第十四章 乱れ

 カナカナカナカナと、日暮しの声が真己の耳にぼんやりと聞こえてきた。

 なんとか起きなければ、と時計をみると、もう夕方の五時だった。持病だった腹痛が、このところ激しい。早朝四時ころに激しい腹痛で目が覚める。それからうとうとして、さて起きようとするのだが、からだがだるくて起き上がれない。やっと十時過ぎに起きて、パンと紅茶とぶどうなどを食べる。

 腰掛けているのもだるくてまたベッドの中にもぐりこみ、まどろんで、日が西に傾きだしてやっと体が目覚める。食欲はなく、近くの蕎麦屋で何か食べるだけだ。夜は、ぜんぜん眠れない。本を読んだりテレビをつけたりして、二時か三時にやっとねむりに落ちる。そんな日が五日続いた。さすがにつらくて、近くの病院にいくことにした。多分、神経性の腹痛だろうと思ったが、眠れないのがつらい。

 まだ残暑はきびしくて、冷房を入れたマンションから出て外を歩くと、くらくらめまいがしそうだ。昼前の病院の待合い室には、それでもお年寄りなど数名が待っていた。

 呼ばれて診察室に入るとまだ若い医師が、どうしましたか、とにこやかに尋ねた。症状を説明すると、やはり神経性の胃炎の可能性があるといって触診し、胃腸薬とビタミン、それに寝る前に飲む安定剤を処方してくれた。二、三日して、まだ具合が悪かったら、念のため胃カメラを飲むようにといわれて、真己は首をすくめた。前にもひどい腹痛で胃カメラを飲んだが、結果 は白だったし、あの苦しみをまた味わうのはまっぴらだと思った。

 その夜、寝がけに薬をのむと、早朝の目覚めはなかった。腹痛の方はピタりとは収まってはくれず、目覚めれば、まだしくしくと痛むが、それでもかなり楽になった。体の苦痛が収まると、押えられていたさまざまな思いが一気に溢れてくる。

 ルベンの出家という話は、衝撃的ではあったが、まったく予想しなかったことではない。いや、ゆくゆくはそうなるのだと、はじめから分かっていたような気もする。それなのにそういう方向には、かつて目を向けようとしてこなかったのだ。

 数奇な生い立ちと不思議な魅力をもつ佐弥可と思慮深い優しいルベン、配慮に満ちた慈しみを注ぐ夏木、そういう暖かな柔らかなものに包まれて、真己は夢の中のような気持ちで、この一年を生きてきたのだ。世間では阪神大震災やサリン事件で、多くの人が苦しんだり騒いだりしているのに、慈光庵にはまったく違う時が流れていた。もちろん、佐弥可や緑は体を張って神戸へボランティアに行ったし、オウム真理教に入っていた浅野が訪ねて来て、いろいろ話したし、それをみなが話題にして、けっして世の中の動きと無関係に、慈光庵の生活があったわけではない。それでもすくなくとも、真己にはそこは別 天地であった。その自然のリズムのままの生活に、和やかな人間関係に、真己は酔っていたのかもしれない。

 思えば一年前、ほんとうにせっぱ詰まって、出家も辞さない覚悟で夏木を尋ねた、あの切実な思いはどこにいったのだろう。死ぬ ほど苦しんでいたあの悩みは、どうしたのだろう。もちろん、それを忘れたわけではないけれど、ルベンや佐弥可のいる時空はあまりに甘美であった。そして真己の悩みをまっすぐ理解して、大きく包んで導いてくれている夏木がいた。それが真己が自分自身を問い詰める緊張を溶かしてしまったといえないことはない。真己は夢見ごこちであったのに、ルベンはといえば、真摯な求道を確実に続けていたのだ。

 その日も、真己は起きれない体をベッドに預けたまま、ぼんやりと天井をみつめて、自分自身の行く末を考えあぐねていた。なんとかしっかり考えなければいけないのだが、思いはルベンが外国に行ってしまう悲しみや、やがて母になる緑への羨望に流れていってしまう。

 黄昏れていく空に茜色に広がる夕焼けを、空けはなした窓から見て、なぜか涙がでて止まらない。こんな涙もろくなかったのに、やっぱり心の病気かしら。土曜がやってきても、とても慈光庵に行く元気はなかったし、そのことを佐弥可に伝える葉書すら書けなかった。

 九月にはいって、やっとすざまじい酷暑も去り、虫たちがにぎやかにすだいて、急に秋がやってきた。熱風のかわりに、ものさびしい風が乾いたコンクリートのマンションにわたる。味気ない都会の秋だ。

 下旬からはじまる授業にもそろそろ備えなければならない。だが、一向にその意欲が沸かない。何のためにいままで勉強してきたのだろう。何のために、大学で教えなくてはならないのだろう。そう考えると、真己には急に一切が空しくなった。このまま死んでもどうってこともないし、これから私がいなくても、誰も困らない。真己は電灯もつけないで、夜の闇の中で宙を見詰めた。窓から美しく星がさざめいて自分を招いているように見えた。

 ルベンの住所はアレックスが連絡のためにメモしてくれたのを大切にとってある。いったいいつ、韓国に発つのか、自分のことをどう思っているのか。韓国の仏教とはどんなものなのか。なぜ日本で出家しないのか、聞きたいことはいくらもあった。聞かなければならないとも思った。それに一緒に自動車で帰ることを断わった言い訳を、伝えたいとも思った。それで何度もペンを取ったのだが、つのる思いを紙に移すと、たちまちひからびた文字の羅列になった。書いてみては破り、また書いては破りして、ついになにも書けなかった。

 二週間経っても心は晴れず、午前中はほとんで寝て過ごした。新聞によればフランスはムルロワ環礁 で核実験を強行した。怒りを通りこして、深い悲しみが真己を襲った。こんな核実験も止められないなら、第三次大戦を避けられるはずがない。ルベンがイスラエルで感じたのと同じ無力感を、真己は世界に対しても自分自身に対しても感じて打ちのめされた。

 このまま死にたいと、何度か衝動的に思うようになった。医者は抗欝剤を渡して、必ずこれも飲むように、三日に一度は通 院するようにと言った。慈光庵にいかなくなって四週間以上にもなる。

 突然、夏木神父から電話がかかってきた。東京へ帰る途中だが、今から行くから、名古屋駅からマンションまでの道順を知りたいというのだ。真己はあわてて「私が出向きます」といった。結局、真己のマンションの最寄り駅である地下鉄池下駅を出たところで落ち合うことになった。

 袖なしのクリーム色のワンピースにベージュの薄いカーディガンを羽織った真己のしょんぼりした姿を見付けて、夏木は足ばやに寄ってきた。

「どうしたんじゃ、真己君、心配してたんだよ。みんな」

 夏木は真己の背中に手を回して言った。

 二人はすぐ前のガラス張りの華やかな喫茶店に入った。

 昼下がりで、あまりお客はいなかった。

「これは佐弥可が作ったものだよ。お昼は食べたのかい」と、夏木が風呂敷包みに入った重箱を渡しながら尋ねた。

 真己はポロポロ涙を流して首を横に振った。

 勝手な生き方をしてきた為に、両親とは折り合いが悪い真己は、このように心身が不調になっても親にも姉にも話していなかったし、友人も子育てに追われて相談できるような状況ではなかった。それなのに、こんなに自分のことを心配してくれる人がいる、そう思うとそれだけで涙があふれ出るのだった。

「あ、ごめんなさい。なんだかこのごろ涙もろくなちゃって」と真己はハンケチで目頭を押えた。

「君、痩せちゃったじゃないか。食事はどうしているんだい。医者に見せたのかね。」

 夏木は気が気ではないという様子で矢継ぎ早に尋ねた。

「ええ、別にたいした病気ではないんですが、なんだか元気が出なくって」と、力なくほほ笑む真己に、夏木はすぐに慈光庵に来るように強く言った。

「もうじき学校が始まりますし・・・」とは言ったものの、果 たして学校に行けるのかまったく心もとなかった。心のどこかに、学校なんてもうどうでもいいや、という気持ちもあった。

 翌々日、歩くのも大儀な体を引きづって真己は新幹線に乗った。夏木が手配してくれて、京都駅には悠道が迎えに来ていてくれた。

「真己さん、どうしたんです。フラフラしているじゃないですか。顔色もよくない。剛山の食欲をわけてやりたいなあ」

 悠道は真己の荷物をもちながら、快活にそう言った。

「妙安寺の野菜、栄養がたっぷりですよ。トマトに青トン、なす、とうもろこし、それにそうめんカボチャ、知ってますか。中がそうめんみたいに細くほぐれるんですよ。酢の物にするとうまい。たくさん持ってきたから食べてくださいよ。剛山はきょうね、大根の種を蒔くのだと張り切っていた。」

 真己を元気づけるためか、悠道は一人でしゃべり続ける。

 真己は座席に深々と身を沈めた。

 目を閉じる。

 あのやさしい時間が流れる慈光庵に「帰る」のだ。

 車は加茂川から高野川沿いに走り、大原を抜ける。稲がはや黄色く色付きはじめている。濃緑の樹木の中に、またたびだけが半白の葉をからませていた。

 途中峠ではもうすすきの穂が出ている。夏は去ったのだ。

 慈光庵に近づくと、佐弥可がゴロウと一緒に弾丸のように駆けてきた。

 真己がよろよろと車から降りると「真己さんどうした」と佐弥可が両手を広げて真己をかかえた。真己より佐弥可の方がひとまわり大きい。まるで佐弥可の方が年上のように見えるくらい、真己ははかなげだった。

 「ごめんなさいね。たいしたこともないのに、お言葉に甘えてお世話になって」

 本堂にふとんをひいて真己を休ませて、佐弥可はすぐ玄米粥の支度をはじめた。

 真己はもう一人ではないという安心感から、そのままぐっすり寝入った。

 床には野菊と秋のきりんそうとつぼみの萩が生けてある。立ちのぼる線香の香の中で、ここの空気を吸えば、病気などすぐによくなるような気がした。

 じっさいおいしい佐弥可の手料理に、真己の食欲は順調に回復してきた。

 それにしても自分は精神的にあまりにもひ弱だと真己は情けなくなった。もともと小さいときから体はあまり強くはなかった。東京で育ったのだが、扁桃腺がすぐに腫れて九度の熱を出した。アレルギー体質だったし、おなかをこわすこともしょっちゅうあった。泣きべそで、遊び仲間にちゃんと入れてもらえず、いつも「おみそ」、みそっかすだった。鬼ごっこは捕まっても鬼にならず、縄跳びは「おもち」で持つだけで跳ばせてもらえなかった。すでにそのときなにほどか、人生の落伍者だったのかもしれない。

 中学三年の時から、学校へ行こうとするとおなかが痛くなった。登校拒否である。年に三分の一づつ休みながら、それでも落第しないでなんとか高校を卒業した。気持ちの揺れが、すぐ体に出てしまうたちなのだ。

 この庵に戻って来て五日ほどしたら、土色だった顔色もほんのり赤みがさしてきた。

 今日は夏木神父が帰って来る。あすの坐禅会にも出れそうである。

 しとしと秋雨の降る朝だった。

 土間の入り口の横にある、小さな鐘をつないだような鎖どゆを伝わって、水が水晶のようにこぼれていく。とゆを落ちる雨を、こんな音楽に変えてしまう日本人の美意識は心憎いばかりだ。

 雨垂れの音を聞いていたのか、ルベンの車の音に聞き耳を立てていたのか、土間に近く座って真己はぼーっと外を見ていた。

 悠道たちは到着したが、ルベンはこない。まさか、もう発ってしまったわけではあるまい。不安になって佐弥可に聞いた。すると、今日はどうしても用事があってこれないのだといった。

 ほっとしながら、「ルベンはいつ発つの」と聞いてみた。「十月のなかば」と、彼女は溜息まじりでいった。佐弥可にしてもつらいのだろう。他に初めて会う人たちがふたり、雨の中を駅から歩いてやってきた。

 真己は坐禅をするつもりだったが、神父がまあ、無理しなさんなといったので、今回は真己が食事の当番をすることになった。禅寺では「典座」といって大事な役目なのである。

 提唱だけは、ちゃんと出た。四弘誓願を唱えおわって、テキストが開かれた。  

 

 「この生死はほとけの御いのちなり。これをいといすてんとすれば、すなわち仏の御いのちをうしなわはんとするなり。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなうなり、仏のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、このときはじめて仏のこころにいる。ただし、心をもてはかることなかれ、ことばをもていうことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる。たれの人か、こころにとどこおるべき。

 

 さて、『この生死は』というのは何度もいうが私達の人生だ。人生には本当につらい時期がある。それで死に至る人もいる。年間二万人以上が自殺しているねえ。このごろは、ちいさな子供のいじめによる自殺も増えている。なんとも痛ましいかぎりだ。

 だがね、つらくても死んではいかん。なぜなら、この人生は仏の命なのだ。わたしの所有物ではない。働き、飯を食い、寝る、この日常生活が仏の命だ。特殊な修行で日常生活を超える必要はないし、どんなにつらくても、この毎日生きるということを止めにしてはいかん」

 まるで真己が自殺を思っていたのを見透かしているように、神父は話した。

 そう、きっとわたしはどんなにささやかでも、この命を私の勝手にしてはけないんだわ。キリスト教で教えるように、死んではいけないのだ。でもどう生きたら、仏のいのちといえるんだろう。今の生活は惰性のようなものだ。仏として輝くような人生とはどんな人生なのだろう。わたしはどう生きたらいいのだろう。

 神父を見詰めると、ふたたび提唱が聞こえてきた。

「『これにとどまりて生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなうなり』とある。この世の苦しみは、たいていは人生にしがみつくからだ。喧嘩やいがみ合いも、その底にはお金や人間に対する執着がある場合が多い。

 死ぬほどつらい、というのでよく聞いてみたら、自分の容貌に対するコンプレックスだったことがある。他人にとっては気にもならないことだが、それを気にするのは自分に対する執着だ。あるいは名誉への執着。執着がこの人生を苦しいものにしている。捨ててごらん、楽になるよ。大丈夫だから、捨ててごらん。まあ、一番捨てられないで苦しいものが、人間関係かもしれないな。良寛さまがこう詠んでいる。  

 如何なるが  

 苦しきものと問うならば

  人をへだつる心とこたえよ

 理解し合えない、これ以上苦しいことはない。あるいは自分の思いが人に届かない、つらいものだ。裏切られる。人間不信という大きな傷を残す。それが苦しいということはよくわかる。でもそのいちばん大事なものを放してごらん。何かに執着しているということは、煎じ詰めれば自分に執着していることなんだよ。自分に執着しているかぎり、仏の命を止めてしまう。働かせられない。仏ってなにも神様みたいに向こうに立てるものではない。この自分から私を放してみれば、それが仏だ。

 私を放す、こんなことが、さあ、できるかだ。『いとう』というのは嫌うということだ。『したう』というのは好くということだ。好きだ、嫌いだというのを止めにするんだ。」

 嫌いなものをどうして止めにできるだろう。食べ物位はがまんしても、人間とか、ものの見方とか嫌いなものはどうしたって嫌いだし、好きな人はどうしたって好きだ、心はそんな簡単に私のいうことを聞いてくれないと、真己は不審げに神父を見た。

「ただね、そんなことが分かったからって、心がそうはならない。口で好き嫌いは止めといったって、どうなるものでもない。心や口先でどうにもならんということが、次に『ただし、心をもてはかることなかれ、ことばをもていうことなかれ』と説かれている。このわしの提唱を含めて、説教なんてものはなんの役にもたたん。わかっているけどやめられないというところに、人間の悲劇があるわけだ。わかっているように生きれたら、世話はないのだがな。人間の心身はいうことをきかん。

 そこで、『ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる』といわれる。仏の家に心身を投げ入れるとはどういうことか。これは結論をいえば、出家ということだよ。世間の家から仏の家へ自己を企投する。私なしの生活とは出家生活だ。もちろん、ただ仏の家つまり寺に入ったからといってどうなるものでもない。そういう意味でいわれているのではない。どこにいたって私達の生き方の根本が変わらなければ、同じことだ。

 さて、どのようにして生き方を変えるかということが、じつはやっかいな問題なのだ。それに対する道元さんの答えは簡単だ。仏の方から行われるという。仏の方から行われるというのは、具体的には坐禅を指す。自分で頑張る坐禅ではない。仏の方から行われる只管打坐だ。

 『現成公案』という大切な巻で、『自己を運びて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するは悟りなり』といわれているのはそのことだ。また『仏道をならうというは自己をならうなり。自己をならうというは自己をわするるなり』とある。この「自己を忘れる」というのは、無我の境地というような特殊な境地ではない。「自己をならう」坐禅のなかにすでにあるのだ。特殊な境地だったら、ああいい体験をしたとかいうことがあるが、道元はそういうことはない、とはっきりいっている。

 「諸仏のまさしく諸仏なるとき、自己は諸仏なりと覚知することあたわず」とある。また『弁道話』には「覚知にまじわるは証則にあらず」ときっぱりいわれている。どんな体験も人間の体験に過ぎない。あるいは脳内現象に過ぎない。仏とはそんなことじゃないんだ。

 仏の方から行われること、これは普通の人間の生活にはない。只管打坐にしかない。それを少し広げて人生ということでいえば、坐禅を中心とした生活、具体的には夏安居といって三箇月こもって坐禅し、普通 の日には朝晩坐禅をするという生活だ。その生活こそが悟りなのだよ。

 道元さんは身心脱落したという。それをたいていは間違えて、身も心もスカッとしたようなオウム真理教でいうクンダリニー体験みたいなものを、身心脱落だと思う。とんでもないことだ。「身心脱落は坐禅なり」と道元は明確に言い切っている。坐禅をすることの外に、どんな奇特な体験もないのだ。

 出家がいいのはね、一人ではないからだ。今は本当に道を求める人が少なくて、一人でやっている人もいる。だけど僧というのは僧伽の略で、サンガとは仏教共同体のことだ。ほんとうは一人で僧ということはありえないのだよ。みなと一緒に修行する、だからいいのだ。これもなにか間違えて偉い僧は一人で山の中に籠るものかと思う人がいるね。前にもいったようにゴータマ・ブッダは独りで籠ることをされない。毎日、食べ物を托鉢しなけりゃならないからね。そして食べ物をくれる在家の信者、これも僧伽の一員なのだ。出家の男女と在家の男女、これを四衆すなわち僧伽というのだよ。

 でも、とりわけ出家者が坐禅に引き回される生活をする。日本では夏安居の伝統がほとんどなくなっているが、韓国やベトナムにはまだ残っている。まあそのかわり、数はすくないが、心ある寺は毎月接心をやっている。たいてい五日やっているから一年で六十日、夏安居に近い日数になる。坐禅修行しないようなのは頭を剃っても出家とはいえないな。修行者の日々の生活の仕方を説いた『弁道法』という巻があるから、ちょっとそれを読んでみよう。

 『大衆もし坐すれば衆に随って坐し、大衆もし臥すれば衆に随って臥す。動静大衆に一如し、死生叢林を離れず。群を抜けて益なく、衆に違するは未だ儀ならず。これはこれ仏祖の皮肉骨髄なり。また乃ち自己の脱落身心なり』

 いいかい、出家生活では身勝手はできない。それがいいのだ。身勝手しないで、仏の方から引き回される、それが身心脱落なのだよ。『仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもついやさずして、生死をはなれ、仏となる』とは、そういう出家生活のことをいうのだ。頭や口先のことではない。身体の問題だ」

 真己には「身体の問題だ」ということがよほど応えた。一人でいる身勝手で、身体を悪くしてしまって、この慈光庵に来させてもらった。ここでは頭の問題ではなく、身ぐるみの生活が良かったから、これだけ回復できたのだ。

 イエスに従う道だって身ぐるみの道だった。生活全部をかけての生き方だった。何かの為に体調を整えるのではない。何かの為に生きるのではない。生きるというその身ぐるみの生活が、仏道であり仏となるということだろう。

 真己はイエスに代わる本当のものを求めていた。けれど、そういうイエスとの関係性の代替となるものは、おそらく仏教にはないのだ。真己がかつて目指していたものがイエスに従う生き方全部であったように、仏道というのも、身ぐるみ全部のものなのだ。要は「仏の家に投げ入れる」つまり出家修行するということなのだろう。

 丈夫ではない真己は、出家修行はきついなあと思った。

 でもこの慈光庵での生活が、朝は早いがわりに楽であるように、案外、楽なのかもしれない。少なくとも虚無の苦しみよりは楽だろう。ルベンが出家するからではなく、私は私の道として出家したい。提唱が終わる頃には真己は本気でそう考えていた。

 翌日、真己は夏木神父といっしょに名古屋に向かった。

 車中で真己は来年にも出家したいので今年度で学校を辞めたいという話をした。 「出家といってもどこの寺がいいかねえ」と神父は小首を傾げた。

「光道さんや悠道さんは男僧だからねえ。いい尼僧さんを知っていたが、去年亡くなられて」と言葉を濁した。

 では韓国にでも、と言おうと思ったが、さすが言えなかった。韓国の仏教について真己はおよそ何も知らなかったし、それはルベンへの執着だろうと思ったからである。

「まあな、真己さん、あんまり焦らなくてもいいんじゃないかな。君が学校に職がある間に、仏教を勉強することをお薦めするよ。もちろん、わしが持っている死んだ友達の本も使うといい。坐禅と学問と仏教では両方とも必要だが、今の日本では出家するとなかなか学問ができないんだ。

 ルベン君も短期間に随分勉強したようだ。出家の生活もどういうものか、もう少し見てごらん。できたら悠道さんの寺の接心に参加してみたらどうかね。慈光庵にはいつから来ても、いつまでいてもいいよ。 そうだ、ルベン君の送別会をさ来週の土曜にしようと思う。来れるね」

「はい、喜んで伺わせていただきます」  真己だけ名古屋で降りて、神父は東京に向かった。

 

 稲穂が黄金にゆれるたんぼを、真己は身の丈より長い琴をさげて歩いた。道の両脇にづっと続く彼岸花は、もうほほけて色あせていた。柿の実がたわわに熟している下を、地味な薄墨色の着物をきた真己が通 る。息を切らせて坂道を登ってやっと慈光庵にたどりついた。

 「こんにちわ」と声をかけると、お勝手で何かしていた佐弥可が濡れた手のまま出てきた。

「まあ、真己さん、何それ!」

「あなたの弓とどっちが長いかな。なんだと思う。お琴よ」

 佐弥可は目をくりくりさせて「うわー、早く上がって見せて」とせがんだ。

 草履をぬいで、床に目をやるとワレモコウと桔梗が生けてあった。ワレモコウか。はじめてここを訪れた時、この花が庭に咲いていたっけ。

 佐弥可が香ばしい番茶をもってきた。

「ねえ、はやく見せて。わたし、琴の音、大好きなんだ。このファスナー外していいかな」

 そういって、もう袋をぬがしにかかっている。

 真己は佐弥可のそんな様子を心から嬉しそうに、にこにこして見ている。

「ちょっと待って、重かったから疲れちゃった。ゆっくりお茶、飲ませてね」

 ケースを開けると白地に紅いろの梅の花を描いた西陣織のゆたんに包まれたお琴がでてきた。

「あのね、このお琴、佐弥可さんにあげるわ。それでもってきたの。気にいってくれて嬉しいな」

「えっ、くれるって。でも、どうしてよう。これ真己さんの大事なものでしょう」

「ええ、大事だったわ。高校の時買ってもらって、大学にいくので京都に移った時も、もっていったわ。一度お金が無くなって質屋に入ったことがあるけど、なんとか出せたのよ。私、ほかに趣味ってないけど、お琴だけ大好きだったの。これってわたしの執着かな。執着を断った方がいいと思って。でもほんと、あなたが気に入ってくれてよかった。今日はこの琴とのお別 れに、うん、もちろん琴だけじゃなくって、当分ルベンさんともお別れだから一曲弾いてみようかと思って」

 そういいながら真己がゆたんをひろげると、あざやかな木目が浮き出ている琴が現れた。

 「でも、そんな大事なものくれていいのかな。ねえ、どうやって弾くの」

 真己は調弦をするため琴柱をむこうから十三箇立てていった。

「佐弥可さんは、弦を弾くことはプロでしょう」

 佐弥可が以前に弓弦を鳴らしていたことを思い出したからだ。

「琴は爪をはめて弾くの。この爪、もしあなたの指に合わなかったら爪だけ新しくしてね。これから平調子に合わせるから、いま印をつけるところに琴柱を立ててね」

 真己は調子笛を取り出し調弦していった。

 泣くまいと思ったのに、ポロポロッと涙がこぼれた。

「ねえ、何か弾いてみて」

「ええ、ルベンさんたちが来たら弾くわ」

「その前に、今ちょっと弾いてみて」

 せがまれて真己はコロリン、コロリンと遊ばせていた手を止めた。

「じゃあ、一曲だけね」

 そういってさくら変奏曲を弾きだした。

 前奏部を弾いていると、あのさくらふぶきの下の思い出がせつなくよみがえってきた。

 「さくらーさくらーやよいのそーらあわ」

 佐弥可が琴に合わせて、小さい声で歌いはじめた。「みーにーゆうかーん」それから急に早くなる。

ツンテテツンテン、ツツテンツツテン、ツンテンテンテン、ツ、カラリコロリ、テンツンツンツン、ツン、トトトントン

 真己は目を閉じた。琴の発表会であのさくらのはなびらの着物を着て弾いたことが思い出された。その着物でルベンに抱かれた。

 はやい爪の動きにつれて閉じた瞼の中で、はらはらはなびらが散っていた。

「ツツテン、ツツテン・・・」

 弾き終わると、真己も食事をつくる手伝いにまわった。

 佐弥可が弓の練習を休んで山にいってとってきた松茸が二本、七人には少なすぎるが仕方がない。栗ごはんに人参やごぼう、れんこんなどの吹き寄せ煮、そして裏庭で栽培した椎茸と炊いたえび芋のてんぷら、青とんとなすの素揚げが用意された。

 神父は、今日は特別に鯉をおろして洗いを作っている。酢味噌とよく合う。大根と茗荷のつまを添えた。だいたい準備がととのった時、車の音がしてルベン、アレックス、剛山、悠道がやってきた。

 ルベンと会うのは二箇月ぶりだ。動悸が激しくなるのを深呼吸でととのえた。ルベンはらくだ色のトックリのセーターに茶のコールテンのズボンをはいていた。少し白髪の交じった茶色の髪がふさふさしている。髪と髭のあるルベンに会うのはこれが最後だろう。もしかしたら真己がおかっぱでルベンに会うのも最後かもしれない。

「やあ、真己さん。お久しぶりですね。体の具合はどうですか」とルベンがやさしく語りかけてきた。

「お陰様で・・・」

 いろんな思いが溢れてきて、後は言葉にならなかった。

 みんなはいろりのまわりに車座になった。

 畑から掘りあげたばかりの初物の里芋に、白味噌の汁を張って、ささやかな送別 の宴がはじまった。今日は特別にお酒も出されている。

 佐弥可が隣のルベンに竹のおちょこを差し出し、お酒を注いでいる。真己には悠道がお酒を注いだ。

「じゃあ、ルベン君の新しい出発と健康を祈って乾杯!」と夏木神父がいった。

 真己はやっぱり二人はお似合いだなと思いながら、お酒に口をつけた。おいしいと思った。お酒がおいしいのか、みんなでこうしているのがおいしいのか、わからなかった。

 食事が一段落して、佐弥可は濃い茶を練るという。つり釜がかけられ、手作りのいも羊羹が出された。すっと佐弥可の手が美しく伸びて釜から柄杓で湯が汲まれた。

 つと目をあげると、ルベンがまっすぐ真己を見詰めていた。

 真己は肩で息をついて、溜息を漏らすまいとした。目を茶碗に移すと静かに湯が注がれている。茶が練り上げられた。

 まず今日の正客であるルベンが飲み、神父、アレックスと回って真己のところにきた。ルベンと同じ茶碗で同じ茶を喉に通 す。ほろほろっと涙がこぼれた。

 静かに悠道に茶椀を送った。真己の情緒不安定はけっして十分には回復していないのだ。

 佐弥可が茶碗を片付けると、真己は立って琴をもってきた。

 「思い出に一曲」といってルベンと差し向かいになる位置で琴の前に斜めに座った。おもむろに弦を爪弾いた。

「ツーウン、シャッツーウン」。

 曲は「乱れ」である。千々に乱れる思いを弦に託して、真己は一心に弾いた。月の光が凄いほど差し込んでいる。弦を押える左手のたもとが、ひらひら揺れた。