぐそれとわかるお揃いの服とリュックをもったカップルもいる。彼らは後で船で結婚式をあげることになる。また、髪を坊主にした背の低い女の人も目に入ってきた。のちに同室となって、こちらはいろいろ苦労するお人である。やがてチェックインになるとしっかり者らしい女性から大きな荷物をそれぞれに持たされた。それは地球環境チームの実験道具なのである。手でもてば、ただだが、荷物にすれば随分お金がかかるからだ。なるほど、したたかだねえ、と感心してしまった。こちらは20「の範囲で、どのように3ヶ月分の必要物資を入れることができるか、かなり悩んだのである。私がとった策はギリシャでも買えるような日用品は、現地調達。すぐに是非要るものでなかったら、クリスマスに広島・長崎に寄港するとき、福岡の父の家に預けておいて取りに寄るというものであった。

 アテネまでの飛行機は、いつものようにちょっとした責め苦である。バーレーンのあたりから砂漠が広がってそこに夕日が輝いていた。

空の中をとぶのは大好き。雲の上を飛び、お日さまのいろんな姿を見、小さな小さな人間の文化(車や家や畑)を眼下に見る。思えばなんて偉そうな大層な体験なのだろう。このことだけでも人間が神に近づいて高慢になってしまっているんだなあ。