第十一章 青春
若葉が雨に濡れていっそうみずみずしさを増している。
この前、参禅会から帰ってから真己はぼんやりすることが多くなった。雨の音を聞きながらふっと気がつくとルベンのことを考えている。考えたからといってどうなることでもなかった。佐弥可とルベンはおよそ切り放して考えられない仲だ。生まれ育った大地を離れて生きている彼女にしてみれば、少女の時から自分を知っていてくれるルベンがどんな大切な人か、おそらくは、本当の兄よりも親わしく思っているのだろう。自分のことで佐弥可を悩ませたくはなかった。でもどうしてルベンとわたしは、こんなに気が合ってしまったのだろう。ああ、ルベンはわるい人、恋いの深みにはまらせるようなことをして。
この間、駅まで送ろうというルベンの好意を「もう慈光庵から送っていただくの、やめた方がいいような気がします。佐弥可さんの気をもますようなことはしたくないから」と、断ってしまった。一瞬ルベンは驚いたようだったが、やがて悲しそうに顔を曇らせた。
「佐弥可とは別になんでもないんだ。幼馴染みの友達なんだ」と弁解する彼に、
「ううん。もう、わたし、いいんです」と、真己はわけの分からないことを口ごもった。
涙が出そうになったので、呆然と立ちつくすルベンをしりめに、逃げるように歩いて帰ったのである。
真己にはどこかで醒めている自分がいつもいる。これも夢だと思ってしまうのだ。だからこそ、もう少しこの夢に酔わせてほしいとも思う、人を傷つけないかぎり。
ルベンの青い瞳からこぼれる笑顔はほんのしばらく生きることの寂しさを忘れさせてくれる。だが、夢はいづれは醒める。醒め果 ててしまっても確かに残ることは、空しいというそのことだ。だから結局、真己には夏木神父を手掛かりに何とかこの空しさから逃れることよりほか、生きていていて意味のあることはない。そしておそらくはルベンもそうなのだ。
新学期が始まって、本当はぼんやりなどしていられなかった。授業の準備もあるし、今度の月曜日は敦賀でのチェルノブイリ九周年の脱原発宗教者の会に誘われている。慈光庵の夏木と佐弥可は実行委員ですでに準備で忙しかった。
どんより曇った空が今津を過ぎるころにはますます暗くなった。裏日本と呼ばれる圏域に入ったのだ。雨になったらやばいなあと思いながら真己は特急の車窓から琵琶湖を眺めていた。湖面 のところどころに大きな二重の矢印が描かれている。えりという昔ながらの漁法でその中に魚を囲い込むのだ。さざなみの中にくっきりとなんと美しい意匠なのだろう。
やがて列車は山間部に入った。
敦賀の駅前はなにかうらさびしい。大きな建物はなくがらんとした広い道路だけがまっすぐ前に伸びていた。日干し魚などを売っている二階建ての昔風の商店街を歩いて会場にむかった。会場の入り口では緑が友達と受付をしていた。
「まあ、緑さん、御苦労さまです」
こういう会にあまりなじみのない真己は、緑の顔をみてやっと緊張が解けた。緑は阪神大震災のボランティア以来、すっかり元気に市民運動に参加している。運動であちこち飛び回っている藤木の生き方によほど共鳴したものとみえる。緑にはお坊さんといえば暗い古風なイメージだったのが、いまや一番自由人に見えるらしい。もっとも彼女はまだ念仏とは無縁のようだ。
「遠いところをありがとうございます。もう大分たくさんの人が集まっています。ここに名前を書いてどうぞ奥へ。神父さまも佐弥可さんももう来てますよ」
そう緑に促されて真己はコートを脱いで受付を済ませた。入り口から窺うと作務衣の夏木と佐弥可はじきに分かった。黒い衣を着ている藤木と並んで前の方に座っている。横の壁にはあのりっぱな弓がちゃんと立て掛けてある。他に何人かが僧衣や修道服を着ていた。真己は後ろの方に腰かけた。壇上には「天を恐れよ!」と墨書された大きな旗が掲げられ、横断幕には「ストップ・もんじゅ.ストップ・プルトニウム政策」と書かれていた。
法衣を着たずんぐりした真言宗の僧侶が現れ、その前でチーンと鈴を鳴らした。全員が黙祷を捧げてチェルノブイリでいまなお苦しんでいる人々を偲んだ。手を組んでいる人、合掌している人、瞑目している人など様々だ。一つの神の名によってではなく、ただ同じ切実な願いによって共に祈り、そして行動する、これは大事なことなのだと真己は思う。ただ、私はその祈りを届ける先がない。
チーンと終わりの鈴が鳴った。
続いて地元の若狭の僧侶が絡子をかけて壇上に上がった。色の白い繊細でみるからに潔癖な青年僧であった。広島の原爆被災者救援の思いからはじまってもう二十年以上托鉢しながら放射能の恐ろしさを訴えている、彼は、ついにもんじゅが臨界に達し、いまや十五基の原発が稼働している若狭湾地元の不安をいくつかの子供たちの声によって聴衆の耳に届けた。
「お母さん、私ら小浜の子は、他の県の人と結婚できんね」という中学生の娘の言葉。美浜二号炉の危機一髪の事故は中学三年の少年がこう綴った。 「昨日は補習授業で学校にいたが、ドーンと落雷のような音がして、発電所から水蒸気が入道雲のように吹き上がるのが見えた。爆発事故かな?死ぬ かもしれんと思った」
そんな胸に突き刺さる子供の叫びを紹介した後、彼は五〇年も前の軍事訓練をする僧侶たちの写 真を示して、国策に迎合するだけでむざむざと殺生をゆるしてきた日本の宗教者の反省を迫った。そして自作の「もんじゅてふ、菩薩の御名をば弄ぶ、悪魔の炉をば許すべからず」という和歌で締めくくった。大人のさまざまな思惑がからんだ言葉ではなく、純真な子供の目と口を通 した訴えは、それ自身で宗教の位相に極めて近い。
たくましく日焼けした原発労働者が続いて壇上に上がった。その人はとつとつと原爆労働者の矛盾を訴えた。年間の被曝線量 が5レムと決まっているから、それだけ浴びた人は使い捨てであること、一日の被曝線量 も決まっているから放射能が高い方が短時間で済む。二分でナットを回してそれで一日の仕事は終わりということもあり、こういう危険な仕事をむしろ労働者は好んでしまう。しかも放射能に関する知識も与えられず、ひどい場合は外国人で言葉も分からないまま使われる。ここでも外国人は差別 されるのだ。さらには原発の中では暑くて汗が噴き出てマスクを取って深呼吸せざるをえないことがあり、電気の明かりもトイレもなく真っ暗なところで用を足してしまうという驚くべき労働環境も報告された。被曝労働者は延べ二九万人という。
真己は原発労働者が笹島の労働者と同じ人々であることを思った。笹島から原発に行く人がおり、また原発で使い捨てられたら釜崎や笹島などの寄せ場に行く。いつか笹島の労働者があのビルは俺が建てたといったのを聞いて、この人は頭がおかしいのかしらと思ったが、自分の方がおかしかったのだ。お金だけ出してクギ一本打たない社長が「俺が建てた」というより、何日もその現場で実際に建築に携わった人が「俺が建てた」という方がよほど真実というものだ。こういう労働者によって道路ができ電気がきて都市の生活がなりたっている。
しかも原発現地の若狭の鉄道はまだ電化すらされていなく、「送電も事故も引き受け、この若狭の雪にディーゼル列車を走らせている」と和歌で訴えている。でも都会の人間はほとんどその人達のことを知らない。まずはこうやって聞かされて知らなければと真己は思った。
三人目は髪と髭を蓄え輪袈裟をかけて数珠を手にした僧侶だ。藤木の友達の地元の浄土真宗の僧で重い足取りで登場した。まず合掌してからこう切り出した。十数年来自分が葬式する者はガンと白血病だけである。しかし、死亡診断書には心不全とか書かれ、疫学的調査でわかりにくい。とりわけ原発労働者が病気になった場合は電力会社の指定の病院でしか見てもらえないので実態がわからない。どうしてこうガンばかりなのかと。彼は現地での原発建設反対の座り込み運動にも僧衣を着て参加する。
ある人が「どうして坊さんがこんなところにいるんか」と聞いたところ、一緒に座り込んでいたお婆が「坊さんたちは長い間のツケを払いはじめたんじゃ、長いこと寺の中の厚い座布団に座ってなーんも仕事をしてこなかったけん、そのツケを今払い始めたん」といったという。能登や三重の漁師たちは「南無阿弥陀仏」ののぼり旗を掲げて船団を組んで原発設置に抗議する。彼らは宗祖親鸞が国家によって弾圧され流罪になったことを十分知っている。彼らの信は国家をも相対化しうる底力をもっている。念仏は臨死儀礼などではなく、歴史のただ中で国家に対峙しうる自立した精神をもたらすのである。
しかしながら、真宗王国の地であるこの会場にも地元の参加は少ない。反対の思いは溢れるほどあっても、親類のだれかが原発関連事業に努めていたり、回りの目やさまざまな交付金を受けているという事情もあって参加しにくいのだ。そのことを彼は十分承知したうえで、せめて宗教で飯を食っている者は歴史の中に生きて働く主体として国策を批判できねばならない、と訴えた。
八戸のプロテスタントの牧師があたふたと壇に上がった。普通 列車を乗り継いで到着したばかりという。彼は反原発運動をしたというので教会を追い出された経緯を語り、それでも近くに伝道所を開いて青森六カ所の反対運動の支援を伝道所ぐるみで取り組んでいる、そして彼を追い出すような体制的教会の現状を嘆きつつ、こういう時代にこそキリスト者は予言者的運動を担っていかなければならないと決意を示した。大阪京都など都市部からはかなりのクリスチャンが参加していた。かれらはプルトニウム政策反対の教団決議表明を報告した。
続いて修道女が六カ所の核燃サイクルへの反対運動、プルトニウム輸送をめぐる国際的反対運動について語った。大阪からやってきた年配のプロテスタントの牧師も東京や大阪での反対署名活動をのべた。大阪のグループは毎週、「ストップ・もんじゅ」の署名を集めに福井県に出向く。やっと地元と都会の消費者の信頼関係が築かれてはじめている。
日本のキリスト教は農村漁村への伝道に失敗した。民衆の不屈の信仰として何百年も保たれていたキリシタン信仰さえ、地元の若者の都市への流出、都市の教会の彼らへの冷淡さによって所得倍増時代に根こぎにされた。それゆえクリスチャンの多くは過疎の現地で脱原発運動を担う主体にはなりえていない。
佐弥可も報告者の一人だった。彼女は水槽に入れた魚をもってきて壇の机の上に置いた。
「この魚、よーく見て。この魚、背骨曲がっている。若狭湾で採れた。これ言うと漁師の人に迷惑かかる。でもね。わたし隠したくない。これ私達の為の犠牲よ。私達人間が魚さんをこんなしてしまった。若狭の原発だけじゃない。ロシアがすっごくたくさん核廃棄物を日本海に捨てた。どんなにたくさんの海の生き物が苦しんでいるか、これを見て感じてほしい。
それからこの魚、私達への警告としての犠牲だ。水俣病の時も魚がだめになり、それを食べた猫が狂い死んだ。この魚、わたしたちの子供の未来の姿映しているよ。今、気づかなきゃ手遅れなんだ。もうたぶん手遅れなんだよ。この魚たちの命、勝手に奪う権利、人間にはないよ。海の生き物も人間も鳥も動物もみんな一つの命でつながっている。人間がそれを壊す。人間が一番悪い」
佐弥可の気迫に「天を恐れよ!」という旗が揺らめいたかのようだった。
最後に緑がさっそうと現れて大会宣言を朗読した。「空しい」といっていた緑がすっかり成長して生き生きしている。未知のものを求める中での「空しさ」の感情と、真己が知ってしまった空しさとはたぶん質が違うのだ。真己のはまだないのではなく、すでにないという喪失感である。それはあるいは戦後の皇国少年や思想的転向者が共有できうるものかもしれない。それにしても若者は可能性を秘めていて素晴らしい。彼女は見違えるほど大人になった。こんな年になっても迷っているのは私くらいかなと真己はさみしく思った。
翌日はもんじゅと美浜原発の見学、そして動燃と敦賀市長への申し入れをして、そこから駅前までデモである。
こぬかのような雨が降るなかでバスや車をつらねてもんじゅに向かった。敦賀から原発のために山の中に作られた立派な道路を通 っていく。ここにはまだ赤い里つつじが咲いている。この道路ができただけでも地元は原発に感謝していると聞いた。
そうだろうか。美しい山が札束で薙ぎ倒されていったのではないだろうか。暗い海岸線に出ると眠ったように静かな漁村が現れた。白木地区である。まもなくもんじゅだ。
海に囲まれた岬に異様な白い建物が見える。山肌が削り取られて円いもんじゅと四角い幾つかの建造物が立っている。それらの建物を見下ろす小高いところに皆上った。建物の向こうは雨で煙った黒い海が広がっていた。
この建物の中には水と触れれば爆発し、空気と触れれば激しく燃焼するナトリウムが千五百トンも曲がりくねった細いパイプの中を回っているのだ。燃料のプルトニウムは放射能の半減期が二万四千年という猛毒物資であり、それから簡単に原爆が作れる。そういう恐ろしいものを満たしたこの建物群が真己の目には巨大な墓場のように思えた。放射能危険物資の黒と黄色のマークがいろんな所に書かれている。まるでどくろマ−クのようだ。
そんな危険物質を人間が完璧に管理することはできない。ドイツ、アメリカ、イギリスで増殖炉はすでに撤退しているし、フランスのスーパーフェニックスは亀裂が入って飛べない鳥だ。それを日本だけが制御できると思うのは思い上がり以外の何物でもない。もんじゅも多くの設計ミスなどが見つかって本格運転の予定は遅れに遅れている。五十人ほどの参加者は中には入れてもらえないので、そとからその怪物を凝視した。
もんじゅから美浜原発への道は美しい海岸に沿っている。年を経た松が長々と緑の手をコバルト色の海に延べている。夏には海水浴客で賑わったというが原発の温排水でクラゲが多発し、昔日の賑わいはないという。こんなに美しいところにどうして原発が立つのか。対岸に原発が見えていては民宿も大いに迷惑なはずだ。
辺りの風景になじまない立派な美浜原発PRセンターの前から専用のバスに乗り込んで橋を渡り、原発を外から見学する。松籟が響いてきそうな根上り松の並木と原発はどう見てもミスマッチだ。九一年に細管がギロチン破断した二号炉が見える。もしあのとき緊急停止できなかったら炉芯溶解の大惨事になり、今のこの光景もなかっただろう。
夏木はバスを降り、ほとんど人気のない敷地にたった。そこで彼はこれら老朽化した原発が大事故を起こし琵琶湖に放射能が降り注ぐ幻を見た。そのとき真っ先に被害を被るのは、なにも知らない純真な子供達なのだ。びくっと身震いして、だからどうしても原発は止めねばならない、命をかけてでも、と夏木は自分に言い聞かせた。
「お客様、敷地に降りないでください」という案内嬢の声が届かないのか、夏木はじっと腕組みをして美浜原発を見詰めていた。
アトム館での動燃の対応も市長の返事もおざなりで誠意がなく、参加者からおもわず怒号も飛んだ。
デモは小雨をついてなされた。若者の大半は雨具を着ないで、ゼッケンをつけ、のぼり旗やプラカードを掲げている。真っ黒な牧師のガウンを着ている人、黒い衣の僧、制服の修道女、どんつくどんつくとうちわ太鼓を鳴らす法華宗の人、異形のデモ隊が続く。真己はデモ隊から離れて通 行人にビラを配る役にまわった。商店から顔だけだして覗いている人、わざわざビラを受け取りに寄ってきてくれるお年寄り、反応はさまざまだが「敦賀はもうあかんわ。死んだ街になってもた。息子たちもよう帰ってこん」といった年配の主婦らしい人の言葉が胸にささった。
故郷を誇れないとはなんと無念なことだろう。そしてこの人達は日々見えない不安に包まれて過ごさなければならないのだ。都市の住人が夏をクーラーで涼しく過ごすには余りに大きな犠牲である。真己は身も心もすっかり冷えてしまった。帰り際に佐弥可がやってきた。
「真己さん、ごくろうさま。途中まで藤木君の車で一緒に帰らない?じつはちょっとお願いある」
さすがの佐弥可も疲れたらしくかすれ声でそうささやいた。
「ええ、今日中に帰れれば」と真己は受けた。敦賀から慈光庵までわずか一時間である。二十分ほど走って三国峠を越えればもう滋賀県だ。その道中、佐弥可は剛がいよいよ悠道について出家するので袈裟を縫うのを今週中に手伝って欲しいといった。袈裟は半針返しで細かい糸目で縫うので手縫いである。布は光道がヤシャブシの実で染めたものだった。本来は僧侶自身が縫うもので剛も佐弥可に習って奮闘はしているが、とても一人では無理だった。九条を縦に三分割して二七枚もの布をつなぎ合わせ裏もつける作業である。真己は慈光庵に寄って六枚分の布と糸を受け取ったが、たしか戦時中の千人針も半返しではなかったかしら、多くの人も思いを込めるという意味でも似ているなと思った。そしていつもの駅から列車にのった。
また坐禅会の日が巡ってきた。慈光庵への道には谷うつぎの桃色のはなづさが風にゆれている。木ふじも黄色の簪のような花をつけて、透明な風が樹木の間をわたっていた。足元にはタンポポや立ちつぼすみれがあちこちに清楚によりそって咲いている。道草のできるような草の咲く道は街にはない。
「まあ、かわいい」
真己はかたまって咲いているすみれを根っこごと抜いてティッシュペーパーで包んだ。
慈光庵につくと佐弥可が目ざとく見付けて「それ、なに」と聞いた。真己がティシュを空けると、「なんだ、すみれか。こっちにおいで」と畑の上に誘った。行ってみるとその空き地には一面 のすみれが咲いていた。目立たないけど小首を傾げたり、うつむいたり、なんとも可憐なすみれたち。中には白い小さいすみれやピンクのものもある。
「こんなにたくさん。自然に生えているのですか」
「ううん、工事現場で殺されかかっていたから、夕方連れて来た。真己さんに帰りたくさんあげるね」
佐弥可には珍しく、しゃがんですみれをやさしくなでるように手をかざしてそう話した。
ルベンも来ている。真己は少し固くなって入っていったが、ルベンの方からにこやかに「おはようございます」と声がかけられた。その優しい目に出会うとフワッと体が熱くなり、小さな声で「おはようございます、この前はどうも」と真己も返事をかえした。
今日の午後は悠道の寺に行き、剛の出家の儀式に皆が参加してそこでまた坐ることになっている。
慈光庵からは夏木神父、佐弥可、真己、ルベンがアレックスの運転する車に乗り込んだ。悠道の妙安寺は慈光庵から北に上り、左手に安曇川をさかのぼった朽木村にあった。廃寺だったのを借り受け悠道が自分で修復したものである。川ぞいに五月のこもれ日の下を車は進んだ。
若葉は陽光をうけて一枚一枚輝いているようだ。藤が高い樹木のところどころに紫色の花房をつけている。藤といえばびっしり密集して垂れ下がる藤棚しかしらない真己は緑の衣にかけられる雄大な紫の帯びに感嘆の声を発した。やがて道が折れて未舗装の曲がりくねった上り坂が続き、視界が開けた。下に安曇川を見下ろす絶景の場所に寺は立っていた。
すでに悠道と剛のほか光道とふたりの僧が待っていた。
剛は頭のてっぺんを残してきれいに剃りあげられ、白い衣を着て神妙に控えている。剛の母親らしき人も来ている。
「おめでとう、といったらいいのか、とにかくよかったわね」と真己はあいまいな挨拶をした。これからきっと大変だろうなと思ったからである。
「お袈裟、ありがとうございました。お陰様でちゃんと間に合ってできましたよ。出家って思っていたより大変なんで」と答える剛の体から柑橘類のかぐわしい匂いがした。丁子など香料をいれたお風呂に先程入ったそうである。
導師は悠道、補助の役僧は光道が勤め、あとの二人は伴僧だ。
須弥壇のあるちゃんとしたお寺は真己ははじめてだった。柱は黒光りしていたが建具はだいぶ傷んでいるようだ。本堂にはうすべりが引いてあった。須弥壇には松やシャガや山ぼうしなど山の花が豪快に生けられ、果 物のお供えがあった。
紫のおおきな座布団の前横には経机が置かれた。上にはお経、水の入った灑水器、香炉、お袈裟それに三宝に奉書が敷かれて青い松葉が束ねられていた。
灯明が灯り線香が立てられて出家略作法が始まった。
まず悠道が剛を引き連れて堂の東西をめぐり香を焚いて、父母、国王、氏神、縁者らに別 れの挨拶をする。出家とはただ家庭を出るだけでなく国家・社会・民族からも出るのかと真己は感慨深く見守った。
次に悠道が紫の座布団の上に座り、その前に剛が両膝をつけて跪いた。悠道がなにやら唱え事をしている。よく聞き取れなかったが、仏は一仏も在家では成道しない、祖師も出家でないものは一人もないといったことは分かった。覚るにはやはり出家しなくてはならないのかしら、と真己はすこし心細い気がした。それから剛は何度も立ち上がってお拝をした、次いで奉書につつんだ剃刀が剛の最後に残っていた頂きの毛に当てられ、皆がなにか唱えている間にそれは剃られた。
ルベンが身を乗り出すように見詰めている。剛は三拝して黒い衣を着た。また三拝して坐具という敷物を受け取る。また三拝して袈裟を頂いた。それらはいちいち香の上で燻蒸して与えられるのである。袈裟を頂く時に戒名が呼ばれた。これから彼の名は清雲剛山である。その袈裟を著けてから、応量 器という食器を受け取る。
また一連の儀式が続く。松葉に水をつけて左、前、右と露を撒く。佐弥可が食事の度にやっているあれだ。剛山の頭上にも露が撒かれた。これから受戒だ。まず懺悔文が唱えられ、仏法僧に帰依する三帰戒を受け、ついで菩薩がまもるべき教えを総括した三聚浄戒を受ける。そして大乗の十戒をうける。一々の戒を三回復唱し、三回参加者も一緒に「よく保つ」と答える。最後に「衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位 に入る。位大覚に同じうしおわる。これまことに諸仏の御子なり」と唱えて悠道の坐布団の周りをぐるぐる回り、血脈譜を受けておわった。これで正式な仏教の出家者である。
頭を剃って袈裟を著けた剛山はまるで別人のようにしっかりして見えた。
真己にはこの儀式は随分永く感じられた。すっかり足がしびれてしまった。ルベンとアレックスは耐えかねてあぐらを組んでいた。
何気なく神父を見るとなんと袈裟をつけているではないか。
「えーっ、これどういうこと」真己は目が点になってしまった。
受戒について後で聞くと、たとえ在家でも似たような儀式を受けて仏教徒になるのだという。だから「うちの葬式は何宗で」、というようなのは仏教徒とはいえない。葬式は主にこの受戒をするのだから、死んではじめて仏教徒ということになる。それにしても何十返お拝をしたかわからない。
これに比べるとキリスト教徒になるのはやさしい。事前に教理問答を勉強させられたりするが、要するに、イエス・キリストを神の子であり自分の救い主であると告白すればよい。それも「はい」と返事をするだけでいいのだ。すると牧師は父と子と聖霊の名によって私はあなたに洗礼を授けます、といって三回額に水をつける。教派によっては浸礼といって体全体を水に浸けることもあるがだいたいカトリックもプロテスタントもこんなものだ。カトリックや聖公会ではペテロとかマリアとか洗礼名がつくがプロテスタントにはそういうものはない。いたって簡単だ。
「剛山さん、おめでとう」とルベンが目を輝かせて握手を求めてきた。これからは剛山さんと呼ぶのか、と真己は眩しいように彼を見た。
まだ剛山の顔がこわばっている。
お母さんがそっと目頭を押えた。
ルベンはなかなか剛山のそばを離れず、袈裟に触れたり、衣をつまんだりしていた。
ルベンも出家する気かしら、とふと思った。
妙安寺からの帰り、真己は隣に座った夏木神父に尋ねた。
「神父さまもあのような受戒をなさったのですか」
「うん、最初に臨済宗の寺に行った時、受戒した」
「それでは仏教徒になってしまうのではありませんか。仏と法と僧に帰依するのですから」
「そうだ」ときっぱり夏木は答えた。
「じゃあキリスト教を裏切ることになりませんか」
「イエスは私の主だ。仏に帰依してもそれは変わらん」
「でも先程、『外道には帰依せざれ』と悠道さん言ってました。キリスト教は仏教からすれば外道でしょう。だからキリスト教を信じてはいけないことになりませんか。キリスト教の方からいっても、パウロは『主の名を呼び求めるものはみな救われる』といっています。主の名って他の名ではなくイエス・キリストだけです。どうしても矛盾すると思いますが」
「わしはね。わしが救われることは主イエスに委ねたのだ。君が矛盾するというのはもっともだし、多くの人が陰でわしを非難しているのも知っている。他宗教には敬意を表するだけで十分だというのもわかる。
でも、わしの死んだ友人はどうなるのだ。わしはそれを主に任せることができなかった。いや、彼は絶望して死んだんだ。わしはどうしても彼が生きて救われる道を見付けたかったのだ。道というのは自ら歩くほかない。そして救いは生きているときしかない」
夏木の目が異様に鋭く光った。神とでも論争するという気迫が伺える。
人の代わりに死ぬということはある。しかし、神父は人の代わりに生きるという。
真己はもう何も聞くことはなかった。
この方は私の前を行って下さる。