三章    風信  

 

「今日は、後期のまとめをしてからレポートの課題を出します」

 真己は教室に入ると開口一番そういった。

「まず、新約聖書のなかでイエスの言行が書かれているのは、はじめの四つの福音書です。その中で同じような資料によって書かれたのが初めの三つの福音書、つまり共観福音書で、ヨハネによる福音書だけは、一番おそく紀元九十年代に別 の資料を使って著者の思想を大きく盛り込んで書かれましたね。

 そして今年は主として共観福音書によってイエスの思想と生き方を見てきました。共観福音書の資料は、民衆の伝承といえるマルコの伝承と、マタイとルカの共通 部分から遡れる弟子の教団の資料とみられるQ資料でしたね。まず五、六〇年代にマルコが伝承を編集して福音書文学をつくりだしました。

 そのマルコによるイエス像は民衆の願いに答えて病気の治癒を主とする奇跡を行った人、また民衆の上に立つ宗教者のファリサイ派や律法学者、ときには自分の弟子に対してさえ論争によって鋭い批判を行った人でした。

 Q資料のイエスは説教者ではありますが、その説教は当時のユダヤ教の倫理を覆すようなすさまじいものでしたし、ちょっと実行できないような厳しいものでした。例えば「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ、わたしは敵対させるために来たからである」というのがありましたね。それはあとに「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者もわたしにふさわしくない」と続いていました。また「弟子の一人がイエスに『主よ、まず父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とも言っています。家族という温室から私達を引きづり出すような言葉です。

 イエスの方舟やオウム真理教など新宗教が家族と軋轢を起こして社会問題になっていますが、見方によってはイエスは社会問題を起こすために来たのだ、ともいえるのです。だから弾圧されて殺されたのです。その倫理命令も「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とか「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あたながたは神を富とに仕えることはできない」とか非常に厳しくはっきりしています。宗教者批判も「偽善者」とか「蛇や蝮の子」とか「災いだ」だとか、どぎつい言葉を使って面 罵しています。

 それでマルコのイエスの方は割に分かりやすいと思います。心や体を病む人に対して治りたいという欲望を必ずかなえてあげました。逆にそのような切実な人々の願いを踏みにじり安息日だとか律法だとか持ち出してイエスの活動に文句をつける宗教者をこっぴどく論破して批判したわけです。

 今日の状況でいったら行政がホームレスの方たちを追い出すのをイエスだったら絶対に許さないと思いますよ。けれども、Q資料が伝えるような厳しい倫理命令をするイエスは少し分かりにくい。

 さて、そのイエスの言葉を守ろうとする人はなんの為にそうするのでしょうか。例えばイエスに従うため家族を捨てるのは何故でしょうか」

 真己は教室を見渡した。首を傾げている学生もいれば、しきりに聖書をひっくり返して調べている人もいる。

 しかしだれも答えない。いつもそうだ。自分から積極的に意見をいう学生はこの頃いない。

「一番後ろの方、答えてみて下さい」と真己は少し声を上げていった。

「えーと、えーと救われるためではありませんか」

「救われるってどういうことですか。例えば家族と敵対して、それがどんな救いになるのですか」

「さあ、よくわかりません」

「ではその前の方、あなたはどうですか」

「救われるって天国に行くことで、救われないって地獄に行くことだと思います」

「そう。それはどこに書いてあることを根拠にしているのですか」

「どこって聖書、ああ福音書」

「まあそうですが、実は天国、バシレウス・ウーラノウスって言い方はマタイ独特なのですよ。同じQ資料でもルカは神の国バシレウス・テオスといっています。マルコも神の国です。地獄というのは確かに使われていますね。『右の目があなたをつまずかせるなら、えぐりだして捨ててしまいなさい。全身が地獄に投げ込まれない方がましである』と書いてありますから。また『殺した後で地獄に投げ込む権威を持っている方を恐れなさい」という言い方もありますし、ルカにはラザロの譬話、つまり乞食ラザロは死んでアブラハムの宴席に招かれ、金持ちは死んで陰府で炎の中で苦しむという話があります。でも天国ってどこにありますか。地獄ってどこにありますか。その前の方、答えてみて下さい」

「死んだら行くところでしょう。どこにあるかって空間的場所は分かりません。時間的に人の死後行く場所だと思います」

「あなた、ほんとうにそう思っていらっしゃいますか。死んだら天国か地獄に行くって」

「いいえ、思っていません。死んだらばらばらになって、最後は元素に帰ると思っています」

「そう、では天国や地獄は聖書の話に過ぎない、ひとつの観念というわけね。その前の方、あなたは」

「わたしはクリスチャンだから死んだら天国や地獄があると信じています」  真己はクリスチャンと聞くとなぜかいじわるな質問をしたくなる。

「そういう見方もたしかに福音書からできるでしょう。皆さんの中で死んだら天国か地獄に行くと信じている人、手をあげて。あ、二人ね。では死んでも天国や地獄はないと思っている人」

 もそもそと十数人が手をあげた。三十以上の人はどちらにも手をあげない。はっきり反応しないのはいつものことだ。それに輪廻転生を信じている学生も結構いるかもしれない。でも話がそれるからこれ以上質問しないでおこう、と真己は決めた。

「お二人の方が信じているように、たしかに福音書からはそういう見方ができるから、中世まではキリスト教はそういう教えでやることができました。でも普通 の人は天国か地獄かという二者択一は実際には難しいでしょう。天国に行くほど良いことをしていないけど、地獄に行くほどの悪人でもないって思うのが、凡夫。そこに目をつけたのが中世の教会ね。普通 の人に、お金を払って免罪符というのを買うと罪がその分減って天国行きになりますよってやったわけです。だれだって自分は天国行き間違いなしって確信はないでしょう。そこでこの商売はとってもはやったの。みんな地獄を恐れて免罪符を買ったわけ。それに対して抗議、プロテストしたのがルターです。

 でもルターは免罪符をプロテストしただけではなく、行いによって救われるということまでプロテストしてしまったの。それは福音書からは出てこない思想です。パウロという弟子の思想なの。

 パウロの思想には行いによる救いが否定され、ただ信仰によってのみ救われると強調されています。そればかりか、地獄もないの。

 まあパウロの思想はおいておきましょう。死後の天国や地獄の思想を批判したのはルターだけではありません。もっとも痛烈に批判したのはニーチェとマルクスだといえます。

 ニーチェは死後の世界のためにこの現世を蔑ろにすること、いやこの世で蔑ろにされ苦しくつらい目にあっている人に、死後天国が約束されていると説くキリスト教をルサンチマンの宗教だといって攻撃しました。そして死後の薄明かりの国ではなく、大地を、この地上を愛するべきだと主張したわけです。もっとも彼はパウロを主に批判したのですけど。

 いっぽう、マルクスはそのような死後の天国を夢見させる宗教を阿片だといったわけです。まあそれだけではなくって、観念としての精神の歴史的発展というヘーゲルの理論を、現実と観念を転倒した理論だといってこの世界の弁証法的歴史発展を階級闘争という視点から説いたのですけど、この生きている現実を見ないで、観念の世界に生きることを批判するという意味では、ニーチェの批判と通 じるところがあります。

 この天国・地獄という死後世界の観念についての批判はプロテスタント神学の中からも起こりました。今世紀最高の神学者といわれるバルトは実存的な危機状況の中で自ら決断するものこそ、信仰だとして死後世界を問題にしなかったし、ブルトマンも非神話化といって天国とか復活とかいう福音書の神話的表象を人間学的な問題、人間とはどのような存在か、どう生きるべきかという問題に読み替えるヒュ−マニズム神学を提唱しました。

 で、私はどう解釈しているかといいますと、そもそも福音書において神の国、天国は必ずしも死後のことをいっていない。いや、死後のことなどイエスは何も説いていないと思います。

 乞食ラザロの譬え話も、今苦しんでいる貧しいものに希望を説き、いま世の悲惨さに無関心な金持ちに警告を与え、今現在の生き方の転換を迫っている話として読めるのではないでしょうか。共観福音書によるとイエスは「神の国は近づいた」といって宣教したとあるでしょう。神の国がもし死後のことなら、これはもう死が近付いたということになってしまうでしょう。

 また主の祈りといってイエスが弟子の要請によって教えた短い祈りは「御名が崇められますように。御国が来ますように」で始まります。これも神の国が死後の国としてあったら、それが来ますように、ではおかしいでしょう。自殺志願になってしまします。それに「来ますように」であって向こうから来るので、人間が行くところではない。また神の国が近付いているという知らせであって、人間が神の国に近付いていけ、という勧めではないのです。

 種蒔きの譬えのように、イエスは人間が努力して作っていく神の国ではなく、向こうからやって来る神の国に備える運動を始めたのだというのが私の結論。

 では何の為に人はすざましいイエスの教えを守るのか。家族と喧嘩してまで、手を切ってまで、いや命を捨ててまで。神の国に備えるためにかな。少しへんでしょう。それではやはり人間の努力になってしまう。でも神の国ってなんでしょう。この答えはイエスの教えと生き方にかかっているのではないでしょうか。

 わたしたちの生き方というより、まずイエスの生き方、教えが問題です。これはいままでの授業で話してきたとおりです。

 それでレポートですが、こういう問題を踏まえて、あなたは共観福音書のイエスの生き方、教えをどう思うか、それを書いて下さい。このイエスの生き方と教えに賭けた人が、自分がもっているもの全部捨ててもイエスの言葉に従ったのです。

 みなさん。恋愛に命をかける気持ち、わかるでしょう。何の為に命をかけるのですか。死後に一緒になる為ですか。違うでしょう。死後が問題ではないでしょう。今、彼女を、彼を愛するから命を賭けるのです。なぜ愛するか。そこに理屈がありますか。理屈がもしあったらそれは愛ではなく、取引ではないでしょうか。もし私が死後天国にいくためにイエスの言葉を守るとしたら、それは取引ではないでしょうか。取引だったら確実性がないとだめでしょう。空手形をつかまされたり、偽札、通 用しない貨幣だったらだめなわけです。ところがどうも天国や地獄というのは、それが取引であるとすれば空手形だったような気がしませんか。

 今この時代にはここではお二人以外には通用しない。イエスに従うのは取引のためではないのです。理屈がないところまでいかないと。あ、いえ、イエスの生き方をどう受け止めるか、どう思うかというのは理屈かもしれません。ちゃんと福音書をよく読んで頭で考えてレポートしてくださいね。けっして理屈ではなく信じるかどうかだといっているのではありません。信じるというのも何を信じるかが問題です」

 授業が終わってから真己は自己嫌悪に襲われた。どうしてクリスチャンのあの学生の言うことを素直に展開しなかったのか。ああいう答えから、天国とはどういうところか、つまりたんなる楽園ではなく永遠の命を得るということだとか、または信じるとはどういうことかという問題にももっていけただろうし、あるいは死を念頭においた生き方の意義とかいくらでも好意的に展開できたのに、なぜクリスチャンの信仰に水を指すような言い方しかできないのだろう。真己はキリスト教に対して妙に屈折する自分が厭だった。

 わたしだって永遠の命を得るために、かつてはキリスト教を信仰したのではなかったか。ヨハネ福音書には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と書いてあるではないか。永遠の命のために、家族も富も名誉も犠牲にできるし、喜んで苦しむことができる、それでいいじゃない。

 永遠の命は当然死後与えられるのだから、死後の天国を信じることは何も間違っていないじゃない。いや、でも違う。なにか絶対に違う。

 キリスト教はそういってイエス・キリストを信じ告白する洗礼を世界中の人々に強制して、従わない人々を殺しさえしたのだ。宣教は永遠の命を異教の人々に与えることだからと無制約的に肯定され、武力を背景に世界中にキリスト教が広がったのではないか。そしてそれぞれの固有な素晴らしい文化を奪って、こんな味気無い近代文明を押し付けて。  いろいろ考えていくとどうしてもキリスト教批判になってしまう。

 でも真己の中にやはり「永遠の命」というのは無視できないキーワードとしてひっかかっていた。「どうして、イエスの言葉に従おうとするのか」という問いは、「どうして坐禅をするのか」という夏木神父の質問とオーバーラップした。一つの可能な答えは救われるため、永遠の命をえるため、報われるため。そうQ資料には「報われる」という言葉がたくさん出て来る。

「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」

「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」

「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」

 報われるために行為するならば、それはやっぱり取引ではないかしら。報いとは永遠の命、救い。「究極のエゴイズム」という神父の言葉がキリキリとよみがえってきた。

 でも、まだこれらは行為についていわれている。具体的な行為があるからまだましだ。パウロはそれを信じるだけということに変えてしまった。プロテスタントはこの「信仰」ばかりを強調する。イエスを信じるだけで救われたような顔をして、悔い改めましょうなんて。偽善者め」。

 いきどころのない怒りと、それでももはや自分は永遠の命とは関係ないものになってしまったという空しさの渦巻の中で、真己の心はくたくたに疲れてしまった。

 風信1

 「夏木神父さま

 慈光庵は寒さが厳しいと存じますが、お元気でお過ごしでしょうか。

 銀杏が金色の千鳥の葉を身を震わせて振り落とし透明な姿になって虚空に手を差しのべています。私もあんなに透明になりたいと思います。でも、今少々落ち込んで体の具合を悪くしております。それで今週はそちらに参れませんので佐弥可さんによろしくお伝え下さい。

 神父さま、この前、提唱でお聞きした「救いを得たいというのは個人のことであり、究極のエゴイズムだ」というお言葉が胸に突き刺さって、いささか苦しゅうございます。それはキリスト教の限界を示しているといえないでしょうか。神父さまがなぜ坐禅なさるのか、私の方もお聞きしたく存じます。

 神父さまはクリスチャンでいらっしゃるのに、ご提唱になぜひとこともキリスト教のことが、イエスさまのことが出てこないのでしょうか。別 に私は神父さまからキリスト教のことをお聞きしたいのではありません。なぜ神父さまが仏教のお話をなさるのか、それを伺いたいのです。あの「一切衆生誓願度」という願文には命懸けの祈りがあるような気がするのです。それはキリスト教の限界を超える祈りではないかと察します。わたくしもそれに強く心を動かされました。でも、わたしはやはり自分の救いを得たいのでございます。救いを得たいために坐ろうと思っています。これではいけませんでしょうか。

 またいろいろとご指導くださいませ。     

                    かしこ 」

 

 佐弥可は神父宛の和紙の封筒と自分宛のエアメイルを郵便受けから取り出した。差出人を見て満面 の笑みを浮かべて小走りに母屋に戻った。久しぶりにルベンから手紙が来たのだ。

 ルベンとはニューヨークで別れて以来、会っていない。彼は佐弥可の実家と同じユダヤ教徒の家に生まれ、ニューヨークでは熱心にシナゴーグに通 ってユダヤ人が組織している慈善事業にもかかわっていた。佐弥可、当時はサラといったが、彼女とルベンとは親同士が親友であるというだけでなく、サラが入っていた少年院をルベンたちが定期的に訪問していたことでよく会っていた。十歳年上のルベンは、おてんばなサラを妹のようにかわいがっていた。

 実は夏木神父にサラを紹介し、養女として日本に連れていって欲しいと頼んだのはルベンだった。アメリカにいたのでは、家族ともうまくいかないサラは、とてつもないエネルギーを秘めていて、インディアンの抵抗運動を死ぬ までやってしまうように思えたからである。一年前から彼はイスラエルのキブツに入っていた。ハーバード大学で社会学を専攻した彼はユダヤ教をその母国で全身で学びたかったからである。場合によってはユダヤ教の教師ラビになってもいいと思っていた。

  風信2

「親愛ナル、サラ  

元気カイ。僕ハ、アマリ元気デナイ。

 コノ間モ、パレスチナノ人タチト、イスラエル人トノ紛争ガアッタノダケド、イスラエル人ノヤリカタハ、ヒドスギル。僕ハ、モウユダヤ教ニハ、絶望シテイル。彼ラハ、パレスチナ人ヲ虐殺シテモ、神ニ栄光ヲ帰スコトニナルト、イウンダ。旧約聖書ニ、イスラエルノ人々ガ、エジプトノ奴隷状態カラ脱出シテ、パレスチナノ地ニ入ッタ時、何ヲシタト書イテアルト思ウ?

 パレスチナ人ヲ全員虐殺シタンダ。モーセガ何ヲ神カラ聞タト思ウ?

 『民数記』ヲ開ケテゴラン。

 「主はモーセに仰せになった。『イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。ヨルダン川を渡って、カナンの土地に入るときは、あなたたちの前からその土地の住民をすべて追い払い、すべての石像と鋳像を粉砕し、異教の祭壇をことごとく破壊しなさい。あなたたちはその土地を得てそこに住みなさい。・・・もしその土地の住民をあなたたちの前から追い払わないならば、残しておいた者たちは、あなたたちの目に突き刺さるとげ、脇腹に刺さる茨となって、あなたたちが住む土地であなたたちを悩ますであろう。」

  『申命記』ヲ開ケテゴラン。

  「我々の神、主が彼を我々に渡されたので我々はシホンとその子らを含む全軍を撃ち破った。我々は町を一つ残らず占領し、町全体、男も女も子供も滅ぼし尽くして一人も残さず、家畜だけを略奪した」

 モーセノ跡継、ヨシュアノ時代ヲ描イタ『ヨシュア記』モ、残虐ナ戦争バカリダヨ。ソノ聖書ヲ根拠ニ、今イスラエル人ハ平気デパレスチナノ人々ヲ、抑圧シテイルンダ。エジプトヨリ、アウシュヴィッツノ迫害ノ方ガ、余程ヒドカッタノダカラ、戦後帰還シタイスラエル人ガ、パレスチナノ土地ヲ、手ニ入レルノハ当然ダッテ。タマラナイヨ。

 僕タチガ祝ッタアノ過越祭、覚エテイルダロウ、七ツノ燭台ノ周リデ、イーストヲ入レナイパンヲタベ、苦菜ヲタベタアノ祭ハ、ソノアトニ、コンナ悲惨ナ人殺ノ歴史ガ続クンダ。

 十戒ノ「殺すなかれ」ハ、「イスラエル人ヲ殺すなかれ」トイウコトダッタンダ。

 イヤ、イスラエルニハ敵ト隣人ガイルンダ。隣人ハ殺シタリ盗ンダリシテハイケナイガ、敵ハ殺セ、盗メトイウ教エナンダ。僕ハモウユダヤ教ヲ捨テタヨ。ユダヤ教ヲ捨テルトイウコトハ、ヤハウェノ神ヲ否定シタトイウコトダ。十戒ノ第一ハ「我ノホカ、何者モ神トスルナカレ」ダロ。デモ、ソノタメニ異教ヲ滅ボシテモイイ、トイウノハ、オカシイヨ。

 僕ハ、ヨルダン川西岸地区ノパレスチナ人ノ、モネム君ト友達ニナッタヨ。彼ハカイロノ大学生ダ。彼ハイスラム教デハ、ユダヤ教徒は啓典ノ民ト呼バレテ、ソノ宗教ヲ認メラレテイルンダ、トイッタ。イスラム国家ノ中デモ人頭税(ジズヤ)サエ、納メレバ、ソノ信仰ヲ否定サレズ、イスラム共同体ノ成員ト認メラレテイルンダ。ユダヤ教ノホウガ、狭イ。ヤハウェハ、ヤハリ妬ム神ダ。

  サラ、夏木神父サマト、坐禅ヲ、マダヤッテイルカイ。僕ハ今、東洋ノ宗教ニ興味ガアルンダ。インドヤ中国、韓国、日本ノネ。日本語モ又勉強ヲ続ケテイル。

 春ニナッタラ日本ニ行クカモシレナイヨ。

 君ニ会エルコトヲ楽シミニシテイル。

夏木神父サマニ、ヨロシク。デハマタ。  

                愛ヲコメテ

                     ルベン・ウッド 」

 風信3

「  群雲(むらくも)を

      刺すが如(ごと)鳴く

               山鳥の

     声にたたずむ

         暮れの野の果て

 真己さま  

 だいじょうぶかな、元気になったかな。

  太陽がひっかかっている。西の方の大杉に差しかかり、そこでじっと動かずに、ひっかかっているよ。鳥たちはねぐらに帰るとき、喜んで鳴くんだね。

 同封した手紙、ルベン兄さんから。本当の兄さんではないけどニューヨークでの知り合い。私これ読んで思ったよ。こんなことユダヤ教だけじゃない。キリスト教だって同じことしたよ。真己さんはどう思う。キリスト教には『律法』ないのかな。私、こういう神、嫌いだよ。シャイアン・インディアンは特別 な神、持たない。だけど存在するものみな兄弟、家族だよ。異教徒だって人間じゃないか。真己さんのキリスト教とどちらが悪いかな。ごめんね。怒っているんじゃない。私もルベン兄さんと同じ気持ちだって伝えたかったんだ。

 また、坐禅会まで。   元気だしてね。

                     佐弥可     」

 真己は墨で達者に書かれたその手紙を見てびっくりしてしまった。茶道を嗜んでいるだけでも驚くのに、和歌まで作ってしかも毛筆で書くとはなんというすごい人だろう。日本に生まれ育って十五歳も年上なのに、参っちゃうなと思いながらも、興味深く、ルベンの手紙を読んだ。

 キリスト教とまったく同じだ。そう、同じ聖書だもの。『律法』(トーラー)とはいわないけど、それは旧約聖書の初めの五書としてキリスト教の聖典の中にある。五書は創造の物語とか祖父たちの伝承とかは面 白い物語りとして読めるけど、モーセが出てくるところからすごく偏狭な神になりややこしい儀礼と法律がいっぱいで、面 白くない。

 面白くないどころか、彼がいうように他国を侵略するよう促す神の言葉なんだ。創造伝承、族長伝承はパレスチナや中東の神話や伝承と重なるところもあるけれど、神が初めてヤハウェと名乗るシナイ伝承、トーラーの核となっている出エジプト伝承がユダヤ教固有の伝承で、歴史的にいえば紀元前十三世紀頃にエジプト脱出の後はじめてヤハウェ宗教連合としてパレスチナにユダヤ教が形成されたのだ。エジプト脱出の契機になった過越を記念する過越祭はユダヤ教の最大の祭である。だから十戒の冒頭は「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」ではじまるのだ。弱い苦しむ民族の救い、それは素晴らしいことだろうが、どうしてそれが侵略者に変わってしまうのか。

 やはり「あなたの神、主があなたに渡される諸国の民をことごとく滅ぼし、彼らに憐みをかけてはならない。彼らの神に仕えてはならない」というヤハウェ神が問題なのではないか。その同じ神がキリスト教の神なのだ。そして歴史的に同じ構造をもっている。佐弥可の直感はその通 りなのだ。

 イングランドで迫害された清教徒にとって、メイフラワー号での北アメリカ行きは出エジプトであり、北米の地は神が約束した新しき天地だった。だから異教徒であるインディアンは殺してもよかった、いや殺さなければならなかったのだ。

 オランダで迫害されていたプロテスタントの改革派はアフリカの南の端に新しき天地を見いだした。そこでは原住民である黒人は異教徒だから差別 しても構わなかった。アパルトヘイトをやった南アフリカ共和国はオランダ人の神の国だったわけ。いまパレスチナの人々が味わっている苦悩は何十年もの難民として筆舌に尽くし難いものがあり、イスラエルが許されるわけはないが、それでもナチスの迫害以前にもユダヤ人は世界中で迫害され続けてきたのだ。紀元七十年に国が滅んでから、ずーと他国の寄留民だったわけで、経済的には豊かな人もいたが不安定な小さな寄る辺なき民、「エジプトの奴隷の家」だったことは確かだ。二千年の間ではじめて領土を主張したのだから、他国に侵略し続けたキリスト教よりは、はるかにましである。

 それにしてもイスラム教はこんなに寛容だったのか。「右手にコーラン、左手に剣」かと思っていたわ。でもルベンさんにしても私にしても歴史的現実がよく分かってくると神を否定しなければならないなんて、皮肉だな。神学部の旧約学の先生は、旧約の神は観念的な神、ギリシャ哲学の存在としての神ではなく、歴史の中に具体的に働く神であるっていっていたもの。

 真己は深く溜息をついて、手紙を閉じた。