第十五章 生死

 ゆうべ、妙安寺から帰り、真己は綿のように疲れ切って眠ってしまった。翌十二月九日の昼過ぎ、新聞を取りにいくと「もんじゅ、ナトリウム火災事故」の大見出しが目に飛び込んできた。

「ええっ」あわてて紙面を見たが、まだ昨夜八時過ぎにナトリウム漏れの事故があったということ以外あまり詳しいことは書いてなかった。二次系統のナトリウムだったので炉芯への影響はなく放射能漏れはないこと、したがって人身事故はなかったことは分かった。最初に見出しを見た衝撃があまり強かったので彼女は気抜けしたように座り込んでしまった。

「よかった、よかった。まだ最悪の事態ではなかったのだ」

 真己は八日まで五日間、妙安寺での 八接心に参加していたのだった。ルベンがいつ戻るかを告げず韓国へ旅立ってから、真己は妙安寺の接心にも行き始めたのである。十一月は初めてだったし、学校の授業とも重なったので二日だけだったが、今度は、十二月八日の釈迦の成道にちなむ接心なので、授業を休講にして参加したのだった。

 一日十しゅの坐禅でも真己にはきつい。一しゅは五十分で間に十分の経行がある。ことに朝三時半の起床はつらかった。坐禅を始める時はまだ真っ暗だ。ここは電気がきているので、小さい電灯を点けて石油ストーブを入れる。それでもしんしんと冷えてくる。

 一しゅ坐禅をした後、袈裟を頭にのせて「大哉解脱服、無相福田衣、被奉如来教、広度諸衆生」と唱えてから袈裟をつける。そして朝課という経典読誦を終えるころ、やっと外が白んでくる。堂内の仏像に線香を挙げに行く剛山はすっかり修行が板についた感じで、ついこの前ただの学生だったのにと真己は驚いた。若いということは素晴らしい。それにひきかえ真己はいかにも晩学後進だ。修行も学問もちゃんとやれるものやら覚束ない。三日目からはどうしても居眠りが出てしまう。ちゃんと坐っているつもりでも、がくっと体が揺れてハッとする。

 食事は悠道が作った。一汁一菜の本当に素朴なものであったが、疲れた体には暖かいその食事がえもいわれずおいしかった。四日目は足が痛くてたまらずもう止めようかと思ったほどだったが、なんとか持ちこたえた。五日目、昼過ぎに接心が終わって大開静の時はさすがに気分が高揚していたが、いかんせん体はがたがたであった。ひそかに一大決心して出家しようと思ったのであるが、初めての本格的接心でもはやその決心が揺らぎ始めた。おそるおそる悠道に「尼僧堂でも接心はこんなにつらいのですか」と聞いてみた。

「よくは知らないけど、たぶん年に四回だったと思うよ。それも三日だ。でもあそこでは坐禅よりお経読みやお花やお茶を教えてくれるみたいだ。二年間かな、最短で」

 真己は首をすくめた。あの老尼たちと二年間はつらいな。

 外は雪がちらついていた。寒いはずである。酒かすでつくった甘酒とお餅をいただいてから安曇川駅まで送ってもらった。列車に乗るとすぐ居眠りが出た。体のあちこちが痛い。這うようにしてマンションにたどりついたのだった。

 その朝もう日が高くなってから、真己は重たい瞼を開けた。接心での体験はかなりこたえた。やはり自分には出家は無理ではなかろうか。朝夕二回の坐禅は、安らかに気を入れてすることができるが、続けて三しゅとなると、もう体がつらい。神父は坐禅は頑張りではないといった。でも接心に参加したら、倒れない限り、途中でさぼるわけにはいかない。「動静大衆と一如し」といわれるのだから仕方がない。いまなら二日か三日だけ参加するということも可能であるが、出家となるとそうはいくまい。果 たしてこの体力と心で出家できるのだろうか。

 夏木神父の、いつでもいつまでも慈光庵にいていいといった言葉にすがりたいような気持ちになった。学校へはもう講師を継続しない旨を伝えてある。どうにかしなければならない。坐禅はまるで死ぬ 練習のようであるが、死をかけてもなすべきものを求めていたのだから、たとえ死んでも悔いはないはずだ。やはり出家しかない。

 そんな考え事をしていて床を出るのがすっかり遅くなった。

 十二月八日、この日は釈迦の成道会であるが、太平洋戦争が始まった日でもあり、まさにその日にもんじゅは事故を起こしたのだった。真己はすぐ夏木神父と佐弥可のことを思った。明日は坐禅会だが、はたしてあるのだろうか、二人とも敦賀にかけつけているような気がした。たとえ坐禅会があっても今の真己にはとても行く体力・気力はなかった。

 気をとりなおして真己は茶箱を出し、薄茶を点てた。この茶道具は琴のお返しにと佐弥可がくれたものだった。断ろうとすると、インディアンは贈り物を受け取らないと怒るよ、と言われた。

 翌日テレビをつけるともう反対派の人々が敦賀市内でビラ配りをしている。真己はその人々の中に神父と佐弥可を探したが見付からなかった。反対はもんじゅの廃炉と事故の情報公開を訴えていた。いつものことだが、原電側は県や住民への連絡をまったく遅れてしていたし、事故の対応も間の抜けた悠長なものだった。動燃は事故をできるだけ小さく見せようと、事故ではなく「事象」という言葉を使ってごまかしていたが、やがてただならぬ 事故の様子が判明しだし、その過程で動燃の事故隠しがあらわになって来た。あの不気味な白い建物の内部はいまやおそろしいナトリウム汚染が蔓延しているのだ。おそらく温度計あたりからナトリウムガスが漏れたという。

 でもまあ、よくぞあそこでストップしたものだ。もう少し大量 にもれていたら床のコンクリートに達し、そこで水分と化合して爆発していたかもしれないのだ。事故隠しは住民の動燃への不信を一気に加速した。考えようによってはよくぞ動燃は隠してくれたものである。もんじゅもよくぞ大き過ぎず小さ過ぎずの事故を起こしてくれた。これこそもんじゅの知恵かもしれない。これは元寇の時の神風のような僥倖というものである。一歩間違えば日本が滅びるほどの災害になったかもしれないのだ。この事故は脱原発の決定的追い風になる。真己は佐弥可たちを気にしながら、一週間後、今年の最後の授業を終えた後に慈光庵に向かった。

 もしかしたら誰もいないかもしれないと思いながら母屋に声をかけると「いらっしゃい、真己さん、こんにちわ」と、なんと緑が出てきた。まだ目立つほどはお腹は出ていない。でももう七ケ月である。緑は前に会った時よりよほど元気で明るい顔をしていた。空しさは消えて生命の実感に輝いていた。

「お腹の子はすごく順調だから手伝いに来ているの。まあ、あがって」

真己が土間に入るとダンボール箱がたくさん積み重ねてあり、佐弥可が何か熱心にしていた。

 「真己さん、よく来てくれた。人手が足りないよ、手伝って」と仕事から手を離さないでいった。

「神父さまは?」と聞くと敦賀の集会から直接東京に戻ったという。

 でも十九日にはまた庵に来て、みなと一緒に敦賀に行く予定である。もんじゅ廃炉とフランス、中国の核実験反対を訴えてハンストを行うので、現地の事務局のほかに佐弥可が全国連絡の事務を担っているという。

「連絡して下されば二、三日早く来れたのに」と真己がいうと、「手伝う気があれば、緑さんのように早く来れるよ」と手厳しい。緑は事故直後に敦賀に行った藤木からこの計画を聞いて、三日前から慈光庵に来ている。

「ごめんなさい。実は妙安寺の接心で、すっかり疲れちゃって」

「今、もんじゅがどんなに危険かという皆の意識が高まっている。だからここで一気に運動を盛り上げようって神父さまはいった。これから万が一にでもプルトニウムが漏れるような事故が起こらないように、命を張ってでももんじゅを廃炉にもっていくように、署名やハンストやデモをするんだ。今が残された最後のチャンスだよ。それになぜフランスや中国はまだ核実験やる。まだ人を殺し足らないの。オウム真理教より国家のやることの方がずっと悪いよ。どうしてフランスは裁かれ罰せられないのだろう。湾岸戦争でイラクのサリン製造工場を爆撃した。近くのイラク人はどうなったのか。抗サリン剤を飲まされた米兵でさえ帰還して二五○人以上の身体障害児が生まれている。たくさんの命を死に追いやって環境を破壊しているのに、アメリカはなぜ裁かれないのだろう。」

 佐弥可がいらだつのも無理はなかった。本当に世界はぎりぎりの土壇場にきているのだ。漫画の「アキラ」にしろ「風の谷のナウシカ」にしろ「漂流教室」にしろ、子供達が未来に向かって読み取るものが第三次大戦後の世界であるとは、なんという時代だろう。大人の敗北を、人間の敗北を子供達は最初から知らされて育っているのだ。真己もその無力な大人の一人である。緑のお腹の子を思えば、危険な原発は是非止めねばならない。考えれば電気がなくて死んだ人はひとりもない。たった百年前か百五十年前は世界中に電気なんかなかったのに。そしてこの慈光庵のように電気がなくても都会よりもっとすてきな生活が営めるのに。

 佐弥可のまっとうな愚痴を聞きながら、真己もさっそく宛名書きに加わった。

 一週間のハンストとなると準備が大変だ。一番寒い時なので、テントやシュラフの外に暖房のいろいろな物品が必要だった。敦賀の寺の住職が畳を六枚提供してくれた。ストーブも敦賀の労組の人たちが手配してくれた。毛布、フェザーケットの類いは阪神地震被災者の方へ回ってなかなか入手しにくかったが何とか集まった。支援の人たちの宿舎や食事も考えなければならなかったし、声明文の文案、各国語訳もそれぞれ担当者、ビラの原案を作る者などを決めて準備した。マスコミへの応対係もいる。ゼッケン、プラカード、横断幕も必要だ。それから三日間はほんとうに猫の手も借りたいほど忙しかった。真己もハンストに加わりたいと思ったが、もんじゅの事故から一週間なにもせずに傍観していたのだから、その資格はないと諦めた。夏木神父と日蓮宗徒で教師の丸岡、そして市民運動の活動家で敦賀に移り住んでいる山田がハンストを実行することにした。支援の者たちは一日ハンストで座り込みに加わる。

 二十日、夏木をはじめ三人は支援の人々と共に、敦賀市の核燃アトム館前でハンストに入った。「フランス・中国はすぐに核実験を中止せよ」「もんじゅを廃炉に」という横断幕とともに「人間よ、思い上がるな」「どうか放射能で殺さないで。太平洋の魚と日本海の貝より」というようなメッセージがテントの回りに張られている。

 はじめにマイクで一人一人がハンストへの思いを語った。そしてフランス大使館、中国大使館、科学技術庁、動力炉・核燃料事業団、福井県、敦賀市に声明文を送って、危険な核政策に対して、人間の限界を自覚せよと激しく問うた。全国の仲間は東京、大阪そして敦賀でビラを撒いて、もんじゅ廃炉・核実験反対の署名を集めた。

 真己も冷たい風の吹きつける敦賀の町でビラを配った。以前に比べてビラを読んでくれたり、がんばれと声をかけてくれる人が目立って増えた。現地の人はみんな内心とても不安に思っていたに違いない。ハンストは二十六日までの予定だった。二十五日はクリスマスだから、ハンスト団は特別 なクリスマスメッセージを出すつもりであり、加えて神父はクリスマス・イブのミサだけはやりたいといった。

 二十四日、午後からちらちら雪が降りだした。ハンスト者たちはアノラックを着て石油ストーブを四台炊いていたが、雪の吹きさらしの中ではなにほどの効果 もなかった。みんなの予想は雪がちらつくことはあっても年内だから大雪にはなるまいというものだったのである。けれども雪は降り止まなかった。午後七時前に神父たちはハンスト現場を離れて敦賀市内の教会に車で向かった。

 気比神社の西の方、昔の市街地の真ん中にある古い木造の教会で今夜神父はミサをすることにしたのである。気比神社で車を降りて、神父、真己と佐弥可それにカトリックの信者だという男性が雪でぬ かるんだ道をゆっくり歩いていく。ハンストは三日目位が一番きつい。ちょうどその時期と重なった。真己は神父をかばうようにぴったりくっついて動いた。七十を越えた神父にハンストは無理ではなかろうか。そんな気がしてならなかった。すぐ近所で住所を聞いてもだれも知らなかった。あちこち尋ね十五分近くかかってようやく教会にたどり着いた。

 玄関にはクリスマスツリーが飾られキラキラとイルミネーションが輝いている。

 何はともあれ、暖かい暖房の空気に皆の緊張が溶けた。神父にはあついお湯が、他の人には紅茶が振る舞われ、やっとみな人心地がついた。過疎の町の教会は美しいスタンドグラスが嵌められ祭壇に凝った木彫の装飾が施されて深い年輪を感じさせたが、信者は数えるほどしかいなかった。全部で十人に満たない。

 昔の繁華街にひっそりと立つこの教会は、もちろん神父のいない無牧教会だ。それでも東京の神父さまがミサをたてて下さるというので遠くから来た人もあり、みな精一杯の歓待をしてくれている。頭の前が少しはげた精悍そうな男の人が寄ってきて「お騒がせ致しましてすみません。私は動燃に勤めている者です。もうしわけありません」と挨拶した。神父はにこにこして手を握っている。一通 りの挨拶がおわると神父はミサ用の式服に着替えた。

 九時にカランカランと鐘が鳴らされ、オルガンの奏楽が静かに流れた。そうして「まきびとひつじを」の合唱が美しくはじまった。

 思えば真己が教会に行かなくなってもう二十年になる。祭壇の上の十字架を見上げて懐かしさがわっと込み上げて来た。久しぶりの教会、久しぶりの賛美歌。

 神父がサーバーの少年を伴って入場してきた。黒服の上に白いガウンを着て金や赤などで刺繍されているストールをつけている。そんな西洋風の神父を見るのは初めてだった。いささかとまどって佐弥可と顔を見合わせた。東京ではやっぱりこのような普通 の神父さまなのだろうか。

 お祈りの後の賛美歌は「もろびとこぞりて」であった。真己は幼いころから何度これを歌ったかわからない。もちろん歌詞は全部覚えていた。「主はきませり、主はきませり」とだんだん声を大きくしていく。「主はきまーせーり」とクライマックスに達しても、でも真己の心に主は来られなかった。心の中に空疎な音がこだまするだけだ。

 ヨハネによる福音書第一章が読まれた。

  「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。

   この言は初めに神と共にあった。

   万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは一つもなかった。

   言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

   光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」

 哲学的で含蓄の深いこの箇所を真己は共観福音書とは別の意味で好きであった。神父の説教が始まった。  

「『万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは一つもなかった』。こういわれるように、すべてのものは神の言によって成ったはずだよ。ところが今、言によらず人間の頭脳と技術によって成ったものがあるんだ。地獄の王プルートーからその名をとったプルトニウムがそれである。これは自然の世界にはないものだ。人間がウランから作り出したもの。命を殺す一番の毒性をもった元素で耳かき一杯で何千万人もの人を殺すものすごい力をもったものだよ。これは今稼働されている軽水炉でいつも新たに生まれている。こんな恐ろしいものを神さまはお作りにならなかった。人間が作り出したんだ。

『万物は言によって成った』という御言葉が通用しない世界に、私達は生きているのだねえ。人間によって成ったものとは何か。これは暗闇だ。そのプルトニウムを燃料にしてエネルギーを取り出そうというのが、この町のはずれに立っているもんじゅだ。なんとも不気味な建物だねえ。

 あのね、実は日本はこの暗闇と深い縁をもってしまっている。長崎はこのプルトニウムでできた原爆でやけただれた。大浦天主堂も暗闇の力で燃えてしまった。今、この敦賀は言ってみればプルートー様の奥座敷になったしまったようなもんだ。放射能は目に見えない。暗闇が真っ暗で何も見えないように。

 でもね。人間のやることは必ず失敗、誤りがある。人間は何でも作れて、なんでもコントロールできるかのように思い上がっているがとんでもない。もんじゅで事故が起きたのは人間がやることだから当然なんだ。人間はもうすでに幾つも原子爆弾を海の中に誤っておっことしている。空だってアメリカの軍事衛星がインド洋上で炎上してプルトニウムが一キロもばらまかれたんだよ。びっくりした顔をみんなしているけど本当だ。

 いや、もっとある。いまでは深海でも南極でもみな放射能で汚染されている。米ソの核実験ですでに五トンのプルトニウムが大気中にばらまかれているんだ。目の見える者にはこの世が闇で暗くなっていくのが見えるはずだがね。反原発の先頭に立っている科学者は、自分が澄んだ美しい太平洋の海水を調査したときに、それが放射能で汚染されていることに非常なショックを受けて、核開発から核廃棄へと転向したそうだ。彼は特殊な科学装置を使って暗闇を見たのだけど、そういう装置がなくても見えるものには闇は見える。

 イエス・キリストこそ闇を闇として照らす本当の光だ。そしてね、彼しか闇に勝てない。彼だけだ。人間は闇との戦いに勝てないよ。闇の力は強い。兵器を作り出す憎しみは、平和を求める愛よりも残念ながら強い。兵器にはたくさんのお金を使える。憎しみは儲かるのだけど愛は儲からない。人間は儲かることばかり好きなのだ。この敦賀の地にもたくさんお金が舞ったのだろうね。

 さみしいね。人間は。でもね、イエスはわたしたちにも『あなたたちは世の光だ』とおっしゃった。こんな貧弱な人間なのだけど、イエスの光りでね、わたしたちも光ることができる。イエスを信じる者ならば光らしく生きなければならない。希望をもとう。人間は負けるかもしれない。でも、まことの光はこの放射能の暗闇に打ち勝つことができるのだよ。

 うん、現代の暗闇は放射能だけじゃない。言によらず成ったものがまだある。遺伝子技術によって生まれる合成生命つまりキマイラだ。ポマトってトマトとポテトの合いの子だけど、そんなのがもう色々できている。

 もう一つある。科学的合成物質だ。フロンというのは、オゾン層破壊でみんなも聞いたことがあるだろう。あれね、六十五年ほど前に初めて人間が合成したんだ。夢のガスと呼ばれたよ。他の物質と反応しにくいのだ。クーラーの冷媒として使えて、精密機械の洗浄、噴霧器からウレタンフォームを作ったりするときにも使われる。人間は夢のガスだと思ったが、実は悪夢だった。オゾン層が破壊されて有害紫外線がふりそそげば人間が皮膚ガンになったりするだけでなく、海や陸のちいさな生命たちが殺される。紫外線の殺菌装置があるだろう。菌は紫外線に当たっただけで死んでしまうんだ。

 でもね、いろいろな菌、微生物がいてはじめて生きた地球が保てるのだよ。人間の暗闇はそれだけではない。サリンやダイオキシンなど神がお作りにならなかったものが、たくさんできて地球に生きている生命をおびやかし始めてきた。小さい生命がすでにたくさん殺され傷付いている。地中海の巻貝はほとんど奇形だよ。人間がやったのだ。私達は地獄の釜の蓋が開いた時代に生きてしまっている。人間は取り返しのつかない所へ来てしまったのかもしれない。

 だがな、こういう地球にも新たに命が生まれる。今夜おさなごイエスが生まれたようにね。おさなごは希望だ。その命たちのためにわたしたちは自分の体を燃してでも光らなければならないよ。大切なのは闇を闇としてはっきり見抜くことだ。敵がはっきりしなければ私達は戦うことができない。

 敵といっても憎んではいけないよ。彼らはかわいそうなのだ。何をやっているのかわかんないんだ。ヨハネ福音書の十二章三五節を見てごらん。『暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい』とある。わたしたちは光の子として歩こうね。

 主イエスはねえ、私達人間が、ああもうだめだと思った時、それでも勝たれたのだ。死から甦られて。そのわたしたちのみ子が今夜生まれられた。ご生誕おめでとう」

 神父は疲れているのだろう、ゆっくりゆっくり話した。

 短い話だったが真己の胸に深く刻まれた。今の時代の闇、光になること。でも真己にはイエスさまがいない、光がないのだ。

 聖餐の祈りが始まり、「これはあなたがたのために裂く私の体である」とパンが聖別 され、「これはあなたがたのために流す私の血である」と葡萄酒が聖別された。懺悔をみなでとなえた。

「つかれしもの、我に来よと」の奏楽が響いてきた。一人また一人と祭壇にひざまずき、そのパンと葡萄酒を受けている。

 真己は決心して前列の男の人に続いて、祭壇の前にぬかづいた。神父が近付いてくる。真己は手をさしのべた。

 「あなたのために与えた、主イエス・キリストのからだ」といいながら、薄いウエハースは真己の手にしっかりと与えられた。ほとんど手を握るように神父は渡したのである。真己はそれを口に含んだ。ウエハースが唇に触れた時、あのさくらのはなびらのことを思った。淡い味わいのウエハースはそのまま消えていきそうに口の中でとろけた。胸が締め付けられるように懐かしい。でも、イエスはここに臨在しない!

 葡萄酒の杯をもって神父が回ってきた。

「あなたのために流した主イエス・キリストの血」そういって大きな銀の杯が真己の唇に当てられた。軽く手を添え葡萄酒を飲んだ。じーんと胸の中いっぱいに何かが広がっていく。

 ああ、イエスさま、イエスさま、イエスさま。真己は心の中で夢中で叫んでいた。叫ぶのに応答がない!声は虚空の中に消えて行く。イエスさまイエスさま。泣き崩れてしまいそうなのを必死で押えて席に戻った。ああ、かつて聖餐式で味わったあの甘美な体験はどこへいってしまったのだろう。どうしてここに、わたしのそばにイエスさまはいらっしゃらないのだろう。

 真己はそのままひざまづいて黙って泣いた。佐弥可がそっと手を背にまわした。献金の祈りがあり、最後に静かに「きよしこのよる」が歌われてミサは終わった。

 外は吹雪である。本当にホワイト・クリスマスだ。こんなことってあるのだろうか。よりによってハンスト最中のクリスマスが大雪とは。教会の人に車を出してもらってみなが待っている核燃アトム館に向かった。外は何も見えない。ただ小さい白い光のつぶてが皆に向けて射られている。

 館の前に着いて車から一歩出るとゾクッとした。ものすごく凍てつく夜だ。支援の人々がわっと寄ってきた。中にはこんな状況になってしまったのだからハンストを打ち切ったら、という人もいた。神父は「だいじょうぶだよ」と力なくほほ笑んだ。

 みなはクリスマス・イヴのためか寒さのためか、かなりアルコールが入っているようだ。神父はヤッケを着てシュラフの中に入り、その上に毛布を三枚かけてまるで達磨さんのようになって横たわった。真己もシュラフに入って毛布をかけ壁によりかかった。電灯の光の中に雪がちらちらちらちら絶え間無く降り注ぐ。

 イエスさまが生まれた夜も寒かっただろうけど、こんな雪ってことはないわね、と真己は思った。なかなか寝付かれない。さっきあずかった本当に久しぶりのミサ、けれどもこの空しさはどうだろう。神父さまはわたしの涙を分かって下さっただろうか。そんなことを思いながら真己は少しとろとろっとまどろんだ。

「神父さま!神父さま!」という佐弥可の大きな声で真己は目をさました。

「誰か、救急車を!」と佐弥可がヒステリックに叫んだ。

「えっ」とがばりと跳ね起きた真己が見たのは、佐弥可に抱き抱えられ、支援の医師に脈を取られている神父だった。まわりは深い雪だ。

「どうしたの」と夢中で這い寄ると、「神父さまが、神父さまが」といって佐弥可の顔がぐしゃぐしゃになった。

 ピーポーピーポーとサイレンが聞こえるがなかなか救急車が来ない。新雪が深く積もって走るのに難渋しているらしい。まだ夜は明けきっておらず、ものすごい冷え込みだ。神父の顔面 は蒼白である。真己は仰天のあまり何をしていいのか考えることもできず、おろおろするばかりだった。

 やっと到着した救急車に佐弥可と真己も乗った。真己は怖さと寒さで歯をがちがちいわせている。佐弥可が泣くのを見たのははじめてだった。真己は泣く力さえ失ったようだ。

 病院に着く。慌ただしくストレッチャーが運ばれ看護婦たちが神父を取り巻いて動く。外でお待ちくださいと病室が閉められた。

 どれくらい経っただろうか、若い医師が手術着のまま出て来て、「できるかぎりの手を尽くしたのですが、お亡くなりになりました」と頭を下げた。

「ワア」と声を挙げて佐弥可が号泣した。真己はそのまま気を失った。

 気がついた時、真己はベットの上にいた。最初に思ったことは、死に損なったということだ。もし強引にたのんでハンストに加わっていたら私も犬死にでない死を死ねたかもしれなかったのに。

 それからはっと我にかえって「神父さまは」と叫んだ。看護婦がかけて来て、先生が来るまでちょっと待ってて、と医師を呼びにいった。

「神父さんはもうじき寝台車で出られます。でも、あなたはしばらく休んでいた方がよろしいよ」と医師は心配そうにいった。

「いえ、私、どうしても神父と一緒に帰ります」と真己ははっきりいった。医師は精神安定剤を処方して、食後三回と寝る前かならず飲むようにといい、もし精神が非常に不安定になったらと頓服まで与えた。

 夜はすでに明けているが雪は降り止まず、どんより暗い。果てしなく降り続ける雪の中を五時間かかって慈光庵についた。トラックなど何十台も連なって進む道中そのものがお葬式のようであった。ハンストは中止され、たくさんの支援の人々が車を連ねて従った。佐弥可のすすり泣きはずっと続いたが、真己は泣かなかった。

 本堂に神父の遺体が安置された。東京から敦賀に来ていたカトリック修道僧が葬儀の指揮をとり、悠道が補佐することになった。

 佐弥可と真己は神父に寄り添うように本堂で仮眠した。六時からお通 夜である。だが雪のため列車の運行は著しく遅れ、五十センチも積もった雪のため四駆での駅からのピストン輸送もはかばかしくなかった。

 夜九時過ぎに緑が藤木といっしょに到着した。

 目を泣き腫らして「真己さんと佐弥可さんの喪服だよ」と包みを渡した。

 二十七日のお葬式には東京や全国から二百五十余人もの参列者があって、竹の生け垣までびっしり人が並んだ。急いで雪掻きをしたものの立っていられないくらい寒い。

 その中をベールを被った修道女の一団、黒い修道服に身を包んだ人々、ジーンズの学生たち、宗派によってさまざまな袈裟をつけた黒衣の僧侶たちが並んだ。敦賀に集まった人々のみならず全国から活動家も駆け付けた。普通 の奥さん風の人もたくさんにいれば、外人も十人以上いる。九州の実家からは妹夫婦といとこ、甥・姪たちがやって来ていた。

 真己はそれらの人々の多様性と数にあらためて神父の人柄と交友の広さ深さを思った。そんな方だとは知らずに、真己にまっすぐ注がれるあたたかいまなざしに今の今まで甘えきっていたのだ。

 喪主は佐弥可だった。着物の喪服を着た佐弥可はきりりとひきしまって見とれるほどきれいだった。

「只管打坐」の軸が掛けられている祭壇ににわかに十字架が飾られ、車から電源をひいてエレクトーンで鎮魂ミサ曲が奏でられていた。

 それらと慈光庵とはなんとも不調和であったが、それが夏木神父だったといえばそうだったのである。白菊、黄菊、白バラ、紫のバラ、ゆり、かすみ草、白いカーネーション、胡蝶蘭、デンファレとさまざまなおびただしい花が神父の周りを埋ずめた。神父の遺影はおだやかな慈しみに満ちた笑顔だ。

 いよいよ出棺である。佐弥可がひときわ大きな声で「神父さま−」と泣いた。その横で消え入りそうにうつむいていた真己は、自分の蒼白の顔を神父の安らかな死顔に近づけ「先に行かないで。神父さま」とだけ聞き取れないような声でささやいた。

 夏木が亡くなってから涙を見せない真己を見て、医師の一人が「真己さんには気をつけてやってくれ」と周りの人に小声でいった。

 小さなお骨になってしまった神父と共に佐弥可と真己は身を寄せ合うようにして三日を過ごした。なにかというと佐弥可がぼろぼろ涙をこぼす。真己はだまってうなづく。どちらも一人では不安すぎておれなかった。悠道が二人を心配してずっと泊まっていてくれる。

 やっと佐弥可たちは藤木が置いていった二五日付けの夕刊を見た。地方版の三面 には大きく「神父、もんじゅに死の抗議」という見出しでハンスト中の神父の写真とともにその死が伝えられていた。大新聞の全国版にもすべて神父のハンスト死は報道されていた。

「これでみんなが原発がいけないということをよく知れたらいいね」とポツンと佐弥可がいった。

「ええ、一九九五年の敦賀のクリスマスのことは、みんな絶対に忘れられないと思うわ。もんじゅはもう絶対に動かしてはならないとみんな思ってくれるでしょう」

 真己は神父の死を、悼むというよりは羨ましく思った。  緑は佐弥可にお正月には必ず松本の家に来るように、もしこなかったら迎えに行くといって帰った。  真己は放心している佐弥可に言った。

「佐弥可さん、あなたはやっぱりお正月は緑さんのところへいったらいいわ」

「真己さんはどうするの。いやだよ。真己さんずーと幽霊みたいに元気ないもの、心配だ」

「本当いうと私、神父さまが羨ましくて。弱虫すぎるね、私。なんだかもう生きていく力がなくなってしまったみたい」

 佐弥可はだまって畳を見詰めた。

「佐弥可さん、私、久しぶりに東京の実家に帰ろうと思うの。名古屋までいっしょにいきましょうか」

 三十一日、小さな骨壷を抱えて佐弥可と真己は車中の人となった。

真己は両親とはあまりうまくいっていなかった。だが、今度に限ってなにか無性に会いたくなった。お正月を実家で過ごすのも数年ぶりである。両親は突然の帰省に驚いたが、久しぶりに娘と一緒にお正月を過ごせることをすなおに喜んだ。それにしてもなんとやつれて帰ってきたことか。失恋でもしたのだろうか。何げなく母は聞いた。

「何かあったの。すっかり元気なくしちゃって。お母さんにも聞かせてちょうだい」

「うん、親しい人がなくなったの。クリスマスの夜に」真己はうつむいて答えた。

「えっ、まあ、どういう方?お友達なの。どうして亡くなったの」

 母親は彼女が脱原発運動をやっているなど夢にも知らなかった。だからその記事にも気がつくはずがない。

「いえ、わたしの師匠」

「えっ、何のお師匠さん?」

「うん」

 真己はそれ以上話そうとはしなかった。

 二日に真己は母を善福寺公園に散歩に誘った。よく晴れていて気持ちがよかった。東京の空は曇ってしまったとはいえ、真己には懐かしい故郷の空だ。歩きながら樹木を見ると関西とはおのずから違って、けやきがあったりアオキがあったりした。雑草すら関西とは少し違っている。

 母に手を引かれて歩いた懐かしい記憶が蘇ってきて、「お母さん手をつないでいこうか」といってみた。母はちょっと驚いたように見えたがすぐに、そうねと手を差し出した。ふわっと暖かかった。善福寺の池にはボートが浮いていた。真己もかつてここで父が漕ぐボートに乗ったものだ。草の生えた土手をころころ転がり降りたこともある。

「お母さん、ここはあんまり変わってないわね」

「そうね、私も久しぶりにここに来たけど、小さなあなたたちがここでおたまじゃくしをとっていた姿が目に浮かぶわ」

 そういって母は目を細めた。あらためて真己は母が老いたことを痛いように感じた。東京女子大の尖塔が見えた。目に映るものがなにもかも妙に懐かしく涙ぐんでしまう。あの塔のステンドグラスの光の中で、はじめてイエスに出会ったのだ。女子大のお姉さんが「わたしたちはちいさくてもお守りなさる神様」という歌を教えてくれたのは、学校に上がる前のことだったか。

 三日の昼過ぎに真己は名古屋に帰るといって家を出た。

 駅で「敦賀まで一枚」そういって切符を買った。どうしようとしているのか、自分でもまだはっきりしなかった。

 京都で乗り換えた列車は慈光庵のある駅を通過した。懐かしい。そこに神父と佐弥可の顔が見えるような気がして真己は窓ガラスに額をくっつけた。雪がまだらに残っているたんぼと森、そして白く輝く山だけしか見えなかった。

 敦賀駅に着いた。お正月でも降りる人はまばらだった。すでに日が暮れかかっていたので、とりあえず駅の近くに宿を取った。

 宿で調べると小樽行きのフェリーは明日夜の十一時半に出る。その予約を入れて、真己は白いバラの花をたくさん買い、アトム館に向かった。

 アトム館はハンストなどなかったようにツンと建っていた。真己は神父が座っていたところに花束をおき、両手でその床に触れた。いつか、光が闇に勝つだろう。

 翌日の午後、真己は雪の残る気比の松原を散策した。あの日と同じように冷たい風がふいている。空は日本海特有の鈍い曇り空で、海は鉛色の吐息を荒く吐いていた。波が荒々しく砂を噛み、松籟が侘しく鳴る。こんなうら寂しい海岸でもさすがにお正月で晴着をきたアベックや子供達がいた。

 この海のずっと向こうは韓国だ。ルベンは今頃どこのお寺にいるのだろうか。韓国は日本より寒いと聞いた。冬安居があるといっていたから、今はお寺に籠っているのだろうか。真己はその砂浜を歩いて行けば少しでもルベンに近付くように思って、歩きつづけた。ひゅうと冷たい風に頬をはたかれて我に帰った真己は、また同じ道を引き返した。

 敦賀の町に戻り、お腹も空いていないのに、安定剤を飲まなければという配慮から鮨屋に入った。薬を飲むのはできるだけ平常心で行動したいと願ったからだ。

 そのあと、ついこの前、神父たちと肩を寄せあって歩いた道を今度は一人でとぼとぼと歩いて教会に向かった。教会の扉はやはり閉まっていなかった。ギイと押して中に入った。すべてを見ていた祭壇の十字架、神父さまが最後にお話しされた説教台、ひざまづいて聖体を拝領した場所、ひとつひとつを脳裏に刻み込むように真己は見つめた。そうして佐弥可と並んで座った忘れられないあの席についた。

 真己は頭を垂れ、もはや存在しない神に祈った。

「神さま、どうして私から神父さまを奪われたのですか。どうして私を一人にしてしまわれたのですか。私はどう生きたらいいの。出家したとしても、坐禅修行は私には死ぬ 練習をしているのと同じです。覚り?ああ、私は覚りなんかいらない。ただもう一度イエスさまのところに帰りたかった、イエスさまのところへ帰れるならどんなことでもしようと思った、それだけです。

 神さま、あなたが夏木神父に、佐弥可に、ルベンに合わせて下さいました。それは心から感謝します。でもどうしてまたみんなを私から奪われるのですか。私は弱虫です。ルベンにも会いたい。ルベン、ルベン」いつしか真己はルベンに話しかけていた。

「本当はルベン、あなたに抱かれたかったの。でも恋よりも大事なものがあるのを私も知っているわ。そちらを選んだルベン、あなたのことはよくわかる」

 一瞬のうちにルベンとの懐かしい思い出が心を駆け巡る。ちらっと昔振り捨てた同僚のことが頭をかすめた。私はもう飛べない。羽のすがれた冬の蝶よ。

 再び目を挙げ、真己は祈った。

「神さま、どうして私を神父さまと一緒に行かせて下さらなかったのですか。私もイエスに従う道で死にたかった。せめて形だけでもイエスに従う死を死にたかった」

 わっと真己は泣きだした。夏木神父が亡くなってから初めての涙だ。それから堰を切ったようにわーわー声を上げて泣いた。

「夏木神父さま、あなたがいなければ、私は怖くて出家もできない。あなたがいたから、あなたについて行けばどこかでイエスさまに会えると思ったの。弱い私はもう生きれない。このまま生きていても何の役にも立たないし。夏木神父さま、私も連れていって」

 礼拝堂で号泣する真己に手を回してくれる人はもういなかった。涙が涸れるまで泣いて、真己は深いためいきと共に言った。

「神さま、私、もう生きれない。もうつらい。もう休ませて。神さま、ユダはやっぱり救われないのですか」

 後ろ髪を引かれる思いで教会を出ると、また白いものがまたちらちらと降ってきた。

 次第に強くなっていく雪の中、真己はハンドバックひとつで小樽行きの船に乗った。

 船がボーと悲しそうな汽笛を鳴らしてゆっくりゆっくりと港を離れた。船室の窓から何も見えない漆黒の闇を見つづけていた真己は「ちょっと」といって席を離れた。この辺りが韓国に一番近い。

 真己はそっと誰もいない甲板に出た。真っ白な雪がはらはらはらはら絶え間無く降りてくる。まるでさくらの花ふぶきだ。

「身をつくしても会わんとぞ思う」という言葉がふと口に出た。

 身をつくしてもだれに?

 ルベンに?

 イエスさまに?

 手すりに足をかけ、真己はほほえんでゆっくり手を差しのべ、まるでだれかに抱かれるように、虚空に身を投げた。

 遺留品は聖書が一冊だけ。はさんであるしおりにはこう印刷されていた。

「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。  

             マルコによる福音書十五章三四節」

 もはや主のいないマンションに松本の佐弥可から手紙が届いた。

「  唯一人 弓弦(ゆんづる)鳴らす 月無き夜   

        事に尽くせぬ 音(ね)のみただよう

  真己さん、大好きな真己さん

 緑は神父さまの最後の説教にすごく感激した。赤ちゃんはもし男だったら光弥、もし女だったら光代と付けるといっている。

 藤木さんも阿弥陀仏は無量光、無礙光だから大賛成。三月五日が予定日。

 真己さん、どちらが先に死んでもわたしたち友達。

 死は生となにも違わないかもしれない。花が枯れ春にまた芽吹く、ただ自然な巡りなのかもしれない。私はあなたが死んでも泣かない。あなたは戦ったよ、あなたは私の戦友よ。

  私は故郷のモンゴルへ行くことにした。弓と琴をもっていくよ。

 途中で韓国のルベンに会っていく。また慈光庵で会おう。 早くね。                                    一九九六年一月三日

                            佐弥可  」