六章ガンジー
夏木はボンベイ郊外の空港から市内行きのバスに乗った。いつものようにその広い道路の両側は、人間の住むところとは思えない畑のビニールトンネルほどの高さの小屋がびっしり並んでいた。彼らには家財道具など何ひとつない。着たきりの一枚の衣服と今日口を糊するものだけだ。生活形態だけ見れば、フィリッピンのマニラ郊外にあるスモーキーマウンテンというゴミの山に家を建てて住んでいる人たちより悪い。
信号待ちになると、乞食の子供達が、「バクシーシ、バクシーシ」「ワンルピー」「ワンルピー」といってお金をせびりに来る。車の間をぬ ってくるのだから命懸けだ。それはほとんど正視に耐えられぬ光景であった。インドに来るたびに物乞いの人々にどう接するか、夏木は悩む。わずかのルピーを与えてもそれが何にもならないことはよく分かる。だがすがりつくような目に出会えば、追い払うわけにもいかない。つい手元のルピーを渡してしまってさらに大勢の乞食に囲まれ、往生してしまう。どうしてこの国は、こんな悲惨な状況を改善しないのだろう。原爆を開発しているといううわさもあるが、そんなことより、このおびただしいスラムの人々をどうにかできないのだろうか。ボンベイだけではない。大都市には農村で食えなくなった人々が洪水のように押し寄せている。子供は増え続ける。
あどけない笑顔で手を差し出す子供たちを見ながら夏木は暗澹たる気持ちになった。と、そのとき窓の外に一組みの夫婦が赤ちゃんを抱いて手を差し出していた。その母親のなんと安らかないい笑顔。瞬間、その笑顔は夏木の脳裏に焼き付いた。こんな素晴らしい笑顔に日本ではめったにお目にかかれない。思わず笑顔を返しながら、お金があるのが幸せではないという当たり前な道理を改めて深く思った。
このインドに来るとゴータマ・ブッダが王族でありながら、乞食となって、もっとも貧しい衣食で最高の生き方を示した意味が分かってくる気がする。これらの人々を救済するのに物を恵んだり、社会構造を変革したりするのではなく、自ら最も貧しい者になったゴータマ。だが結局インドでは仏教は滅びてしまった。一度も支配的な宗教になることもなく。アショカ王のときでさえ、多くの宗教と共に仏教も保護されたのであり、仏教国になったわけではない。すでにその時から庶民にとって仏教は輪廻転生を説くヒンドゥー教の一派に映っていたのかもしれない。
バスは大きく迂回してインド門を通ってビクトリア駅に行く。インド門は波止場に面 してイギリスが植民地支配の象徴として建てた壮麗なものだ。軍事力を背景に侵略してきたイギリスの宗教、キリスト教がそうそうインドに根付くはずもないのである。
市内の建物の多くは古びてたとえ賑やかな装飾があっても全体がくすんでいる。雑踏の中には色とりどりのサリーを着けた人々、白いクルタを着た人々に交じって洋服の子供たちがいた。サリーやドーテイを着た人はヒンドゥー教徒であり、白い詰襟のカミージを着た男、真っ黒なガウンにベールを被った女はイスラム教徒、成人の洋服は多くの場合キリスト教徒、黒いターバンを巻いて髭を蓄えている背の高い人々はシ−ク教徒である。その他ボンベイには仏教と同時代に生まれたジャイナ教、ペルシャのゾロアスター教徒の子孫が守るパーシー教、今世紀に大量 改宗したわずかの仏教徒などがいる。だがヒンドゥー教が80パーセント以上を占める。
夏木はボンベイ郊外の諸宗教交流センターで開かれる国際会議のためにやってきた。テーマは諸宗教の原理主義についてであった。実際に宗教間の対立のある現地での諸宗教者の話し合いは、深い意味をもつ。日本のように諸宗教に寛容な国では、諸宗教の対話といってもセレモニーか馴れ合いにしかならないが。
宮殿のような造りのビクトリア駅には、すでにセンターの車が待っていた。
バスから降りるとさまざまな匂いが鼻につく。なんとたくさんな人だろう。インドに来たという実感が沸く。
「こんにちは、ようこそ」 すぐに黒い顔にキラキラ瞳を輝かせたインド人が握手を求めてきた 「こんにちは、日本からの夏木です」
「こちらはマレーシアからのチャン・ウオン・スーさんとカルカッタからのスワミ・ラーマ・スンダラさん」
「はじめまして、よろしく」
オレンジのローブをまとい同じ色のターバンを巻いた、大きな穏やかな目をした色白のインド人が挨拶した。
「はじめまして、こちらこそよろしく」
車は町の雑踏を縫って進んだ。パンジャビ・スーツの女学生の一団の脇を通 る。ホームレスの母親が赤ちゃんを毛布に包んで道路においている。ボロを纏った老婆、けわしい表情の男たちが行く。イギリスと同じような構えの店には品物がゴタゴタと並んでいる。
物売りが道の端に果物や砂糖きびを並べている。車はみなオンボロ車だ。その排気ガスと人込みで人口千二百万の街全体が薄汚く見えてしまう。飲料を売る店とサリーの布を売る店が目立つ。
暑い。
やがて広い道路に出てしばらく走った。
大きな木に囲まれたセンターの門をくぐる。
ホールに案内されると、すでに各国からやってきた参加者が和気あいあいの雰囲気で雑談していた。夏木はルベンの姿を探した。
ずっと奥でオレンジ色の袈裟をつけたスリランカの僧侶と話し合っている背の高い男がルベンだ。夏木は大股にそちらに歩いていった。
「やあ、ルベン君、久しぶりだね」
「夏木神父、お久しぶりです。お会いできて嬉しい。いろいろお聞きしたいことがありまして」
二人は抱き合って再会を喜んだ。
会議が始まった。
主題講演がインド人によってなされたが、それは長年のヒンドゥー教対ムスリム、ヒンドゥー教対シーク教の確執について深刻な具体的状況が説明された。諸宗教の対話はここでは哲学的や観念的にはなりえない切実な現実問題である。すでにイラクからのムスリムとタイからの自然保護運動にかかわっている僧侶はビザの問題で入国できないでいた。
続いてイスラムの原理主義について、フィリピンのフェルナンド・カッパラ神父から報告があった。フィリピンはかっての宗主国スペインの影響でカトリックが強い国であるが、島の中にはイスラムが優勢のところもあり、小競り合いが続いているのである。
ヒンドゥー教についてはオレンジのローブをまとい同じ色のターバンを巻いたスワミが話した。インド人らしい大きな目で穏やかに聴衆を見詰めて静まった。
彼はヒンドゥー教について自己批判的な意見を述べ、実際ヒンドゥー女性に課せられる持参金であるダウリの廃止や生きながら亡夫と共に火で焼かれるサティーこそなくなったが家族からひどい待遇をうける寡婦たちの権利を守るため、何千人ものデモを組織したりビラを配ったりする実際の活動についても話した。
会議の合間にふたりは市内の住宅街にあるガンジーの記念館マニ・バヴァンに足を運んだ。ルベンはスワミの発題に深い印象を受けたのだ。
ユダヤ教徒であった彼には、男根を神として祭るヒンドゥー教は淫祀邪教に外ならなかった。まず多神教であり、その神も聖典『マハーバ−ラタ』の化神クリシュナは蓮のようなおおきな瞳をもつ黒人の美青年で、村の女たちと遊びたわむれる神であるし、ヴィシュヌ派の主神ヴィシュヌはボンベイ沖合のエレファンタ島にたくさん像が残るように縦に半分女性半分男性と二分されている両性倶有神である。
シヴァ派の主神シヴァは、エレファンタ島には男根から出て来る像もあり、その配偶神カーラーやドゥルガーというのは、首にどくろのネックレスをして血に飢えている表情というすざまじい像だ。カジュラホの寺院には舞姫アプサラのおびただしい彫刻だけなく、極度にエロティックなミトゥーナ像がある。
ユダヤ教はパレスチナ周辺の女神アシタロテや偶像神バアルを悪の権化として徹底的に排斥し続けてきた。予言者はみなこの異教の神々とたたかった。それは忌むべき憎むべきものであり、それを数倍エスカレートさせているインドの神々はおよそ問題外である。
さらにカーストという徹底した人種差別、階級差別があり、そこからくる人権無視がある。『ラーマーヤナ』に出てくる貞婦の鏡サティーの後追自殺から未亡人に対する差別 はひどい。ダウリの問題もある。『マハーバラタ』には戦争を武士の道として肯定するし、幼時結婚がある。それをまっとうな宗教として認めることなどルベンにはおよそ考えられないことだったのだ。
だがスワミのあの澄み切った目、あの静けさ、穏やかさはどうだ。そして自らの宗教を自己批判できる根拠はいったい何なんだろうか。話の中にマハトマ・ガンジーのアシュラムのことが出ていたので、このボンベイの記念館に行ってみたいと思ったのだ。
記念館には彼の生涯を紹介するパネルなどと共に、ガンジーが愛用した身の回りのものが展示してあった。サンダル、このサンダルをはいてかれは合計すれば何千キロにも及ぶ非暴力抵抗の行進を行って、ついに武力を用いずインドの独立を勝ち取ったのだ。
ガンジーといえばひたすら歩く彼の姿が目に浮かぶ。近代的な乗物を嫌った彼はたいていのところには徒歩でいったという。
「歩くというのは、一つの行だね、ゴータマ・ブッダも托鉢で歩き、生涯遊行して歩き続けた。歩くことによって民衆との接点をもった。今の日本は大都市の地上にはほとんど人がいない。地下にいるか車にのっている。これでは日本はだめだね」 夏木がガラスに顔をくっつけるようにしてサンダルを見つめ慨嘆した。
「日本だけではないですよ。現代人は歩くという感覚を失いつつある。たしかに巡礼というのは歩く行でしょうね」
コーナーにはガンジーが自らまわした手紡ぎ車があった。じつは手紡ぎ車の使用は、産業革命の創始国イギリスに支配されたインドでは当時とっくに無くなっていた。彼がそれを知人に頼んでくまなく探し求め発見させたのは、その必要性を説いてから九年も経ってからである。ガンジー自身が綿を梳くことから織りまで手仕事を導入したのである。彼はただ機械に反対したのではない。機械化は人手を奪う。半ば飢え半ば仕事のないインド女性のために彼は手仕事を導入したのだ。
むろん、より早く、よりたくさんがいいわけではないことをしかと見抜いていたのであろう。等身大の技術、スモール・イズ・ビューティフルの思想の魁である。世界で初めてといっていいほどの綿を自ら紡いだ男がガンジーであり、彼はこの仕事をとても好んだという。
「これも彼が男性性の荒々しさを克服するための行だったのでしょうか」とルベンが夏木に尋ねた。
「そう、彼には生きることのすべてが行であり、宗教的実験だったのでしょう」
ルベンは感服し、そこでガンジー自伝を買って宿舎に帰ってすぐさま読んだ。
それはルベンの目から宗教的偏見のうろこを落とすのに十分だった。 ヒンドゥー教は淫祀だと思っていたのにガンジーはブラフマ・チャリアつまり性的純潔を、すでに結婚していたのに貫こうとした。カーストをガンジーは頑強に認めなかった。アウトカーストのする仕事便所の始末を自ら行ったのみでなく、アウトカーストの人が使った便所の掃除までした。
何よりも諸宗教に寛容だった。キリスト教徒のトルストイの「神の国は汝自身の内にあり」という言葉に感動して自分達の農場をトルストイ農場と名をつけた。彼のアシュラムにはヒンドゥー教徒とともにキリスト教徒ジャイナ教徒シーク教徒ムスリムが加わった。
彼が指導した国民議会派の第一の願いはヒンドゥー教とイスラム教を平和共存させることであった。両宗教とも不殺生(アヒンサー)、平等(サマバーヴァ)ということでは一致したし、非暴力抵抗になんの違和もなかった。
ルベンはあらためてユダヤ教の不寛容を恥じた。ムスリムの友人モネムがいったようにイスラム教の神もユダヤ教の神もキリスト教の神もアブラハムの神を信ずる民として融和すべきである。その理屈はわかる。
しかしながら、ルベンにとってユダヤ教の神はユダヤ人が選んだ神ではなく、神がユダヤ人を選んだそういう神なのだ。ユダヤ人は神に選らばれた民族である。それだけを誇りにこの民族は二千年にも及ぶ迫害の歴史の中を土地をもたない民族として奇跡的に生き延びて来たのだ。ユダヤ教の神はわれわれの神であった。このわれわれの神に疑問を抱いた時、ルベンの信仰は崩れ去ったのだ。キリスト教やイスラム教と同じ神を信じるということは観念上のことであって、ルベンの中に生きてきたユダヤ教と両立するものではない。
この点に関してガンジーがヒンドゥー教に対してもっているスタンツと同じものを、ルベンはユダヤ教に対してもっている。
ガンジーはこういう。
「イエス・キリストは彼の死によって、また彼の流した血潮によって世界じゅうの罪を贖ったということも、文字どおり信ずることを、わたしの理性は許さなかった。・・・わたしはイエス・キリストを殉教者、犠牲の体現者、そして神聖な教師としては受け入れた。しかし、古今を通 じて、最も完全であった人間としては受け入れられなかった。・・・このようにわたしはキリスト教を完全無欠、あるいは最も偉大な宗教であると考えることはできなかったが、そうかといってわたしは、ヒンドゥー教も完全無欠な偉大な宗教であるとは信じられない。ヒンドゥー教のもろもろの欠点はわたしには明らかすぎるほど明らかである」
ヒンドゥー教もユダヤ教と同じく、その民族に生まれたがゆえに信仰する宗教である。宣教されて、自ら決断して入信する宗教ではない。そういう民族宗教ですら、ガンジーのように他宗教に寛容になれたのに、自分はすでに自らの信仰を失ってしまったのである。それはどうしようもないことだ。ルベンがガンジーについてもうひとつ驚いたのは、彼が「政治的でない宗教はありえない」といって政治に関わったことだ。イスラエルで彼が見たのは汚い政治の世界だった。そこを離れて本当の宗教があると思ったのだが、それはどうも違うらしい。
ルベンは眩しいようにガンジーの肖像を見た。
ガンジーはムスリムにではなく、ヒンドゥー教徒に殺された。マルコムXも他の宗教者ではなく、自分の宗教であるムスリムから殺された。イエスだって自分の宗教であるユダヤ教の宗教者たちによって訴えられ殺された。それはかれらが自らの宗教を自己批判したからであろう。真実の宗教者は殺されても宗教的自己批判をつらぬ くのか。
原理主義は狭く解釈すれば経典を文字通りに信ずるものだが、広く解すれば、なんであれ自分達の教義を絶対化する傾向のことだ。ガンジーはその自伝に自分自身の宗教的実験に対して「そうして得られた結論は、とても、これでもう決まったとか、これでまちがいはないとか、主張できるものではない。・・・わたしはまだ神を発見するにいたっていないし、また、今も捜し求めている」と書いている。本当の宗教者とは自己をどこまでも相対化できる人なのだな、とルベンは思った。
四日目はルベンがユダヤ教について講演した。彼はイスラエル国民の中にある頑強な思い、すなわちパレスチナはユダヤ人が神から賜った約束の地だ、という原理主義者の偏りと危険について語った。だが批判はしっかりしたつもりでも、それはもはやスワミのような自己批判ではない。とげとげしい他者批判のひとつだった。
発題がおわってルベンは夏木に話しかけた。
「これがもう僕がユダヤ人として何かものをいう最後でしょう。夏木神父、ぼくはあこがれたイスラエルに行って、現実を見て信仰を失ってしまったのです。たしかにニュ−ヨークで両親たちがやっているボランテイア活動は素晴らしいものだと思いますし、それが彼らの信仰からきていることもたしかです。だから僕は必ずしもユダヤ教が間違いだと思っているわけではないのです。ただ僕の信仰は失われてしまったのです」
「君もか。批判できる目を持つということは素晴らしいことではあるが、批判というのは場合によっては大切な根幹まで切ってしまうことがある。特に素朴に信じていればいるほど、それが裏切られた時の反動は大きいだろう。
僕はね、カトリックに対してはじめからある種の批判を持っていた。悪いところがあるのを承知で入ったんだ。いつも冷めていたというか、人間のすることだと突き放して見ていた。だから転ぶことを免れたと思うのだけど。一途に信仰するからかえって神を否定する結果 になるなんて神様も意地悪だ。だが近年そういう話をよく聞くよ。キリスト教もユダヤ教も批判をばねに新しいものになっていくような真の活力に欠けているからではなかろうか。でもルベン君、信仰を失うことは、苦痛だろう」
「はい、僕の場合、それに将来のすべてをかけていましたから。恋人に裏切られたようなものですよ。でも僕は批判した自分の方を正当化したくないんです。神などいないのだ、という無神論者にはなりきれない。
そこで東洋の宗教にいろいろ興味をもったのですけど、今度ここに来て本当によかった。書物だけだとみんな批判したくなってくる。やっぱりユダヤ教が一番ではないかと。でも実際信仰している方に出会えて直に分かりました。スワミの話にはずいぶん感動しましたが、でも僕がヒンドゥー教にはなれない。ヒンドゥーに生まれたわけじゃないってこともありますけど、やはり多神教にはどうしても抵抗があるのです。もちろん一神教にも。ヤハウェ以外の神は考えられないし、その神は僕にはイスラム教やキリスト教の神ではないんです。だから、ぼくは神を立てない宗教に今興味があるのです」
「なるほどね。いや、よくわかるよ」
甘ったるいチャイを飲み干しながら、夏木は深くうなづいた。
「この会のあと、少しインドに残ってジャイナ教やテーラヴァーダ仏教なども知りたいのですけど、やはり禅宗にとても引かれているのです。だから最終的には日本に行くつもりです。日本語の禅の文献を今読んでいます」
「そうか、それなら慈光庵においでなさい。いろいろな人を紹介してあげよう」
「ありがとうございます。ぜひお願いします」
会議はそのあとタイにおける上座部仏教とキリスト教、マレーシアの諸宗教の問題などの発表があった後、スリランカの青年僧ミトラナンダの発題になった。彼は大多数の上座部寺院は上層階級であり保守的であって、貧しい人々の自立の運動にかかわったり、社会の変革に無関心であり、そういうことを相談する仲間もいない、と嘆いて、この会議で仲間を得たと感謝した。彼はまた正式な比丘尼の伝統を復活させたいとも語った。
夕食の時、夏木と同席したミトラナンダは、最近スリランカに日本の新宗教がやってくるが、やたらに金をばらまいて困るといった。
「たとえば、どんな宗教かな」
「シニョエンとか目の不自由な人がやっている・・・」
「ああ、オウム真理教ね」
「スリランカでは彼らのことをブッデイスト・マフィアって呼んでいるんですよ。広大な土地を買ったらしいけど、信徒になる人なんて一人もいませんよ」
「そうでしょうね。日本の大企業が外国に対してやっているのと同じことを、そういう宗教団体がやっているのだね。両方とも申し訳ないことだ。それはそうとサルボダヤ運動はうまくいっていますか」
「ええ、これは仏教とキリスト教が協力するいいケースですよ。非常に貧しい村に自分達の力で家を建て仕事をつくる手伝いをしている。何かを恵むというやり方は乞食根性をつくって害こそあれ、何の益もない。自助グループをサポートしていくのが一番ですね。このボンベイにも支部があるのだけど、仏教のちからはインドではまったく弱いからあまりはかばかしくもないようですね。でもかれらはアウト・カーストをめぐって日本の浄土真宗の人たちとも交流があるようです」
「社会問題に対して日本では浄土真宗と日蓮系の人は動くけど、禅宗はさっぱりだね。私のかかわっている脱原発運動でも二〇〇名くらいの宗教者の中で一人か二人だよ、禅宗は。問題だね」
インド式の食事であったのでナイフやスプーンもあったが、夏木は右手で食べた。一週間目になるとだいぶ上手に口に運べるようになったが、とてもミトラナンダにはかなわない。
最後はシ−ク教のジャスビル・シン・オールワリアからの発題だった。シーク教はヒンドゥー教に基づきながらイスラム教の要素を取り入れたもので、十五世紀の終わりにナーナクによって開かれパンジャブ地方に広まったものである。その聖典にはナーナクだけではなく、かれより以前のカビールの言葉も多い。
カビールはバラモンの私生児として生まれて捨てられ、ムスリムの織工に拾われて生涯織工であった人だが、ヒンドゥー教のラーマ崇拝をしながら一神教を奉じてカーストや儀礼を不必要とし。世俗の生活を肯定した。
シーク教の現在的問題はそれが政治とも、民族とも、文化とも結び付いているため、問題が錯綜しているのだといった。政治とはパンジャブ地方に十七世紀いらいイスラムの王候と軍事的抗争を繰り返したので、武装化し、十九世紀はじめには独自のシ−ク王国を建設したことがある。それで一時はイギリスに併合されたがインド独立とともに、パンジャブ地方は独立の機会をうかがっているからである。
シーク教徒は民族的にはアーリア系で肉食もするので体格がいい。やはり多民族国家インドの中でも目立つ存在である。文化とは言語のパンジャブ語でありカースト制度を認めないし、肉食をして労働を重視する。団結もつよくシーク教徒の乞食はいないといわれる。そういう背景の下で自己のアイデンティティの問題として今開祖にさかのぼる教義の研究が盛んになり、昔の宗教的共同体復活運動としてシークの原理主義があるのだとジャスビルはいった。
だがシークの教えそのものがすべての宗教は一つであるという包括的なものであるから、他宗教を否定したり攻撃したりするような原理主義にはなりえない。ただそれがヴェーダ−ンタ哲学などの過度の影響を受けヒンドゥー教の中央集権主義に呑まれるのを極度に警戒しているのである。
夏木は宗教的には融和的であり寛容なシーク教は、実際軍人になるものが多かったり、体格がよく目立つから悪しき原理主義の印象を与えるのだな、と思った。いや、実際この前インドに来たときはアウランガバードの空港で、インドの国内線がシークによってハイジャックされ、おかげでボンベイまで飛行機で一時間のところを、おんぼろバスで九時間かかったのである。
この会議は毎朝礼拝があったが、各宗教と聖典を読むパートがある。夏木はシークのカビールの詩が殊に印象に残った。
「 ああ、僕よ、汝はいずこに我をたずぬるや
見よ、我は汝のかたわらにあり
われは宮の内におらず、モスクの内にもおらず
メッカのカーバ神殿にもおらず、聖山カイラーサにもおらず
われはまた礼拝にも儀礼にもおらず
ヨーガの中にもおらず、無所有の中にもおらず。
もし汝が真に尋ね求める者ならば、汝はただちに我を見るだろう。
汝は瞬時に我に出会うだろう。
カビールはいう、
「ああ、賢者よ 神はすべての息の息だ。
ああ、造り主なる主よ、だれがおんみを礼拝するか
あらゆる信者は自分自身が造った神に礼拝を捧げる。その神は日々礼拝を受ける。
だれもその方、完全な者であり、ブラフマンであり、別つことのできない主を求めない。
かれらは十の化身を信じる。だがどんな化身も無限の霊性ではありえないから、かれは自分自身の行為の結果 を被る。
至高の一者は“これ”以外のものに違いない
ヨーガ行者(ヨギ)、修行者(サニヤシン)、禁欲行者はお互いに議論している」
カビールはいう、
「ああ、兄弟たちよ。愛の輝きを見ている者、彼は救われている。
カビールはアラーとラーマの子、彼が私の師(グル)でありピルである」
会議の後、二人はボンベイ市内にあるパーシー教の本部にいってみた。地図にはあるのだが、なかなか見つからない。パーシー教の本部といってもダフマ(沈黙の塔)といっても誰も知らない。ようやく高速道のすぐ横にこんもりした森が見つかった。その丘を自動車で上っていくと二つの建物が見えてきた。
その壁にはああー、あのアフラ・マズダの像ペルセポリスの丘にあるおびだたしいレリーフの至るところに見付けられる円の両側に長い翼のついたゾロアスター教のシンボルがついているではないか。
悠々二七〇〇年、この神は生き続けてきたのだ。
二人は息を止めるようにしてこの神像を見上げていた。
建物の中では真っ白な制服を着た青年たちが経典を唱和している。ここでは時は止まっているかのようだ。おそらく中には神聖な火が灯されているのだろう。
ルベンは感慨深げにささやいた。
「ユダヤ人は紀元前六世紀から五世紀にバビロニアに捕囚となって何万人も連行されたのです。もちろんそこでユダヤ教を守り続けましたが、非常にバビロニアの宗教、このゾロアスター教の影響を受けました。七人の天使、いろいろな悪魔、光と闇の二元論、とりわけ終末論やメシアの観念を導入しました。
ゾロアスター教ではアフラ・マズダに対してアングラマイニュという悪神がいるでしょう。終末に善悪と闘争があるとか、そこにサオシャントという救済者があらわれるとかはユダヤ教の黙示文学に大きな影響を与えました。もちろんキリスト教にもですけど。僕達ファリサイ派の流れが復活を信じるのも、このゾロアスター教からきているのですよね」
「そうだ、この教えがなかったらキリスト教ばかりでなく、イスラム教もなかっただろうね。死後の審判と復活をいうのはイスラム教のほうが徹底しているからね。でもパ−シー教では肉体が復活するとは考えないで霊魂が復活すると考えるんだね。それでカトリックやイスラム教のように土葬にしないで、鳥葬にするんだ。火を汚さないため火葬にはせず、土を汚さないため土葬にもしない。水を汚さないため水葬にもしない。そこで鳥葬ということを考えたのだね。死体は鳥についばまれ、雨風に打たれて最後はさらさらした白骨の砂になるそうだね」
夏木にはアフラ・マズダの神像の大きな翼と、人肉を喰む鳥の翼が重なって見えるような気がした。
建物から出てきた人に、その鳥葬の塔であるダフマの見学を頼んだが、異教徒には見ることは許されなかった。ボンベイのパーシー教徒は十万人ほどだが、八世紀にイスラム教の迫害から逃れてきて以来、アフラ・マズダの神を捨てず、民族性を捨てずに今日まできている。
インドでは宗教は個人の私的内面的事柄ではない。それは人生と生活の根幹であり、生まれてから死ぬ までその中で生きるものである。
パーシー教徒は製鉄の伝統からか、鉄鋼や自動車など重工業に従事する人が多く、いっぱんに富裕である。不殺生を厳格に守るジャイナ教徒は農業漁業牧畜業などはできないから、ほとんどが商人になる。宗教が生き方だということが徹底しているのである。だからインドは差異を許容する国、多様性の国なのである。
それに比べて日本はなんと差異に不寛容な国だろう。アイヌの人々にしろ韓国人にしろ素晴らしい独自の文化と宗教をもっている。それらは日本では同化され、あたかも存在しなかのごとくになっている。タイやフィリピンから来る人々も自分の文化を前面 に出せないのだ。イラクの人々がそれを出せばすぐ異質なものとして排除しようとする。
日本に原理主義があまり見当たらないのは、日本国家という原理主義が強いからかもしれないな、と夏木は思った。
日本での再会を約して二人は別れた。