「禅と戦争責任」 (続き)      

         ーー沢木興道老師のアポロギア

第二部 禅と戦争

 一、天皇崇拝

第一に沢木興道師も、「天皇神話」を信じ込んだ人であったということである。

 昭和十七年に次のような記録がある。

 「此の私と云うものが今が今まであやしいものであった。徴兵にとられたと云うては泣き顔をこきよった、それが昨年十二月八日。丁度御釈迦様の御悟と同時にスカッとした。何やらそれまでは滅私奉公と云うても天壌無窮と云うても股に糞はさんだようであったが、それからと云うものは実にはっきりした。徴兵に取られたその時はっきりした。此身が我身でないことがはっきりわかった。此身の所有主がわかったから、此身の去従(ママ)が判然した。それで初めて大東亜の救世主になることが出来る。天照皇大神様の御身替りとなって大東亜を救済する。これさえはっきりすれば、もう何にもいらぬ 。これは実によいことです。こんな時、日本の国と云うものは、国が坐禅しておる。坐禅とは、住法不乱である。中途半端であってはならない。これが非思量 である。持ち場に就けと云われると、その通りにポコンとやるだけ。・・・日本の国位 云うたらお気の毒じゃが、チャーチルに比べられるような首相もなく、ヒットラームッソリーニ、スターリン、あんな程の奴がないようじゃが、あんなものいらぬ 。首がしっかと坐ってござるから、ここがエライ所。大東亜戦で勝ったのは誰ぞ。たった御一人じゃ。」(昭和17年「返照」247号)

 これは、明白な天皇崇拝である。しかも真珠湾攻撃によって自分が天皇の所有であり、持ち場について何でもできる、とまで言ったとは驚きである。あまりにナイーブな天皇と日本国に対する絶対視は、私の理解の外である。これこそほとんどの日本の宗教家がこぞって靡いた「日本教」であるのだが、老師もこれに陥ったことは、ショックである。ここからなら、「軍旗の下に水火もいとわん」とも、「上長の命令に服従し、これに従いもて行く時、直ちに陛下の股肱として完全なる兵隊になる」という言葉が出てきても不思議ではない。

 非常に残念である。ここには、時代の趨勢のためとはいいきれない深い根がある。ドイツのアーリア人種優位 説は20世紀の神話といわれるが、日本はまさに天皇が神だという文字通りの神話を素朴に信じたのである。民族、血族集団、地域集団、あるいは共産党などイデオロギー集団への帰属意識から、どれだけ自由になれるか、ということが、宗教に、そして21世紀の私たちにも根源的に突き付けられている問いである

 宗教の絶対は他の絶対と両立するものではないはずだ。老師の場合であれば坐禅が、仏法が、あらゆる善惡、賞罰、是非を超えるものであったはずなのに。

 また、老師はこうも話した。 「禅というものは修行をして悟りを開く、人間の競争に禅を利用するようなことになっておる。これはいつの時代でもこういった差別 をつける。寸取虫が登って行くように、・・ ・即ち禅の悟りに階級をつけてきた。それは修行に階級があってはならないし、悟りに階級があるべきものではない。これは我が国の国体でも神ながらに階級をつけるものではない。天壌無窮に階級をつけるものではない。八紘一宇に階級をつけるものではない。この神ながら、八紘一宇、天壌無窮、皇祖皇宗の遺訓をいかに具現するかというのが、国民の行である。その行のあるところに、神ながらが完全に充実する」(全集第17巻189頁、戦時下大中寺時代、同様の表現は同本292頁、)

 ここで述べられる禅理解は道元のいうことと違わないので問題はない。不思議なのはその修行や悟りと、国体、天皇を同一視してしまうことである。仏法=国体となってしまうのは何故か。臨済宗の山崎益州は「身心一如の極地は無我である。日本は君臣一体の国である。大御心と一つに解け合うた時に臣民としての本来の面 目が輝くのである。君臣一体の極地は無我であり、滅私である。」(『禅と戦争』192頁」という論を展開しており、同じようにそういったまでだ、とも解釈できるが、老師はそんな時勢に流されるような人ではない。

 やはり、老師はもっと素朴な天皇崇拝で、まったく八紘一宇、天壌無窮、皇祖皇宗などの言葉を深く考えず、「神ながら」として理想化し宗教化してしまったのであろう。それは逆にいえば、悟りとか修行ということは、そんなことだったのか、一つの国家が理想として実現できるようなものだったのか、という疑問を惹起せずにはおかない。

 ところで、こういう時代であれば天皇崇拝は戦争翼賛と同じになるはずだが、どうも老師の場合は、国体翼賛は戦争賛美ではなかった。なぜなら同じ提唱の中でこうも言っているからである。「よし大将になったところで知れたもんじゃ。死ねばもともと、遺族が勲章の番をするだけの話じゃ、葬式の時に勲章を棺の端に並べて呉れる。なにも大したことはない。なにもない世界。位 も高からず、低からず。それが御出家なんじゃ」(全集第17巻202頁)といっている。

 あるいは、国体明徴について、このようにいう。

  「先達て中学の先生が二人やって来て、「国体明徴がいろいろ叫ばれていますが、一体,忠とはどんな事でしょうか」と問うんだ。それで私はいきなり「お前は日本人か」「はい」「それなら日本人が日本人として一生懸命お前の仕事をやれ」といったら「へえ」といった。「解ったか」と大声を出したら。首をすくめおった。」(昭和十三年『返照』272号)

 ここには問題はないようであるが、よく考えれば禅の師匠がよくいう、そのものになり切れ、とか、役割をひたすら務めよということの恐ろしさがある。

「その事のいかんをとわず、上長の命令に服従し」というのも、老師がつねづね言っている自己自身になり切ること、日々新たに自己を発明していくこととは、およそ違う。その違いが見失われたのは「天皇」によって目を眩ませられたというほかない。ここからすれば、野田氏が引用した手記のような残忍かつ平常な意識と行動も理解できようというものである。禅堂の修行として「道というものは自分で考える必要はない。この大衆の威神力によって、大衆に一如して共に坐る。共に寝る。共に起きる。そこに法のために己れを忘れる。道のために己を捨てるというのは、そういうことである」(全集第13巻119)ということが、軍隊生活に適用されたら、小谷氏が恐怖を感じたような事態も起りかねない恐さがある。

 その盲目になった一例が次の言葉である。

「昔、兵隊が練兵場にずっと並んで、着剣しているところに天皇陛下が白い馬に乗ってお出ましになる。「捧げ銃」というのは、大したものである。ああいう世界が非思量 である」(仏祖正伝禅戒本義を語る、全集第十、16頁)

 そういう世界が非思量なら、私は仏教はやめたいと思う。そんなにして作られた緊張が非思量 なのだろうか。道元に諭した如浄は身心脱落を「柔軟心」と教えたのではなかったか。

 ただ、それでも袴谷憲昭氏が「曹洞宗を代表するかに言われている沢木興道師が『念彼天皇力』、『念彼軍旗力』とやっていたのを知らされれば背筋の寒くなるのを覚える。今も版を重ねている沢木師の『禅談』の中に『和の話』とか『禅武一味』とかの章を見出して読んで見ると、戦時の沢木流のお題目も当然のことと思われてくるが、そのことは、逆に、沢木師が全く仏者でないばかりか道元に弓を引いたとさえ決めつけてさえよいくらいの人だというとを証している」(『禅と仏教』258頁からの孫引き)というのは、言い過ぎである。

 沢木老師の天皇に対する「のぼせ」が、1941年12月8日に始まって、いったいいつまで続いたのか、と私は思う。1943年から45年の記録は少ないが、終戦前におそらく「のぼせ」は醒めたのではなかろうか。この点についてはもう少し調べるつもりである。

 ただ、酒井氏は「七十歳代の老師の提唱も、戦前のそれとは全く異質的なものとなってきたのは当然である。概していえば、非常に木目がこまかくなり、以前にもましてなお一層明確に見解を言い切られるようになった。只管打坐の宗旨が純化され、より一層明確になったきたのである。ご本人もそれを自覚して、「年を取られねば駄 目だ」と述懐されていた。また「若い時には、ここのところをどやって解してきただろうか」などともよく言われるようになった」(全集第12巻、解説339頁)と記している。

 道元も親鸞も晩年までその思想は変化しつづけたのである。一時の発言で、その人を裁くことはよくない。  問題は、これを掲載した酒井得元師の言い種である。後書きに「この中には『八紘一宇 』『神ながらの道』とか、当時の言葉が随処に散在している。あの当時は我々は一億一心、滅私奉公を本当に信じて、ただ一途に報国の念に燃えて一国の運命を日夜心配していた。戦後の国民の手の平を翻すような批判も、このごろとなっては批判されてよい時期に来ている、と同時にあの戦時中の国民の赤誠を今一度、こと新しく回顧してその尊さを質直に知らなければならないであろう」(全集第17巻解説351頁、1968年)といっていることである。

 まさにここには「あの戦中を今一度」という、まったく戦争責任を感じない、何の懺悔もない悪質な国家主義がある。その酒井得元氏の弟子の僧侶には、右翼的発言をする人もいると聞く。ほんとうに情けなく残念なことである。

 

二、武士道と仏法の接点

 宗教は、死んでもよい、という思想を持つ。死ぬ ことができてはじめて本当の宗教だ、といえるといっても過言ではない。そこにどんな権力も恐れない強さがある。しかし、問題はなぜ、なんのために死んでもいいか、ということである。

 たとえば、イエスは「友の為に自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ福音書15:13)といったし、「私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ福音書10:39)といい、また「体は殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ福音書10:28)といった。殉教した人々は、それによって宗教的真実を証ししている。

 だれのため、なんのための死か、ということについて沢木老師は、こういう。

 「・・・道のために己を捨てるというのは、そういうことである。なにも腹を切ることではない。切腹していいなら、易いものだ。わたしは毎日なんでも命がけである。わたしは坊主になったのは命がけ、命がけが慢性になっておる。そんなら命がけでいいのか。 道元禅師は「もし粉骨貴むべくんば、これを忍ぶ者昔より多しといえども・・・。命がけくらいはなんでもない。私は日露戦争のときには、かなり命がけの名人であった。毎日のように命がけで斥候をやった。命がけの業をよくやった。それから凱旋して戻ってきてから静かに坐禅して、考え直してみると、ハハア、私も国定忠治くらいには行っておる。意気と張り、男の血が湧いて、なに糞という命がけならなんでもない。太刀で斬って捨てる。それくらいのことはなんでもない。けれどもさて、振り返って見ると、道元禅師の前にはなんだかこう頭が上げられん。「おいおい沢木、お前は群を抜けてばかりおる。それはなんという料簡じゃ」「へえー」「それははき違えじゃ」怒られたような気がする。」 (全集第13巻119、120頁)

 沢木師は、仏道に引き回され、仏道の為に生き、死ぬ ということだったはずである。  それでもなお老師の提唱に楠木正成や葉隠武士が、何度も登場するのは、彼らが死を恐れず、楠木は後醍醐天皇の為、葉隠は主君菊池氏のために死ぬ 覚悟をもって戦ったからではなかろうか。

 昭和10年代の沢木老師は武道と禅の極意を同じだといっていた。 「・・・人間という事から考えると、我々も坐禅をしているときに隙間を作っている事があるが、最もよくないことである。人間は力一杯を自分の職務に出して居なければならぬ 、隙間を作って居ては駄目だ。隙間なく一生懸命やっている。それが成仏ということです。最も深刻な、張りつめた、自己の波長と宇宙の波長とが、ピッタリ合って、天地と隙間のない人間になりきった所が武道の極地であらねばならぬ と私は信じて居ります。つまり三昧です。三昧になったのが武道の極地です。」(講演「武道と禅」昭和11年(1936)「返照」243号)

 仏法とは、ただ真剣になることだろうか。そうなら、その真剣とやくざの命がけとどうちがうのか。

 「そこで剣道家やら柔道家やらが目録を書いておるのに非常にいいのがある。それはなぜかというたら現なまである。坊さんのやっておるやつは二番煎じや三番煎じ、なかには百番煎じぐらいのがある。坊さんが説教しているのを聞いておると歯が浮くのがある。ところが武士のやつは一番煎じ、現なま、新発明、自分だけ、そこより通 用せんやつである。そこによさがある。真剣さがある。その目録の中に歌が三首あるが、その一つの歌に、「後先(あとさき)のいらぬ ところを思うなよ、ただ中ほどの自由自在を」、とある。また柔道の扱心流という流儀の標語に、すらりすらりというのがある。法の真実はいつでも今ぎりである。そうして今も永遠も法界寂然なるもの、今と永遠と少しも狂いのないものを如という。」(信心銘提唱講話、全集第11巻144頁)

 ここでも仏法と武道の一がいわれており、これでは、禅修行した暗殺者、井上日召が「宇宙大自然は私自身だ、という一如の感じがする。『天地は一体である』『万物は同根である』という感じがひしひしと身に迫る」(『禅と仏教』120頁)というのと大差はない。

  もっとも老師は、普通に考えるように、坐禅すれば肚が坐って武道に強くなるから武道と禅の一致をいったのではない。 「その目録をテキストに配って、わたしが警視庁で三ヶ月にわたって講演したのをまた小冊子にして水戸の高等学校で配ったことがある。ーー剣道家が禅をやれば強うなる、こう思うておったところが、負けることなし、勝つことなりとあるので、びっくりぎょうてんしてしもうた。これは勝ち負け以上のいみがある、それでたまげたのじゃ。」(全集第14巻92頁)

 老師が武術と禅を一体視するのは、普通 に考えられる勝負を競う武術を、それ以上のもの、ほんとうの自己になる、と見なすからである。 「武道は勝負にあるではない。最高至上の人格内容を銘々の上に蘇らす道である。・・・柔術をやる者は柔術をやる、剣術をやる者は剣術をやる、真剣になって有るったけの力を出して、以てそこに自己を発明するんです。自己も自己、本当の自己を発明するんです」(講演「武道と禅」昭和11年「返照」243号) 「・・・その精神は負けることなし勝つことなしという。そうすると永遠に負けない、永遠に勝たない。この宗の道元禅師のみ教え、達磨のみ教えの極意がその目録に出ておるわけである」(全集第11巻304頁)

 しかし、それでもなお、私には武道の極意が仏道と同じだとは、とうてい考えられない。次のような叙述に合って、辟易する。 「さてわたしが大用現前規則を存せずという文句をほんとうに地で体得したのは、戦争のときじゃった。・・・この鉄砲は武士の正宗みないなものじゃと兵営でやかましくいわれていたが、それに小便かけてさましておいて、また撃つ」(全集十二巻261頁)

 損得、勝ち負けを超えて自在に働くその働きが、戦争、すなわち人殺しでいいのか、という問題はどこまでも残る。いや、武道の極意は、勝ち負けを超えることであるはずはない。勝ち負けに捕われる心を捨てて、その結果 としてやはり勝つことにある。実際に老師もそういっている。

 「雲弘流という剣道の極意にも、求めず願わず、取らず捨てず、ただ性のままということがある。性のままでありさえすれば、それが剣術の極意である。わたしに剣術の極意を教えて下さいというて、昔万日山におる自分に書生の剣道部の者が来たことがある。強いものが勝って弱いものが負けるのが極意じゃ。ところが神経戦にかかると強い者が敗けて、弱い者が勝つことがある。」(全集第12巻174頁)  

 坐禅すれば、勝ち負けなどの執着はたしかに無くなる。したがって、スポーツでも試験でも、戦争でも企業でも、結果 として「勝つ」ということが実際にあるのだろう。私はまったくの我流で高校の時から坐禅していたが、それが精神安定にも試験にも効くと実感していた。坐禅はもろ刃の剣だ。坐禅はそのまま仏行だが、それを何かのためにするなら外道になる。だからこそ、沢木老師はくどいほど、坐禅は何もならん、何かのために坐禅をするなら、それは間違いであると口をすっぱくして言われたのだと思う。

 真剣勝負の精神力が仏法なら、企業戦士育成にも軍隊の戦士育成にも、坐禅、仏法は役にたつ。老師も戦時下では、きわどい言い方をしたことがあったのだろう。

 ただし、老師が武術を習ったり教えたりということは一切無いし、自分の生き方、あるいは僧侶のあり方として仏道と武術を混同する事もなかった。こういわれている。

 「おまけに剣術をやらす尼の学校がある。尼も剣術を知らんといかんという。そういう尼の学校もある。まあ幼稚園で「チッチッパッパ」ぐらいはいいけども、剣術に至っては、ちょっと吹き出させる。」(全集第十、83頁)

  「それはまあ、駒沢大学はすもうが強いので名高い。しかし、あの坊さん、剣術が強い、などあまり褒めた話ではない。剣術が強い、柔術が強い。牛みたいに喧嘩する。褒めた話ではない。況んや相撲部に於いておや、況んや、野球部に於いておや、そうすると、参禅会が野球部より、相撲部より、影が薄いというのは、これ七不思議、八不思議どころではない。実に珍妙無類とわたしは思う」(全集10巻94、5頁 昭和16年)

 

三、殺生戒があって何故殺せるか。

 これは小谷師も言及しているように、沢木師のもっとも問題のあるところである。老師は次のように言う。

「殺生というものは、出来るものではない。この断滅の見が殺生なのである。この断滅の見を起こさなければ、自においても他においても、敵においても、味方においても死ぬ ものではない。されば、殺すなよ、ではない。不殺生の業がやむ。ここに安心するから、菊池武時でも楠木正成でも思い切り戦った。...だから肥前の葉隠武士道にも、敵と渡り合って、刀が折れたらとうするか。刀が折れたら拳骨でやる。腕を斬られたらどうするか。足で蹴る。足を斬られたらどうするか。食らいつく。首を斬られたらどうするか。化け手でる、とある。こういう気魄があるのは、何故かというと、常住の法中において、死なないという自信がある。」(禅戒本義を語る、全集十巻39頁)

 これはまったく大乗仏教の悪い点を丸出しにしている。言葉の本来の意味を、換骨奪胎して、すべて見の問題、智慧のありようの問題にすり替えてある。しかもその内実は殺生を認めて、他人を殺すという傷みが、まったく見失われてしまっている。この精神主義というべきものが、多くの日本兵士を無謀な戦闘で死なせ、惨たらし敵兵や敵国の民衆への殺戮を産んだのである。

  「わしぎり、今ぎり、ここぎり」には、他者が欠落し、一歩間違えば、自分の妄想になる。この今ぎりと因果 応報の三世世界の両方を押さえる必要がある。

 

四、罪業は妄想 

 禅には二祖慧可の時から、罪業を妄想とする思想がある。

 「若し人、戒を破り、殺を犯し、婬を犯し、盗を犯して、地獄に堕せんことを畏れんとき、自ら己れの法王を見れば即ち解脱を得ん」(『達摩の語録』19)

 そこに禅と殺生をする武術が結びつく大きな問題があると思われる。罪業を妄想とすることは沢木興道師も言及していることである。

「衆罪は草露の如く慧日能く消除す』ーこの宇宙の全景を一と目に見る知恵さえあれば、慧日能く消除すーこの知恵の日が我々の捉われの罪を消すのではなかろうか。罪ということは我々の捉われである。所謂概念である。もっといえば既成概念である。・・・宇宙の全景を一目に見ることである、だから苦其の儘、楽其の儘。それが罪を滅するのである。それ故『刹那に滅却す、阿鼻の業』である。無間地獄の業は実相を證すれば即座に消滅する」(『証道歌を語る』114、115頁、昭和15年)

 この問題こそ、道元が鎌倉に出かけて仏法を説きそこなった「撥無因果 」に関わるものである。道元は鎌倉から帰った後に密かに記した「深信因果」巻に「およそこの因縁(百丈野狐)に、頌古拈古のともがら、三十餘人あり。一人としても不落因果 これ撥無因果なりと疑うものなし」と嘆き、禅宗のだれも不昧因果を説かなかったと難じたものである。道元はこの問題をきちんと見極めるために、十二巻本では阿含経典にまで遡らなければならなかった。この問題の根は非常に深い。

 老師はいっぽうでは、慈雲尊者の「人となる道」をよく講義している。そこには第十、不邪見戒として「仏あることを信じ、・・・神祇あることを信じ、善惡応報むなしからぬ ことを信ずる」とある。親鸞が神祇不拜をいうのに対して甚だ歯切れが悪いし、これでは宗教混合か、道徳になってしまうおそれがある。

 

五、僧と兵役  

 老師は日露戦争で人を殺して自らには恥じたであろうが、自分によって傷つけられ、死んだ人々への配慮は、ついにまったくない。それゆえ、仏教が戦さと結びついても何の矛盾も感じなかったのではなかろうか。

「それからお袈裟をかけて戦さをした者もいる。入道になって戦さをした者もいる。菊池家では武時以下歴代入道して坊主になって、袈裟かけて戦をしている。または八幡さんというものはみな僧形である。お袈裟をかけたご神体である。」(禅談、全集二巻175頁、同様のことが全集6巻120頁にもある)

 老師は一方で「人殺しの人間になってしまう。衣を脱がされて軍服を着て入隊式をやったら、ちゃんと、・・・」(全集6巻95頁)といい、僧兵に対しては「僧が兵であるとはまったくお話にならぬ ことじゃないか」(全集18巻215頁)といっているのに、どうして僧体の武士がおかしいと見抜けないのだろうか。ついでにいえば、韓国では今でも僧侶に徴兵義務があるが、あってはならないことだろう。 

 このように見てくると、戦争と禅という問題は、すでに指摘されているように禅宗史と大乗仏教全体の見直しを迫るものであろう。

 私には仏道の本来の形態、すなわち家族と国家への帰属からの離脱として出家、具体的生き方としての戒律への復帰、仏行以外は深信因果 が必要だと思われる。それは晩年の道元が摸索途上にあったものではなかろうか。  ともあれ、出家がもはや主要形態ではない欧米を含む現代の禅修行者であれば、少なくとも宗教と国家という問題に充分に敏感になる必要があるのではなかろうか。 

文献目録

1、  「大師堂」は月刊の個人誌(ニュースレター)で、19年以上続いたが、2003年1月、小谷師の病気のため休刊。

2、  『禅と戦争』ブラィアン・ヴィクトリア著、エィミー・ツジモト訳、光人社、2001

3、,Zen at War , Brian Victoria, Weatherhill, NewYork,1997,

、仏教教団の戦争責任告白については、『禅と戦争』226頁以下に詳しい。また「大師堂」(2002年8月号)に「浄土真宗本願寺派八二年、大谷派八七年、曹洞宗九四年、天台寺門宗九四年、京都立正平和の会九五年、二〇〇一年九月臨済宗妙心寺派」とある。なお同誌によれば「宗教者の戦争責任・懺悔告白資料」が明石書店から出されている由である。

5、仏教教団の戦争責任告白については、『禅と戦争』226頁以下に詳しい。また「大師堂」(2002年8月号)に「浄土真宗本願寺派八二年、大谷派八七年、曹洞宗九四年、天台寺門宗九四年、京都立正平和の会九五年、二〇〇一年九月臨済宗妙心寺派」とある。なお同誌によれば「宗教者の戦争責任・懺悔告白資料」が明石書店から出されている由である。

、『今のお寺に仏教はない』遠藤誠、長崎出版、1986

7、『戦争と罪責』野田正彰、岩波書店、1998、

8、『澤木興道聞き書き』酒井得元、講談社文庫所収、1984、講談社、ただし、元の本は「禅の生涯」沢木興道老師全伝出版会編、天満社、1951、後に「禅に生きる沢木興道」(誠信書房、1966)、その序には「ある部分では私のまったくの作文であるところもあります」(講談社文庫本7頁)と書かれている。

9、『澤木興道全集』1巻1962年〜19巻1969年、別 巻1、2、を含む。大法輪閣

10、「證道歌」禅宗第三祖、僧粲の作として伝えられているもの。

11、『禅に聞けー澤木興道老師の言葉』櫛谷宗則編、大法輪閣、1983

12、『正法眼蔵現成公案解釈』弟子丸泰、仙誠信書房、1977

13、沢木興道』田中米喜、1982、名著普及会

14、「批判仏教』袴谷憲昭、298頁、大蔵出版、1990、 

15、『達磨の語録』(ちくま学芸文庫版)柳田聖山、筑摩書房、1996