四章  玄冬

 

 オーバーの襟をかきたてて真己は列車から降りた。

 比良おろしが冷たい。その風の中をお百姓さんがせっせ働いている。段々畑の大部分は刈田のままで稲を刈ったあと出てきた苗が寒そうに揺れていた。向こうの田には白鷺が舞い降りてきた。

 やがて道を曲がると両側は樹木が重なり合ってトンネルになっている。真己が大好きな小道だ。木の下はビロードのような苔と落ち葉で覆われていた。やがてその道は小さな渓流に平行して道と渓流の間はウラジロやシダが潅木の下を覆っていた。

 三十分も上り坂を歩くうちに体が熱くなってきた。熱い体に冷たい大気が気持ち良く入ってくる。見上げると山の頂き付近は初冠雪だろうか、白くなっている。どんよりとした空に松と杉以外の樹木はすっかり葉を落として黒々と立っていた。

 懐かしい慈光庵にまた帰ってこれた、そう思いながら母屋の戸を開けた。いろりの向こうの床には黄色い臘梅が生けてあり、匐郁と高い薫を放っている。

 すでに皆は到着して着替え始めていた。真己もさっそく着替えて本堂に入った。今日は石油ストーブが入れてあるのに空気がピリピリする。

 ゆっくり合掌してから結跏趺坐した。あごを引いて肩の力を落とすと、アパートや学校での煩わしさがみんな落ちていくような気がした。漂う線香の薫りのほかに感覚を刺激するものは何もない。静けさの中に蹲の水の音だけがまるで心の中を流れ落ちているように響く。それだけ。なんという安らかさだろう。遥か遠くで列車が通 っていく音がした。

 二しゅ目はちょっとウトッとしてしまった。ゆうべ遅かったのに今朝早く発ってきたからだ。いささか今日はしんどい。

 食後の作務は、真己にはカードつくりが充てられた。秋の草々を佐弥可が押し花にしておいたのを、和紙のカードに張っていく作業だ。緑は今日は来ていない。

 若い剛は外で農作業をしている。えんどうまめの苗を寒さから守るため藁を切って敷いていくのである。納屋の近くでは悠道が青竹を切っていた。それで器をつくり、新年に使うという。佐弥可はお勝手で何かしていた。こんな庵にも年の瀬の空気が感じられた。

 提唱が始まった。

「今日は、仏教とオウム真理教の教理の違いを話したいと思う。まずオウムでは宇宙論と修行の目的をこういっている。

『宇宙の始めには私たちにとっての本当の自分である[真我]とラジャス、タマス、サットヴァという[三つのグナ]と呼ばれるエネルギーがあった。それらが大爆発してコーザル、アストラル、現象界が生じ、いまの宇宙ができた。そのすべてのデータが宇宙神素に蓄えられていて、その端末である神素を我々はもっている。そしてコーザル、アストラル、現象界と様々な経験を重ねた真我は三つのグナに干渉される以前の本当の自由が満たされた世界に帰ろうとする。これが私達が修行しようという信をもつ理由であり、この逆のプロセスを通 って煩悩を取り除き真我を覚醒させることが最終解脱である。』

 これを麻原氏はヨーガと仏教の教えだといっているが、それは違う。漠然とヨーガというのではなく、バラモン教の正統六派のひとつであるサーンキヤ学派の教えであり、それは仏教とまっこうから対立する。サーンキヤでは神我(プルシャ=アートマン)と、三つのグナであるラジャス、タマス、サットヴァが始原にあって、三グナの平衡が破れて思惟機能が起こりそれが展開して自我意識を生じ、それから感覚とその対象であるこの意識世界が起こると説く。内容的にはオウムの説とまったく同じだ。もちろんオウムが借用したのだがね。そして三グナから脱却して真我に覚醒することが解脱だということもサーンキヤではいう。これはサーンキヤに限らず、すべてのバラモン教がアートマン(我)に目覚める、アートマンとブラフマンが合一することを目指す。パタンジャリの『ヨ−ガ・スートラ』もそのための行法だが、それも麻原氏はラージャ・ヨーガとしてとりいれている。

 仏教というのは、まずそのアートマンを否定した。無我というのが仏教の基本だ。そうでなくては、わざわざバラモン教から独立した宗教になる必要はないわけだ。仏教が無我だということは、ブラフマンとの合一という神秘体験も必要ないし、自分がなにかから解脱して純粋な者になるという必要もない。変成意識や自己改造と仏教は根本的に違うのだ。変成意識の主体、改造するべき自己がないということに如実に目覚めるのが仏教だ。

 こういう言い方もまずいな。それではまだ目覚める主体があることになる。目覚める主体がないということは、自分に知覚されるようなどんな目覚めもないということだ。自分にはなんの手ごたえもない覚醒、それはもっとも深い知恵である。それを言葉として紡ぎ出せば仏教の覚りのいろいろな表現、経典にもなる。だから仏教はバラモン教など他の宗教に対して、まずは無我ということを論理的にも明確にしていったのだ。それがアビダルマ哲学や中観や唯識などの論書として展開していった。

 日本の道元もインドの異教を批判して『即心是仏』でこういっている。  

 『外道のたぐひとなるといふは、西天竺国に外道あり、先尼となづく。かれが見処のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬ べし。いはゆる、苦楽をわきまへ、冷暖を自知し、痛痒を了知す。万物にさへられず、諸境にかかはれず。物は去来し、境は生滅すれども、霊知はつねにありて不変なり。此霊知、ひろく周遍せり、凡聖含霊の隔異なし。そのなかに、しばらく妄法の空華ありといへども、一念相応の知慧あらはれぬ れば、物も亡じ、境も滅しぬれば霊知本性ひとり了了として鎮常なり。たとひ身相はやぶれぬ れども、霊知はやぶれずしていづるなり。たとへば人舎の失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。・・・これを霊知といふ。また真我と称し、覚元といひ、本性と称し、本体と称す』

 肝要なことは真我(アートマン)が無い、ということだ。もちろんアートマン以外の絶対的なものである神もない。神々のいるヒンドゥー教は、バラモン教の形而上学的神であるブラフマンや『ヴェーダ』の神々に土着の神々であるシヴァ神、ヴィシュヌ神、クリシュナなどの神話を取り込んで形成されていったのだよ。

 もっとも仏教も神々を取り込んでいったが、それはゴータマ・ブッダや修行者(比丘)の守護者としてであり、ブッダや比丘を神々が礼拝するのであり、けっして神々を祭ったりはしない。ゴータマ・ブッダ自身はただ天界という言葉を使っただけだが、弟子たちの時代になって天界を色々わけてそこにバラモン教の神々を配置した。それが欲界・色界・無色界という三界だ。オウム真理教ではコーザル、アストラル、現象界にこれらを当て嵌めたりするけれどもね。コーザル、アストラルというのは麻原氏独特の用語らしい。コーザル、アストラル、現象界を意、口、身と説明したり、想念、イメージ、意識といったりもする。そして核戦争になってもアストラル体になって肉体から抜け出せばいい、などとも言う。

 さて、それではオウム真理教はヴェーダンタかというとそうではない。ヴェ−ダンタでは覚醒の手段は観照であり知恵だ。ギリシャ哲学とよく似ている。ところがオウムの場合、ヒンドゥー教でも八世紀の性瑜伽、タントラの修行になるんだ。

 足を組むヨーガ行法はよほど古くモヘンジョダロ文明の頃からあったらしいが、性力(シャクテイ)を利用する方法はタントリズムからだ。タントリズムではシヴァ神の妃ドゥルガーあるいはカーリーを崇拝して、クンダリニー覚醒をする。クンダリニーというのはとぐろを巻く女神ということで七つのチャクラの最下位 つまり臍の下にリンゴの形のブラフマンを蛇のように三まわり半取り巻いているものだ。それをシッダ・アーサナという坐法で覚醒させてスシュムナー管を上昇させ、次々にチャクラを開かせていくのがクンダリニー・ヨーガで、前にもいったようにオウムの基本的行はこれなのだ。

 タントリズムはまあ、ヒンドゥー教の異端だな。カーストを認めないし、寡婦焚死(サティー)も認めなかった。だから仏教と親和性をもって影響を与え、タントラ仏教を成立させたのだ。だからチベットなどの密教以外には南伝の上座部仏教にも北伝の大乗仏教にもクンダリニー・ヨーガは存在しない。

 ところが、伝統的仏教からは異端視されていたチベットのタントラを自ら実習して紹介した宗教学者がいる。彼がいなかったらこんなにオウム真理教に行く若者はいないと思うが。しかも彼がやったのはニンマ派のクンダリーニ・ヨーガだ。チベット仏教ではシヴァと妃ドゥルガーの代わりに守護神と妃ダーキニ−を使うから『虹の階梯』ではこういう叙述になるのだ。

 『妖しいほどに美しい女性の神ダーキニ−は、その名のとおり法界の空間を自由自在に飛翔する。ダーキニーの心は空性の大楽にみたされ、自我の幻影がうちくだかれるのを見ては、心の底から喜んで哄笑する。密教修行者はこのダーキニーを伴侶として、すみやかな覚醒にたとりつこうとする。ラマ・守護神・ダーキニーはこのように密教修行の三つの柱であり、密教の帰依はこの三つの柱にたいしてささげられる。  また密教の帰依は、瞑想の体験がもたらす金剛(ダイヤモンド)の身体に向けてもおこなわれる。瞑想をつうじて身体の中央に《管》と呼ばれる三本の光の柱がありありとあらわれ、この《管》の中を知恵の《風》がとおりぬ け、さらにそこに《心滴》と呼ばれる光のかたまりが輝きはじめる時、私たちの身体に純粋な金剛身があらわれてくる。』

 ラマというのは活仏のことであり、守護神もダーキニーも他の仏教にはないものだ。三回り半のとぐろであるクンダリニーは、ここでは三本の光の柱とよばれ、その覚醒は風のとおりぬ けといわれている。 ヒンズー教でも異端でしかないものが、チベット仏教としてまかり通 ってしまった。麻原氏はこれを読んでいるから、この叙述に合うように語る。

 チベットのタントラは仏教であることが建前だから守護神というが、麻原氏はあっさりとシヴァ神としてしまった。オウムはシヴァ神に帰依する宗教だ。まっすぐヒンドゥー教に帰っている。だからスシュムナー管という言葉をつかう。でも『虹の階梯』に三本とあるから麻原氏は他にイダー管、ピンガラ管というのを加える。そういうときは彼はこれはどの経典にも書いてないから筆記しておきなさい、という。どうもすなおなところがある人だね。この人は。心滴は甘露とする。そうすれば、『虹の階梯』を読んだ人が実践にくる。

 だがな、実際、人間の神経系は精妙・微妙にできていて、ちょっと無理を加えればいろんな幻覚を起こしもする。だが神経系統の身体組織を操作する技術など不要なものだ。もちろん中国の気巧もそういう技術のひとつだが、そんな変成意識など精神の異常状態というだけで、人間にあえて必要ないのだ。ところが外の自然を征服しつくした人間は今度は内なる自然を操作しようと思っている。メキシコの呪術師のことを文化人類学者のカスタネダが本にして、十年ほど前によく読まれたが、あれもそういう技術の一種だ。

 意識を操作する技術に人間が関心を持ちはじめたことは、とても危険だな。南北アメリカで麻薬がはやっていることは知っているだろう。麻薬は変成意識をつくりだす薬だ。変成意識を仏教の覚りと間違えるなんてとんでもないことだ。変成意識は覚醒だ。覚醒剤の覚醒なのだ。精神の異常な興奮だ。だが、麻薬がはやるように、人間は異常な興奮が好きなのだ。本当に困ったものだ。麻薬は警察で取り締まれるが、自分自身への操作は取り締まれんから。

 仏教の覚りはちょうどその正反対。精神を静めるのだ。静めるのであって鈍らせるのではない。そしてただ肉体的に静めるだけではなく、そこに真実の知恵を輝かせる。クンダリニーとはまったく異質なものだ。

 これでもまだオウム真理教は仏教だと思うかね。麻原氏はたしかに上手に仏教用語をこの教えと行法に当て嵌める。

 『“苦”を感じると、藁をもつかむ気持ちから解脱したいという強い思いが生じる。これを“信仰”という。信仰があると解脱への“修行”をするようになる。修行すると“クンダリニーが覚醒する”。クンダリニーが覚醒すると“悦”が生じる。それがサハスラーラ・チャクラに到達すると“喜”が生じる。喜がサハスラーラ・チャクラに満ちると“軽安”が生じる。軽安が体を満たすと、“楽”が生じる。精神的にも肉体的にも楽で満たされると、強い精神集中を得ることができる。それによって“三昧”に至る。三昧によってすべてのことを完全に知ることができる。これを“如実知見”という』

 ここで苦とか喜、悦、軽安、三昧、如実知見などというのはみな仏教用語だ。そればかりでなく阿含経典をもち出して十二縁起、四念処など重要な仏教用語をみな使っている。だが中国や日本の仏教である大乗仏教には何ひとつ言及しなかった。これはかれが以前阿含宗にいたこととも関係するのだろう。だが高校生位 になれば小乗仏教を批判超克して大乗仏教ができたことはたいてい知っている。大乗と対決する道もあったのだろうが、麻原氏は一九八八年に『マハーヤーナ・スートラ』という本を出した。大乗を教義に取り込もうとしたのだ。だが一巻の大乗経典を読んだわけでもない。

 修行の位階をより複雑にしてラージャ・ヨーガ、クンダリニー・ヨーガ、ジニアーナ・ヨーガ、大乗ヨ−ガ、アストラル・ヨ−ガ、コーザル・ヨーガ、そしてその完成としてマハーヤーナがあるという。阿含経典をよめば三界を超越したところが涅槃なのだから、コーザル界の上が必要だったのだ。

 どうしてこんなに複雑にしたか、おそらくクンダリニー・ヨーガを体験する人が増えて、それが究極であれば最終解脱者がたくさん出て来る。そこで彼らはそうではないということをいわねばならなかったのだろう。それでもどんどん上位 をつくるわけにはいかない。方向転換が必要だったのだろう。

 大乗ヨ−ガとはこう説明されている。「自と他の区別を乗り越えるために四つの無量 心を背景とした大乗のヨーガはスタートするわけだ。ここから本当の救済がスタートする」。

 慈悲喜捨の四無量心は大乗でもなんでもない。阿含経典に梵天界への往生の修行として繰り返し説かれているものだ。梵天はブラフマンでバラモン教の主神であり、似たような行がヒンドゥー教にはあるかその影響をもともと被っていたのだろう。

 ともあれ、ここで彼は「救済」ということを言い出す。修行自覚型の宗教と救済布教型宗教は仏教とキリスト教に代表されるように方向が違うのだが、麻原氏は布教をやって教団を大きくしたかったらしい。このころ世界中に支部をつくる計画をしている。

 実際に麻原氏が初期からいっていた大乗の修行に六波羅密がある。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・知恵というこの前の四つをなんども強調していた。布施を集めて修行させるには便利だったのだろう。ところが肝心の禅定・知恵はいわない。禅定はクンダリニーとは相入れないからだ。それにしても仏教の僧が葬式や法事しかしないで、こういう仏教の初歩的知識さえ教えないから、みんなこれでオウム真理教は仏教かと思ってしまうのだ。いや原始仏教の碩学といわれる人が新宗教の雑誌に阿含経典の翻訳を連載するのだから、間違いが起こっても致し方ないな。それで、わしでも思い余ってこうやって仏教の講義をせねばならん。

 悠道さん、頼みますよ。ひとつ坐禅と教えと両輪でやっていただかんと。

 みなさん、オウム真理教と仏教の違いがはっきりしたかな」

 剛が首をかしげながらいった。

「そうかな、麻原尊師はもっといろいろ仏教の教えを説きますよ。特に僕が興味をもったのは、自分の死後のことで、尊師はカルマと輪廻を説きますよ。これは仏教じゃないんですか」

 「そうだ、それもあったな。麻原氏はこう説いているな。

 ラジャス(熱のエネルギ−)によって地獄と阿修羅という世界が作られ、サットヴァ(貪りのエネルギ−)によって餓鬼と人間の世界、タマス(無知のエネルギ−)によって天界と動物の世界ができる。天界は原始仏教経典の叙述によってたくさん分けて書かれている。そしてカルマの法則として善因は善果 、悪因は悪果、非善悪因は非善悪果を受ける。それは行為が波動としてコーザル界のデータ・バンクに送られ、それが未来の生で返ってくる。これは絶対の法則であるから、十戒や六波羅密など善業を行わなければならないが、このカルマを早く返すことは可能だ。ザンゲや供養などの修行によってタマスのエネルギ−が弱まり、サットヴァのエネルギ−が強まってくるからである。それは現世で痛みやケガなどとして返ってきて、来世で返ってこない。カルマがある限り輪廻転生する。

 カルマのデータによってそれが悪ければ地獄・餓鬼などに、善ければ天界や人間に生まれ変わるが、修行によってカルマを滅却していき、カルマを超えることができる。それが解脱だ。だから解脱者は死後自由に輪廻転生できるし、ニルヴァーナに入ることもできる。ニルヴァーナにはカルマの生起がない。

 もうひとつポアの儀式というのがあって、師によって臨終にその魂のもっているカルマよりも高い世界に転生させる。死後どのような経過を経て転生するかについては、『チベットの死者の書』を読みなさいと薦めているが、これはいろいろの翻訳の他にあの宗教学者が解説した『三万年の死の教え』というものがある。共同戦線だね。

 さて、これは困ったね。麻原氏は阿含経典に基づいてカルマ(業)と輪廻を言っている。その限りこれは仏教の教えだ。ただ一つ決定的に違うことがある。それはオウムでは供養などもその人のカルマが現世に怪我や病気として返るという点だ。供養やサンゲはカルマ返りのスピ−ドを速めるという考え方だ。だから現世の苦しみをカルマ落しとして喜べよいうことになる。

 これはマゾヒズムの思想だよ。麻原氏は竹刀で一日一万発自分の足を叩くという修行を「ヴァフラヤーナの帰依」として行っている。あとでも見るがオウム真理教の修行は苦行だ。インドやチベットにはたくさんの苦行行者がいるが、集団マゾヒズムだな。もうひとつポアはチベットではその人自身がやるのであって師や他人にやってもらうのではない。そして修行者だけでなく普通 の人もやる修行で一種の仮死状態を作り出すのだ。そうチベットの修行も多くはサディズムだ。五体投地しながらカイラーサ山に巡礼するとかすごいね。

 さて阿含経典に書いてあるから仏教かというと、そうかんたんに言えない面 がある。阿含経典が記述されたのは、紀元前一世紀頃だが、ゴータマ・ブッダの死後二、三百年経っている。その間に増広や改変があるのは当然だ。たとえば紀元二、三世紀の新約聖書文書の偽典は正典とは似ても似つかぬ ものだ。そのことは南伝パーリ経典と北伝漢訳経典では経典の構成も大きく違うし、南伝の小部(クッダカ・ニカーヤ)に当たるものは漢訳には存在しないことからも言える。もっとも小部の内容の一部はばらばらに漢訳で伝わっているが。それで両伝を対照したり、遡る引用を調べたり、言語、用語などから古層と新層をわける仕事がなされている。

 経典の古層を見ると実は六道輪廻など説かれていない。天界往生だけが在家信者の布施などの果 報として説かれているだけだ。地獄ももちろんない。ただゴータマ・ブッダは在家に対しては麻原氏のいうような行為の因果 と転生を説いた。それは当時のバラモン教の五火二道説とよく似ている。

 つまり、バラモンで苦行をきちんと行ったものは死後に火葬の煙りとなって天に昇り月や太陽をとおってブラフマンの世界(梵天)に行く。これを神道と呼ぶ。祖道とはバラモンで家庭にいる者や下位 三階級が火葬の後、月に行くが再び雨になって地上に降り、前世のカルマによって祭祀や布施など善業をした者は上位 階級や金持ちに生まれ、悪業をした者はシュードラ(賎民)や動物や、さらには虫けらの世界に生まれるというのがそれだ。

 ゴータマ・ブッダがこれと違うのは、来生の決定に四姓(カースト)を持ち込まず、ただ行為だけだ、としたことだ。ゴータマ・ブッダは現世の四姓(カースト)を認めず、現世でも行為によってのみバラモンになると宣言した。この点は革命的だが、在家の善い行為によって転生して富貴な家に生まれるという教えの方は、どうもバラモン教と似てるな。

 だが、仏教の本質はやはり出家して修行し目覚めるということで、ゴータマ・ブッダは在家と出家に別 の教えを説いたのだ。施論・戒論・生天論というのが在家向き説法で、それは出家向きの説法とはまったく違う。出家は財産を放棄するから財施はしないし、在家が五戒であるのに出家は二百五十戒律だ。死後に天に行くのではなく、現世で知恵、禅定の修行をして解脱を求めるのだ。

 ブッダの死後に弟子たちが、民間宗教を取り込んで六道や多くの天界を説いた。当然神々の種類も増える。ブラフマー神(梵天)も多種になり、シヴァ神の別 名である自在天(イシュヴァーラ)なども取り込まれた。一種の宗教習合(シンクレティズム)だ。それで麻原氏の説くような世界観が出来上がってしまった。

 そして、そのままパ−リ聖典として固定された。だから固定された限りの仏教ということでいえば、この麻原氏の教えは仏教かもしれん。だがこの習合し改変されたものがもし真実だとして固定されたら、ゴータマ・ブッダの教えとは違うものを絶対化することになる。

 仏教がキリスト教と違って素晴らしいのは、書いたものにとらわれない、ということだ。いや、書いて伝えられるものが真実ではないと十分知っていることだ。言葉にはならない深い真実なものに触れることができる、そしてそれは創造的言語として自在に表出できる。

 それでどうしたか、まったく新しい経典を自ら作りだしたのだよ。それは偽作とか捏造ではなく、覚りとはなにか、という根本問題をめぐる新しい刷新運動である大乗運動の中で、教学の表現として出てきたのだ。そこではじめてこのヒンドゥー教的世界観が一掃されてヒンドゥーの神々の世界はなくなったのだ。そのかわりにこの世界は無数の仏たちのいる宇宙となったのだ。過去無量 仏、未来仏、とりわけ現在十方仏は西方の阿弥陀如来、東方の阿しゅく仏はその仏をめぐる独立の経典が多数作られた。大乗仏教では死後に神々の天界に行くのではなく、こういう仏国土に往生するという考えに変わった。世界表象が変わったことより、その内実が問題だが、それもまた大乗経典としては古い般 若経典などに説かれている。つまり無我の教えを「空」という思想でとらえ返した。思想といっても人間が理性で理解できるようなことではないからややこしい。 とにかく仏教の教えは難しいなあ。

 だから仏教の教えといったら、出家向きの教えを第一に考えてほしい。ところが、麻原氏は出家修行の大綱である八正道、すなわち正見・正思惟・正語・正業・正命・正念・正精進・正定をあっさりこう切り捨てる。 「この日本の社会においてだ、私達がこの八正道を実践することができるか?できないね。当然」

 八正道は時代錯誤だというのだ。やれやれ。

 原始経典も大事だが、今わたしたちの接する仏教はほとんどみな大乗仏教なのだから大乗経典のことも頭に入れてほしい。  剛君、こんなところでどうかな」

 剛は頭を掻きながら、「いろいろ経典や教義ってややこしいんですね。もうひとつどうも。ただ行でいえば五体投地というのはオウムでも立位 礼拝といって何千回もするし、尊師は苦しみを喜べっていうからマゾヒズムだといわれるとそんな気がします。でもやっぱし輪廻転生って本当だと思うがな」

「おもしろいねえ。今の若い人達は簡単に輪廻転生を信じるんだね。新宗教はみんなそれを言うね。幸福の科学も阿含宗もGLもね。

どうしてだか、わしには分からんな。私達の前世というが、知っている通 り、母親の遺伝子と父親の遺伝子が結合して初めて私という個体ができたのだから、「私の」前世なんてないはずだ。両親の遺伝子がそうだというならその前は四人その前は八人ずっといけば何万人もの前世になる。まあそういう考えを遺伝子で推し進めていけば、たしかに生命が発生してから一度も命がつまりDNAが途切れないできたから今の私という個体があるということになる。

 それくらいに前世を考えれば、なあ、佐弥可、おまえのように蛙もくもも兄弟姉妹になるなあ。DNAが「私」のデータだ。そしてそれを乗せているハードウエアは子供を作らなければ、それでおしまいになり、したがってソフトもおしまい。なに、残念がることはない。ほとんど同一のソフトがいくらでもあるんだからな、人間は。来世といっても「私」の来世じゃないな。子供は「私」の半分でもない。別 だ。別といえば別だが、完全に別でもない。これもまた死後に私の身体が分解して、さまざまな命のハ−ドウエアの部品になると思えば、それはづ−と続いていくともいえる。いのちの星、地球の一部としてね。

 だけど、若者が信じているのは個我としての自分の存続だ。それは科学から見ても、仏教からもおかしいと思うがな。無我をいう仏教に輪廻転生は無理な当て嵌めなんだよ。すでに「私はない」、ということに目覚めたらいったい何が転生するのだ。ただ人間は死んで無になるのが怖いのだ。全部が無にはならん、他の命になるのだといっても「この自分」が無くなるのに耐えられんのだな。たとえ地獄でも「私」はあった方がいいと思う。人間の深い潜在意識、マナ識の働きだな。マナ識は私がただ存在すると思うだけではなく、ずーっと存在すると思うのだ。人間の意識を脳の働きに還元しきることは学者でさえ、ためらう者がいる。ノーベル賞を受けた大脳生理学者のエクルスは、自我あるいは魂は受胎から誕生の間のどこかの時点で胎児に植え付けられるといっている。それはもはや科学的に論証できることではなく、彼の信仰なのだ。だから人類は死後の世界というのをいつも考えてきたのだろう。

 たぶん我々の世代だけが科学が絶対だという信仰を植え付けられたので、かんたんに死後はなにもないと思えるのかもしれないな。

 でもね剛君、仏教は人間がたいていはこうだろう、と思ってきたことを徹底して疑い考えぬ く知恵の宗教なのだ。この徹底さは西洋の哲学と同じだよ。そう思えるからそうだろうなんて憶測でなりたっているのではない。自己とはなにか、徹底して考えるものだ」

 「麻原尊師もしょっちゅう、この私とは何か、本当の私とはなにか問いなさいといいますよ」と、剛がいった。

「麻原氏の本をさきほど読んでいたら、こう書いてあったよ。  『一体私って何なんだ?それを追求している段階で、あるときふと気がつく。−なんだ、私というものは透明な水だったのか−』

 がっかりしたね。哲学の根本問題にこういう答えでは。禅宗では己事究明といって、修行でこれを徹底して思惟し抜く。答えは透明な水ではないよ」

 「僕は哲学とかは苦手です。オウム真理教は僕にとって思想ではなく、きちっと効果 の分かる修行なんです」

剛がうんざりしたように言った。

 「では、今度はその効果のある修行の話をしよう」

 真己も今日はヒンドゥー教、タントラ仏教、チベット仏教、原始経典、大乗仏教、オウム真理教とあまりもごちゃごちゃしてよく分からなかった。

 オウムの話はもういいから、もっと禅のことを知りたかった。ただ仏教は「私」がないのだ、という言葉だけは深く心に染みた。「私」なんて本当にないほうがいい、そう思った。それほど深く「私」にこだわっているからだ。そう、私も「私」の消滅に耐えられないのだ。そのような虚無に耐えられないから救いを求めてここに来ているのだ。救い?永遠の命か。人間って輪廻にしろ天国にしろ永遠の命にしろ、それを信ぜずには生きていけないのかもしれない。だけど私はどしらけ。信じれないのだ。なにも。天国も永遠の命も神も科学も、およそ何も信じれない。何もないところに見たくもない「私」だけ。真己は心がしんどくなった。心がしんどくなるとたちまち体もしんどくなる。

 午後の坐禅は今日真己にはしんどくてつらかった。悠道がチンを鳴らしてくれるのを今か今かと待った。やっと開静である。

 いろりの傍では佐弥可がおしるこをつくってくれていた。粟餅がはいった暖かいおしるこは疲れた体になんとも有り難い。佐弥可が抹茶を点てる横で真己は拭き浄めるのを手伝った。凛としてお茶を点てる佐弥可はいつ見ても恰好よい。すっと茶杓手が伸びる。そっと棗を置く。茶碗を重々しく取り上げる。うつくしい体の動きだ。お続きで二杯づついただいて、みな干し柿をお土産にもらって庵を出た。

 五時過ぎだというのに、つるべ落としで日が暮れて、すでにうす暗い道を真己は悠道といっしょに駅にいそいだ。

 みちすがら独り言のように真己はいった。「オウムをマゾヒズムっていうけど、キリスト教にだってそういうとこ、あるんじゃないかな。『貧しい者はさいわいである。禍なるかな。富める者』とかいったら、貧しくなっていないと安心できないみたいな。『今、笑っている者は禍である。今、泣いている者は幸いだ』とか、自分を苦しい方にもっていって満足しているのじゃないかな」

 まっすぐ前を見ながら悠道が答えた。

「いやあ、禅宗だって似たようなものですよ。オレたちは貧乏が誇りだからなあ。それに修行はやはりつらいですよ」

 それはマゾヒズムなんかじゃないわ、と口に出かかって真己は飲み下した。キリスト教もそうでないかもしれないけど、もう私には信じられないのよ。悠道さんにはこんなこと、分からないわね。

 冬の暗い空のように、真己の心は澱んだ。