「禅と戦争責任」  

                ーー沢木興道老師のアポロギア                                             松岡 由香子

    はじめに                          

     近頃、真言宗僧侶小谷静良師の機関誌「大師堂」にブライアン・ヴィクトリア氏の『禅と戦争』("Zen at War" の日本語訳)の批評が載っているのを見て驚いた。すべてが沢木興道師の語ったとされる信じがたい言葉への批判であったのだ。『禅と戦争』本文279頁中に沢木師への言及はわずか3頁(51〜53頁)ほどだから、その取り上げ方に問題はあるが、それだけ「禅の大家、沢木興道師が語る」という衝撃があったのだろう。

     しかし、小谷氏による次のような感想、「人間の良心を問い続ける知性を欠いた『覚』は、毒薬に優る麻薬そのものよりも、身体を自由に動かし人を殺せる」(「大師堂」2002年8月号)は、あまりに酷い誤解と思われる。

     この本は英語で出版され、沢木老師の孫・曾孫弟子が欧米にたくさんいることを思う時、外国でも甚大な影響が予想され、実際に沢木老師に近い人々からは、欧米でこの書に対する批判が色々なされていると聞いた。

     私はこの本が出版されてすぐ、英字新聞に書評が載ったので、花園大学の図書館で寄贈本を瞥見したが、沢木師のところはうっかり見過ごし、それきりで読む機会を逸していた。禅宗と戦争という問題は、前から気になっていたことである。とりわけ禅宗は戦争責任告白をするのが遅かった。日本キリスト教団が1967 年であるのに対して、曹洞宗は1992年、臨済宗はこの本が出版された後、妙心寺派が2001年9月にようやく戦争協力を遺憾に思う旨を決議したのである。

     それゆえ、私もこの本の出版は、出るべくして出たと歓迎した。禅宗の戦争への関わりはあまりにも大きく、それに対する謝罪、自己批判があまりにも少ないからである。戦時の沢木老師を含めた仏教徒の言動への批判は、弁護士でもある遠藤誠氏の『今のお寺に仏教はない』にもあるが、今その本を入手できなかったので、参考にできなかった。

     それにしても興道老師は、キリスト教の教会に絶望して信仰を失った私の命を救ってくれた本師である。かりそめにもそこに問題があれば、末弟として座視はできない。この際どうしてもきちんと見ておかねばならないと思った。

     もう一つ、戦時下の日本人の心情に関してわたしには疼くことがある。野田正彰氏の『戦争と罪責』を読んでいてこういう手記にぶつかった。

     「午後南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品点で洋酒各種を徴発して帰る。丁度見本展の様だ、お陰で随分酩酊した。

     夕方二万の捕虜が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終わる、生き残りを銃剣にて刺殺する。

     月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし。戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るる事の出来ざる光景であった。」これに対して野田氏は「月と死体の山を対比して詠嘆する日本的感性は、傷つかない心を装う薄絹のようだ」と述懐している。

     ここには、仏教の影響と思わせる記述はないが、しかし長年坐禅してきた実感から、これは禅でいう「平常心」とは大いに関係があることだと思えた。非常に感情が波立つ、つらい現実に対して、ふっと大空や月を見て、あるいは坐禅して、その過酷な現実を夢幻とみなす、そういうことは実際にわたしにもある。それは当人からすれば一種の救いであるが、他者からみれば罪責を感じさせない無感覚のバリアということになろう。

     野田氏の指摘によればアメリカでは深刻なベトナム戦争神経症があるが、日本では戦争神経症が皆無に近いという。病いと癒し、苦しみと救いについても考えさせられる。世の中でも、良心的な、繊細な人々が心を病み、「悪いやつほどよく眠る」のが現実であるとすれば、苦悩とそこからの救いとは何であろうか。あるいは当然あるべき葛藤、苦悩を無化するあり方は、救いか、それとも自己欺瞞か。そんな課題まで孕む問として考えてみたい。

     

    一、澤木興道老師の言葉をめぐる事実関係

     興道老師に自著はない。ほとんどが講演の速記である。老師の提唱は、どのテキストを使っても、観念的話はまったくせず、自分の体験に根ざした話ばかりだから、老師がどのように生きて何をしていたかということは、提唱の中であからさまに語られている。そしてそれが実際に人を引き付ける大きな力になっている。

     したがって、老師は同じ話をいろいろなところでするので、その都度すこしづつニュアンスが違う話になる。いったいヴィクトリア氏の引用している言葉は、どんな文脈からどんなバージョンとしていわれているのか。以下、『禅と戦争』に引用される全五カ所について問題点を整理してみたい。

    @「日露戦争を通じて、わしなども腹いっぱい人殺しをしてきた。なかでも得利寺の戦いでは敵を落とし穴に追い込んで、ねらいうちにして能率を上げたもので、中隊長はとくに、わしのために個人感状を申請したが、個人感状はおりなかった。」(52頁『澤木興道聞き書き』p.6)

     最初に引用されている『澤木興道聞き書き』は、実は老師の没後20年目に酒井得元氏が書いて出版したものであって、資料として問題がある。(ちなみに訳本の注では著者が澤木興道になっている。)

     これは確かに澤木老師は人殺しをして、それを自慢して、感謝状をもらって当然な働きをした、としか読めない。

     だが、老師が日露戦争に従軍したときの話で、これにもっとも近い表現はこうである。

    「私などは日露戦争に行って腹いっぱい人殺しをして来たが、これが平常だったら大変な話だ。此の頃新聞に、どこそこの敵を殲滅したとか、機銃の掃射をしたとかよく出ている。まるで掃除でもしているような気がする。残敵掃射などといって機関銃でシュウッとやるのである。これを銀座の真ん中で遊んでいる奴を、動物掃射などと云うようなことをやったら大変なことになる。昔の戦争は、今からかんがえるとよほど風流なもので、一発一発パンパンと弾を射ったものだ。如露で水を撒くように機関銃でバラバラやったり、大きいヤツをドカンドカンと落としたり、毒瓦斯で一ぺんにやったり、そんなに荒っぽくはなかった。私も得利寺で敵を落とし穴に追い込んで殺したことがあったが、それでも罰を食わなかった。その上に恩給を貰ってしまった。それだから人を殺したらいつでも罰になるとはきまっていない。罰にするとかしないとかは其の規定によるのだ。この規定は人間がこしらえるのである」(『証道歌を語る』414頁、昭和15年)

     ところで、これは『澤木興道全集』1巻所収の『証道歌を語る』では、この部分だけ削除されている。だから私が読んだ老師の言葉には、問題になるどぎつい箇所が少ないのだろう。また、年代も全集では23年も付け加えて戦後の話しにしてある。ゆえに全集もまた資料として問題があり、沢木老師の問題性を隠蔽しているといわざるをえない。

     しかしながら、この話の眼目は、普通 だったらとんでもないことで極刑になるような行為が、戦場ではほめられることになり、この世の賞罰、善悪は状況次第で決まっていない、ということで、 テキストの「真をも立せず、妄、本と空なり」の説明である。

     戦争で人を殺したことを、いったい老師は当然とか自慢になると思っているだろうか。彼は死に損なって貰った軍人恩給などに対してこういう。

    「さあ、それから先はこの金をどうするか。これは不浄財である。人殺しをしてあまりほめた話じゃない。坊主が人殺しに召集されるということも、アメリカでは坊主を召集したりはせぬ であろう。ところが日本では、はじめは僧侶は取らぬ、こういうたのが、僧侶に籍を入れて兵隊をのがれようとするやつがあった。とうとうわれわれも巻き添えをくったわけである。そしてまあ金鵄勲章ももろうたし、恩給ももろうたし、増加恩給ももろうたし、そいつを清浄に使うにはどうするか。こいつは自分で飯代にも使わぬ 。これを一生涯わたしは(禅のテキストの)印刷にしてしもうた。」(全集14巻273頁) 

     恩給を施本にだけ使ったというのは、老師の自己自身に対する懺悔行である。このとき、名もない僧であり、生涯教団から距離をおいていた老師は他人に懺悔や謝罪はしなかったが、自己に対して懺悔した。自分の命と引き換えに得た恩給を「不浄財」と言い切る老師に対して、身内の死と引き換えの恩給をもらって、靖国神社護持をいう人々は、自らの良心と死者の良心との二重の抹殺を行っているのではないだろうか。

     また、よく読めば、昭和15年のこの発言は、暗に戦争行為を動物掃射のようなものだと批判している。敵を殲滅することが賞賛される時代のこの発言はけっして戦争を翼賛するものではない。

     老師が日露戦争でどう振る舞ったかは、こう伝聞されている。

    「隊では文字通りの精勤で、上官の覚え目出度く、何遍も善行証や精勤証を授与されたが、そんなものに目もくれず、ヒタスラご奉公を心掛けていた。 一定の訓練を経て小隊長たるや、一名“名誉小隊”と呼称された由。因みに日露戦役従軍,斥候隊指揮の活躍中、度々敵の包囲に陥り、高梁畑で坐禅をやって機を伺った等の話もあり。随所自在の禅機を発揮したもので、常に従う部下も心経の講義を聴き、坐禅までやり、一風変わった小隊であったという。・・・征露の役では敵兵の首もあげた勇気勃々たる澤木さん、宗心寺に帰るや破れ衣に身をまとい」(「澤木老師伝」谷王集録、昭和二四年記『返照』220号昭和43年1月号所収)

     この筆者は兵隊沢木を全面評価しているが、老師自身は兵役についていた時は修羅道だと認識している。  

    「わたしも出家せぬとおったら、何になっておったやろう。私の姉などの観測では、坊主になりそうになかったがな、侠客の親分くらい。・・・じゃからそれは何にでもなれる。兵隊に行けば人殺しもこれ名人のほうじゃった。名人だったと見えて金鵄勲章をくれたじゃないか。その中でもこれ最もすばしこい兵隊だった。そういう人殺しのからだがこれ出家して、お袈裟かけて坐禅するのじゃから、これは拾いものである。わたしは一生拾いものじゃ。戦争で死んでもよかった。呼び声二十五のときタマがあたった。あれで死んでおっても仕方がない。あのときわたしが死んでおったら、修羅道へ行っておるにきまっておる。・・・修羅道がこれ仏道修行するようになったんじゃ」(全集6巻106頁 昭和36年)

     「人殺しもこれ名人のほうじゃった」というのは、人殺しの自分でも仏法者になれたという卑下であって、けっして自慢ではない。戦争で人を殺したことを、修羅道と恥じているのだ。同じ身体で泥棒にも仏にもなれるとは、よく老師がいっていたことだ。青年沢木は時代の中で避けがたく兵役に取られたのである。老師は兵卒になったことをこう嘆いている。

    「それから後に、兵隊というようなおかしなものにとられて、さあ銃剣術やたら、駆け足やたら、野外演習やたら、実弾演習やたら、いろんなことでだんだん念の入った凡夫になったものですよ。こんなことでは、本具の円成の光明も何もあったものではないので、本具円成の光明を埋没するのみならず、如来の正法輪を謗ずるなり、無間の業なりと、全く如来の正法などというものに背を向けてしまうことになる」(全集15巻322頁 昭和37年)

     兵役は無間業、坐禅は仏行とはっきりしている。

     ところで、酒井氏がいう個人感状とは、次の事をいうのであろう。

    「それで除隊の時にわたしに下士適任証を呉れていないことが大問題になった。わたし等はそんなことは平気じゃが、そんなことは別 にそれこそ子供の兵隊事見たいなものである。・・・善行証書もない、下士適任証もないなんて、それは公式に言えることではないが、どうか諦めて呉れ」と言っていた。その中隊長附きの将校はその後に大佐とか少将になった。」(全集第17、289頁)

     この善行証のこと一つとっても、伝聞(谷王集録本)と本人の話は大いに食い違う。  そして首山堡で敵の弾に当たって死を覚悟した時に詠んだという老師の生涯で唯一の歌は「法のため身を粉にせんと思いしに、あわれ(いまは)護国の鬼と果 てなん」である。護国の鬼というのは、仏の正反対の鬼である。戦争と仏道というものを、正反対のものと捉えていたのである。

      酒井得元氏が「聞き書き」にあのように書いたのは、酒井氏が老師の兵役を禅僧として評価しているからで、その点は後に追及したい。

    A 次にこうヴィクトリア氏は言及する。

    「興道は、戦友たちとの会話も収録し、彼の戦いぶりについては次のようにいう。『みんなが、「ありゃ、いったい何者だい」「うん禅宗の坊さんだけな」「なるほど、さすが禅宗の坊さんはちがったものだ、肚がでけとる」』この単純な会話の中で禅の修行が戦場においてどれほどに役立つものかを示す言及である。」(52頁『澤木興道聞き書き』p.6)

     これも酒井得元師の聞き書きであり、それに基づくヴィクトリア氏の感想である。しかし、事実はこうである。

    「わたしのところにも『禅は胆力を養うものですか』というてきたから、『おれは生まれつき胆力があり過ぎて困ったのじゃが、坐禅するようになって胆力が小もうなってのう。小便一しずくようこぼさんようになったわい』というてやった。わしらも命がけくらいのことは何でもない。日露戦争の時に、折敷けも伏せもせんとやってきた。そうしたら感心しやがって、「あれは一体何だい」「澤木上等兵、禅宗の坊主だ」「道理で生死を透脱しておる」こちらも、「フン、はばかりながら禅坊主だい」というようなものじゃった。日露戦争から戻って静かに考えてみたら、何だい、森の石松の兄貴分か、唐犬権兵衛か、清水次郎長の子分か、それくらいのものじゃった。それくらいのことなら何でもない。『学道用心集』にも「粉骨貴むべくんば之れを忍ぶ者昔より多しと雖も、得法の者惟少なし」とある。命がけくらいのことなら一人の女子と夫婦になれんというて青酸カリを飲んで死んだやつもおる。ひとりだけ残ったやつもおる。いろいろある。命が安っぽいということが生死透脱でもなければ何でもないわけである。そこで仏道というものは・・・」(全集12巻12頁 昭和36年、同じようなことは全集3巻304頁)

     まったく話が逆である。禅の修行が胆力を養って戦場において役にたつと思うのは、老師に聞いた兵士やヴィクトリア氏のような、素人の勝手な妄想に過ぎない。そういうものではない、と沢木老師はいうのである。

     このことについては『禅に聞けー澤木興道老師の言葉』(櫛谷宗則編、大法輪閣、1983)の中で「坐禅で胆力をつけたいと言うあなたへ」という章に二十九に及ぶ老師の反論の言葉が集めてある。ヴィクトリア氏のいうこととは反対に、老師は小さい時から胆が座っていたのだが、それはやくざ(侠客)の強さと同じで、仏道とは180度違うというのだ。

     これと同じ趣旨の言葉をすぐ後(3)に引用しながら、このようなことをいうのはヴィクトリア氏の日本語がよほどできないか、わざと沢木師を貶めるためにしたとしかいいようがない。

     弁明しておきたいのは、沢木老師はけっして禅僧が兵隊として活躍したのではない、ということだ。老師は尋常小学校4年しか出ていず、その後、提灯張をして暮らしを立て、17(数え)で永平寺に家出して、翌年やっと出家したのであり、当時はこき使われるだけの雲水だったのだ。

     高等教育を受けた鈴木大拙や宗門のれっきとした僧たちとはわけが違い、最底辺の兵卒である。「イヨイヨ徴兵検査が近づくと、赤貧、常に褌をかけない。ソレを求める工夫もない。困っていると、之を知った宣明老師が新しい褌を調整して与えられた」(「澤木老師伝」谷王集録、前掲)とある。褌も穿けない赤貧の修行僧だったのだ。

     しかも義理の親が戦争で死ぬものと借金さえしていたのだ。そういう選択の余地のないところでさせられた戦闘について「禅僧の責任」を問うのは妥当ではあるまい。その不当性については老師自身がこういう。 「我々の一代をブルブルとフィルムに撮って、チョキンとその一齣だけ撮って、それが澤木さんの全体だとは言えない。・・・そうしたら澤木さんと云うものは、実にいろいろな澤木さんがある訳である。 私はこれでも日露戦争の時分には、撃て!突っ込め!とやっていた。ところが今では、そんなことは想像も出来ぬ 気持ちがするほど、如何にも坊主になり切っている。首っ玉に弾丸が当たってからもう三十六年(全集では五十七年!)になったけれども、兎に角日露戦争には戦さをした。そこの處をチョキンと切り取って、それだけを澤木さんだと云っていたらおかしなものができる。」(『証道歌を語る』169、70頁)

     これは戦時色濃い時期(昭和15年)の言葉である。けっして戦後の弁明ではないのだ。

    B「戦さがすんでそれから静かに自分というものをかえりみていると、これは昔の侠客とか、あるいはならず者とか、つまり国定忠治とか、これくらいの連中の命がけのところまでは行っておったかも知れんが、道元禅師のお弟子としてはちょっと物足りないということに気がついた。・・・・命だけ捨てる奴には、命を捨てる代わりになんぞ欲しいものがある。死んでも出世したい。死んでも勲功が立てたいと云う。これは何か。生死解脱ではない。それは替えっこしたんである。肩の荷を替えたんである。命を捨てる代わりに名をあげたいとか、名誉をほしいとか、これならば物と物の替えっこである。もしこの替えっこでやるならば、それはどこまで行ったら果 たして満足するか。それを仏教では流転輪廻という。  だから要するに生死解脱ということは、命を捨てることではなく、欲をすてることである。欲にも色々ある。名誉欲もあり、財欲もあるが、この総ての欲を捨てる。一切投げ出すのである。ここに宗教が要る。ここに悟りが要る。ここに道が要る。」(52頁注『生死のあきらめ方』pp.6ー7)

     この叙述に問題はないはずだ。ただの「命がけ」は、なんでもない、といっているのである。これはしばしば老師がいっていることだ。問題はこの後に引用される次の所である。 

    「・・・これを我が日本の軍隊にすれば、軍旗の下に水火もいとわん。軍旗の下に命も物の数ではないという、その境地である。わしはそれで、念彼軍旗力と云う。この軍旗の下に身を捨てる、これは実に無我である。またこれが職域では、どの職域でも職域奉公となる」(『生死のあきらめ方』昭和19年、雑誌「大法輪」)

     ここには大いに問題がある。いや、矛盾している。一切を投げ出し何の為でもないことに努めることが、なぜ戦さをすることになるのか。職域奉公することになるのか。

     どの職域でも無我で勤めよということさえ、問題であるのに、軍旗の下に命もいとわないというのは、本当におかしい。後によく考えたい。

     しかし、ヴィクトリア氏は、「興道自身、ふたたび戦場に赴くことはなかったものの、禅と戦争の一体性は一貫して主張しつづけてきた。これを証すに1939年には「内閣武道振興会委員会」の委員の一人になり、子供達を戦場に送りだす下準備を奨励している」(『禅と戦争』53頁)と記す。

     たしかに委員にはなったのかもしれない。だが、戦場に子供を送りだすような言動はまったく聞いたことがない。内閣との関係はせいぜい近衛首相と親しかったことであるが、それも老師自身は悪い事と心得ている。

    「貴族に近づくというのは非常に悪いことじゃ。私が戦争中に、近衛さんの秘書と心やすかったものだから、近衛さんのところへ行くように頼まれたことがある。それは戦争がはじまって間もない頃、政府は戦争を不拡大不拡大といいながらだんだん拡大していって、日本の軍隊はシナの奥へ奥へと入っていった。したがって近衛さんは非常に忙しかったらしかった。」(全集9巻358頁 昭和32年頃)

     沢木老師が「戦場に送りだす下準備を奨励している」とは、いえないことは、終戦の日の校長との会話でも確かめられる。

    「八月十五日の終戦の晩に泣いて来た小学校の校長さんがおった。『わたしが今まで教えておったことは、みな嘘ですか」「嘘というわけではないが・・・」「どうしたらよいのですか」「どうしたらよいというてもどうもなりやせん、君の勝手にしたらよいじゃないか」といってやった。わしはもとから、そんなもので変わるようなことを、戦争に負けようが勝とうが、問題にしては来なかった。わたしのやって来たことはいつも変わることのないことである。戦争は勝か負けるかにきまっている。それは当たり前のことで何のことはないはずである。だからわたしには、戦功も何もあったものでない。勲三等も功三級も、このわたしのは狆の首飾りみたいなもので、滑稽に思えても名誉とは考えられない。昭和十四年に偕行社で講演したときに平常おもっていることだから、はっきりとわたしは狆の首飾りだといってやった。そのときは時勢が時勢だったので一般 聴衆の方がドキンとした。」(全集3巻336頁 )

     また、ヴィクトリア氏は「一九四一年から一九四二年にかけては日本の傀儡国満州へも出かけ、法話と称し、軍人、民間人の前で戦争を奨励した」(53頁)というが、そうだろうか。

     老師は満州布教の監督のような職に就くよう求められて、それを断っているのである。

     弟子丸泰仙氏は、中国への旅行に随行しているが、その法話は純粋に只管打坐、自分が自分で自分する道のためだったという。その後、弟子丸氏は、三菱の技師として南洋に渡り、結局その中で反戦運動をすることになる。彼は当時のことについてこう書いている。

      「それから二次大戦中のことであった。スマトラ・バンカ島の錫鉱山開発に派遣された時、そこにオランダ人が宿舎に残していった書籍の中に英訳のゲーテの著書が二三冊会った。私は一人無聊をかこちつつ、孤島の窓辺でそれらの本を読み耽ったのである。それは何度も敵の潜水艦に襲われ、生死の間をさまよったあと・・・故国より送られてくる手紙の中で沢木老師の墨痕あざやかなお便りと毎日読むゲーテの文章であった。老師の文面 に『今や人類興亡の分岐点に立つの大戦、願わくば世界中の人々に坐禅をさせて、静観せしめたし』とあった。また私が『戦争をよそに毎日ゲーテの詩を読んだり、森林の清涼の中で皆と坐禅をしております』と書いて送ると老師は『坐禅をする人は皆私の兄弟です。たとい生死の境に身を処しても、最後まで心を静かにして、島の人たちを愛してやって下さい」と返事をよこされた。』(弟子丸泰仙『正法眼蔵現成公案解釈』165頁)

     これでも戦争を奨励したと強弁できるのだろうか。

     あるいは昭和13年召集を受けた俗弟子田中米喜氏はこう書いている。 「弾がビュンビュン飛んで来る境内の中も用心して歩かねばならん。その弾の来る只中で寺ではお勤めが行ぜられ十数人の僧侶が読経して繞行がはじまっている。私は飛弾をくぐってお詣りした。お勤めが終わって一人のお坊さんと筆談をかわした。私は「昔から兄弟のようにしているそちらの国と戦することは悲しいことである。私も仏法信者である」というとその僧は「私もそう思います。それから四、五年前でしたが日本の偉い坊さんがここにこられましたよ。」という。私は「ああそれはきっと私の師匠の沢木老師でしょう。老師から中国仏跡巡拝で東林時のことを聞いております。」といって語り合った。・・・私はその兵に老婆は無事歩いて行ったかと問えば、兵は「いえ、水田の中に倒れて死んでいました」という。私はいいようのない気持ちになった。それで老師に早くお袈裟を送って下さいとお願いしたのであった。そのお袈裟は五條の絡子で、我が師団が徳安迂回戦の苦戦を終え徳安西南方三沁橋河に出たとき慰問袋と一緒に左の葉書と共に無事ついたのである。」(田中米喜『沢木興道』38、9頁、s57、名著普及会)

     こういう戦時中の出征している弟子とのやり取りから、老師が「戦争を奨励した」とは考えられない。

     ただ、問題はある。老師は戦時中、軍関係や翼賛団体の集会でしばしば講演をさせられているからである。

     「そのお寺は立派なお寺で、その大政翼賛会か婦人会の幹部ばっかの講習だったから、これ見よがしだとは言わないけれども。物の無い、綿なんか無い時分、綿がずらっと並んでいる。和尚、怒ってね。怒ったですよ。婦人会の人を。送り迎えの人がずらっと並んでいるんですよ。「こんな物は何処にあった」皮肉ですよ。「こりゃ愛国婦人会と何の関係がある。ここの愛国婦人会は大したもんでございます。今、鐘太鼓たたいたって、こんな物、手に入る訳がない。どうして手に入りました」とか何とかいいながら、庭に降りてさ。そしたら警視庁から、さし回しの自動車が来ましてね」(「返照」488号「田代等潤和尚にきく」平成5年)

     私はこういう記事を読むとやはりつらい。ここに見られるように老師は主催者を批判することもあっただろうが、警視庁や愛国婦人会から虐められ迫害を受けていた人々をたくさん知っているからだ。そういうところで歓迎される沢木興道老師の話しはほんとうに坐禅だけだったのか、と思わずにはいられない。まして「高天原」というような揮毫をよくする慈雲尊者を敬愛している老師である。それが律宗のお袈裟への賛迎からきていると分かっていても、やはり問題を感ずる。少なくとも軍隊や戦争や天皇制に表立った反対はしなかったことは事実だからである。

    C ヴィクトリア氏が不殺生として引用するところも信じられないくらい前後を無視している。

    「法華経の『三界は皆これ我が有なり、その中の衆生は皆是れ吾が子なり』。ここから出発すれば一切のものは、敵も味方も吾が子、上官も我が有、部下も我が有、日本も我が有、世界も我が有の中で秩序を乱すものを征伐するのが、即ち正義の戦さである、ここに殺しても殺さんでも不殺生戒、この不殺生戒は剣を揮う。この不殺生戒は爆弾を投げる。だからこの不殺生戒を参究しなければならん。この不殺生戒と云うものを翻訳して、達磨はこれを自性霊妙と云った」(53頁「禅戒本義を語る」「大法輪」1942年12月号p.107)

     それは前にこうある。

    「この不殺生ということは、どうしても仏教のいう無我というものが徹底しなければ、徹底するものではない。我というものを前提に置いたら、必ず、相手を嫌うことになり、これを殺さんならんことになる。それ故ここは、『法華経』の諸法実相ということが徹底すれば、前にあるものが仏さんであると思うて、これが殺せぬ ことになる。だからここに徹底するなら生死透脱ということもいわれる。・・・・・そういう人が戦さをすれば、敵を愛すること味方の如く、自利が利他にあっている。別 にむやみに敵兵を殺すとか、そんなことはありゃせん。また掠奪するということなどもあるものじゃない。これが戦さをするとその土地の身になってやる。その土地の住民をできるだけ保護してやる。また戦術の方からいうても、その土地の人民を保護してやれば、その戦さは必ず勝つべきものである。また捕虜を大切にするということは、戦術の上からいうても、その方が得なのである。最後の勝利はそのものの上にある。  己の命を捨てることは、鴻毛の如く、人の命を哀れむことは、己の如く。ここに人と己との境目の尽きたところが初めて不殺生戒なのである。  だから法華経の『三界は皆これ我が有なり・・ここに殺しても殺さんでも不殺生戒、この不殺生戒は剣を揮う。・・」と続く。(全集10巻158頁 昭和16年)

     この前半を読めば、まさに敵を愛せよという教えと言えるのである。それでもなお、「敵を愛すること味方の如く」といいながら「この不殺生戒は剣を揮う。この不殺生戒は爆弾を投げる」とは何事か、という疑問が出るのは当然である。この疑問にひとつのヒントを与える話を老師はしている。

      「わたしの国に暴動が起こったことがある。ところが殿様のいいつけで、これを治めるのだが、鉄砲で撃ち殺すのが能じゃない。しかし百姓を嚇かさんといかん。それで、実弾でない、空砲を射っているが、きりがない。二、三人やらんとしょうがないというので、一番前の者を二、三人ポンポンところした。そうしたら、「ソラ射ったぞ、ワァー」というて、皆走って逃げて治まった。そういう決着まからん権利。  昔、両国橋が何かで落ちたことがある。ところがそれを知らないで、あとからワッショワッショと押して来るので、人がどんどん落ちる。どうしても止め切れない。そうすると一人の武士がスパッと抜いて、前の者の首玉 を二つ三つ切った。そいしたら、ワー抜いたぞ、と将棋倒しにあとへ押し返した。この決着まからん権利、神様とブッ続き、仏様とブッ続き、そこに権利を揮ってピシャとやると面 白い。それでこそ素っ首玉をブッタ斬ったが、あとの何百というものが助かった。差し引き勘定イコール儲かっている。」(全集10巻、34頁)

     戦争の現実を、私は知らないが、南洋で戦わずして何万の兵士が餓死したことを思うと、敵味方双方にとって、早く決着をつけた方がいい時があり、剣や爆弾も使ってよい場合があるということかもしれぬ と察してみる。もちろん、だからといってこの発言の問題性が無くなったことにはならない。暗殺者たちを坐禅させた山本玄峰氏も「一殺多生」といっているのだ。(『禅と戦争』116頁)

     この講演が行われたのは昭和16年。ヴィクトリア氏の本にあるように、禅宗のみならず、すべての宗教が大政翼賛して戦争を賛美していた時代に、敵兵を殺すな、掠奪するな、人の命を哀れめと言いえたのである。時に老師は駒沢大学教授、僧堂の師家でもあったのだ。更にその戦争が止む道をも示している。

    「人間最後の目的、人間何をしたらよいか。もしこれを知ったら戦争も止むわけ。石油がどこにあるとか、鉄がどこに出るとかいうことは、ただ途中のことである。人間最上のことがわかったら戦争する用事はない。滅私奉公というておるけれども、どれもこれも滅私奉公しておる。錬成錬成というとおるが、なにが錬成なのか。いくらヨイショヨイショ というてただくたびれさえすればよいのではない。  物には重点がなければならぬ。人間にも重点がある。これが無上菩提である。戦さまでして人間を殺して最後の無上のものを求めぬ ならば、フウケモノ(実のない奴、愚か者)ばい。勝ちさえすればよい、負かしさえすればよいというが、それから先に何があるか。私はそれから先が大切じゃという。これが正法眼蔵である。」(昭和十八年七月『返照』256号)

     この発言は今のアメリカのブッシュにも、ロシアのプ−チンにも聞かせたい言葉である。このままビラに書いて反戦デモで撒いても十分意義がある。それを老師は1943年にはっきりいいえたのである。

     老師はたしかに戦争に反対する運動はしなかったが、しかし積極的に賛成もしなかった。それらを超える坐禅を説いたには違いない。 

     「なに、ほんとうのいくさも子供のいくさごっこも同じこと。負けても勝っても同じこと。みな夢なんじゃから、同じことじゃ。聖徳太子は「世間は虚仮なり」と。虚仮なるものを世間という、仏はこれ真実。だから浮世のあやうきを悟らなければ、仏法というものにはありつかんわけである。」(全集第12巻279頁1953年)

     戦時中に戦争を批判したトルストイの心酔者、江渡狄嶺氏のところへ講話しにいっているのだから戦争に賛成するはずはないと思う。しかし、反対といわなかったのは、ずるいといえばずるいだろう。 「この頃は外交でも戦さをする用意があるとか、戦さを停める用意があるとかよく云っている。どちらへでもどうでもする用意のあるのが智恵と云うものである。」(『証道歌を語る』474頁1940年)

     でも、私にはこれは狡さではなく、反対も賛成も浮世のことには深入りしない、という仏教者としての筋の通 った生き方であると思われる。老師には、やるべき仕事、仏法があった。戦争であやうく死にそうになった老師には、国家にこれ以上、自分の生き方を邪魔されたくなかったのだろう。

     とりわけ1941年から44年9月までは、死に物狂いとでもいえる大中寺天暁禅苑での弟子との摂心の日々があったのだ。この時だけ四年間、老師は自分の道場と言えるものを持った。この時の修行で内山興正、酒井得元、吉田興山、川瀬玄光尼らの弟子達が育ったのである。

    D 「道元禅師はそれだから、吾我をすてろ、吾我を忘れて潜かに修すと云われた。それを正法眼蔵の生死の巻にはこう云われた。『ただわが身をも心をも、はなち忘れて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる』と。これを言葉をかえていうと、ただわが身をも心をもその事のいかんをとわず、上長の命令に服従し、これに従いもて行く時、直ちに陛下の股肱として完全なる兵隊になる」(54頁注「生死のあきらめ方」p.6)

     この一文は原文の『Zen at War』には欠落しており、花園大学にも資料がなくて検証できないが、きっとこう言っただろうと思われ、それは大問題である。おとなしく天皇の為に死ね、ということになるからである。この点については充分吟味したい。

     以上のことによって、沢木老師はブライアン氏がいうような「禅と戦争との一体性は一貫して主張し続けた」り、「軍人、民間人の前で戦争を奨励した」わけではないことが明らかになったと思う。

     だから小谷師が「己自身が抱く幻想の中に「禅の覚り」を体認し、動揺もせず人を殺し、殺された人々の痛みを感じることもなく、禅の師家として生涯暮らし入寂した」というのは、当たらない。

     またヴィクトリア氏が「ここで述べてきた興道の考え方とは、鈴木大拙をはじめとする禅の信奉者たちの幅広い考え方の一つである。つまり、「無我の境地」、つまり「絶対の境地」に入ったとき人は、人を殺そうが爆弾を投げようが、その行為は本人の意志の外側に存在するもの。ゆえに本人の意志とは無関係な型で行為そのものが実行されたのであれば、当然本人の決断や責任はまったくないというものである」(54頁)と総括するのは、まったく不当な決めつけとしかいいようがない。

     沢木興道師は、「悟りはない」と大声でいい、「覚った」とか「無心」「無我の境地」などということは言ったことがない。それは道元の仏法の根本的な特徴であり、そういう老師の坐禅の核心を理解しないで、たんなる憶測で人を貶めることを言ってほしくないと思う。  そしてたった三頁の言及だけを過大視して、沢木興道師を代表者として禅と戦争責任を論ずるのは、不適切であるといわねばならない。

     老師は既成教団を厳しく批判し、グループも作らなかったのだから、ヴィクトリア氏が『禅と戦争』で論じている多くの禅者たちが、正義の戦争は善しとして、従軍布教師になり、あるいは自ら軍人になり、あるいは体制翼賛のオピニオン・リーダーになったのと同列にはできない。  もちろん、先に保留した3、4、5問題のように、国体や戦争に対する老師の態度に禅者としてまったく問題がないわけではない。次にそのことを深く考えてみたい。