七章   東風  

 ちらちらと雪の舞うなかで、真己は水菜を抜いて洗っていた。

 今日はこれを炒めて、大根とあげを煮よう。自分用に玄米を圧力釜に仕込んでから、犬たちと猫のため白飯を炊きと魚のあらを煮る。犬は六匹。三匹はまだ子供で、お正月に佐弥可の布団の中で生まれたのだ。犬たちは佐弥可を犬だと思っているのか、自分達を人間と思っているのかまったく佐弥可を信頼していて、彼女がいないとイライラするみたいだ。真己が餌をやっても佐弥可に向けるのとは違った顔付きをする。ゴロウたちが一目散に外に駆け出すのは、佐弥可が帰ってきた時だ。

 猫も二匹、飼っているつもりはないが、ノラがかってに我家ときめこんだので、一緒に食事をやっている。猫も飼われているとは思っていないみたいだ。オレの勝手さ、というような風になにくわぬ 顔をしている。かれらの食事のため、真己はピンチヒッターとして慈光庵にいるのである。

佐弥可は二十日には、仲間に神戸震災救援ボランティアを呼びかけた。仲間とは脱原発を目指す宗教者の人々とゴルフ場建設阻止の闘いをしている人々だ。緑も呼びかけられて駆け付けたひとりだ。二十七日には食糧や衣類をもって現地入りしている。現地は聞きしにまさる惨状で、炊き出しや片付けにいくらでも人手がいる。仲間の神戸の牧師は幼稚園の中はもちろん庭にも大きなテントを張って、避難所としていた。

 佐弥可は困っている人、犬、猫などがいるとほっておけない。だが慈光庵にも佐弥可の手を待っている「ひとびと」がいる。一日なら、「自分で托鉢しておいで」と放すこともあるが、今回はそうもいかないので、真己に助っ人を頼んだわけだ。真己もひ弱な自分が現地にいくよりも、たくましい佐弥可がいったほうがどれだけ役立つかしれないと思ったし、学校も休暇なので引き受けた。いや、それより慈光庵にいたかったのだ。ずーっといたいけど、家庭教師のアルバイトがあるから週三日しかいれない。慈光庵に通 う旅費の捻出にひとつアルバイトを増やしたからだ。

 朝は佐弥可のように早くは起きれないけど、朝日が射して小鳥が鳴きだすと目が覚める。目は覚めるが寒いので、そのまま布団の中で考えごとをする。

 もう、普通に世間で生きていくのに真己は疲れてしまった。今、研究雑誌に載せるため小論文を書いているが、そんなこと本当にやりたいことではない。女性の真己は幾つ論文を書こうが大学の職に就けるわけではない。いや、就こうとも思わない。いままで一度も就職を先生や先輩に頼んだ覚えもないし、どこかに応募したこともない。いつでも食べれさえすればよかったのだ。ただ、何か見えてきてほしくて勉強を続けていた。けれどニーチェが希求したヤー、生の大肯定は学問の果 てにあるはずもなかった。

 何か若い人々に伝えたいという思いもないわけではなかったが、学問というやり方ではどのみち伝えられないだろう。学生を教えているのは、それが好きだからではなく、それしか出来ないからだ。一度、本気で講師を辞めようとした。やめて何かできるような気がしたが、事務能力もなく、体も強くもない真己には何もできなかったから、やはり教師を続けているだけのことである。

 もちろん若い人々に接するのは、やりがいを感じる時あるし、楽しいときもある。だが、キリスト教を教えるにはもうひとつ生きた迫力がないのだ。真己にとってはイエスは鋭い宗教批判者だった。そういうイエスを描き出し、キリスト教の歴史的過失や現代における弱体化や堕落を指摘することはできるが、はげしい批判をした後でいいようのない空しさを感じる。

 パウロなどの場合は、真己の目から見ればイエスの教えと生きざまを無視して「キリスト教」なるものをつくりあげた張本人で、取り上げれば露骨な批判が先に立ってしまう。でも本当は羨ましいのだ、パウロが。「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」パウロのようにと真己も言ってみたかった。かつては真己だって自分の命より大切な信仰をもっていたのだ。それを失ってから、なにか無性にさみしい。それは一人で生きているからだとばかりはいえない。

 真己も以前一度、ちらりと結婚することを考えたことがある。四、五年前のことだがある同じ大学の助教授であった哲学の助教授であった人から非常に好かれたのである。真己よりずっと若い彼は、毎週、真己が帰りの列車に乗るのを待っていた。降りる駅は彼の方が早いのにしばしば真己と共に降り、食事に誘った。研究が同じ分野なので話ははずんだ。彼はニ−チェやハイデガーを専攻する気鋭の学者であった。ハイデガーから次第に禅にも関心をもっているようであった。彼はキリスト教の学識をもちながら、あえて広範な仏教文献にも挑んでいる真己を、眩しいものをみるような目で見つめて「吉村先生は、韃靼海峡を渡っていく蝶ですね。それも群れて飛ぶのでなく、たった一人で」と言ったことがある。

 一年ほどそんなふうにして付き合ってから、一緒に暮らしたい、といわれた。真己は別 に嫌いな人でもないし、結婚して子供を産もうかと思った。子供さえできれば、子供の面 倒を見ることで、何も考えずに生きれるかもしれない。真己は小さい時から赤ちゃんがだいすきだった。子供はとてもかわいい。子供のため生きることはできるだろう。普通 の母になりたいという思いは高校生の時から強くあった。

 もしキリスト教に縁がなければとっくに結婚していただろう。結婚か牧師かの二者択一は結構真己を苦しめた問題だった。牧師になるのは私がイエスに従うのであり、そこに牧師夫人になるとかの余地はなかった。なぜなら、「わたしよりも父や母を愛する者はわたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにはふさわしくない。また自分の十字架を担ってわたしに従わない者はわたしにふさわしくない」というイエスの言葉を、自分に向けられたものとして真己は受け入れたからだ。

 しかし、そのイエスを裏切って二十年、正直いって一人で生きるのはもうとても寂しくていやでだったし、家庭教師ももううんざりだった。ここで結婚すればやがて教授夫人であり、生きる術に悩まずにすむ。結婚したって研究を続けることができないわけではない。

 だが、それって結局なんなんだろう。子供を産んで、不自由のない奥さんになって、孫ができて、それで、それでなんなのだろう。私が苦しんできたことってなんだったのだろう。それで済むことだろうか。そんな問いだったのだろうか。

 否、否。

 真己はそんなことの為に生きてきたのではない。そんなことの為に死のうとしたのではない。死ぬ ほど苦しんだことは何だったのか。真実の生き方、あるいはこの世に生を受けた本当の意味、それに答え得るものをキリスト教はもっていたのだ。真己は狭い門から入ろうとしたのだ。みんなが通 る広い滅びに至る門には入るまいとしたのだ。真実に生きるということをやめにして、ただ日々を人並に生きていけばいい、とはどうしても思えなかった。

 もちろん、今の生き方が真実であるとは毛頭思わない。ただ真実に生きたいと願っているだけにすぎない。いや、真実とは何か、それはイエス・キリスト以外にもありえるのか、それを探すために生き続けてきたのではなかったか。生きていくのに楽だからと結婚を選ぶことは、やはり真己にはできなかった。真己が研究しているのは、興味があったり余暇があったりしてののんきなことではない。イエスに従う以外の真実の道を切実に探していたのだ。もう一度、真実の確かなものに触れたかったのだ。

 たしかに、彼も求道的ではあったし、ひたむきな自分に対する情熱をかわいいとも思った。彼がいうように結婚して一緒に研究できないわけではない。だが、しょせん狭い門は一人でくぐる以外には通 れないのだ。二人で手をつないではだめなのだ。この問いは私一人への問いなのだ。彼は彼一人に対する問いに自ら答えねばならないだろう。

 可能なのはごまかすことだけだった。ごまかすことはやればできるかもしれない。ごまかして妻を演じ、母を演じることはできよう。でも死ぬ とき、その一枚一枚の仮面を剥がしていった最後に残る顔を、私は知っている。真っ白な虚無。それを知らないで演じ続ける人はいくらもいよう。かれらはいつか仮面 をぬいで真実な素顔、本当の自分になりたいという希望をもってやっているのだからやれるのだ。わたしはやれるか。とてもやれそうにもない。ではひとりで生きていけるか。これもまた、やれそうになかった。誰かに甘えたかった。もういいよ、と抱いてほしかった。心は揺れに揺れたが、結局イギリスに一年留学することで、彼との縁を切った。彼はその後、結婚して子供もいると風の噂にきいた。

 いま真己はひとりで生きることにも、ほとほと疲れてしまったのだ。日暮れて道遠しである。何かに飛び込むしかないと思った。それは電車でもよかったのである。たまたま名古屋に禅宗の尼僧堂があるので、そこに飛び込もうと訪ねたことがある。出て来た老尼僧に「みゃあさん、なにしにいりゃあた」といわれた。あなた、何しにきたのですか、ということだが、じろりと見られてもう真己はすくんでしまい、本当の来意も告げずじまいだった。

 もう、生きているのはしんどい。ここに来るとほっとするけど、ここにづっと居れるわけではないし。剛君がいっていたようにオウムは毎日修行できるからいいな。もし、麻原氏よりもうすこしましなグルだったら、私もすぐにでも行きたいな、と思った。尼僧堂で見かけた人は年よりばかりだったけど、オウムには若い人たちがたくさん出家し、修行しているという。かれらは家庭を放棄して出家したのだ。なかには家出したかったような家庭環境の人もいるようだが、幸せそうな夫婦が離婚して共に出家した例もあるようだ。たくさんのものを捨ててみんな出家しているのだ。

 真己には捨てるものとてたいしてなかった。辛うじて真実に触れたいということだけだ。どうもオウムは真実とは程遠いように思うから行かないだけだ。真実があるというならどこにでも行くのに、と妄想は広がる。  さいわい、お腹が空いてくるから起きることになる。真己は寝るのだけは得意で、床にはいれば五分とかからず夢の中の人となる。それが救いといえば唯一の救いであった。寝る前にこんな考え事をしていたら、まちがいなくノイローゼになる。

 起きて身繕いしてから坐禅を一ちゅうした。

 犬たちと食事をしてから散歩に出る。山の霊気を胸いっぱいに吸い込みながら、樹木たちや草たちとお話しするのが何よりたのしみだ。山の樹たちはどれも堅い芽をつけてするどい線を描きながら虚空に佇立している。三日前には万作が花を開き始めた。よれた糸のような黄緑の細い花弁を放射状に広げた花を無数につけて寒風の中に一つの星雲を現出させている。すすきも萩も藤袴もみなほほけて、無残な姿をさらしているが根元には命の息づかいがある。これらが春になればいっせいに芽吹くのが宇宙の神秘のように思われる。残雪が残る畑の畦道には真っ青に草が萌え出ていた。

 時というのは同じ間隔で均等に流れていくものではないことを、ここに来て発見した。わずかづつ日が延びていくのである。昨日より暮れなずむ間が長い。

 ランプに火を入れて食事をとったあとは、坐禅を少しして本を読む。真ちゅう性のダルマ型暖房用石油ストーブはそのまま大きなランプとなる。そのランプにくっつくようにして、やっと本が読める。石油ランプのなかった時代はどんなにか冬の夜は長かっただろう。「冬夜長し、冬夜長し、冬夜長くして明けず」と歌う良寛の気持ちが身に染みる。もう春は立ったのだから冬夜ではないのだが、それでも長い。石油ランプの臭いは三時間がまんするのが限度である。

 床をひいて湯たんぽにお湯を入れる。東司(トイレ)に行く道で見上げると寒天に星がさざめきあっている。オリオンがひときわ強い光りをはなっている天空にしばし見とれる。

 今日は佐弥可が帰って来る。朝から浮き浮きする。アパートでのひとりと庵でのひとりは全然ちがう。明かりの有無がこんなに心も変えてしまうものか。ここにいると淋しいのではなく人なつかしくなる。

 昼ごはんを終えてものを書いているとゴロウたちがワンワンと駆け出した。

 やがて佐弥可は男の人を伴って帰ってきた。神戸で一緒に活動している浄土真宗のお坊さんだという。

「神戸はほんとに大変だよ。電気や水道を使う生活って、随分不便だ。トイレだって困っちゃったよ。ここではただしたらいい。向こうでは大きいのは新聞紙に丸めて青いゴミ袋に入れるんだよ。電気がこないからって家庭でご飯も炊けないんだって。みんなお握りをいっぱい作った。ここはプロパンもきてるけど、プロパンなくたってコンロでもいろりでもご飯くらい炊ける。井戸がないだろ。だから給水車が来たとき、みんなでありったけのバケツに水もらいにいくんだ。夜が暗いのはわたしは慣れてるけど、みんなすっごく大変らしい。あきれちゃった。都会て不便だね」

「まあ、一度、災害が起これば大変だけど、普段はとても便利でしょう」

「佐弥可さんは人間より、被災した動物の方が心配みたいで手当してごはんをやるから、犬たちがたくさん居ついてしまいました」と男がいった。

「あなたはどちらから手伝いに来られたのですか」と真己は聞いた。

「僕は日立からきた藤木です。あなたは吉村さんですね。佐弥可さんからお聞きしています。僕は脱原発のメンバーから、大変だから手伝いに来いっていわれて。明日は敦賀で反原発の集会があるので、こちらに一泊させてもらおうと思ってきました。神戸はまだ電車が通 っていないから一時間半歩くんです。敦賀に行く途中だからと寄ったらこちらも一時間歩くのですっかり疲れてしまいました」

「まあ、日立。遠いところから。日立って親鸞さんが布教した東国ですね。いろいろな所へ行かれて大変なんですね。御苦労様です」真己はびっくりしていった。

「いやあ、面白いから好きでやってんです。運動しているといい人といっぱい出会えるので、やめられません。どこでも泊めて飯食わせてくれる友達ができましたよ」くったくなく顔をほころばせて藤木は答えた。

「真宗でしたら、名古屋の光正さんをご存じですか」

「ああ、友達ですよ、どこで知り合われたのですか」

「ホームレスの方たちの炊き出しで。あの方もお遠いのによくお出掛けくださいます」

 名古屋のホームレス炊き出しは、寄場である笹島の近くになる地下鉄名古屋駅で、冬の間アブレたり、病気で仕事にいけない日雇い労働者らの為に労働組合やキリスト教会、仏教者らが協力してやっているものだった。真己が唯一かかわっている社会的活動だ。真己がいくのは、そこで出会うキリスト者にイエスの香りを嗅ぎ取るような気がしているからだ。

 教会はまっぴらだが、この仕事だけはやっていて充実感があるのだ。お昼過ぎから教会に集まり、野菜などを刻んでご飯を炊き、雑炊をつくる。二〇〇食とか三〇〇食だからかなり大変だがたくさんのボランティアのおばさんたちがローテーションを組んでなんとかやる。真己も週二回しか参加できない。できたての雑炊を車で運んで、別 のボランティアの人たちがそれと熱いお茶を配る。時には衣料品を車いっぱいに積んで地下にひろげ、必要な人達にもっていってもらう。カイロをくばったり医療班が具合の悪い人をその現場で診察して病院に行くよう助言したりもする。

 真己がかかわるのはその人たちの為というより、真己自身の為なのだ。そこで人間のぬ くもりを真己も分けてもらう。

 光正は郊外の真宗の寺から参加しているメンバーだった。親鸞は東国の農民たちに教えを説いただけではなく共に生きた。親鸞の御影として残っている肖像は熊の革の上に立っていたり、鹿の角の杖をもっているようなすざましいものだ。

「緑ったら、大張り切りだよ。こんなにやり甲斐があるとは思わなかったって。大学の後輩たちも呼んできて大活躍。目が輝いているよ。学校なんかよりづっと楽しいって。向こうにずーと泊まりこんでいる」と佐弥可が報告した。

 緑もきっと同じなのだ。なにかを罹災者たちから分けてもらっているに違いない。

  「役所の仕事って、ほんと腹立ちますよ。なんでも規則だからとかいって融通 がきかないんですよ。避難所にたまたま入れなかった人には、何もケアしない」と藤木がぼやいた。

「役所のすること、どこも一緒。いまさら」と佐弥可がぼそっといった。