五章   震

 

 やれやれ、またオウム真理教の話か。

 午後になって見知らぬ人が加わっていた。三十歳位の長身のその男は、軽快な様子ではあるものの、なんだかとても暗い。オウムの人かしら、と真己は思った。

 提唱のはじめに「衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成」と唱える時、真己は「法門無量 誓願学」のところをことさら強くいった。

 仏教のことを聞きたいのに、変な新宗教の話ばかりする夏木神父は、そんなに剛のことがかわいいの だろうか。私の手紙はちゃんと読んでくれたのかしら。神父さま私のことなんか無視されているみたい。なんだかつまらなかった。

 「さて、今日はオウム真理教の修行の話をする。これは禅宗の修行と関係ないように見えるがおおありなのだよ。私達は弱い人間だから似たような過ちをする。禅の修行とはなにかということを知るためにもしっかり聞いていただきたい」

 真己の心を見透かしたように神父は切り出した。

「まず修行に入るとき一番大事なことは、何の為にやるかということだ。前にも皆さんにお聞きしたが、この発心の方向ですべては決まるといってよい。修行の方法よりもこの心の向きのほうが大事だ。どんなに修行の方法が正しくても、師匠が間違っていなくても、自分自身の心の向きが誤っていたら、すべてはだめだ。『発心正しからざれば万行空し』といってね。

 そこでオウムだが、これは超能力を身につけることを目指す。麻原氏は超能力をえられない宗教は偽物だという。そして自分は人に確実に超能力、スーパー・シッディとも彼はいっているがね、超能力を得させるのだといっている。

 能力を得る。これは現代の若い人が一生懸命やっていることだ。塾に行くのは何のためか。試験に受かる能力を得るためだ。大学はいちばん能力を得ることが少ないかもしれないが一応いい会社に入る能力を得るためといっておこう、まあ英語学校にいったり、稽古事をしたり、能力を得る努力は大変なものだ。そういう能力に超がついて超能力、すごい能力というわけだ。

 だから若い人たちがそのような能力を得たいと思うのは当然といえば当然だ。社会のシステムがそうなっているのだから。人の前半生はさまざまな能力を得るために使われるといってもよい。何のために。よい学校に入り、よい会社に入り、よい奥さん旦那さんと一緒になり、よい生活水準をえる。そしてそれから、何なのだろう。けっきょく何なのだろう。果 てしない欲望の充足、それだけではないかな。

 麻原氏に私は聞きたいのだかね。何のために超能力をえるのかと。彼は原始仏教でいう六神通 、神足・天眼・天耳・他心・宿命・漏尽などを得るというが、どんなことかな。大乗仏教ではそのような神通 力を得るということはとうに卒業してしまっている。「神通力を得んがためにあらず」というような言い回しは経典によく出てくる。

 ところでオウム真理教の体験談は語るに落ちるね。天眼でシマシマパンツをはいていることが見えたとか、他心通 でもてるようになったとか、天耳で音楽が聞こえてきたとか、頭がよくなって成績が上がったとか、痩せたとか、病気が治ったとか、空中浮遊したとか、幽体離脱したとか。まあ、成績をよくしたいとか痩せたいとかいうのは、若い人の切実な悩みではあろうが、それは欲望なのだ。だからオウムの修行は欲望のための修行だ。

だがこの手の新宗教がずいぶんはやっている。阿含宗も幸福の科学も自己開発トレーニング(TM法)もそうだ。『超なになに法』という本もたくさん出ている。いったい、その究極は何か。それが問題だ。

 麻原氏によれば超能力の最後は解脱であり、それは絶対の自由だという。絶対の自由があったら何をするのか。それが問題だ。

 いまとくに若い人は、相対的だがかなり自由だ。だが、その自由でなにがしたいかがわからない、という。それが若い人の切実な問題であろう。

 いったい、何が本当にしたいのか。緑さんがいったように、アンビションを持つ前に、自分の能力ではこれくらいという枠が見えてしまうから、切実に求めないのかもしれん。そんな枠などどこにもないのにな。小さなことでも命懸けになるに値することがあるのに見えないのだ。

 さて、『ザ超能力・秘密の開発法』の副題に「すべてが思いのままになる!」と書いてあるが、これは魂を悪魔メフィストメレスに渡したファウストが得たものだ。メフィストフェレスが家来になってファウストがしたいことを何でも叶えるという。

 すべてを思いのままにしたい、これは欲望の究極形態といえる。

 だが、これはなにもファウストやオウムに限ったことではない。ある意味では世界中でこれをやっている。人類はメフィストフェレスではなく科学技術という家来を手にいれたからな。どこまでも生命の仕組みを知りたい。どこまでも宇宙をきわめたい。どんな恐ろしいものであっても、たとえば敵を皆殺しにして物質は傷つけないそんな兵器がほしい。

 石油からはなんでも作り出してみたい。不妊でも子供が欲しい。顔や容姿を整形でなおしたい。体の部品を他人の肝と取り換えてでも生き続けたい。もっと早く、もっとたくさん。もっともっと。世の中はもっともっとと駆け足で動いている。

 そういうことからいうと、オウムの本で語られている体験談はささやかで、好きな上司と寄りが戻った、お金に不自由しなくなる、小説家になれた、試験に受かったというもので、ささやかというよりいささかお粗末だね。

 だが、いったい究極的に何がしたいのか。これはきっと麻原氏自身の問題でもあったのだろう。このことは後でいおう。

 仏道修行はそういう欲望追求のひとつではない。

 欲望追求は現世利益といって多くの新宗教がこれを筆頭に掲げる。これこれをすればしかじかの利益がありますよ、というわけだ。伝統宗教はそうではないと言いたいのだが、これもかんたんには言えん。伝統宗教は世の中で確かな信用、地位 をもっている。そして巨大な組織によって多くの事業を展開している。事業というのは病院や学校や施設などだ。社会的に認知されているからよく利用される。たとえば、キリスト教を建学の精神としている学校は金持ちがいく有名校ばかりだ。もちろんぎりぎりの経営で良心的にやっているところもあるだろう。それでもそこに就職するには信徒であることが有利だ。だから知らず知らずの現世利益だ。ドイツなどでは牧師は国家から俸給が出る。

 仏教でお寺では食えませんという人がいる。当たり前だ。お寺で家族が生活しようというのが間違っている。お寺は出家つまり家庭を放棄した者の共有の住居のはずだ。日本とチベットだけだよ。家庭をもった僧侶は。

 キリスト教も同じように世俗的なものは捨てるという方向だ。弟子が「私達はすべてを捨ててあなたにしたがってきました」というようにね。ただ、「ついては、何がいただけますか」といっているね。人間根性だな。本当の宗教は得をしてはいかん。

 これは悠道さんの師匠が実に的確に言っているね。

『損はサトリ、得はマヨイ』

 実にその通りなのだ。損はサトリ、得はマヨイ、これは慈光庵のマントラにしたらいい。何か心にひっかかったらこれを唱えるといい。損はサトリ、得はマヨイこれでいまくいくはずだ。

 一生損する覚悟が出家にはなくてはいかんな。損してなにするか、一切の人々の救いを願うことだ。その救いは物欲しさを満たすものではない。

 その方向を言い表したものの一つが先程唱えた四弘誓願だ。ここには究極がない。果 てがない道をこの願によって歩くのだ。

 さて、オウム真理教にはさまざまな行がある。ヨーガの体位をするアーサナ、その中には体位 の逆転であるビバリータ・カラニというのもある。呼吸法にはスクハ・プールヴァカなどというのもある。アーサナと呼吸法をひとつにしたようなムドラー、それから唱えごとをするマントラ、瞑想、ツァンダリーという気功法などである。そのほかダウテイといって幅七センチ長さ三メートル半の布を飲んで腹を回転させそれを吐き出すとか、バストリカー調気法といって呼吸を止めとおく(クンバカ)とか変わったものがある。それらの行法について写 真入りでじつに詳しいマニュアルがある。

 つまり、オウムでは自分の身体を自分の操作の対象にしておるな。なにか物のように。ヨーガのアーサナもそうだが、ダウテイとか、ほかに鼻から口に布を通 してしごくとか変わっているね。

 もっとも宗教に浄めはつきものだ神道では心身の穢れを払うお祓があり、上賀茂神社などでやっているみそぎといって水にはいって清めるものもある。ヒンドゥー教がガンジス河に入ってやる沐浴もそれだ。激しいものでは山伏や法華行者が滝に打たれたり水ごりしたりする。オウムにも水行がある。身体の外側を浄めるという儀礼によって心の内側も浄めるのだ。これらに対して身体の内側に入ってくるものを制限して内側をきよめようというものもある。戒律をもつ宗教に多いが、ユダヤ教には食物に関する実に細かい規定がある。ムハンマド(マホメット)はそれを批判しているな。ヒンドゥー教にも動物、ことに牛は食べないという伝統がある。輪廻転生を信じている国だからな。あそこではジャイナ教の方がもっと厳しい。徹底した不殺生を掲げているから、それこそ虫一匹も殺さないからみなヴェジタリアンだ。オウム食というのがあるそうだが、これは菜食であり、そんなにややこしくないようだ。

 いろいろ宗教は浄めの手段をもっているが、オウムのように身体の内部を洗って清めるという宗教はあまり聞かんな。まあ、断食は実際には身体の内部を浄めることになる。だが一日ではなかなか。ユダヤ教やイスラム教では断食が戒律の中にあるが、イスラムの一月にわたるラマダーン断食は、水も薬もいけないという厳しいものだが日中だけだ。オウムにも断食があるが、身体の内部を浄めることはもっともっととエスカレートしている。肛門から完腸して水で大腸を洗うとか、鼻から口に塩水をいれるとか、塩水を多量 に飲んで消化器を洗うとか。これらはもうほとんど医療行為だ。皮膚も一日一回は風呂に入るよういう。洗えないところは脳みそ位 だと思うがどうやらこれも洗っているようだな。ブレイン・ウオッシング、洗脳というやつだ。こうやって浄くなる、というのを目に見える形でするんだな。

 どうも近ごろの若い人はやたらに清潔にする。朝シャンや一日四回の歯磨き、一回着た洋服は洗濯する。なんでも濡れティシュで拭いてから使う。さらには自分のウンコを匂わなくなせる薬を飲んでいるんだってね、若い女の子は。どうなっているんだろう。自分を何か人間ではないものにしたいようだ。天使にでもなりたいのだろうか。心の内側に欲望だけをいっぱいに詰めて。

 オウム真理教もそんな現代人の傾向を極端化したものに見える。もっとも断食をすれば病気も治るが、心身がスッキリし過ぎてハイになりやすくなる。私も腎臓を悪くして二週間も断食したことがあるが、苦しいというより、すがすがしい気がしたな。きっと体を洗うことですがすがしい気持ちになるんだろうし、病気が治ることもあるだろうね。オウム真理教の出版物には病気が治ったという記事が多い」

 「神父さん、オウムは清潔好きだといわれましたが、それはどうかな。道場って汚いですよ。中も全体も。殺伐とし過ぎているし、回りに花とか木とかの自然がないんです。

 僕、お寺は何しているかよく知らないけど庭とかがすごくきれいでしょ。あれはいいな、と思います。ここは自然ままだけど、この自然がよくて僕はきているのかもしれない。それと佐弥可さんの食事がおいしい。オウム食とほとんど同じような材料を使っているのだけど、むこうのはまずいんですよ。まずいっていったら、食にたいする執着を離れろって。でもここはみそ汁ひとつでも全然違う。うまいんだよな」

 剛がこう口を挟んだ。真己も緑も同感だとおもった。

 神父は佐弥可の方に満足そうにほほ笑んでから講義を続けた。

 「さて、オウム真理教では修行のステップを上がるのに、密教の潅頂のようにイニシエーション(伝授)がある。四段階あって初めのステップの第一は水、第二はヴァジラ、第三は神秘刀、第四はヴァジラベル、第五は独自の経典、第六はグルが異性と交接しているイメージ。第二のステップは血と精液(またはその象徴)とシャクティ・パット、第三のステップはクンダリニー・ヨ−ガを行うためのダキニ像、第四が微細体とクリアーライトで、その後カルマを落とし切ったらグヤサマジャでこれがタントラの仏陀だという。

 これを見ると性瑜伽の影響が非常に強いことがわかる。だが、なんとも不思議な感じがするなあ。若い人、こんなもの、欲しいのかねえ。

 驚くことは、麻原氏はこれらの最短マスター法を教えるというんだ。最短というのは、現代人の根本動向だね。母親は子供に早くしなさい、といい続ける。脅迫だよこれは。そしてすべてが「より早く」だ。より早いことはより良いことになる。オウム真理教ではこの現代文明の信仰がそのまま奉じられているね。

 早いといっても、二、三年で仏陀にしようというのだから恐れいるね。ヨーガ・タントラコースでは絶対自由のマハー・ニルヴァーナに、「このプログラムに習熟すれば二年足らずで成就することが可能です」と書いてある。禅ではまず十年坐れという。二、三〇年したら何か分かるだろうという。ゴータマ・ブッダでも六年したものを、何ということだろう。

 もちろん彼らのいうタントラの仏陀はゴータマ・ブッダや禅の覚りとは何も関係ないが、それにしても超能力を早く得させる、という発想が問題だ。

 さらにオウムの修行は精神異常をきたすようにできている。だから麻原氏はクンダリニー覚醒は分裂病になる危険があるから、師につかないで勝手にやってはいけないと注意している。肉体的に苛酷な条件のもとで独房に入れ真っ暗な中にいれば自分の内面 にだけ意識が集中して分裂症状が出るのは当たり前といえば当たり前だ。幻覚、幻聴、幻視などだ。体験談で光りを見たとか鈴の音を聞いたのいうのは皆これだ。

 自己分裂からの救出として彼は自分への絶対の信頼を要請している。麻原氏はいわば催眠術をかけてその後で解いてやっているのだ。さらに彼は危ない臨死体験にまで追い込んで、それを大解脱だと称している。危険なことを十分承知で医師がすぐに来れる態勢で、人を常時つけてこの危ない修行をやらせている。

 オウムの出版物『スピリット・ジャンプ2』では、睡眠時間なし。「結局、成就って死の体験をすることだろうな」といわせて一月間断食させている。暗い部屋に入り、そのうえでヨーガや瞑想を課すのだから、何も異常が起きないほうがおかしい。『外枠が突然破裂して内側の意識だけが上昇した』と描写 されるようなハイな状態になる。そのうえアンダーグラウンド・サマディという地下の部屋に入る修行を四日間やっている。これは死後のバルドーの体験だという。その異常体験を解脱だといわれれば、そうか、と思うのもやむをえないな。

 そういう意味ではオウムの修行者は本当に命懸けの修行をしてはいるんだが。そういう幻覚・幻視を素晴らしいと思ってしまうのだね。いや素晴らしくない場合は魔境ということになる。魔境や精神分裂の危険に麻原氏自身がしばしば言及している。だが、わしからいえば、全部魔境だ。しかも原始経典に書いてある天界の様子を見てきたように書いている。これは、そこまで妄想したというだけのことだ。

 だが、信者の人が読めばそんな世界があって、自分もそこに行けるのだと思い込むだろうね。異常体験の意味付けを麻原氏がして、それが解脱だとかクンダリニー覚醒の成就だといえばそう思ってしまうのも一面 無理はない。

 浄土教の臨終念仏だって、みんなで仏様が迎えに来るという妄想をすれば集団妄想で実際そんな像が見えてくることもあったのだろう。三昧発得というが、精神に少々異常をきたしただけのことである。無理な修行などしなければそんな妄想は起きないけれども、無理をすればたいていは異常になれる。異常であって覚りではないよ。宗教はいずれの宗教も集団妄想という非常に危険な側面 をもっている。だが、たとえば浄土真宗の開祖親鸞は一度も異常体験がない。またそれを求めることも否定した。阿弥陀の来迎など少しも期待しなかった。どこまでも醒めていた。

 冷静に醒める宗教が仏教なのだ。ところが人間は酔うことが好きなんだ。シンナーや覚醒剤、LSDでもできるような脳の変化による体験だが、麻薬がはびこるように一度その味を覚えると病み付きになる。

 麻原氏はこういう。「この食欲にしろ性欲にしろ瞋理にしろ、私達の大脳をいろんな形で振動させるんだ。興奮させて、喜ばせてくれるんだ。だから快感状態にひたることができる。何もしないのに、いつも気持ち良い状態でいられる。−これが解脱だ」。

 それは麻原氏自身がそうなのだろう。それだから危ない宗教なのだ。まったく何も効果 がなかったらいいが、シャクティーパットでもクンダリニー覚醒でも効果があるから困るんだ。あの宗教学者がクンダリニーの覚醒なんか起こして頭にこぶができたの何のといわなければ、こんなにも若者がひきつけられはしなかっただろうにね。

 ステップを細かく分けるというのは、柔道や茶道、花道みたいだね。これらの道というのはお師匠さんがいて上がる毎に上納金を払わせる仕組みのようだが、なに金こそとらないが、禅でも臨済禅では非常に多くのステップが組織立てられている。二、三年でマスターなんてことはいわないが、ステップを上がることが励みになっている。私は公案を幾つ通 りましたとかね。

 だが、よく聞いてほしいんだ。自分に究極目的があればそこにたどり着くのに励みがあった方がいい。だがそれは人間根性だ。人間根性を止めにすることが仏道なんだ。そのことに気付くのにわしは十年もかかったよ。仏道はけっしてステップとして上がっていくものはないのだ。悠道さんが言ったように、人間のためには何にもならんのだ。目的に向かってがんばるならどこまでも人間の努力で自力だ。でも仏道はどの道を通 っても他力なんだ。禅宗は自力だって誤解されているが。

 オウムにはこのようにいろんな修行があるわけだが、麻原氏自身が「わたしはこれだと思っている」というのが、シャクティー・パットだ。これは麻原氏が信者の額に指を当てて気を送るものだ。場合によっては気を抜くこともあろう。これがそうとう効果 があるようだ。例のクンダリニーの覚醒にも補助にこれを使うようで、セミナ−をする度に多くの人にやっているらしい。みな年に七、八回受けているね。はじめての人でもセミナ−に行けばやってもらえるようだ。これは実感が伴うから、強烈な印象を与える。

 だが、こんなに大勢に気を入れていけば、麻原氏自身が参ってしまうに違いない。彼自身一九八七年に出された『イニシエーション』の中で来年の十二月いっぱいでシャクティーパットは終わるだろう、といっている。彼は自己矛盾に陥ったのではないかね。だいたい苦行の修行はそんなに短期間で何人も指導できるものではないし、気功もそんなに大勢に特殊な気を入れれば参ってしまう。

 それで前に言っていたように、結局、麻原氏は何をしようとしているのだろう。修行者たちは何をしたいのだろう。修行の目的についてこう語る。自分本来の姿を見失って錯覚に陥ってしまうプロセスが行き着くところまで行き着くと苦を感じるようになる。オレンジを毎日量 をふやして食べていけば必ず飽きるようになる。このように心の動きを客観的に見て理解することが悟りであり、そこから修行が始まる。今何をなさねばならないか。人生とはなにかと考えれば、お金にも美人にも車にも興味がなくなってくる。

 『だって、そんなことよりも、ずーと大切なことに気付くんだから。一日一日をいかに充実して生きるか。ね、いかに、真我が本当に望んでいる絶対自由、絶対幸福、そして歓喜を求めて生きるか、ね。この点に少しずつ焦点がしぼられてくるんだよ。そして修行に入り、解脱へと向かうんだ。・・・悟りを開いた人は、もはや修行に失敗することはない。修行以外のことには見向きもしなくなる。そして必ず解脱を果 すことができるんだ』

 ここを読んだ時、これは半ば正論だなと思った。止まることを知らない物質的欲望、肉体的欲望そんなものが渦巻き、お金さえあればたいていの望みがかなえられる現代に、若い人々は飽きて絶望しているのではないかな。そういうものの空しさを都会の若者は感じているのだろう。緑さんがいった空しさね。その空しさに気付くという点で彼のいうことは間違ってはいまい。

 問題なのは仏教の指導者が少しもこのように説かないことだ。逆に家庭が大切だとか、家族の縦のつながりが大切だとか見当はずれのことばかり説く。現世を否定できない仏教は死んでいるよ。その点この現世が空しいということを声を大きくしていったオウム真理教は評価すべきだと思う。ただ、解脱を人間が努力して手に入れるものだとするそれが間違いだ。これは麻原氏だけではない。禅やヨ−ガをする人はだれでもたいていそう思うものだ。避けがたい間違いといってもいい。

 そこを、師匠によって、経典によって、経験によってそれが誤りだと気付く。だが、気付かなければどういうことになるか。ひたすら自分が解脱を得るという自己目的のために生きることになる。麻原氏以外最終解脱を得た人はいないわけだから、そこまで頑張るという生きざまになる。でも人間というのは不思議な生き物で、自分の為だけでは生きがいを感じないようにできているんだね。

 その人間の当たり前な思いを麻原氏は自分一人の為に集約させてしまった。如実知見の後に何をするかといえば“離貪”であり、「離貪の行としては、特殊な瞑想が有効である。その瞑想は、心、体、物質などのすべてをグルに差し出すというものである」と『生死を超える』でいっている。麻原氏にとって修行者のすべてを得ることになる。だがそれを得てけっきょく麻原氏は何をしたいのだろう。

 無料の本やパンフレットをおびただしく書店に入れ、各戸にビラを入れているから、信徒を増やしたいと思っているに違いないのだが、そういう布教と個人的修行というのは矛盾する。だから布教を合理化する理論が必要だ。

 麻原氏は一九八七年に突然『イニシエーション』の中で一九九九年から二〇〇三年の間に確実に核戦争が起こるといって、それを回避するために九三年までに世界に二つ以上の支部を作ってボーディサットヴァ(菩薩)が集まらなければいけないといいはじめる。菩薩は大乗の修行者のことだが、八六年の段階ではまだ大乗に関しては、前からいっている六波羅密のほかは何も言及していない。核戦争の予言と一緒に菩薩が登場し、前にいった「マハーヤーナ・スートラ」が八八年に出た。ボーディサットヴァとは麻原氏によれば四無量 心を修行して「すべての魂をマハーヤーナに入れるぞ」と大発願をすることだ。

 しかし四無量心は阿含経典の説であるのに対して、大乗経典の菩薩の誓願は「すべての人がなになにしない限り私は涅槃には入りません」という自己否定に貫かれている。「すべての魂をマハーヤーナに入れるぞ」では、頑張りのスローガンでしかない。スポーツとか営業、布教のスローガンにはなるが、競争心を煽ることになるね。

 仏教は覚めるものであって、煽るもの、のぼせるものではない。

 実際この頃からオウム真理教は非常に変化する。実はオウム神仙の会がオウム真理教と改称されたのもこの八七年であり、海外に土地を購入してスリランカ、オーストラリア、ロシアなどへの布教が計画されている。そしてもっとシステム化された大きな組織が必要だといっているね。この頃までは成就者が麻原氏ひとりだったが、ケイマさんに続いて何人か成就者を出している。教祖だけの宗教からなにか変わった。

 核戦争の予言がどうして出てきたのか。これが後にハルマゲドンやキリスト宣言につながるわけだが、これはたんにキリスト教系の新宗教にならった信者獲得の威しとは見えないところがある。わしは麻原氏は極端な修行で世界没落体験をしたのじゃないかと思う。そして非常にハイになって、自分に予言能力ができたようにも思ったんじゃないかな。予言をして気功をしてヨ−ガをしてなかなか大変だな。

 だが、気を送ることくらい私にもできるよ。上田君、きてごらん」

 夏木神父はそういって剛を前にこさせて額に手を当てた。

 「わぁ、すごい。白い光がパッパッと見える」

 真己には一瞬、神父の顔がタコツギ(手塚治虫のばんそうこうを貼ったタコの顔)になった。

「うっそう」と思わずいってしまった。

神父がすっと寄ってきて、そっと真己の背中に触れた。ジワーと暖かさが広がり、背骨がゾクッとした。気とは何だろうと思うよりも、いったい夏木神父とは何者だろうと真己は思った。

 神父は続けた。 「そんなことはたいして意味はないんだよ。だれにだって手から気は出ている。気は苦しいときに背中をなでなり、手当をするときに有効なだけだ。それに、そういうことは仏教とは無関係なのだ。

 いや、私がオウム真理教の修行をしたわけじゃないよ。わしは禅の修行をしたのだが、ある師家についたとき、もし私につくなら前の師家とちゃんと縁を切ってこいといわれたよ。大学の先生だったがまるでヤクザみたいだと思ったよ。それだけ、自分を師家に預けろということなんだな。師家次第ということが禅にもあるんだよ。

 そして公案をくれる。何を答えてもだめ。何も答えなくてもだめ。およそ何もだめ。しかも一日十時間以上も坐禅することがあるのだ。臘八接心なんか夜も坐禅してほとんど眠らず、あの寒い十二月に僧堂に水を撒いたりするんだ。精神的にも肉体的にも追い詰められていく。あんまり追い詰められると幻覚が起きるのだよ。まれに発狂する人もいる。わしも意識を失うほどがんばったことがある。だからケイマさんが最終解脱を目指してなんども意識を失うのが分かるんだ。

 だがね、今になってみれば、あの修行は間違っていた。あんなことが禅ではないんだ。そのことを悠道さんの師匠に出会ってやっとわからせてもらえたんだ。

 どうして禅宗に「平常心是道」などという言葉があるか。それは平常ではない異常な体験を求める者が多いからだ。それからわしは道元の『正法眼蔵』をちゃんと読んで覚りが人間の体験ではないことがわかった。臨済宗では勉強をしないで、いきなり公案をくれて坐禅しろというから、間違いやすい。特殊体験を求めることになる。

 人間の脳なんて案外かんたんにタガが外れるものだよ。頭の異常はすぐ目にきて光が見えたということになる。それからいやに意識が冴えて感覚が鋭くなる。妄想というが、自分中心に世界が動いているかのようなあるいは世界に起こっていることを自分が全部分かってしまうような錯覚に陥る。これはなにも禅だけではない。天台宗の籠山行や回峰行も山伏の修行からきたものだが、三時間しか睡眠をとらないとか、一夜に三〇キロもの山道を歩くとか、断食断水するとか極端な行をする。こんなものが仏教であるはずはない。苦行を否定したのがゴータマ・ブッダなのだ。日蓮宗でも冬に荒行といって読経や水ごりを百日も続ける。苦行はオウムだけではないが、オウムではシャクティパットをやって心身の異常を早く導く」

  「神父さんのいわれる通りですよ。いまではシャクティ・パットの代わりにLSDを注射してますよ。ずらっと寝かせて」

 後ろの男が低い声でいった。

  「えっ、そりゃいかん。そりゃいかんな。とんでもないところまで行ってしまっている」

 神父の顔が暗く陰った。

 「強烈なハイの体験をした者は、いわば脳のタガが外れるんだ。どんなことでもできる。どんなことでもやっていい、考える。通 常の人がもっている自制の意識が一切なくなるのだ。どんなことでも平気でできる。超人になったように思うのだよ。人間の想念とはおそろしいものだ」

 真己はマスコミで話題になったオウム真理教の衆院選出馬や坂本弁護士一家失踪事件や波野村騒動のことを思い出した。衆院選出馬こっけいなだけだったが、波野村の時は奄美大島の無我利道場追い出し事件に似て偏狭なムラ意識ではないかと、むしろオウムに同情したくらいだ。

 でも坂本弁護士一家失踪事件は、恐ろしいというよりは不気味な印象であった。人を殺すこともあり得るという意味かしら。

 真己は首を傾げ、麻原という人も不気味だけど、夏木神父もけっこう不気味な人だと思った。

 「やっぱり、オウムはやばいかな」

剛が少し青ざめて真顔でいった。

 

 1月17日未明、真己は地震で目を覚ました。軽いものだったので震源地はどこかな、とぼんやり思っただけで、また寝てしまった。

 午後に佐弥可から葉書がきた。

「祝月     鳥も鳴き止み  風も無し

      静けさ破る   弓弦(ゆんずる)のみぞ  

  真己さん、元気かな。

 夏木神父さま、会議でインドに行った。二週間したら帰る。だから今度の坐禅会はおやすみ。よかったらおいで。

                  ではまた」

 今朝の地震がすざまじい阪神大地震であることを知ったのは、夕方テレビをつけた時だった。