惠能と佛性
松岡由香子
問題の所在
六祖惠能と「佛性」は、従来深い関係があるとみなされてきた。例えば「佛性」が惠能の言葉として言及されるのは1、弘忍との初相見問答「佛性即無南北」(敦煌本『壇経』ほか) 2、呈心偈の一つ「佛性常清浄、何処有塵埃」(敦煌本『壇経』[1])3、国恩寺説法「汝等佛性譬諸種子」[2](『景徳傳燈録』)4、示、門人行昌「無常者即佛性也」(『景徳傳燈録』[3])5、中使薛簡問答「佛性本自有之。昔日將謂太遠。今日始知至道不遥。行之即是。今日始知。涅槃不遠。觸目菩提。今日始知。佛性不念善惡。無思無慮。無造無作。無住無爲。今日始知。佛性常而不變易」(『祖堂集』[4])。などである。そして、惠能は佛性を見ること、すなわち「見性」を説いたとされる。その見性とは宋代に「不立文字・教外別傳・直指人心・見性成仏」と定型化されて、いわゆる禅宗の根本要旨であるとされてきた。
だが果たしてそうであろうか。実際に惠能は「佛性」「見性」を説いたのだろうか。
それを調べるのに難問がある。惠能の第一資料が容易に確定しがたい、ということである。いわゆる『六祖法寶壇経』は、六祖が説いたものだということだが、それに対して道元は《四禅比丘》で「六祖壇経に見性の言あり、かの書これ偽書なり。付法蔵の書にあらず、曹谿の言句にあらず。仏祖の児孫、またく依用せざる書なり」といっており、実は道元以前に夙に六祖の弟子である慧忠国師によって改竄、添加が指摘されてきた書である。
近年の研究において惠能の思想資料[5]に関しては、いわゆる敦煌本『壇経』がもっとも古いものとされ、宇井伯寿『第二禅宗史研究』[6]、鈴木大拙『禅思想史研究第二』[7]という二つの研究書がまず出された。それらを再検討し大成したのが柳田聖山氏の『初期禅宗史書の研究』におさめられた諸論文であり、そこでは、「惠能に帰せられる『六祖壇経』は、後述するように殆ど直接資料としての意味を持たぬ」[8]と断じられた。それらを踏まえた小川隆氏や、伊吹敦氏などの研究は敦煌本『壇経』の数次の編集過程を想定している。
そこでこれらの諸編集史を再検討することからはじめて、六祖の根本資料を確定し、当時の禅の資料や灯史などとの関連で、はたして惠能が佛性や見性をいっているのか、六祖の思想とはいかなるものであるのかを究明したい。
ところで、敦煌本『壇経』は、従来、大正大蔵経に入れられた矢吹慶輝氏発見(1922)の「スタイン本」が主な資料であったが、のちに敦煌博物館所蔵の写本が、1993年に中国で出版され、誤字の少ないテキストが使用できるようになった。ここでは、テキスト本文は黄連忠撰『敦博本六祖壇経校釈』を参考に、中島志郎氏による校正、読み下し[9]を併記する。これらは鈴木・公田校定本の分段番号を踏襲しているので、論ずるにあたってはその番号を使用する。以下、敦煌本『壇経』はたんに『壇経』と略す。
一章「古本壇経」とは
一節 首題の考察
『壇経』の具名「南宗頓教最上大乘摩訶般若波羅蜜經六祖惠能大師於韶州大梵寺施法壇經」は、すでに多くの研究者が、成立を異にする部分からなっていることを指摘している[10]。その再検討から始めたい。
小川隆氏は、この首題が「事実上前半部(小川説では〔三七〕まで)のみの内容しか表していない」[11]と指摘している。その通りではあるが、前半すらも十分に表しているとは言えない面がある。
前半の大梵寺説法の〔一六〕「法無頓漸。人有利鈍」(法に頓漸無し。人に利鈍有り)、〔一七〕「我自法門。從上已來頓漸、皆立」(我自(わ)が法門は、從上已來、頓漸、皆立つ)という記述と、首題の「頓教」とは相容れない。「六祖」もすぐ後にみるように、惠能が主張したことではなく、後の付加と思われる。「南宗」については〔三九〕に「世人盡傳南宗能比秀。未知根本事由。旦秀禪師於南荊府堂陽縣玉泉寺住時修行。惠能大師於韶州城東三十五里漕溪山住。法即一宗。人有南比。因此便立南北。何以漸頓。法即一種。見有遲疾。見遲即漸。見疾即頓。法無漸頓。人有利鈍。故名漸頓」(世人は尽く南宗の能と云いて秀に比するも、未だ根本の事由を知らず。且く秀禅師は、南荊府當陽県、玉泉寺に於いて住持し修行す。惠能大師は、韶州城東三十五里なる曹谿山に於いて住す。法はすなわち一宗なるも人は南北有り。此れに因って便ち南北を立つるのみ。何ぞ頓漸を以てせんや。法は即ち一種なるも、見は遅疾有り。見遅なれば即ち漸、見疾なれば即ち頓なり。法は頓漸なけれども、人は有り。故に頓漸と名づく)とある。「南宗」は世人の称であり、南北は住持地によるのである。さらに「頓漸無し」であれば優劣はなく、「南宗頓教最上大乗」とあえていう必要もなかったはずである。
もし「南宗頓教最上大乘」「六祖」がはじめはなかったとすると、首題は「摩訶般若波羅蜜經惠能大師於韶州大梵寺施法壇經」となるが、これでは「摩訶般若波羅蜜經」が浮くし、「摩訶般若波羅蜜経」と「壇経」と、二つの「経」が言及されるのも不都合である。そこで先の首題から「摩訶般若波羅蜜経」を除くと「惠能大師於韶州大梵寺施法壇經」[12]となる。つまり惠能が韶州大梵寺で施法した「壇経」という内容を表した題である。そして『壇経』本文の中でも、『景徳傳燈録』巻二八「南陽慧忠国師語」[13]での慧忠も、たんに「壇経」と言及し、後述する韋處厚(?ー828)の碑文や契嵩の『壇経賛』(1054)でも「壇経」といっているから、「壇経」の名で長く流布したのであろう。
実はスタイン本の首題は三行に亘って書かれており、「南宗頓教最上大乘摩訶般若波羅蜜經」が最初の行、一字下がって「六祖惠能大師於韶州大梵寺施法壇經一巻」とある。第三行は編集者に当たる部分で「兼受無相戒弘法弟子法海集記」とある。「兼受無相」は少し小さな字で前行と同じ高さで書かれており、二字空けて「戒弘法弟子法海集記」とある。この部分は題から六字下がることになり、編集人の名を記すに適当な場所である。
敦博本は字下がりなく、「韶」で改行され、「州」からはじまる行と都合二行で書かれている。編集者については、題の「法施壇経一巻」に続けて、同じ大きさの同じ字体で「兼受無相」と書かれ、四字下がったところに小字で「戒弘法弟子法海集記」とある。二本のいずれも「兼受無相」は不自然な位置に不自然な大きさで書かれており、元来は無かったものと考えられる。なぜ「兼受無相」という中途半端な言葉を加えたのだろうか。思うに元来あったと思われる「戒弘法弟子」という法海の称号の意味が不明瞭だからではあるまいか。「弘法弟子」であれば、まだ「法を弘める弟子」として意味が通るが「戒」が浮いてしまう。そこで続く本文に「惠能大師。於大梵寺講堂中昇高座。説摩訶般若波羅蜜法、受無相戒」とあるから、惠能は法施に兼ねて「無相戒」を授戒した、という意味をこめて後に付け加えたのではないだろうか[14]。
また伝承者を記した後記〔五五〕の尾題にはスタイン本のみに「南宗頓教最上大乘壇経法一巻」とある。この尾題は〔三八〕の叙述にある「南宗」「頓教」を含んでおり、〔三一〕には「最上大乗法」にも言及されているから、それらを含めて最終的に敦煌本を編集した者が、この尾題と今、想定した元来の題「惠能大師於韶州大梵寺施法壇經」を合わせて「摩訶般若波羅蜜經」を挿入し、「南宗頓教最上大乘摩訶般若波羅蜜經六祖惠能大師於韶州大梵寺施法壇經」を巻名としたのではなかろうか[15]。
ところで、柳田聖山氏は「『古本壇経』が存在し、西天二十九祖説と、独自な無相受戒儀を含む牛頭宗系の主張であったと思われる」[16]と述べた。後にこの説は撤回されたが、「古本壇経」という言葉は、一番オリジナルな無相受戒儀を含む『壇経』という意味で継承したい。「古本壇経」の範囲を検討するに際して、この首題の問題がヒントになる。惠能を六祖として喧伝したのは神会であり、『壇経』を最初に編集した惠能の弟子には、そのような意識はなかったと思われる。したがって、首題の「六祖」を含めて「六祖」の称号のあるものは、後添の疑いが持たれる。今「六祖」に言及する節を挙げれば次のようになる。
使君の質問
〔三四〕武帝と達摩の問答
〔三五〕使君との西方阿弥陀問答
門人との機縁
〔四〇〕志誠
〔四二〕法達
〔四四〕神会 伝統祖師
〔四八〕惠能心地頌
〔四九〕〔五〇〕伝法偈
〔五一〕三十九祖の頓教伝授
〔五二〕法海問
これらはほとんど大梵寺での説法ではなく、後半部に出てくるものである。
小川隆氏は�『壇経』前半が「一人称的に編まれている」のに対し、後半は「三人称的に編まれている」こと、�首題との関係、�内容上の矛盾対立、�状況設定が大梵寺において説法開始〔一〕から一時散尽〔三七〕まで纏まっていること、などから〔三七〕以前と〔三八〕以後に二分できる[17]とする。氏の説に異論はないが、「六祖の言及」を基準にすれば〔三三〕までが前半となる。小川説とは〔三四〕から〔三七〕を後半に含むかどうかで異なる。そこで〔三四〕~〔三七〕を検討すると〔三四〕〔三五〕で「六祖」が言及されるのは、確かにある段階での付加を意味するが、それは、おなじく大梵寺の説法授戒の内容として適当とは思われない『壇経』のはじめの部分にある惠能の伝記〔二~一二〕とは、神会系の惠能伝記として同類と思われる。〔二~一二〕で「六祖」と呼ばれないのは、そこでは惠能の嗣法までを扱っているのだから、弘忍を「五祖」と呼んでも惠能を「六祖」とはいわないのであろう。したがって〔三四〕〔三五〕も前半に含みうる。また、たしかに〔三七〕は内容が大梵寺での散会であり、ここで区切ることもできようが、〔一〕が序になっており、〔三八〕は中間後序と思われるため、私は〔三八〕までを前半としたい。
このように〔一〕から〔三八〕までを前半として、その成立史を考えたい。後半は内容的に弟子の機縁や伝法の問題であり、後の編集と思われる。今は惠能の思想を問題とするので、前半のみを扱いたい。
二節 用語と内容による新古層
まず〔一〕は次のように説かれる。
「惠能大師。於大梵寺講堂中昇高座。説摩訶般若波羅蜜法。受(授)無相戒。其時座下僧尼道俗は一萬餘人。韶州刺史韋據及諸官寮三十餘人。儒士餘人。同請大師。説摩訶般若波羅蜜法。刺史遂令門人僧法海集記。流行後代。與學道者承此宗旨。遞相傳受(授)。有所依約以為稟承。説此壇經。」
(惠能大師、大梵寺講堂中に於て高座に昇り、摩訶般若波羅蜜法を説き、無相戒を授く。其の時、座下の僧尼道俗一萬餘人にして、韶州刺史韋據、及び諸官僚三十餘人、儒士餘人、同じく大師に摩訶般若波羅蜜法を説くことを請う。刺史、遂
かく
て門人僧法海をして集記し、後代に流行せしむ。學道者にたいして此の宗旨を承け、遞相
たがい
に傳授して依約の所有らしめ、以て稟承と為して、此の壇經を説く。)
このように〔一〕には説法の状況と共に、伝授、流布に関する言説がある。これに関して伊吹敦氏は、『壇経』〔一〕を二段に分け、さらにその初段を二分し、「惠能大師。於大梵寺講堂中昇高座。説摩訶般若波羅蜜法。受無相戒」だけを原『壇経』に属すという[18]。だが短い一節を細分して成立年代の段階をつけるのは恣意的過ぎ、方法論的に無理であるといわざるを得ない。たしかに既に高座に登っているのに改めて「大師が般若波羅蜜法を説くことを請ず」というのは重複して不自然であるが、『壇経』という書が残されるためには、刺史という高官によって命じて記録させることが必要だったのであり、その経緯を記す後半の部分も『壇経』の序として最初からあったと考えたい。
実は『壇経』には〔一〕〔三八〕〔四七〕〔五五〕と四つ「壇経」由緒書があり、異例である。じっさいに『壇経』は書写、流布されてきたので、それなりの理由があると思うが、それをもっとも簡潔に述べているのが〔一〕である[19]。そして〔一〕に出る「韶州刺使韋據」「刺史」は、〔三三、三四、三五、三六〕に出る「使君」「韋使君」と呼称が異なるので、別の系統の伝承と見られ、〔一〕を元来の序とみたい。すると「使君」を用いる〔三三〕以下は初期の付加となり、前の題字「六祖」で検討した付加部分の結論とも合致する。
壇経伝授を説く他の節〔三八〕〔四七〕〔五五〕は、〔一〕に出る「僧(尼道)俗」〔三八〕「法海」〔五五〕「流行」〔四七〕「稟承」〔三八、五五〕「壇經」〔三八、四七、五五〕「宗旨」〔三八、四七〕「遞相」〔三八、四七〕の語をそれぞれ用いていることも、この〔一〕が元来存在したことを裏付ける。
〔一〕には、「南宗」も「六祖」もなく、ただ、「惠能大師」とあり、正系の意識すらまったく見られない。「稟承」は「稟」も「承」も「うける」という意味であり、ただ「宗旨」を伝授して互いに受け継ぐことだけが言われ、最後に「この壇経を説く」とある。ここではまだ、宗派争いは言及されておらず、実際にこの書が弟子から弟子へと伝承された史実とも見合う。〔三八〕〔四七〕〔五五〕は、「壇経」の伝授をいい、すでに「壇経」とよばれるものが成立している状況で書いていると思われる。
〔一〕からは「無相戒を授く」と状況描写でいわれた無相戒と、「摩訶般若波羅蜜法を説く」といわれた摩訶般若波羅蜜が説かれる〔二四〕~〔二六〕が、元来のものとして想定される。
従来の諸研究において元来の『壇経』の内容だと確定できる説は、次のような【無相戒文】[20]である。
〔二〇〕歸依三身佛
〔二一〕四弘大願
〔二二〕無相懺悔
〔二三〕無相三歸依戒
これらは内容からみても元来のものであることに異論はない。
では、【無相戒】の前の説法部分、〔一三〕~〔一九〕はどうだろうか。
それらの主題を出すと次のようになる。
〔一三〕定慧為本
〔一四〕一行三昧
〔一五〕定慧と灯光の譬え
〔一六〕無頓漸
〔一七〕無念
〔一八〕坐禅と浄妄
〔一九〕坐禅とは外離相、内不乱
これらについて小川隆氏は、「とくに〔一三〕~〔一九〕すなわち惠能伝と無相授戒儀の間に挿まれた部分は神会系資料に見える幾つかの主題(定恵等・一行三昧など)に定義・解説を加えており、しばしば『壇経』『定是非論』『神会録』(=『雑徴義』筆者)などの語句をそのまま用いている。ひとつひとつ原文を挙げて対照するゆとりはないが、胡適は『荷沢大師神会伝』の「六、神会与六祖壇経」でそれらの例を列挙し、当初、神会を「壇経の作者」と称したほどである。しかし、それらのうちには、神会没後の付加部分と考えられるものも含まれており、また、たんに神会系資料の抄写たるに止まらず一つの主題の下に複数の定義が集められていたり、一つの教条が逐語的に解釈・敷衍されたりしている箇処も少なくない。したがって、これもやはり神会没後の後継者達の再編とみるべきものであろう」[21]と述べている。それを伊吹敦氏も同意、継承している[22]。確かに挙げられた主題は、神会の取り上げた主題と重なる。だからこそ、神会の思想と対校してその先後関係を精査する必要がある。それによって果たしてこれらが神会派のもので後の増補であるのか、再考してみたい。
三節 神会の著述[23]と『壇経』〔一三〕~〔一九〕の前後問題
まず定慧等学について『壇経』は次のように述べる。
〔一三〕「善知識。我此法門。以定惠為本第一。勿迷言惠(定惠)定別。惠定(定惠)體不一不二。即定是惠體。即惠是定用。即惠之時定在惠。即定之時惠在定。善知識。此義即是〈定〉惠等。學道之人作意。莫言先定發(後)惠。先惠發(後)定。定惠各別。作此見者。法有二相。口説善心不善。惠定不等。心口倶善。内外一種。定惠即等。自悟修行不在口諍。若諍先後。即是人不斷勝負。卻生法我不離四相。」
(善知識よ。我が此の法門は、定惠を以て本と為す。第一、迷いて定惠別と言うこと勿れ。定惠の體は不一不二。即定は是れ惠の體。即惠は是れ定の用。即惠之時、定は惠に在り。即定之時、惠は定に在り。善知識よ。此の義は即ち是れ定惠等なり。學道の人、作意して言うこと勿れ、先定後惠、先惠後定、定惠は各おの別と。此の見を作す者、法に二相有り。口に善を説くも心、善ならざれば、惠定は等しからず。心口倶に善、内外一種なれば、定惠即ち等し。自ら悟りて修行するに、口に諍在らず。若し先後を諍わば、即ち是人れ勝負を断たず。卻りて法我を生じて四相[24]を離れず。)
神会の著作にもそれとそっくりに定恵等が述べられる。
『壇語』17「經中不捨道法而現凡夫事種種運爲世間、不於事上生念、是定恵雙脩、不相去離。定不異恵、恵不異定。・・・即定之時、是恵體、即恵之時是定用。即恵之時不異定、即定之時不異恵。即恵之時即是定、即定之時即是恵。即恵之時無有恵、即定之時無有定。此即定恵雙脩、不相去離。」(経中に『道法を捨てずして凡夫の事を現す』と。種々に世間に運為して事上に於て念を生じざる、是れ定慧双修して、相い離れざるなり。定は恵に異ならず。恵は定に異ならず。・・・即定の時は是れ惠の體。即惠の時は是れ定の用なり。即惠の時は、定に異ならず。即定之時は、惠に異ならず。即慧の時は即ち是れ定、即定の時は即ち是れ惠なり。即慧の時は慧あるなく、即定の時は即ち定あるなし。此れ即ち定惠双び修して相離れ去らざるなり。)
『雑徴義』24「即定之時即是慧體、即慧之時、即是定用。即定之時不異慧、即慧之時不異定。即定之時即是慧、即慧之時即是定。即是惠、即惠之時即是定。即定之時無有定、即慧之時無有慧。何以故、性自如故。是名定慧等學。」(即定の時は、是れ慧の體。即慧の時は、即ち是れ定の用なり。即定の時は、慧に異ならず。即慧の時は、定に異ならず。即定の時は即ち是れ慧、即慧の時は即ち是れ定なり。即定の時は定有る無く、即慧の時は慧有る無し。何を以ての故に、性自ら如なるが故に。是れを定慧等学と名づく。)
では「定恵等」は、神会か、惠能か、どちらが先に説いたのであろうか。
『壇経』〔一三〕は「定慧等」が言われる背景、あるいは理由として「第一、迷いて惠定別と言うこと勿れ」、「定惠は各おの別と言うこと莫れ。此の見を作す者は、・・」と定慧の先後を言う人々を想定している。また、その「即定は是れ惠の體。即惠は是れ定の用。即惠之時、定は惠に在り。即定之時、惠は定に在り」という定恵体用論は、恵の時、いわば般若知の覚りのその時に、定はそこにある。定という修行が伴わない恵はないということで、定は恵に達するための条件ではなく、すでに定の時にそこに恵があるという修証一等を表すと解せる。それは後に詳論する惠能の根本主張の一つである。それにしても「心口倶に善、内外一種なれば、定惠即ち等し」という説明はあまりよく分からない。だが、この心口が一致しなければならない、という教えはここ以外にも〔一四〕〔二二〕〔二四〕〔二五〕〔二六〕で説かれるので、惠能の口癖の一つだとも思われる。そして、もしこれが元来のものではないとすると、同じことを説く〔二二〕「無相戒」の部分も元来のものではない可能性が出てきて、具合が悪い。
さて神会『壇語』17であるが、「経中に『道法を捨てずして凡夫の事を現す』と。種々に世間に運為して事上に於て念を生じざる、是れ定慧双修して、相い離れ去らざるなり」と始まる。世間的なことを行うこと(凡夫の事)と仏道のあり方(念不生)が、一つとされている。しかし、そのどれがはたして「定」に相当するだろうか。世間に運為することは「定」ではありえず、「慧」ともいうまい。ところがこれにつづく定慧双修の説き方は、『壇経』〔一三〕と非常に似ており、したがってそれを真似て挿入した疑いが持たれる。しかし、『壇語』の論理の綻びはこの前文との続きだけではない。
『壇語』17は「即惠の時は、定に異ならず。即定之時は、惠に異ならず。即慧の時は即ち是れ定、即定の時は即ち是惠なり」で「不異」というより同一に近い。さらには「即慧の時は慧あるなく、即定の時は即ち定あるなし」と、定も恵もつきつめれば無いものとされている。よくいえば止揚されているともいえるが、実際に神会には定や修行について説かれることはないのである。定が定でなく、恵が恵でないようなものを、どのように修行するか説くことは難しかろう[25]。そしてそれにもかかわらず、「定恵双修」という。「双修」とは定と恵と二つのものを、量を等しく、あるいは同時に、あるいは交互に修行することをいい、定恵体用論にはなじまない。
神会が実際に修行を説かなかったことは『雑徴義』34に記される。
「王待御問和上言、若爲修道得解脱。和上答曰、衆生本自心浄。若更欲起心有修、即是妄心、不可得解脱。王待御驚愕云、『大奇、曾聞大徳皆未有作如此説』。乃為冦太守、張別駕、袁司馬等曰、『此南陽郡有好大徳、有佛法甚不可思議』。冦太守云、『此二大徳見解並不同』。王待御問和上、『何故得不同。答曰、『今言不同者、爲澄禪師、要先修定、得定以後發惠。會則不然。今正共待御語時、即定惠等。涅槃經云、定多惠少、増長無明。惠多定少、増長邪見。定惠等者、名為見佛性。故言不同。』王待御問、『作勿生是定〔惠〕等。和上答、今言定者體不可得。今言惠者、能見不可得體、湛然常寂、有恆沙巧用、即是定惠等學』。衆起立庁前。澄禪師諮王侍御云、『惠澄與會闍梨、剛証不同』。王侍御笑謂和上言、『何故不同。』答、『言不同者、爲澄禪師、先修定、得定已後發惠。會即不然。正共侍御語時、即定惠倶等。是以不同。』(王侍御、和上に問いて言わく、『若爲んが道を修めて解脱を得ん』和上答えて曰く、『衆生、本と自心は浄なり。若し更に心を起して修有らんと欲せば、即ち是れ妄心にして、解脱を得べからず。王待御、驚愕して云く、『大奇なり、曾て大徳に聞くも皆な未だ此の如き説を作すこと有らず』。乃ち冦太守、張別駕、袁司馬等に為(たい)して曰く、『此の南陽郡に好大徳有り、佛法の甚だ不可思議なる有り』。冦太守云、『此の二大徳の見解は並(けっ)して同じからず』。王待御、和上に問う、『何故に同じからざるを得ん』。答えて曰く、『今、不同と言うは、澄禪師の、先ず定を修めて、得定を得たる以後、惠を発すを要する為なり。會は則ち然らず。今、正に待御共(と)語る時、即ち定惠等し。涅槃經に云く、定多く惠少なければ、無明を増長し、惠多く定少なければ、邪見を増長す。定惠等しければ、名づけて佛性を見ると為す。故に不同と言う。』
修行しようと心を起こすことが妄念であり、本ともと自性が浄であれば、修行はまったく不要である。また「今、正に待御共(と)語る時、即ち定惠等し」と二人で会話をすることが、定恵等であれば、日常そのままが定恵等であって、およそ、修行も智慧も必要ない。
もっとも神会は独自の定恵体用論も説く。『壇語』14で「無住是寂淨、寂淨躰即名爲定。從躰上有自然智、能知本寂淨躰、名爲恵。此是定恵等。」(無住は是れ寂靜なり。寂靜の体は名づけて定となす。体上において自然知有りて、能く本寂靜の体を知るを名づけて恵と為す。此れは是れ定慧等し)という。これは『定是非論』八[26]にもあって、神会の根本思想である。だが定の体上に自然知があるなら、それは定が恵と異ならないとはいえない筈である。ましてその体と知が「寂靜の体を知る」と、所と能に分かれるのであれば「異ならず」とはいえない。また自然知が知るのであれば、「即慧の時は慧あるなし」とはいえないだろう。
小川隆氏は、神会の言葉を語義にそって見ることの不毛をいい、この部分を次のように読み解く。
「このように無相なる本体(「定」)が本体自身の無相を自ら「見る」(「恵」)、だからその両者は不可分であり、それゆえ「定恵等」だというわけであるが、ここではもはや「定」という語も「恵」という語も、(3)で述べたようなイメージを語る素材でしかなく、もとの語義とはまったく無関係に用いられている」。[27]そのイメージとは無限定無形相の本体、つまり「定」がスクリーンというイメージであるが、「そのスクリーンは決して無機質な死物ではない。それ自身は透明で如何なる内容ももたないが、そうであるゆえにあらゆる事物を活き活きと映し出すことができ、それでいて、自らに具わった智慧の働きによって、自らの透明さ、純粋さを常に自覚しているのである」[28]ということになる。その「定」は、もともとそこにあるものだから、要はそれを知ることである。この「知」こそがいわば、神会の思想の核心であるから、宗密は「知の一字、衆妙の門」といい得たのである。ところが『壇経』〔一三〕~〔一九〕は「知」について特に説かれることはない。万一、ここを神会やその弟子が書いたとしたなら、「知」を欠落させるだろうか。
ところで『壇語』17において点線で示したところには次のような言葉が入っている。
『壇語』17「如世間燈光、不相去離。即燈之時光家體、即光之時燈家用。即光之時不異燈、即燈之時不異光。即光之時不離燈、即燈之時不離光。即光之時即是燈即燈之時即是光。(世間の燈光の相い去り離れざるが如し。即灯の時は光家の体、即光の時は灯家の用なり。即光の時は灯を離れず、即灯の時は光を離れず。即光の時は即ち是れ灯、即灯の時は即ち是れ光。定慧も亦た然り。)
これは実は『壇経』〔一五〕にある次のような譬えと同じである。
『壇経』〔一五〕「善知識。定慧猶如何等。如燈光。有燈即有光。無燈即無光。燈是光之體。光是燈之用。名即有二體無兩般。此定惠法亦復如是。」(善知識よ。定慧は猶お何等の如きや。燈光の如し。燈有れば即ち光有り。燈無ければ即ち光なし。燈は是れ光の體。光は是れ燈の用。名は即ち二あるも體は兩般なし。此の定惠の法も亦復た是の如し。)
ところで、これにはもうひとつの問題がある。これらとそっくりの言説が『宗鏡録』に「南岳思大和尚云」[29]としてある。しかもそこには、『壇経』も神会も述べている定即是恵等も存在するのである。
『宗鏡録』第九六巻
「南嶽思大和尚云。若言學者。先須通心。心若得通。一切法一時盡通。聞説淨不生淨念。即是本自淨。聞説空。不取空。譬如鳥飛於空。若住於空。必有墮落之患。無住。是本自性體。寂而生其心。是照用。即寂是自性定。即照是自性慧。即定是慧體。即慧是定用。離定無別慧。離慧無別定。即定之時即是慧。即慧之時即是定。即定之時無有定。即慧之時無有慧。何以故。性自如故。如燈光雖有二名。其體不別。即燈是光。即光是燈。離燈無別光。離光無別燈。即燈是光體。即光是燈用。即定慧雙修。不相去離。」[30]
(南嶽思大和尚云く、若し學ぶ者、先ず須く心を通すべしと言うは、心、若し通を得れば、一切法、一時に盡く通ず。淨を聞説(き)きて淨念を生ぜざれば、即ち是れ本と自淨なり。空を聞説(き)きて、空を取らず。譬えば鳥の空を飛ぶが如し。若し空に住(とどま)れば、必ず墮落の患有り。無住は是れ本自性の体なり。寂にしてその心を生ずるは、是れ照の用なり。即寂はこれ自性の定、即照は是自性の恵なり。即定は是れ惠の體。即惠は是れ定の用。定を離れて別に恵無く、恵を離れて別に定無し。即定の時は即ち是れ惠、即慧の時は即ち是れ定なり、即定の時は即ち定あるなく、即慧の時は慧あるなし。何を以ての故に。性自ら如なるが故に。燈光の二名有ると雖も、その體は別ならざるが如し。即燈は是れ光なり。即光は是れ燈なり。燈を離れて別に光無く、光を離れて別に燈無し。即燈は是れ光の體、即光は是れ燈の用なり。即ち定慧雙修して、相い去り離れず。)。
『宗鏡録』は永明延寿によって961年に出来ているから『壇経』も神会の言葉も慧思の言葉も引くことができる。ここで考えられるケースは三つである。偶然、慧思の言葉に『壇経』〔一五〕や『壇語』17にそっくりなものがあったか、延寿が惠能の言葉を慧思と間違えて引用したか、か神会の言葉を慧思の言葉と間違えて引用したかである。最初のケースは、慧思の著作にこれに類する言葉が見つからず[31]、他に慧思の引用は『宗鏡録』にまったくないから、「南嶽思大和尚云」は延寿の間違いだといえよう。では惠能と神会のどちらの言葉を引用したのだろうか。惠能の可能性は直前に惠能の言葉があるから、ないわけではない。しかし、他にも四つ、六祖の言葉の引用[32]があって、みな『壇経』からの引用である。もし、これを『壇経』から取ったのなら、すぐ前にも引用したのだから「南岳思大和尚云」とはしなかったであろう。
そこで神会であるが、『宗鏡録』に神会の引用はない。「荷沢云く」ということで二度、関説されて引用も一つある[33]が、いずれも宗密の著作によっているようである。そうであれば延寿が神会と知らず、南嶽慧思と誤ってその言葉を引用した可能性がある。
じっさい、神会の言葉と『宗鏡録』の「南岳思大和尚云」の段が一致するのは、「定恵双修」と「灯光の譬え」だけではない。
『宗鏡録』「淨を聞説
き
きて淨念を生ぜざれば、即ち是れ本と自淨なり。空を聞説きて、空を取らず。譬えば鳥の空を飛ぶが如し。若し空に住
とどま
れば、必ず墮落の患有り」は『壇語』によく似た表現がある。
『壇語』12「聞説淨、不作意取淨。聞説空、不作意取空。聞説定、不作意取定。如是用心、即寂淨涅槃。經云、斷煩悩者不名涅槃、煩悩不生乃名涅槃。譬如鳥飛於空。若住空、必有堕落之患。」(淨を聞説くも、作意して淨を取らず、空を聞説くも、作意して空を取らず。定を聞説くも、意を作して定を取らず。是くの如く心を用うるは、即ち寂淨涅槃なり。経に云く、煩悩を斷ずるは涅槃と名けず。煩悩の生ぜざるを乃ち涅槃と名く)と。譬えば鳥の空に飛ぶが如し。若し空に住〔とど〕まらば、必ず堕落の患い有らん。)
無住についても似た表現がある。
『宗鏡録』「無住は是れ本自性の体なり。寂にしてその心を生ずるは、是れ照の用なり。即寂はこれ自性の定、即照は是自性の恵なり。」
『壇語』14「無住是寂淨、寂淨躰即名爲定。從躰上有自然智、能知本寂淨躰、名爲恵。此是定恵等。經云、寂上起照。」(無住は是れ寂淨なり、寂淨の躰は即ち名づけて定と爲す。躰上從り自然智有り。能く本寂淨の躰を知る、名けて恵と爲す。此れは是れ定恵等し。經に云く、寂上に照を起す、)と)
もう一つ、『宗鏡録』と『壇語』の奇妙な一致は『宗鏡録』「即定の時は即ち定あるなく、即慧の時は慧あるなし」という論理的に意味が通らない言表が、前後を逆にして『壇語』17に「即慧の時は慧あるなく、即定の時は即ち定あるなし」とあり、『宗鏡録』が「何を以ての故に。性自ら如なるが故に」と続くそのまったく同じ文言が、すでに引用した『雑徴義』24の定恵等学の説明にあるのだ。そのようなほぼ全てに亘る対応によって、『宗鏡録』「南岳思大和尚云」は神会の言葉が引かれたものであると断定できよう。
では『壇経』〔一五〕と『壇語』17の灯光の譬えは、どちらが先に説かれたのであろうか。これについても『壇経』〔一五〕の方が、より単純であり、Aあれば即あり、Aなければ即なし。Aはの体、はAの用、名は二で体は一という論理である。いっぽう『壇語』17は灯光に「世間の」という形容と「不相去離」が入り、即Aは家[34]の体、即はA家の用など形容する詞が増える。シンプルな方が元来のものであろう。やはり『壇経』にあったものを神会が依用したと思われる。
以上のことから『壇経』〔一三〕〔一五〕が先にあって、神会『壇語』14、17、『雑徴義』24の酷似した言い回しは、神会が前者を踏まえて書いたと見るのが自然である。当時、すでに纏められた禅書の中の文を引用(ないしは剽窃)して、新たな書を作ることがなされたことは、鈴木大拙氏が『楞伽師資記』と『修心要論』の関係で明らかにしている[35]。それに四六歳も年上の惠能の語録の方が早くできて当然である。まして論争を好んだ神会やその一派が「口に諍在らず」と説く『壇経』〔一三〕を書けるはずはないと思われる。
次は「一行三昧」であり、こう説かれる。
『壇経』〔一四〕「一行三昧者。於一切時中行住坐臥。常行真(直)心是。淨名經云。真(直)心是道場。真(直)心是淨土。莫心行諂曲。口説法直。口説一行三昧。不行真(直)心。非佛弟子。但行真(直)心。於一切法上無有執著。名一行三昧。迷人著法相。執一行三昧。真(直)心坐不動。除妄不起心。即是一行三昧。若如是此法同無情。却是障道因縁。道須通流。何以却滯。心在〈不〉住即通流。住即彼(被)縛。若坐不動是。維摩詰不合呵舍利弗宴坐林中。善知識。又見有人教人坐。看心淨。不動不起。從此置功。迷人不悟。便執成顛倒。即有數百般。如此教道者。故知大錯。」
(一行三昧とは、一切時中に於て、行住坐臥するも常に直心を行ずる是なり。淨名經に云く、直心は是れ道場。直心は是れ淨土と。心を行ずるに諂曲して、口に直法を説くこと莫れ。口に一行三昧を説くも、直心を行ぜざるは佛弟子に非ず。但
も
し直心を行じて、一切法上に於て執著あることなければ、一行三昧と名づく。迷人は法相に著し、一行三昧を執す。直心に坐して動ぜず、妄を除きて心を起こさざれば、即ち是れ一行三昧なり。若し是の如くなれば、此の法は無情に同じく、却て是れ障道の因縁なり。道は須く通流すべし。何を以てか却て滯せん。心、不住に在れば即ち通流するも、住
とどま
れば即ち縛せらる。若し坐して動かざるが是なれば、維摩詰が舍利弗の林中に宴座せるを呵するに合せず。善知識よ。又た有る人、人を坐せしめ、心の淨なるを看じて、動かず起たざる、此れに從って功を置くを見る。迷人は悟らず。便ち執して顛倒を成すこと即ち數百般あり。此の如くに道を教える者は、故より知る、大いに錯まることを。)
神会もまた「一行三昧」に次のように言及する。
『雑徴義』19「若欲得了達甚深法界者、直入一行三昧。若入此三昧者、先須誦持金剛般若波羅蜜經、修學般若波羅蜜。・・・是無念者、即是般若波羅蜜。般若波羅蜜者、即是一行三昧。・・・如實見者、了達甚深法界、即是一行三昧。」[36](若し甚深法界に了逹し、一行三昧に直入するを得んと欲えば、先ず金剛般若波羅蜜経を受持し、般若波羅蜜を修学すべし。・・・是れ無念とは、即ち是れ般若波羅蜜、般若波羅蜜とは、是れ一行三昧なり。如實に見る者は、甚深法界に了達す。即ち是れ一行三昧なり。)
『定是非論』29「誦持金剛般若波羅蜜経。而不能得入一行三味者、為先世有重罪業障故、必須誦持此経。」(金剛般若波羅蜜経を誦持して而かも一行三味に得入すること能わざる者は、先世に重罪業障有るが為の故に、必ず此経を誦持すべし。)
『定是非論』33「是無念者、即無一境界。如有一境界者、即是無念不相応。故諸知識、如實見者、了達甚深法界、即是一行三昧。」(是の無念は一境界なし。一境界有るが如きは、即ち是れ無念と相応せず。諸善知識よ、如実に見る者は、甚深法界に了逹す。即ち是れ一行三昧なり。)
「一行三昧」は『文殊説般若經』に説かれていて、後述するように他の禅グループ[37]でも、教学[38]でも知られており、『壇経』が特に称えたものではない。したがって〔一三〕「定恵等」と同様に〔一四〕でも、一行三昧を説くというよりは、その批判が主であるが、その詳しい検討は後に譲りたい。ところで〔一四〕は『維摩経』の直心行を一行三昧としている。「古本壇経」の経典に関していえば【無相戒文】には経典引用は無く、〔一三〕~〔一九〕では〔一七〕〔一九〕で『維摩経』が、〔一九〕で『菩薩戒経』が引かれており、この範囲で統一されている。それゆえ〔一四〕でも従来の『文殊説般若經』ではなく『維摩経』によって独自の一行三昧を説いたというのは、妥当性がある。
一方、神会のいう「一行三昧」は、行とは関係なく『金剛経』受持の功徳によって入るものであり、般若波羅蜜と同義としてあつかわれている。この思想は『定是非論』の付加部分とされる「金剛經宣揚部」(22、29、33)や『雑徴義』の付加部分である53「師資血脈伝」に見られるもので、神会没後の神会系の思想として一貫している。なお、小島岱山氏によれば、『金剛經』の流行は玄宗(713即位)が『金剛經』の注釈をし、『金剛經』を流布させたことに始まるので、玄宗即位の年に示寂した惠能は『金剛經』とは無縁であるという[39]。また『雑徴義』19(cf『定是非論』22、33)の「若欲得了達甚深法界、直入一行三昧者、先須誦持金剛般若波羅蜜経」は、すぐ後で神会系の付加とみなすことになる『壇経』〔二八〕によく似た表現で出てくる。
したがって『維摩経』によって一行三昧を説く『壇経』〔一四〕が、神会系の者たちによって書かれたとは考えられない。
続いては頓漸問題である。
『壇経』〔一六〕「善知識。法無頓漸。人有利鈍。迷即漸勸。悟人頓修。識自本心是見本性。悟即元無差別。不悟即長劫輪迴。」(善知識、法に頓漸無し。人に利鈍有れば、迷えば即ち漸に勸む。悟る人は、頓に修す。自らの本心を識らば是れ本性を見る。悟れば即ち元より差別無く、悟らざれば即ち長劫に輪迴す。)
ここでは、神会が主張した頓悟、頓教、頓入、頓門[40]とは明らかに異なる思想が説かれていて[41]、「法に頓漸なし」「漸勧」「頓修」という言葉が使われている。少なくもこれは神会の思想ではない。神会系の人々による後の付加の可能性が皆無とはいえないが、『壇経』に元来あったと見れば素直に理解できる。
この問題と次の「無念・無相・無住」は深くかかわる。
『壇経』〔一七〕「善知識。我自法門。從上已來頓漸、皆立、無念為宗。無相為體、無住無本。何名為相。無相於相而離相。無念者於念而不念。無住者。為人本性。念念不住。前念念念後念。念念相続無有斷絶。若一念斷絶法身即是離色身。念念時中。於一切法上無住。一念若住念念即住名繋縛。於一切法上念念不住即無縛也。以無住為本。善知識。外離一切相是無相。但能離相性體清淨是。是以無相為體。於一切境上不染名為無念。於自念上離境。不於法上念生。莫百物不思。念盡除卻。一念斷即無別處受生。學道者用心。莫不識法意。自錯尚可。更勸他人。迷不自見迷。又謗經法。是以立無念為宗。自錯尚可。更勸他人。迷不自見迷。又謗經法。是以立無念為宗。即縁迷人於境上有念念上便起邪見。一切塵勞妄念從此而生。然此教門立無念為宗。世人離境不起於念。若無有念。無念亦不立。無者無何事。念者(念)何物。無者離二相諸塵勞。真如是念之體。念是真如之用。性起念。雖即見聞覺知不染萬境而常自在。維摩經云。外能善分別諸法相。内於第一義而不動。」
(善知識よ。我自(わ)が法門は、從上已來、頓漸、皆立て、無念を宗と為し、無相を体と為し、無住を本と為す。・・・是れを以て無念を立てて宗と為す。即ち迷人は境上に於て念有り。念上に便ち邪見を起こすに縁りて、一切塵勞、妄念は此れ從り生ず。然れば此の教門は無念を立てて宗と為す。何を名づけて相と為すや。無相とは、相に於いて而も相を離る。無念とは念に於いて而も念ぜず。無住とは人の本性の念念、住らざると為す。前念の念念、後念の念念、相続して斷絶あるなし。若し一念、斷絶せば法身即ち是れ色身を離る。念念時中に、一切法上に於て無住なり。一念若し住せば念念即ち住し繋縛と名く。一切法上に於て念念住まらざれば即ち無縛也。無住を以て本と為す。善知識よ。外に一切相を離るれば是れ無相。但だ能く相を離るれば性體は清淨なり。是れ無相を以て體と為す。一切境上に於て染らざるを名づけて無念と為す。自らの念上に於て境を離れ、法上に於て念生ぜず。百物思わずに、念盡く除卻する莫れ。一念斷ぜば即ち無にして別處に生を受く。學道の者、用心して法意を識らざること莫れ。自ら錯まるは尚お可なるも、更に他人に勸めて迷わさんや。自ら迷を見ず、又た經法を謗る。是を以て無念を立てて宗と為す。即ち迷に縁りて人、境上に於て念有り。念上に便ち邪見を起し、一切塵勞妄念、此こ從り生ず。然らば此の教門は無念を立てて宗と為す。世人は境を離れて念に於いて起こさず。若し無有念。無念亦不立。無者無何事。念とは(念)何物。無者離二相諸塵勞。真如是念之體。念是真如之用。性起念。雖即見聞覺知不染萬境而常自在。維摩經云。外能善分別諸法相。内於第一義而不動。」
神会もまた無念を宗とし、無相無住をいうが「頓漸皆な立てる」ここの叙述とは非常に異なる。それゆえ惠能の思想を闡明するところで、この問題を神会の思想との対比で明らかにしたい。
次に『壇経』〔一八〕では、坐禅について説かれるが、それは誤った坐禅の指摘が主となっている。
〔一八〕「善知識。此法門中。坐禅元不著心。亦不著淨。亦不言(不)動。若言看心。心元是妄。妄如幻故無所看也。若言看淨。人性本淨。為妄念故蓋覆真如。離妄念本性淨。不見自性本淨。心起看淨。卻生淨妄。妄無處所。故知看者看卻是妄也。淨無形相。卻立淨相。言是功夫。作此見者障自本性。卻被淨縛。若不動者。見一切人過患是性不動。迷人自身不動。開口即説人是非。與道違背。看心看淨。即是障道因縁。」
(善知識よ。此の法門中に、坐禅は元より心に著せず。亦た淨に著せず。亦た不動を言わず。若し看心と言わば、心は元より是れ妄。妄は幻の如くなるが故に、看ずる所無き也。若し看淨と言わば、人の性、本より淨にして、妄念の為の故に真如を蓋覆するのみにして、妄念を離るれば本性は淨なり。自性の本より淨なるを見ず。心を起こして看淨せば、卻って淨妄を生ぜん。妄は處所無し。故に知る、看とは、卻って是れ妄也。淨は形相無し。卻って淨相を立てて、是れ功夫と言う。此の見を作す者は自らの本性を障えて、卻って淨に縛せらる。若し不動ならば、一切人の過患を見る。是れ性の不動なり。迷人は自身、不動なれば、開口して即ち人の是非を説いて、道と違背す。看心看淨は即ち是れ障道の因縁なり。)
ここでは看心、起心看淨、性不動という坐禅におけるあり方が批判されていて、けっして坐禅そのものが批判されているわけではない。その批判は、先の『壇経』〔一四〕で「人を坐せしめ、心の淨なるを看じて、動かず起たざる、此れに從って功を置くを見る」という一行三昧が批判されていたのと同じである。
ところで、神秀の『観心論』には次のように説かれる。「唯觀心一法。總攝諸法。最為省要。」[42](唯だ觀心の一法のみ。總に諸行を攝して、最も省要と為す。)「観心」と「看心」は違うともいえようが、神秀は「了四大五陰本空無我。了見自心。起用有二種差別一者淨心。二者染心。」(四大五陰、本空無我を了じ、自心を了見するに、起用に二種の差別有り。一は浄心、二は染心。『観心論』p0367a)と『起信論』に基づく二心を述べて、『壇経』〔一八〕で批判される「看浄」に近い。また北宗系の『大乗無生方便門』[43]は、その坐禅を説くのに「看心若淨名淨心地(心を看るに若し淨ならば淨心地と名く)」という。不動についても多く言葉が費やされ「問う、是沒(いかんが)是れ不動。答う、心不動なり。心不動は是れ定、是れ智、是れ理」などともいわれており、このような北宗系坐禅法に対する批判の言葉だと思われる。
いっぽう、北宗禪を攻撃した神会は、神秀が教えているとして「凝心入定、住心看淨、起心外照、攝心内證」(『定是非論』14、16。同様の批判は『雑徴義』21など)という、いかにも批判の為に造ったと思われる画一的スローガンを並べている。この神会の流れを汲む者がはたして『壇経』〔一四〕や〔一七〕のような、実際の北宗の坐禅の実態に迫る批判をしつつ、〔一八〕「坐禅は元より心に著せず。亦た淨に著せず。亦た不動を言わず」という坐禅を説くことができるであろうか。
次は坐禅の定義ともいうべきものである。
『壇経』〔一九〕「今記汝是此法門中。何名座禪。此法門中一切無礙。外於一切境界上念不去為座。見本性不亂為禪。何名為禪定。外雜相曰禪。内不亂曰定。外若有相内性不亂。本自淨自定。只縁境觸。觸即亂。離相不亂即定。外離相即禪。内外不亂即定。外禪内定故名禪定。維摩經云。即是豁然還得本心。菩薩戒(経)云。本源自性清淨。善知識。見自性自淨。自修自作。自性法身自行。佛行自作自成佛道。」
(今、既に是の如し。此の法門中に、何をか坐禅と名づくる。此の法門中に一切無礙にして、外に一切境界上に於て念の起らざるを坐となし、本性の乱れざるを見るを禅と為す。何をか名けて禪定と為す。外に相を離るるを禅と曰い、内に亂れざるを定と曰う。外に若し相有るも内に性乱れず、本性の自淨なるを定と曰う。只だ境を縁じて觸し、觸せば即ち亂るるのみ。相を離れて亂れざれば即ち定なり。外に相を離るるは即ち禪、内亂れざるは即ち定、外に禪、内に定なるが故に禪定と名づく。『維摩経』に云く、即時に豁然として本心に還り得たり。菩薩戒経に云く、本源自性は清淨なり、と。善知識よ。自性の自淨なるを見て、自ら修し自ら作すは、自性法身にして自ら佛行を行じ、自作して自ら佛道を成ぜよ。)
このように坐禅を坐と禅に分けて説明することも神会に見られる。
『定是非論』14「今言坐者、念不起爲坐。今言禪者、見本性爲禪。所以不教人坐身住心入定。若指彼教門爲是者、維摩詰不應訶舍利弗宴坐。」(今、坐と言うは、念、起らざるを坐と爲し、今、禪と言うは、本性を見るを禪と爲す。所以に人をして身を坐せしめ住心入定せしめず。若し彼の教門を指して是と為すは、維摩詰、舍利弗の宴坐を訶すに応ぜず。)
『定是非論』14と『壇経』〔一九〕とでは、いったいどちらがどちらを踏襲したのだろうか。この二つは一見似ていながら、重大な相違がある。『壇経』では「念の起こらざる」ことについて「外に一切境界上に於て」と明言する。様々な境界があることは認めて、それに対して念を起こさない、つまり好き嫌い、欲しい、いやだ、良い悪いなどの思いを起こさないことである。『壇経』〔一七〕では「自性、念を起せば、即ち見聞覺知すと雖も、萬境に染まず」といわれていた。念が起るのが悪いのではない、その境に染まるのがいけないのである。いっぽう神会はそもそも念が起きないのが坐だという。これは『壇経』〔一七〕が批判する「法上に於いて念生ぜず」、「世人は境を離れて念を起こさず」ということにあてはなる。また「本性の乱れざるを見る」というのは「本性を見る」にアクセントがあるのではなく、〔一九〕で続いて「内に乱れざるを定という」、「内に性乱れずば、本性の自淨なるを定と曰う」「相を離れて亂れざれば即ち定なり」「内に性、乱れず」「内亂れざれば即ち定」とあるように「乱れざる」ことに眼目がある。内に乱れないということは行においてはじめてありうることで、それが定の必要条件である。それに対して神会では『壇語』15に「無念を立てて宗と為す。善く無念を見る者は見聞覺知を具すと雖も、而も常に空寂なり。・・心の分別に随って起らざるは是れ定なり」と「本性を見る」が、「無念を見る」ことになる。なぜなら神会によれば本体、本性はもともと空寂で無念だからである。そのもともと空寂、無念のところに起きる知は自然なものであり、ふつうの見聞覺知なのである。あるいは『壇語』4に戒定慧を説いて「妄念無きを名づけて定と為す」、『壇語』14「寂靜の体は即ち名づけて定と為す」、『壇語』15『壇語』22、「心は自性として定なり」。『定是非論』(11=『雑徴義』39)「其の定とは、體不可得」『雑徴義』9『雑徴義』27、「念不起、空無所有、名づけて正定とす」『雑徴義』29[44]という。しかし、それらは実際の修行とは関係なく「乱れず」という表現もない。『定是非論』14について小川隆氏は「これが坐禅という行になにか新しい内実を加えるものではなく、事実上、坐禅という身体的な行の廃棄を宣言したものであることは明らかであろう」[45]と評している。
したがって「定」についての定義が、『壇経』〔一九〕と神会では異なっている。
このように神会の思想と異なる『壇経』〔一九〕が、はたして神会系の人々によって説かれるだろうか。
思うに、惠能は638年に生まれ、神会は684年に生まれており、四六歳の歳の差がある。713年、惠能が入寂したとき、神会はまだ二九歳であった。『祖堂集』は神会を「沙弥」と伝える[46]。神会の初期伝承は惠能に打ち据えられた機縁しか伝わらず、得法の機縁は明らかでない。『定是非論』などによって、惠能を六祖として宣揚した神会であるが、特定の寺をもたなかったと思われる惠能は、文字も知らないと伝えられ、著書はもとより、道信、弘忍や神秀のように、侍る者がその言句を書き記すということもなかったらしい。たまたま、実力者の刺史韋據が大梵寺に惠能を招き、説法を筆録させたものだけが、このように残ったわけである。惠能の示寂後、神会は惠能の思想を『壇経』で知る以外に詳しく知ることができなかっただろう。普寂を七祖と記す『伝法宝紀』が、すでに開元二十年(732)に行われたという滑台の宗論で、取り上げられているのであるから、六祖の弟子がまとめた『壇経』を神会が知っていて当然であろう。だから神会の『壇語』より「古本壇経」の方が先に成立したのである。
以上の検討で意外なことが明白になった。つまり『壇語』をはじめとする神会の思想は、『壇経』を下敷きにしているということである。そしてこの部分は「神会系の教義綱要書」ではなく、惠能独自の思想にほかならない。惠能は授戒に先だって自らの法門を説いたのである。大梵寺の【法施】は〔一三〕~〔一九〕を含み、それは般若(慧)と坐禅(定)を具体的に説いているといえる。
以上によって〔一三〕~〔一九〕は元来の惠能の説法[47]であったと結論できる。
四節 摩訶般若波羅蜜法〔二十四~二六〕は神会系統の付加か
次に「摩訶般若波羅蜜」が説かれる〔二四~二六〕は、元来あったものと言えるであろうか。『壇経』〔一〕によれば、大梵寺で「摩訶般若波羅蜜の法を説き、無相戒を授く」とあるので、〔二四~二六〕はもともとあったと考えられるが、それに対して小川隆氏は、ここは「〔二〇〕に見える自三身仏の説明を『摩訶(大)』『般若(智慧)』『波羅蜜(到彼岸)』の語に機械的にあてはめていっただけのものであり、この部分の般若説は、その内容をまったく〔二〇〕~〔二三〕に依存しているということができる。これらのことからこの部分は〔二〇〕~〔二三〕の「無相戒」儀と後に述べる〔二六後半〕~〔二九〕の摩訶般若波羅蜜の部分を接合する為に、後から創作、挿入されたものとも考えられるのではなかろうか」と書いている。
だが、「自三身仏の説明を『摩訶(大)』『般若(智慧)』『波羅蜜(到彼岸)』の語に機械的にあてはめていっただけ」というのは、何をさしているのか、よく理解できない。たしかに〔二四〕には「摩訶」が、〔二六〕には「般若」と「波羅蜜」が説かれるが、〔二六〕には「一念も修行すれば法身と仏と等し」とあっても、〔二〇〕の法身仏の説明にはこのような言葉はない。また「化身」「報身」という言葉は、〔二四~二六〕のどこにも見えない。また、何か前に説いたことに依存して説かれることは、「後からの挿入」の理由にはならない。一連の受戒説法ならば、前の「無相戒」に関連して説かれることは当然ありえよう。しかも私見によれば「その内容をまったく〔二〇〕~〔二三〕に依存している」とはとても思えない。
いっぽう小島岱山氏は「〔二四〕から〔二六前半〕までは、〔二〇〕から〔二三〕までを支える根本思想、ないしは根本思想構造が語られている部分」[48]であるとする。
いずれにせよ戒を説いた後に慧(般若波羅蜜)と修(摩訶行、般若行)とを説き、その結語では、「無住無去無来とは、是れ定恵等しくして一切法に染まらず。三世諸仏中より出ずとは、三毒を変じて戒定慧と為すなり」〔二六〕と結ばれる。「定恵等」〔一三〕〔一五〕、無住〔一七〕、「一切境において染まず」〔一七〕は、〔一三〕~〔一九〕に説かれるもので、戒を挟んで二つの説法には矛盾がなく、呼応している。また内容と用語から見ても、〔一三〕~〔二三〕とは同じ思想、用語である。したがって、〔二四~二六〕も元来の『壇経』の一部と結論できる。
一方、伊吹氏は当該の〔二四~二六〕は元来のものとするが、〔二四〕「此法須行不在口念。口念不行。如幻如化。修行者。法身與佛等也」〔二五〕「迷人口念。智者心行。又有迷人。空心不思。名之為大。此亦不是。心量広大。不行是小。莫口空説。不修此行。非我弟子」、〔二六〕「迷人口念。智者心行。當念時有妄。有妄即非真有。念念若行、是名真有。悟此法者。悟般若法。修般若行。不修即凡。一念修行、法身等佛」について、「そこに『般若は口で唱えるものではなく、心に行ずべきものだ』という勧告を注釈のように挟み込んだものであることが明らかになる。この注釈的な文章がなければ行文はスムーズに続くし、これがないことによって、他の文章に問題が生じるわけでもないから、これらは後代の挿入とみるべきである」[49]として、これらの部分のみ、ある時期に一時に付加されたとする。後に詳しく述べるが、私見によれば付加されたとされる部分こそ、他のどの禅者にも見られない惠能特有の教え、すなわち「行仏」であり、この部分は一つの摩訶般若波羅蜜を三つの角度から述べたのだから、同じような表現があっても不自然ではない。同じような表現だからといって、この部分だけを後の付加とすることは妥当ではないと思われる。まして神会系の人が口念ではなく行じよ、と説くとは考えられない。
ところで、小川隆氏は〔二六〕後半から〔二九〕は、ほとんど神会系の『金剛經』宣揚説を素材とするものであるとして、その対校を列記している[50]。〔二七〕から〔二九〕については同意するが、しかし、〔二六〕の後半部、次の下りは神会の『定是非論』金剛經宣揚説の改変であろうか。神会と対比して示そう。
〔二六〕後半「善知識。摩訶般若波羅蜜。最尊最上第一。無住無去無來。三世諸佛從中出。將大知惠到彼岸。打破五陰煩惱塵勞。最尊最上第一讚最上。最上乘法修行定成佛。無去無住無來往。是定惠等不染一切法。三世諸佛從中。變三毒為戒定惠。」
(善知識よ、摩訶般若波羅蜜は最尊最上第一なり。無住、無去、無来、三世諸仏は中より出て、大智慧を将て彼岸に到り、五陰煩悩塵勞を打破す。最尊最上第一なり。最上法を讃じて修行せば定んで成仏す。)
神会『定是非論』21「遠法師問曰、何故不修余法、不行余行、唯独修般若波羅蜜法、行般若波羅蜜行。和上答、修学般若波羅蜜者,能摂一切法。行般若波羅蜜行、是一切行之根本。金剛般若波羅蜜、 最尊最勝最第一。無生無滅無去来,一切諸佛従中出。」
(遠法師問うて曰く『何故余法を修せず、余行を行ぜず、唯だ独り般若波羅蜜の法を行ずるや』。和上答う、「般若波羅蜜を修学するは、能く一切法を摂む。般若波羅蜜行を行ずるは、是れ一切行の根本なり。金剛般若波羅蜜は最尊最勝最第一なり。無生、無滅、無去来、一切諸佛は中より出ず。」
この二つだけを比べれば、どちらがどちらを改変、あるいは使用したのか、判別しがたい。
この二つで大きく異なるところは『壇経』の「摩訶般若波羅蜜」と『定是非論』の「金剛般若波羅蜜」である。小川氏がいうように『定是非論』の「金剛」を、『壇経』で「摩訶」と改変したとするなら、それは前の部分との整合性という理由が考えられるが、そのためにわざわざ「大智慧を将て彼岸に到り」と〔二四〕から〔二六〕を総括するような言葉を入れるだろうか。また「三世諸仏」という言い方は敦煌本『壇経』では他にもあるが、「一切諸仏」はない。『金剛經』の「一切諸仏」を、わざわざ惠能の用語「三世諸仏」に変えるほど精緻な添加の功夫はされていまい。
さらに、「最尊最上第一」という言葉はたしかに「古本壇経」と想定した部分ではここだけであり、神会が好みそうな言葉ではあるが、実は『金剛經』にはこの言葉はない。「最上第一」は「有人盡能受持讀誦。須菩提。當知是人成就最上第一希有之法」(T8,0750a)とあるが、金剛經を受持讀誦した人が成就するものが最上第一の法であり、また「如來為發大乘者説。為發最上乘者説」(T8、750c)とあり、最上乘を発す者の為に如来が説くのであり、金剛般若經が最上第一最尊だということではない。むしろ『大智度論』には、「般若波羅蜜。於五波羅蜜中、最上第一最妙無上無與等」(T25、496c)とあり、世尊が般若波羅蜜の中で自説して、それが「師子吼して妙法輪を轉じ、一切世界において最尊最上」(T25、58b)とあって、般若波羅蜜が「最上第一」と説かれ、般若の法が「最尊最上」と説かれている。たしかに『金剛經』には「一切諸佛及諸佛阿耨多羅三藐三菩提法皆從此經出」(T8、749b)とあるが、『壇経』〔二六〕は「是れ定惠等しくして一切法に染まざる。三世諸佛は中從り出ずとは、三毒を變じて戒定惠と為す」と説かれる。先にもふれたようにこれは〔二四〕からの摩訶般若波羅蜜法の締めくくりとして適切であり、「三毒を變じて戒定惠と為す」という解釈こそが素晴らしいのである。ところが『定是非論』21の方は「無生無滅無去来、一切諸佛は中より出ず。」で切れて終わっている。
以上の理由から私は〔二六〕後半は「古本壇経」に元来あり、それを神会の弟子達が用いて金剛經宣揚に使ったと見たい。
小川隆氏も触れているように、『定是非論』胡適本にはない金剛經宣揚部は神会没後の付加の可能性が高い。それゆえ、『定是非論』21には神会の語録には珍しい「般若波羅蜜行を行ずる」という言葉があるが、実際にどのように般若波羅蜜を修行するか、ということは全く述べられない。
五節 神会系統の付加 〔二七〕~〔三二〕、〔二〕から〔一二〕
〔二七〕~〔三十〕は一つのまとまりをなしていて、「後代」に言及している〔三一〕~〔三二〕と「説法了」〔三三〕で締めくくられる部分とは少し異なるのでここから見てみたい。今本文を挙げれば次のようである。
〔二七〕「善知識、我此法門、從八萬四千智惠。何以故。為世人有八萬四千塵勞。若無塵勞、般若常在、不離自性。悟此法者、即是無念無憶無著。莫起雑妄。即自是真如性。用知惠觀照。於一切法、不取不捨、即見性成佛道。」
〔二八〕「善知識、若欲入甚深法界、入般若三昧者、直修般若波羅蜜行。但持金剛般若波羅蜜經一卷。即得見性、入般若三昧。當知此人功徳無量。經中分明讚嘆、不能具説。此是最上乘法。為大智上根人説。小根智人若聞法、心不生信。何以故。譬如大龍、若下大雨。雨閻浮提、如漂草葉。若下大雨。雨放大海、不増不減。若大乘者、聞説金剛經。心開悟解。故知本性自有般若之智。自用知惠觀照。不假文字。譬如其雨水、不從天有。元是龍王於江海中、將身引此水。令一切衆生、一切草木、一切有情無情、悉皆蒙潤。諸水衆流、却入大海。海納衆水、合為一體。衆生本性般若之智、亦復如是。」
〔二九〕「小根之人、聞説此頓教、猶如大地草木。根性自小者、若被大雨一沃。悉皆自到、不能増長。小根之人、亦復如是。有般若之智、與大智之人、亦無差別。因何聞法即不悟。縁邪見障重、煩惱根深。猶如大雲蓋覆於日。不得風吹、日無能現。般若之智、亦無大小。為一切衆生、自有迷心、外修覓佛。未悟自性。即是小根人。聞其頓教、不信外修。但於自心、令自本性常起正見、一切邪見煩惱塵勞衆生、當時盡悟。猶如大海納於衆流。小水大水合為一體。即是見性。内外不住、來去自由。能除執心、通達無礙。心修此行。即與般若波羅蜜經本無差別。」
〔三〇〕「一切經書及文字。小大二乘十二部經。皆因人置。因智惠性故。故然能建立。或若無智人、一切萬法本無不有。故知萬法本從人興。一切經書、因人説有。縁在人中有愚有智。愚為小故智為大人。迷人問於智者。智人與愚人説法。令使愚者悟解心開。迷人若悟解心開。與大智人無別。故知不悟、即佛是衆生。一念若悟、即衆生是佛。故知一切萬法、盡在自身心中。何不從于自心、頓見真如本性。菩薩戒經云。我本源自姓清淨。識心見性。自成佛道。即時豁然。還得本心。」
ここにはすでに指摘された「金剛經」をはじめ、今まで想定した「古本壇経」にはない用語、思想が多く見られる。
顕著な新しい思想はまず「見性」である。〔二七〕には、「一切法に於て取らず捨てず。即ち見性して佛道を成ず」、〔二八〕「但だ金剛般若波羅蜜經一卷を持せば、即ち見性することを得て般若三昧に入らん」とあり、〔二九〕にも「即ち是れ見性にして内外に住せず、來去自由なり」、〔三〇〕には「心を識り見性して、自ら佛道を成ず」と説かれる。「見性」はそれによって「仏道を成ずる」決定的に重要な語となっている。次いで「観照」も新出である。それについては〔二七〕に「知惠を用て觀照し」、〔二八〕に「本性に自ら般若の智有りて、自ら知惠を用いて觀照し、文字を假らず」と説かれている。[51]第三は般若の智が本性にもともとあるという思想で、これは〔二七〕にも「般若は常に在りて自性を離れず」とあり、〔二八〕の終りにも「衆生の本性、般若の智も亦復是の如し」と説かれる。だが、先には〔二一〕「自の色身中の邪見、煩悩、愚痴、迷妄に自の本覚の性有り。ただ本覚の性もて正見を将いて度す」、〔二三〕「一切の塵勞妄念、自性に在りと雖も」、〔二六〕「一念も智なれば即ち般若生ず」とあって、自性が「浄」ではあっても、本性に般若の智があるとはいわれていない。本性に智があるというのは次のような神会の「本知」の思想である。
『雑徴義』11「本空寂體上、自有般若智能知」(本と空寂の體上に自ら般若智有って能く知る。)、
『雑徴義』20「無住體上有本智、本智能知。」(無住の體上に本智有り、本智、能く知る。)
したがって、これらの思想は神会に由来する可能性がある。もっとも、神会には「不假文字」という思想はない。
また小川氏が指摘しているように[52]〔二八〕と『定是非論』22は非常によく似ている。
〔二八〕「善知識よ。若し甚深法界に入り、般若三昧に入らんと欲する者は、直須に般若波羅蜜行を修すべし。但だ金剛般若波羅蜜經一卷を持せば、即ち見性することを得て、般若三昧に入らん。當に知るべし、此の人の功徳無量なることを。」
『定是非論』22「諸知識に告ぐ。若し甚深法界を了逹し、一行三昧に直入するを欲得ん者は、先ず須く金剛般若波羅蜜経を誦持し、般若波羅蜜を修学す。何を以ての故に。金剛般若波羅経を誦持すれば、當さに是の如くの人、小功徳の來るに従わず。」
この『壇経』〔二八〕には、いままでにまったくなかった金剛經受持の功徳として「入甚深法界」が説かれる。これが第四の新思想であり、既に見たように『定是非論』金剛經宣揚部にしばしば説かれるもので、この箇所が神会系の人々によって付加されたことが分かる。ただ「一行三昧」に代わって「般若三昧」が説かれるが、「般若三昧」は神会の語録にはなく、『壇経』付加部分の特徴であり、〔三一〕にも説かれる。
さらに〔二八〕には、また新たな思想が説かれる。
「此れは是れ最上乘の法なり。大智上根の人の為に説く。少根智の人は若し聞法するも、心に信を生ぜず。何を以ての故に。譬えば大龍の如き、若し大雨を下して、閻浮提に雨ふらせば、草葉を漂すが如し。」
まずこの法が「大智上根人」の為に説き、劣根はそれを信じないという特殊化、差別化がなされており、これが第五の特徴である。同様の趣旨が〔二九〕に「少根の人、此の頓教を聞説くこと、猶お大地の草木の、根性自ら小さき者の如く、若し大雨の一沃を被れば。悉く皆な自ら倒れ増長能わざるが如し。少根の人も亦復た是の如し。・・・一切衆生の自ら迷心有るが為に、外に修して佛を覓めて、未だ自性を悟らず。即ち是れ小根の人、其の頓教を聞くも信ぜずして外に修す」と説かれ、さらに〔三〇〕にも、「人中に愚有り、智有ること在るに縁りて、愚は小と為し、故に智は大人と為す。迷人は智者に問い、智人は愚人の為に説法し、愚者をして悟解して心を開かしむ」と説かれる。
最後に〔二九〕には「頓教」という詞が使われ、さらに〔三〇〕には「頓見」の語があって、「頓」思想が出ており、それは「真如本性」を「頓見」するということであり、ここにはいまだ「佛性」の語はない。
以上のように〔二七~三〇〕には、全体的に新しい用語、思想すなわち�「見性」〔三〇〕、〔二八〕、�「識心・観照」〔三〇〕、�「本有の般若智」〔二七〕〔二八〕〔二九〕、�「金剛經受持功徳による入甚深法界」〔二八〕、〔二七〕、�「上根人法」〔二八〕〔三〇〕�「頓」〔二九〕〔三〇〕が見られ、それは神会やその弟子の思想(金剛經宣揚)と一致するので、〔二七~三〇〕は、神会系統の人々による一次添加とみなせよう。
ところで、伊吹氏は〔三〇〕〔三一〕の一部だけを元来の『壇経』とするが、それは以上の用語、思想から見て無理である。さらに氏は〔三〇〕の付加部分について、「故知」が重なっているところがあって不自然であり、「不悟即是仏是衆生、一念若悟即衆生仏」は、後の〔三六〕や〔五二〕の見真仏解脱頌と同様の表現でかなり遅い成立と見る[53]。〔三一〕は「最上乗」「智慧観照」「無念」という語がある前半一部と後半「汝若不得自悟」以下が後代の付加であるとする[54]。しかし、それ以外のところも用語から言って本来のものとは見なせず、逆に「無念」という語は、今想定している「古本壇経」に説かれるし、すでにみた用語からいって、これらの用語を特に新しいとすることはできない。しかし、〔三一〕は別の理由で少し後と思われるが、それについては後で述べたい。
このように見てくると、最初に後の添加とみなした〔二〕から〔一二〕にも同じ用語が使われていることが分かる。例えば、「見性」〔二、七、八、一二〕「識心」〔八〕、「般若智」〔四、一二〕「頓教」〔九〕「須求大善知識」〔一二〕などである。さらに見性成仏が、「見性するを得て、直ちに成仏し了る」〔七〕〔一二前半〕と力説される。ただ「見性」という用語が確定しているわけではなく、〔七〕「本性を見る」〔八〕「自性を見る」「性を見る」とも言っており、本来惠能が説いた「自性」と「佛性」が巧みにすり替えられる過程が窺える
また特記すべきは、ここにはじめて「佛性」〔三、八、一二〕が言及され、そのことは〔二七〕以降の一次添加のあとに、二次添加として〔二〕から〔一一〕の惠能の伝記が加わったことを示そう。
『壇経』の惠能の伝記〔二~一二〕は、小川隆氏によれば『雑徴義』53の「師資血脈伝」の記述に、さらに薪売り途路での金剛經との邂逅〔二〕と、心偈の競作〔四~八〕を加えたもので、『歴代法寶記』『曹谿大師伝』とは別系統のものであるという[55]。『雑徴義』(53)には、俗姓廬、「父官嶺外、便居新州」とあって、父の死、母の事は言及されない。弘忍との佛性問答と踏碓の作務、夜の密付、夜九江駅からの逃亡、慧明の追跡、曹谿での四十年の教化、新州故宅での入滅、韋據による碑文などが記されており、それらは『壇経』〔二、三、九、十、十一〕に見られる。また金剛經の重視〔二、七、九〕も、〔二七〕以降の一次添加と同様であり、神会系の人々の添加と思われる。
なお、伊吹氏は〔二〕の最初の一行「能大師言。善知識、淨心念摩訶般若波羅蜜法」を元来のものとするが、「般若波羅蜜法を念ずる」はもとより、何かを「念ずる」という用法は『壇経』では念仏〔三五〕以外にはない。ましてまだ説いていない「摩訶般若波羅蜜法」を念ずることはできないはずである。したがってこれは元来増補部分の〔二〕にあったと考えられる。氏はまた〔一二〕の後半「惠能大師喚言善知識」以下を元来のものとするが、その論拠になっている同様の表現のある〔三一〕は、自ら後の付加としているところで[56]、〔一二〕後半と〔三一〕は小川隆氏も言及しているように内容的にも用語的にも後の付加である。それゆえ〔一二〕も二次添加とする。
次いで〔三一〕から〔三三〕を検討したい。
〔三一〕は次のように弘忍の下での大悟に始まる法門の要約のようなものである。
〔三一〕「善知識、我於忍和尚處、一聞言下大悟。頓見真如本性。是頓故以教法流行後代。今學道者、頓悟菩提。各自觀心、令自本性頓悟。若不能自悟者、須覓大善知識示導見性。何名大善知識。解最上乘法、直示正路。是大善知識、是大因縁。所為化導、令得見佛。一切善法、皆因大善知識能發起故。三世諸佛、十二部經、在人性中。本自具有。不能自悟。須得善知識示導見性。若自悟者、不假外求善知識。若取外求善知識、望得解説、無有是處。識自心内善知識、即得解脱。若自心邪迷、妄念顛倒。外善知識即有教授。汝若不得自悟、當起般若觀照。刹那間、妄念倶滅、即是自真正善知識。一悟即至佛也。自性心地。以智惠觀照、内外明徹、識自本心。若識本心、即是解脱。既得解脱、即是般若三昧。悟般若三昧、即是無念。何名無念。無念法者、見一切法、不著一切法。遍一切處、不著一切處。常淨自性。使六賊從六門走出。於六塵中不離不染、來去自由、即是般若三昧、自在解脱、名無念行。莫百物不思。當令念絶。即是法縛。即名邊見。悟無念法者。萬法盡通。悟無念法者。見諸佛境界。悟無念頓法者、至佛位地。」
〔三一〕には「見性」「頓悟」「最上大乗法」「頓法」など添加部分の用語がある。また〔三〇〕で説かれた「不能自悟者」が、「若不能自悟者須覓大善知識示導見性」「不能自悟。須得善知識示導見性」と繰り返し説かれる。
〔三二〕はこの法門の伝授を述べる。
「善知識、後代得悟法者、常見吾法身、不離汝左右。善知識、將此頓教法門。同見同行、發願受持。如是佛教、終身受持而不退者、欲入聖位。然須伝授。從上已來、默然而付衣法、發大誓願。不退菩提、即須分付。若不同見解、無有志願、在在處處、勿妄宣傳。損彼前人。究竟無益。若愚人不解、謗此法門。百劫千生、斷佛種性。」
ここには「頓教」などがある他「衣法を付す」とか「妄りに宣伝すること勿れ」「此の法門を謗れば百劫に千生するも仏の種性を断たん」など伝法をめぐる争いを想わせる言い方があり、〔九、一〇〕などに通ずる。
〔三三〕は「無相頌」〔滅罪頌〕で惠能の説法が閉じられ、それまでとは若干異なるまとめの部分である。
「大師言、善知識、聽吾説無相頌。令汝迷者罪滅。亦名滅罪頌。頌曰
愚人修福不修道 謂言修福如是道/ 布施供養福無邊 心中三業元來在/若將修福欲滅罪 後世得福罪元造/
若解向心除罪縁 各自性中真懺悔/ 若悟大乘真懺海 除邪行正即無罪/ 學道之人能自觀 即與悟人同一例/
大師令傳此頓教 願學之人同一體/ 若欲當來覓本身 三毒惡縁心裏洗/努力修道莫悠悠 忽然虚度一世休/
若遇大乘頓教法 虔誠合掌至心求。
大師説法了。韋使君、官寮僧衆道俗、讚言無盡、昔所未聞。」
〔三一〕~〔三三〕には頓教〔三二〕〔三三〕、頓見〔三〇〕頓法〔三一〕頓悟〔三一〕真如本性〔三〇〕〔三一〕など、すでに見たように神会が好んだ語が見える。さらに〔三三〕~〔三八〕は始めに見たように「使君」という用語において、「古本壇経」の後に付加されたものである。加えて〔三三〕の「無相頌」については、先に見た添加部分に「神秀心偈」〔六〕「神秀無相偈」〔八〕「惠能伝法偈」〔六〕などがあって、偈や頌の創作は付加の中でも少し後のものだと想われる。
以上をまとめれば、〔二〕から〔一二〕は、一次添加〔二七~三三〕と同様、神会系統の人によって一次添加の後に加えられたものである。
六節 後期添加 〔三四〕~〔三八〕
また〔三四〕は、引用は省くが、使君の質問であり、その達摩の話は〔二~一一〕と同様に『定是非論』2、『雑徴義』53『師資血脈伝』にある記事である。
〔三五〕も引用は省くが、その使君による西方淨土問は、神会の記事にはないが、「頓教大乗」「無生頓法」など、「古本壇経」にはなかった語が出る。
〔三六〕は在家出家の問で、〔三三〕で言及された「無相頌」とは別に、同じ名前の「無相頌」が説かれており、次のようなものである。
「説通及心通 如日處虚空/惟傳頓教法 出世破邪宗/教即無頓漸 迷悟有遲疾/若學頓法門 愚人不可悉/
説即雖萬般 合理還歸一/煩惱闇宅中 常須生惠日/邪來因煩惱 正來煩惱除/邪正疾不用 清淨至無餘/菩提本清淨 起心即是妄
淨性於妄中 但正除三障/世間若修道 一切盡不妨/常見在已過 與道即相當/色類自有道 離道別覓道/覓道不見道 到頭還自懊/若欲覓真道 行正即是道/自若無正心 暗行不見道/若真修道人 不見世間過/若見世間非 自非却是在/他非我不罪 我非自有罪/但自去非心 打破煩惱碎/若欲化愚人 是須有方便/勿令破彼疑 即是菩提見/法元在世間 於世出世間/勿離世間上 外求出世間
邪見在世間 正見出世間/邪正悉打却 此但是頓教/亦名為大乘 迷來經累劫/悟即刹那間」
ここには「頓教」「頓法門」がいわれ、「出世して邪宗を破す」という点では神会の思想に近い。「見性門」「佛性」などの用語もみえる。二つの「無相頌」があるのは不自然であるが、前者は「滅罪頌」ともいわれていて「無相頌」という頌名との関連は窺われないから、この頌が「無相頌」に相応しい。
〔三七〕は「大師言、善知識。汝等盡誦取此偈。依偈修行。去惠能千里。常在能邊。此不修對面千里。各各自修、法不相持。衆人旦散。惠能歸曹溪山。衆生若有大疑。來彼山間。為汝破疑。同見佛世、合座官寮道俗禮拜和尚。無不嗟嘆。善哉大悟。昔所未問。嶺南有福。生佛在此。誰能得智。一時盡散。」
内容的にここで惠能の大梵寺での説法が終り、散会が告げられるのだが、そこには無相偈が「此の偈を誦取せよ。偈に依りて修行せば云々」とあって、「古本壇経」とは違った思想が盛られていることが分かる。ここには「佛性」の語も出る。
〔三八〕は「大師往曹溪山。韶廣二州行化四十餘年。若論門人。僧之與俗三五千人説不盡。若論宗指。傳授壇經。以此為衣約。。若不得壇經。即無稟受。須知法處年月日性名遞相付囑。無壇經稟承。非南宗弟子也。未得稟承者。雖説頓教法。未知根本。修不免諍。但得法者。只勸修行。諍是勝負之心。與道違背。」(大師は曹溪山に往きて韶廣二州にて行化すること四十餘年。若し門人を論ずれば、僧と俗と三五千人、説くも盡さず。若し宗旨を論ずれば、壇經を傳授して、此を以て依約と為す。若し壇經を得ざれば、即ち稟受なし。須く法處年月日性名を知り、遞相付囑すべし。壇經の稟承なきものは、南宗の弟子に非ざる也。未だ稟承を得ざる者は、頓教法を説くと雖も、未だ根本を知らず。修するも諍を免れず。但だ得法の者、只だ修行を勸む。諍は是れ勝負の心にして道と違背す。)
これは後序ともみなされるものであるが、これは神会の主張とは非常に異なる。第一に神会は「伝衣を以て(嗣法の)信と為す」(『定是非論』[57])としたが、ここでは『壇経』の禀承をもって南宗の相続者(弟子)とする。第二に神会は「我れ自ら是非を了簡し、其の宗旨を定む。我れ今、弘く大乗を揚る為に、正法を建立す」[58]と是非は論争して決着すべきであるとするが、ここでは修することの重要さをいい、論争を「諍は是れ勝負の心にして道と違背す」とする。たとえ頓教の法を説く者があっても、壇経を稟承しなければ南宗の弟子ではないとして、「南宗」のある人々を批判している。
したがって、この部分は神会派の付加ではなく神会派を批判する者達、おそらくは『壇経』を稟承してきた法海の弟子筋の手になるものであろう。神会の弟子たちに「壇経」が知られていたことは、『雑徴義』53「師資血脈伝」の六祖の伝記に「弟子僧法海曰和上以後有相承者否」と言及され、神会の影響を受けた『歴代法寶記』九[59]にも、「曹谿僧玄楷智海等問、和上以後、誰人得法承後、伝信袈裟(曹谿の僧、玄楷、智海等問う、「和上以後、誰の人か得法承後、伝信袈裟」と、六祖の相承に関して質問する二僧の一人「智海」として載っていることからも証される。
以上のことから〔三四〕~〔三八〕は、三次添加であり、〔三八〕以外は一次、二次添加と同様に神会系の人による増補であり、〔三八〕は法海系の総括であるとみなされよう。
4)結論
ところで「古本壇経」と一次添加の箇所は契嵩の『壇経賛』(1054)の内容と大きく一致する。今『壇経』の分段番号を下に付けた『壇経賛』を記すとつぎのようになる。
「壇経曰定恵為本〔一三冒頭〕者、趣道之始也。定也者、静也。恵也者、明也。明以観之、静以安之。安其心、可以体心也、観其道、可以語道也。一行三昧〔一四冒頭〕者、法界一相之謂也。謂万善雖殊、皆正於一行者也。無相為体〔一七〕尊大戒也。無念為宗〔一七〕者、尊大定也。無住為本〔一七〕者、尊大慧也。夫戒定慧〔二六〕者、三乗〔三〇〕之達道也。夫妙心者、戒定慧之大資也。以一妙心而統乎三法、故曰大也。「無相戒」〔二〇〕者、戒其必正覚也。四弘誓願〔二一〕者、願度、度苦也。願断、断集也。願学、学道也。願成、成寂滅成。滅無所滅、故無所不断也。道無所道、故無所不度也。無相懺〔二二〕者、懺非所懺也。三歸戒〔二三〕者、帰其一也。一也者、三宝之所以出也。説摩訶般若〔二四〕者、謂其心之至中也。般若〔二六〕也者、聖人之方便也。聖人之大智〔二九、三〇〕也。個能寂之、明之、権之、実之。天下以其寂、可以泯衆悪也。天下以其明、可以集衆善也。天下以其権、可以大有為也。天下以其実、可以大無為也。至矣哉、般若也。聖人之道、非夫般若不明也。不成也、天下之務、非夫般若不宜也。至人之為、以般若振、不亦遠乎。我法為上上根人説〔二八〕者、宣之也。軽物重用則不勝、大方小授則過也。従来默伝分付〔三二〕者、密説之謂也。密也者、非不言而闇証也。真而密之也。不解此法〔三二〕、而輒謗〔三二〕毀、謂百劫千生断仏種性〔三二〕者、防天下亡其心也。」((T52、663a)
これを見ると〔一三〕、〔一四〕、〔一七〕、〔二〇〕~〔二四〕、〔二六〕、〔二八〕、〔二九〕、〔三〇〕〔三二〕が言及されていることになる。もっともその説明は『壇経』の内容とはおよそ異なるのではあるが。「古本壇経」以外は一次付加〔二八〕~〔三〇〕と二次付加〔三二〕の部分である。すると契嵩が見た『壇経』は、二次付加の段階の壇経であると思われる。このことから一次添加とみられた〔二〕~〔一二〕は、実は三次付加であり、〔三三〕も三次付加ということになろう。
しかし、〔二〕~〔一二〕が契嵩『壇経賛』(1054)の後に付加されたとは考えられない。敦煌本より増補され、用語も異なるところがある恵昕本が967年に編集されているからである。すでに六祖の弟子慧忠は「「三五百衆を聚却し、目に雲漢を視、是南方の宗旨と云う。他の壇経を把って改換し、鄙譚を添糅し、聖意を削除し、後徒を惑乱す」[60]と嘆いている。「削除」がどのようなものかは、今は分かり得ないが、三次添加とした初めの六祖の伝記、〔三四〕の達摩のエピソードはまさに「鄙譚」にふさわしい。批判されている佛性についての叙述は必ずしも妥当しない面もあるが、おそらくこの改訂ではあるまいか。そうであれば慧忠の示寂は775年であるから、契嵩の『壇経賛』は三百年ちかく後になる。これはどういうことか。思うに、当時はみな写本で一編づつ写しており、また『壇経』伝授は師資相承されたと考えられるので、南方で「改換」されたものも早くから存在したが、〔二〕~〔一一〕の惠能伝記が添加されない「古本壇経」や二次付加までの写本もずっと伝承され存在したからではなかろうか。事実『壇経賛』序文には「因謂崇師曰若能正之、当為出財模印、以廣其伝。更二載、崇果得曹渓古本。校之、勒成三巻」[61]とある。
当時の『壇経』とは異なる「曹渓古本」がその時も存在して、それによって契嵩本『壇経』が作られたのであり、その賛が『壇経賛』である。
では「曹渓古本」にはない〔二~一二〕と〔三三~三八〕では、どちらが古いかといえば、〔二~一二〕の方が〔三三~三八〕より新出用語が少ないのだが、用語だけでは一概に新古をいうことができないので、共に三次付加としたい。
以上のことから、〔一~三八〕までを敦煌本『壇経』の一次編集と考えて、「古本壇経」と言い得る最古層を〔一〕、〔一三〕~〔二六〕とし、〔二七~三〇〕を一次添加、〔三一~三二〕を二次添加とする[62]。これが「曹渓古本」と言われうるもので、〔二~一二〕、〔三三~三八〕が三次付加である。
では「古本壇経」はいつごろ作成されたのだろうか。〔一〕で「刺史、遂に門人僧法海をして集記せしめ、後代に流行す。學道の者の與に此の宗旨を承け、遞相して傳授す。依約する所有り、以て稟承と為して、此の壇經を説く。」といわれているから、集記の時期はともかく、惠能の没後「遞相して傳授す」るものとして『壇経』として成立したと考えられる。
ところで、先の『壇経』〔一三〕~〔一九〕の検討で、神会の『壇語』(『雑徴義』『定是非論』にもいくらか)は、『壇経』をふまえている箇所があることが明らかにされた。そもそも神会の『南陽和上頓教解脱禅門直了性壇語』という題は、『惠能大師於韶州大梵寺施法壇經』という題に影響を受けて付けられた可能性がある。その中に三仏敬禮や懺悔、七仏通戒などという『壇経』の授戒と表面上よく似たものも見いだされるのである。神会は七五八年に没しているが、『壇語』が書かれたのは南陽龍興寺時代(七二〇~)であり、『定是非論』は滑台の大雲寺で北宗攻撃の開元二十一年(七三二年)以降である。このことから神会が踏まえた「古本壇経」〔一、一三~二六〕は七一三年~七二〇年の間に、『壇経』としてまとめられたと考えられる。
敦煌本『壇経』前半部の成立時期は、神会系の人々による一次から三次にわたる添加を経て慧忠の存命中(~七七五)に成立したのではなかろうか。その際、「南宗頓教最上大乘摩訶般若波羅蜜經」という題も首題に付加されたのであろう。「南宗」は〔三八〕「頓教」〔三二、三三、三五〕「最上大乘」〔二八、三一ともに最上乘法〕「摩訶般若波羅蜜經」〔二八般若波羅蜜經〕と、すべて付加部分にそれらが言及されるからである。
敦煌本『壇経』が後半も含めて今の形で成立したのは、『壇経』〔五五〕後序に「此壇經。法海上座集。上座無常。付同學道漈。道漈無常。付門人悟真。悟真在嶺南漕溪山法興寺。見今傳受此法。」(此の壇經は、法海上座の集なり。上座無常にして、同學の道漈に付す。道漈無常にして、門人悟真に付す。悟真は嶺南溪漕山法興寺に在りて、見(現)に今、此法を傳受す)とある。惠能の孫弟子の代であり、八世紀中には敦煌本『壇経』が成立したのである。
二章、惠能の「無相戒」
一節、自三身仏への帰依
惠能の「無相戒」は、仏道の根本である戒に対するまったくユニークな思想である。僧の出家には三宝帰依と約二百五十の戒律を受ける授戒得度があって、帰依すべき対象があり、守るべき戒本があるが、惠能の「無相戒」には、帰依の外的対象がなく、そもそも戒律はない。
その「無相戒」は次に引用するように三身仏帰依に始まる。
〔二〇ー1〕「善知識總須自聴與受無相戒。
一時逐惠能口道。令善知識見自三身佛。於自色身、歸依清淨法身佛。於自色身、歸依千百億化身佛。於自色身、歸依當来圓滿報身佛。 (已上三唱)」
(善知識よ、總に須く自ら聴くべし。與に無相戒を授けん。一時に、惠能を逐うて口に道え、善知識をして自らの三身佛を見せしめん。自らの色身に於て、清淨法身佛に歸依す。自らの色身に於て、千百億化身佛に歸依す。自らの色身に於て當来圓滿報身佛に歸依す。)
まず惠能は仏への帰依文を唱えさせる。それは授戒の普通のやり方のように見える。しかし、普通は三帰依とは、仏法僧の三宝への帰依である。それもまたこの『壇経』で後に「無相三帰依戒」として説かれるが、ここでは 仏法僧ではなく、仏のみである。その三身仏とは「自らの」という特別な形容詞がつく。仏身に帰依するのは、ふつうは衆生であるが、その帰依する衆生が、「自らの三身仏」を帰依の対象とする、つまり自らに帰依するという破格の宣言がなされるのである。
三身仏とは法身、応(化)身、報身であり、法身とは、法として常恒な目に見えない仏身であり、応(化)身とはこの世に肉体をとって姿を現した歴史的なゴータマ・ブッダや諸仏であり、報身とは、菩薩が誓願し、修行した報いとして成った仏で他方国土の仏、例えば西方阿弥陀仏、東方阿閦仏などを指す。そしてそれらは通常、信者の帰依の対象であり、例えばゴータマ・ブッダへの帰依はストゥーパ(仏塔)信仰を生み、報身への帰依は、さまざまな他方仏国土往生の思想を生んだ。絶対他者である仏に帰依し、他者である仏の救済を信じる信仰が、仏道のまずは第一歩とされたのである。
惠能も一応この一般的な用法に倣って、帰依の対象を「清淨法身佛」といい、「千百億化身佛」といい、「当来円満報法身」という[63]。その帰依文のいちいちには「自らの色身に於て」といわれている。この自分の肉体に於いて、ということである。次いで、その肉体(色身)について、こういわれる。
「色身是舍宅。不可言歸。向者三身在自法性。世人盡有。為迷不見。外覓三身如來。不見自色身中三身佛。善知識。聽與汝善知識説令善知識。依自色身見自法性有三身佛。」(色身は是れ舎宅、帰すと云うべからず。向者(さきの)三身は自らの法性に在り。世人盡く有るも、迷うが為に見ず。外に三身の如來を覓めて、自らの色身中に三身佛を見ず。善知識よ、聽け。汝ら、善知識の為に説かん。善知識をして自らの色身に依りて、自らの法性に三身佛有るを見せしめん。)
まず、「色身は是れ舎宅、帰すと云うべからず」と明確にいわれている。肉体に「於いて」であって、「自ら」といっても、けっしてこの肉体の自分に帰依するのではない。舎宅とは家ということである。このことは帰依三身仏の段の終りにも「皮肉は是れ色身、是れ舎宅なり、帰依に在らざるなり」と重ねて示されている。
続いて「向者(さきの)三身は自らの法性に在り。世人、盡く有るも迷の為に見ず。外に三如來を覓む」とあって、三身仏は「自らの法性に在り」といわれる。この「法性」という用語は、実は「古本壇経」ではここに二回出てくるだけである。これは「舎宅」という言葉と一緒につかわれているので、うっかりすると慧忠が「此の身中に一神性あり。此の性、能く痛癢を知る。身、壞す時、神は則ち出で去る。舍の燒かるに舍主、出で去るが如し。舍は即ち無常。舍主は常」[64]と批判した先尼外道の「神性」と同じようなものになってしまう。しかし、「自らの色身に依りて、自らの法性に三身佛有る」といわれており、色身を離れて、色身とは別に、法性も三身仏もあるのではない。「自らの色身に於いて」は三度も繰り返される。惠能が慎重に「法性」というのは、常住という属性をもつ「佛性」という用語を避けたためであろう。
佛性を説く『涅槃経』は慧觀(4~5世紀)の五時教判において常住教として最高位に位置づけられ、吉蔵(549ー623)の『法華玄論』では「唯有真如佛性為真実。修万行為欲顕此佛性。佛性顕故名為法身」[65]と説かれて、佛性を顕現させることが仏道であるとされた。天台智顗も『法華玄義』で「般若乃是佛性之異名」[66]と説き、佛性思想は後に述べるように当時の禅宗にも深く影響を与えていた。
惠能は「佛性」が仏の種姓、或は種子などとみなされる傾向があるのに対して、「三身は自らの法性に在り」と、法性に三身仏、つまり仏があるというのであるから、そもそも概念的にも異なる。
続いてこういわれる。「此三身佛從自性上生。何名清淨身佛。善知識。世人性本自淨。萬法自性在。
思惟一切悪事即行於惡行。思量一切善事便修於善行。知如是一切法盡在自性。自性常清淨。日月常明。只為雲覆蓋上明下暗。不能了見日月星辰。忽遇恵風吹散卷盡雲霧。萬像參羅。一時皆現。世人性淨。猶如清天。惠如日。智如月。智惠常明。於外看境。妄念浮雲蓋覆自性。不能明。故遇善知識開真正法吹卻迷妄。内外明徹。於自性中萬法皆見。一切法在自性。名為清淨法身。自歸依者。除不善心、及不善行。是名歸依。」
(此の三身佛は、自性上より生ず。何をか清淨法身佛と名づく。善知識、世人の性は本、自ら淨し。萬法は自性に在り。一切悪事を思量すれば即ち惡行を行ず。一切善事を思量すれば便ち善行を修す。是の如く一切法は盡く自性に在るを知る。自性は常に清淨にして、日月は常に明らかなり。只だ雲の覆蓋する為に、上は明らかなるも下は暗く、能く日月星辰を了見することあたわず。忽し惠風の吹散して雲霧の卷盡するに遇えば、萬像參羅、一時に皆な現ず。世人の性、淨なること。清天の猶如し。惠は日の如く、智は月の如し。智惠は常に明らかなれども外に於て境を看れば、妄念の浮雲に蓋覆せられて、自性明らかなることあたわず。故に善知識の真正法を開くに遇わば、迷妄を吹卻し、内外明徹ならしめ、自性中に於て萬法皆現る。一切法の自性に在るを名づけて清淨法身と為す。自ら歸依するとは、不善心及び不善行を除く。是を歸依と名づく。)
ここでいわれる「一切法の自性に在るを名づけて清淨法身と為す」と、先の「三身は自らの法性に在り」を見比べてみると、「法性」は「自性」とほぼ同じであり、「自らの法性」が自性であるといえよう。「自性」は、「古本壇経」に二十一回出てきて、もっとも重要な用語の一つであるが、それがいかなる概念であるかは、少し後で考察したい。
先の引用によって、「清淨法身」とは、「一切法が自性に在る」そのような状態であることが分かる。用語だけを見れば「自性は常に清浄」とあって、如來藏思想の「自性清浄心」と同じように思われるが、そうではない。「清浄法身」とは、衆生の中に存在するものではなく「一切法は盡く自性に在る」という状態であることが分かる。それゆえに「世人の性は本、自ら淨し。萬法は自性に在り」、「是の如く一切法は盡く自性に在るを知る。自性は常に清淨にして」、「萬像參羅、一時に皆な現ず。世人の性、淨なること。清天の猶如し」、「一切法の自性に在るを名づけて清淨法身と為す」といわれるように、「清浄」という状態は必ず一切法が盡く自性に在ることと同時なのであって、万法と無関係に、自性だけが清浄ということはない。つまり「世人の性が清浄」といえる状態を、「清浄法身」というのだ。
この段の「萬像參羅、一時に皆な現ず」、あるいは「自性中に於て萬法皆現る」という言表は、道元が「證上に万法をあらしめ」(『辦道話』)といったことに対応しよう。
しかしながら、普通の人はそのような状態にはない。「外に於て境を看て、妄念の浮雲に蓋覆せられて」いるのである。つまり普通に見聞きしていれば六根六識が働き、必ずや自分の外の対象(境)として世界やものがあると看る。「看る」とは見聞嗅味觸すべてを含む感覚による把握をいう。そしてそれには善悪好悪がついてまわり、執着や嫌悪という妄念の浮雲を引き起こさずにはいられない。それが人々の心の実態であり、それに対して、清浄法身とは、その迷妄がなくなり、「看る」のではなく、万法がそのままに「現れる」ことをいう。道元の「現成」を想起させる。
また、「帰依する」とはおよそ常識を覆して「自ら歸依するとは、不善心及び不善行を除く。是を歸依と名く」。私たち自身のあり方を「不善心及び不善行を除く」こと、それが自らの清浄法身に帰依することだと説かれた。論理的には少し飛躍を感じるし、「帰依」とは、何か対象により頼むのではなく、自ら実践することであるというのは、久しく仏教に慣れ親しんだものには、何か違和感を与えるだろう。しかし、考えてみればゴータマ・ブッダがその死に際して言い残したことは、だれかを仏の後継として帰依の対象にするのでなく、各自が「當に自らに歸依し、法において帰依し、他に歸依する勿れ」[67]であった。ほぼ千年の歴史を透過して惠能はまっすぐゴータマ・ブッダの道を示したといえる。
これをなし得たのは、惠能が出家得度さえ受けない沙弥の身で、仏法の何であるかを覚った破格の人物だったからであり、人が仏道を成ずるのに外的に仏に帰依したり他律的な戒律を守ることではない、すべて自分自身のあり方だということを、身をもって知ったからであろう。惠能だけが、自身仏への帰依を、自らのあり方の変革として示し得たのである。
もっともこれに関して石井公成氏は、自身仏への帰依は惠能の独自性ではなく、法藏(643-712)撰とされる『華厳経問答』にも次のように説かれるという。
「ただ吾れ当に成仏するは他仏に非ざるなり。・・又此の吾が性仏とは、即ち一切法界に於いて有情無情の中に、全て即ち在り。一物として吾が仏体に非ざる無きが故に、若し能く自体仏を拝する者は、物として拝する所ならざる無し。」[68]。
要するに自己が将来成仏するのであり、その自体仏を拝することは、一切を礼拝することになる、ということであろうか。石井公成氏は、「自体仏」の背景には地論宗南道派教学があると推測されるが、教学上の「自体仏の拝」にとまって、そこから惠能のような自らのあり方の変革として法身中に万法が現れるというその状態をいうという見解は見られない。さらに石井氏は在勒那三蔵の『七種礼法』にも「自身仏を礼拝すべきことが説かれる」という。たしかに「明正観礼自身仏。不外縁境他仏他身、何以故。一切衆生自有佛性平等満足」(明かに正観し自身仏を礼す。外の縁境、他仏他身ならず、何を以ての故に。一切衆生は自ら佛性の平等満足なる有り)、「己身佛性」と、平等な佛性の故に自らを拝するという思想が説かれていよう。だが、それは礼拝することの内実、帰依の内実は問うていない。いっぽう惠能は、決して自らを仏として帰依、ないし拝せよ、といっているのではなく、自身への帰依とは、清浄法身となること、また不善行を除く実践だといっている。
石井氏は、惠能の新しさは「大衆に向かって自身中の三身への帰依を説き、般若思想を用いて無相を説いている」ことだとしている[69]。
しかし、惠能の思想の特徴は誰に向かって説いたかではなく、その説いた内容にある。しかも誰しもが仏教徒になる時、必ず受ける儀礼に、「無相戒」として示したことが素晴らしいのである。授戒儀であれば、惠能の死後もそれが儀礼として伝承されて、計り知れない意義をもつだろう。しかし残念ながら、「無相戒」は禅宗儀礼としては伝わらず、日本では現在にいたるまで、梵網經の菩薩戒が施されているようである。
続いて化仏について次のようにいわれる。
〔二〇ー2〕「何名為千百億化身佛。不思量性即空寂。思量即是自化。思量惡法化為地獄。思量善法化為天堂。毒害化為畜生。慈悲化為菩薩。智惠化為上界。愚癡化為下方。自性變化甚多。迷人自不知見。」
(何を名づけて千百億化身佛と為すや。思量せざれば性は即ち空寂なり。思量せば即ち是れ自ら化す。惡法を思量せば化して地獄と為り、善法を思量すれば化して天堂と為る。毒害は化して畜生と為り、慈悲は化して菩薩と為る。智惠は化して上界と為り、愚癡は化して下方と為る。自性は變化甚だ多けれど、迷人は自ら見ることを知らず。)
ここで「思量せざれば性は即ち空寂」といわれているが、その「性」とは「自性」ないしは「法性」であろう。それと先にいわれた「清浄法身」とはどのような関係にあるかといえば、空寂な自性に万法が現れる、そのあり方が「清浄法身」である。そして「思量せば即ち是れ自ら化す」とあるとおり、思量によって「是れ自ら」すなわち「自性」が変化する。「自性は變化甚だ多」いといわれている通りである。具体的に善法を思量すれば、自性が化して天堂となる。惡法を思量すれば自性が化して地獄となる。智惠によって自性が化して上界(天・人界)になり、愚癡によって自性が化して下方(三惡道と地獄)になる、ということでも明らかである。毒害(を思量)すれば自性は化して畜生になり、慈悲(を思量)すれば自性は化して菩薩となる、という。これは自性が清浄の時、一切法が現れるといわれた法身仏に比べると、ひとつの世界(天堂・地獄など六道)とそれに応ずる機(地獄、畜生、菩薩)に変化するから化身仏であり、「変化する」というところが法身と異なる。だが、そのように法身、化身と変化する自性とは何か。
ここで惠能のいう「自性」を考察する必要が出てきた。
「自性」は、佛性が「自性清淨心」とも説かれることから、「佛性」の同義語だと思われがちであるが、「化身仏」で説明されたように自性は変化するので、変化しない常住の佛性とは違う概念であることが明白である。
また法身仏のところで、「自性は常に清淨にして、日月は常に明らかなり。只だ雲の覆蓋する為に、上は明らかなるも下は暗し」と説かれたことが、『涅槃経』の「一切衆生悉有佛性。煩惱、覆うが故に能く見ることを得ず」[70]と似ているとも思われる。しかし、『涅槃経』では煩悩によって「佛性」が見えないというのに対し、『壇経』は「万法」が(本来は智慧=日月の光があるのに)煩悩の雲の為に暗くなって見えないのである。とりわけ、「自性」は本来清浄であるが、「自性は変化甚だ多し」といわれるように思量によって多様に変化するし、さらには後述するように念や行によって報身ともなる。したがって惠能のいう「自性」といわゆる「佛性」はまったく異なる概念である。
ところで、惠能の化身仏における、何かを思量すれば何かに化す、という表現〔二〇ー2〕とよく似た思想が、二祖慧可の言葉[71]に見られる。
「心識の筆子もて、刀山剣樹を画き作し、還って心識を以て之を畏るるなり。・・・意識の筆子もて分別して色・声・香・味・触を画き作し、還って自ら貪瞋癡を起こし・・・・或は自心を以て分別して虎狼獅子、毒竜悪鬼、五道将軍、閻羅王、牛頭阿婆を描き作し、自心を以て分別して諸の苦悩を受けん」(『二入四行論』18[72])
「一切の法の有なるを見るも、有は自ら有ならずして自心が計して有と作すのみ。一切の法の無なるを見るも、無は自ら無ならずして自心が計して無と作すのみ。」(『二入四行論』49)
「自心」を以て分別すること、計することが、すなわち思量である。『二入四行論』18は続いて「心が色に非ざることを知れば心は即ち属せず。色は是れ色なるに非ずして自心が化作するのみ」といわれる。この場合「自心」は必ずしも障げになる分別心ではない。「心が色に非ざる・・・」の直前に「若し心が本よりこのかた空寂なるを悟り」とあって、自心はもともと空寂なのである。
慧可が「心が化作する」と言ったことを、惠能は「自性は変化」するというのである。惠能は〔二〇〕「思量せざれば、性は即ち空寂」と説いた。この「空寂」こそが、慧可の「心本より已来、空寂」である。
「空寂」は「寂滅」ともいわれ涅槃と同義語である。では惠能の法身仏と「空寂」とはどう関わるのだろうか。『壇経』〔一七〕には「一切法上に念念住せざれば即ち無縛なり」といわれている。一切法が現じているが、そこに分別、計いを働かせない、念念住しないそのあり方が、「思量せざれば」であり、その状態を「空寂」というのだ。したがって「空寂」はからっぽというのではない。「一切境上に於いて染まず、名づけて無念となす」〔一七〕といわれることも、境はあっても染汚しないという意味で、空寂と同じである。「無念」を誤って念が無いことと解することに対して、〔一七〕「法上に於て念生ぜず。百物思わずに、念盡く除卻する莫れ」とその誤りが指摘されている。念を無くそうと努め、何も思わないようにしようと努めてはいけないのである。
このようにみれば、慧可が「自心」と呼んだものこそ、惠能の「自性」にほかならない。これは〔二〇〕「世人の性の浄なること猶お清天の如し」といわれるように、妄念さえ働かさなければ、凡人(世人)にも等しく認められるものである。それはおそらく達摩が「含生凡聖同一真性」(『二入四行論』2)と呼んだものであろう。慧可はそれを敷衍してこう言った。「心が異相無きを名づけて真如と作す。心が改む可からざるを、名づけて法性と為す。心が属する所無きを、名づけて解脱と為 す。心性が無碍なるを、名づけて菩提と為す。心性が寂滅するを、名づけて涅槃と為す」。(『二入四行論』9)
これを鑑みれば、先に惠能が〔二〇〕「自らの法性に三身仏有り」といった「法性」という言葉も、恵可の「自心」のあり方の一つとして同じ「法性」という言葉で言及されていることが分かり、「自心」が「心」「心性」と同義として使われていることが分かる。
しかし、この慧可の「心性」は『楞伽師資記』の道信に至って、如來藏思想に深く染められる。道信は説く。
「心性寂滅す。如し其れ寂滅するときは、則ち聖心顕る。性は形無しと雖も、志節は恒に有り、然して幽霊は竭まず、常に存して朗然たるを、之を佛性と名づく、佛性を見る者は永く生死を離る」(『楞伽師資記』29)
恵可の「心性、寂滅」が、「涅槃」と同義語にならず、そこに「佛性」が顕われ、その佛性は常に存して、その佛性を見るものは、永遠に生死を離れると説かれているのである[73]。しかも『楞伽師資記』の記者の手にかかれば慧可まで「衆生の身中に金剛の佛性あり」(『楞伽師資記』16)と説き、「衆生の生死の相は滅するも、法身は滅せざるなり」(『楞伽師資記』16)と言ったことになる。
したがって道信が「衆生は心性の本来常にして清浄なるを悟らず」(『楞伽師資記』23)という「心性」は常住の佛性、「自性清淨心」なのである。さらに慧可、惠能が使った「法性」という用語を、道信は「法性身」としてこのように説いている。
「即ち見ん、此等の心は即ち是れ如来の真実法性身なることを。また正法と名づけ、佛性と名づけ、また諸法の実性・実際と名づけ、また浄土と名づけ、また菩提・金剛三昧・本覚等と名づけ、また涅槃界・般若等と名づく。」(『楞伽師資記』21)
法性身が佛性とされ、本覚、涅槃、般若等と同義語とされているのである。
しかしながら惠能の「自性」とは、そのありようによって法性身ともなり、思量において地獄にも化すのであるから、本覚・涅槃・般若、まして佛性とは同義語にはなりえないのである。
自性はまた報身仏ともなると惠能はいう。
〔二〇ー3〕「一念善知惠即生。一燈能除千年闇。一智能滅萬年愚。莫思向前常思於後常。後念善名為報身。一念惡報卻千年善心。一念善報卻千年惡。滅無常已來後念善名為報身。」
(一念善なれば知惠即ち生ず。一燈能く千年の闇を除き、一智は能く萬年の愚を滅す。向前を思うこと莫れ、常に後を思え。常に後念の善なるを、名づけて報身と為す。一念の惡報に卻て千年の善亡じ、一念の善に卻て千年の惡報、滅す。無始已來、後念善なるを名づけて報身と為す。)
普通には報身は、菩薩の時の願と行に因って、その報いとして仏となった身である。したがって因果の道理に基づく応報の身であるはずだ。ところが惠能の説くことは、その因果を見事に切断している。過去(向前)は思うなと切り捨てられ、常に後(未来)を思え、という。過去がどんなに悪くて、たとえ千年の闇であっても、今の一念の善ですべての悪は消滅する、と説く。だからこれから先だけが大切であり、これから先、念念が善であれば、それが報身であると説く。
惠能によれば他方佛土の仏が報身なのではなく、一念で自ら報身となる。その報身に帰依するとは、自ら悟り、自ら行ずることであるという。ここに「悟り」という語が出てくるが、その悟りとは〔二〇〕の終りのまとめで「三身を悟らば、即ち大意を識る」といわれている三身仏を知ることである。そうであれば報身仏の「自ら行ずる」ということは、善行を修し、善を念ずることに他ならない。未来の一念の善が報身仏であれば、現に今のことではないと思われるかもしれないが、惠能は「無常已來、後念善なれば」という「無常已來」が読みにくいが、先に「常に後を思え」といわれていたから、「無始已來」と読めなくもない[74]。また「帰依」することは、先には「自歸依」が「不善心および不善行を除く」といわれたから、ここではそれを含めた「自悟自修」なのだから、いつも今すぐ善を念ぜよ、ということでもあろう。それが自らの報身仏への帰依の意味である。
ところで慧可の「心」は、善悪を思量し、計することを批判したために、「悟り」とは善悪を超えることだ誤解されかねない。また『證道歌』[75]に「唯嫌揀択」といわれ、道元もその坐禅を「善悪を思わず、是非を管すること勿れ」と指導したので、善悪を超越することが禅宗の要旨だと思われている節がある。だが、惠能は善悪を超越するのではなく、あくまで善念善行を為すよう要請した。「諸惡莫作衆善奉行」の七仏通戒から一歩も外れることはない。
帰依自三身仏はこう締めくくられる。
〔二〇ー4〕「從法身思量即是化身。念念善即是報身。自悟自修即名歸依也。皮肉是色身是舍宅。不在歸(依)也。但悟三身。即識大意。」
(法身より思量すれば即ち是れ化身。念念善ならば即ち是れ報身。自ら悟り自ら修するは即ち歸依と名づくる也。皮肉は是れ色身、是れ舍宅。歸(依)に在らざる也。但だ三身を悟らば、即ち大意を識る。)
まずは、自性がそこに於いて一切万法が現ずる状態「法身仏」が説かれ、その法身から思量によってさまざまな「化身仏」となり、さらに将来のあり方に意を用いて、その思いが一瞬一瞬善であれば、「報身仏」だという[76]。この三身仏ということが十分に解れば、それが仏法の大意を識ることだと惠能はいう。大意とは根本的な宗旨ということである。三身仏を説く冒頭に「善知識をして自らの三身佛を見せしめん」といっている。それは一歩誤れば、「見佛性」「見性」の思想となりかねない。「三身仏を見せしめる」というのは、このように三身仏を明らかにすることだったのであり、これが『壇経』の核心の教えである。
惠能の「自三身仏帰依」の特異性は、惠能の前後の禅宗の指導者の戒と比べてみると、よりはっきりする。
『壇経』の影響を受けたはずの神会の『壇語』は、三宝帰依をいうが、仏については過去現在未来の三世仏への帰依をいう。
「敬礼過去尽過去際一切諸仏/敬礼未来尽未来際一切諸仏/敬礼現在尽現在際一切諸仏」
「仏帰依」を過去現在未来の一切諸仏に広げてはいるが、自分ではない他仏を対象としての敬礼であって、そこに自己変革のよすがはない。
いっぽう、惠能も「無相戒」の最後に三宝帰依を述べる。その詳細は後に譲るが、繰り返し自仏への帰依をいってこう迫る。
〔二三〕「若言歸佛。佛在何處。若不見佛。即無所歸。既無所歸。言卻是妄。善知識。各自觀察莫錯用意。經中只言自歸依佛。不言歸依他佛。
自性不歸無所處。」
(若し佛に帰すと言わば、佛は何處にか在る。若し佛を見ざれば、即ち所歸無し。既に所歸無くば、言は卻りて是れ妄なり。善知識よ。各自、觀察して錯ちて意を用いる莫れ。經中には只だ自らの佛に歸依すと言いて、他佛に歸依すと言わず。自性に歸せざれば(帰)する所の處(ことわり)無けん。)
惠能は、仏はどこにいるのか、仏を見ることができるのか、見えない仏に帰依できない、といい、長阿含を引いて、〔二三〕「佛とは覺なり」という仏道の本来の意義を闡明している。
ところで北宗系の『大乗無生方便門』でも、授戒作法後の問答第一に「総彰仏体」として三身仏を説く。そこで法身は「法界一相即ち是れ如来平等法身なり。この法身に於いて、説きて本覚と名づく。心の初起を覚すれば、心に初相無し。微細の念を遠離すれば、心性を了見す。性、常住なるを究竟覚と名づく。」これは自己の外の対象を法身仏としているわけではないが、それは次のような『起信論』の法身の説明をほぼそのまま引用しているに過ぎない。
「法界一相は、即ち是れ如來平等法身なり。此の法身に依りて説きて本覺と名づく。・・・心の初起を覚すれば、心に初相無し。微細念を遠離するを以ての故に、心性を見るを得。心は即ち常住にして究竟覺と名く。」[77]
報身について『大乗無生方便門』は「六根、本と不動なるを知れば、覚性は頓円にして光明遍照す。是れ報身仏なり」というが、これも『起信論』の「是れ大智慧光明の義の故に。若し心起して見れば則ち不見之相有り。心性、見を離れれば即ち是れ遍照法界の義の故」(T32、p0579b)などを参考にしたものであろうが、これでは法身とどれほどの違いもなかろう。ちなみに『起信論』は報身を「謂ゆる諸菩薩の初發意從り乃至、菩薩究竟地の心所見とは、名けて報身と為す」[78]と菩薩の境位(心所見)としている。
『大乗無生方便門』の化身仏は「猶心離念境塵清浄。知見無礙円応十方、是化身仏。」(猶心は念を離るれば、境の塵は清浄なり。知見無礙にして円に十方に応ず、是れ化身仏なり)と説かれているが、これも報身、法身との違いがあまり明らかではない。ちなみに『起信論』では化身ではなく応身が説かれ、「一には分別事識に依って、凡夫二乘の心所見とは、名けて應身と為す」と説かれ、凡夫二乗の境位とされる。『大乗無生方便門』の三身仏には『壇経』の影響も考えられるが、いずれにせよ、形だけ三身仏を説いて、その内実は『起信論』に拠っている。
二)自ら度す四弘誓願
「無相戒」では、三帰に続いて四弘誓願がなされる。多くの菩薩戒は、「四弘誓願」があり、『大乗無生方便門』でもあるので、特異なわけではない。『壇経』の本文を見てみよう。
〔二一ー1〕「今既自歸依三身佛。已與善知識發四弘大願。善知識、一時逐惠能道。衆生無邊誓願度。煩惱無邊誓願斷。法門無邊誓願學。無上佛道誓願成(三唱)。
(今、既に自ら三身佛に歸依す。已に善知識と與に四弘大願を發す。善知識、一時に惠能を逐うて道(い)え。
衆生は無邊なれど誓って度さんと願う。煩惱は無邊なれど誓って斷ぜんと願う。法門は無邊なれど誓って學ばんと願う。無上の佛道なれど誓って成ぜんと願う(三唱)。
この誓願文じたいは、『摩訶止觀』の「衆生無邊誓願度。煩惱無數誓願斷。法門無量誓願知。無上佛道誓願成」[79]と大同小異であり、『大乗無生方便門』でもほぼ同様の誓願[80]がなされている。
目を見張るのはその後の解釈である。第一の誓願について惠能はこういう、
〔二一ー2〕「善知識。衆生無邊誓願度。不是惠能度。善知識。心中衆生各於自身自性自度。何名自性自度。自色身中邪見煩惱愚癡迷妄。自有本覺性。只本覚性、將正見度。既悟正見般若之智除卻愚癡迷妄。衆生各各自度。」
(善知識よ。衆生は無邊なれど誓って度さんと願うは、是れ惠能が度するにあらず。善知識が心中の衆生、各おの自身に於て自性自ら度す。何を自性自度と名づくや。自らの色身中の邪見・煩惱・愚癡・迷妄に自ら本覺の性有り。只だ本覚の性が正見を將いて度す。既に正見、般若之智を悟らば、愚癡迷妄を除卻す。衆生、各各自ら度す。)
誓願とは菩薩が立てるものであり、それは「自未得度先度他」といわれるように、他者をまず救うというところに大乗仏教の眼目があった。ところが惠能には他者を救うということはない。それが明確に「是れ惠能が度するにあらず」といわれている。では誰が誰を度す(救う)のか。惠能はいう、「善知識が心中の衆生、各おの自身に於て自性自ら度す」。度すべき「衆生」とは、我々自身である。私たち自身の心中の迷妄こそ度すべきものであり、それは他者によらず、自身に於いて、自性が自ら度すといわれる。
この思想は、実は惠能の特徴というよりは、達摩によって伝えられた法門の一大特徴である。達摩は自らが仏になる道を、こう示した。「壁観に凝住すれば、自他凡聖等一なり。堅住して移らず、更に文教に随わざれば、此に即ち理と冥府して、分別有ること無く、寂然として無為。」菩薩の道というより、「壁観に凝住すれば」仏である道なのである。二祖慧可は「即心が自是
もと
より阿耨菩提」(『二入四行論』18)と説き、『楞伽師資記』によれば彼は「衆生は心を識って自ら度す。仏は衆生を度せざることを。佛、若し能く衆生を度せば、過去に無量恒沙の諸佛に逢うに、何が故ぞ我等は成佛せざるや」(16)と説いたという。『楞伽師資記』の道信も「仏は即ち是れ心にして、心の外に更に別の仏無きことを」(26)、「身心方寸、挙足下足、常に道場に在り。施為挙動、皆是れ菩提なり」)『楞伽師資記』二〇)と説き、「我は是れ能度、衆生は是れ所度なりと見れば菩薩と名づけず」(同、24)と説いた。五祖弘忍の『修心要論』にも慧可の言葉とほとんど同じことが次のように説かれる。
「經云。衆生識心自度。佛不能度衆生。若佛能度衆生者。過去諸佛、恒沙無量。何故我等不成佛也「(經に云く、衆生は心を識りて自ら度す。佛は衆生を度すること能わず。若し佛、能く衆生を度せば、過去の諸佛は恒沙無量なり。何故に我等は成佛せざるや。)(『修心要論』一三)[81]
したがって仏により頼むのではなく、自ら悟る道が禅宗だといえる。そうではあるが、これらの祖師のだれも自分が度すのではない、とは明言しない。どこかにやはり自分は衆生を導いて度すものだという思いが払拭されていないから、「衆生は云々」と指摘することができるのだろう。惠能のみが自らの名を出して「是れ惠能が度するに非ず」と言い放つのである。
しかも、驚くべきことに惠能は、「衆生」という言葉をこの四弘誓願で用いるだけで、他には一切もちいていない。それも誓願文以外は「心中の衆生」と使うだけであって、他人に対して、「衆生」と名指すことはない。聴衆には「善知識」と呼びかけ、一般の人に対しては「世人」〔一七、二〇、二四〕[82]といわれている。一般の人をどう呼ぶかということは、ごく小さな問題かもしれないが、そこに惠能の人柄、人間に対する態度が滲み出ている。この自らを他者と平等に低めるという点については、後の誓願第四や〔一八〕のところでまた見たい。
さて、ここで度す主体ともいうべきものは「自ら本覺の性有り」と言いわれるものである。「本覚」は『起信論』に「依此法身説名本覺。何以故。本覺義者。對始覺義説。以始覺者即同本覺。始覺義者。依本覺故而有不覺」(T32、p0576b)と出る用語であり、ここに一見、如來藏思想が伺われるように思われる。ただ「本覚の性」という言葉は、敦煌本『壇経』の中でここだけに二度あって、他にはないし、もちろん始覚も無覚も言及されない。「本覚の性」は色身、つまり肉体の中の「邪見煩惱愚癡迷妄」にあると説明されており、衆生心と心真如を分ける『起信論』の概念とはまったく異なる[83]。それは煩悩とか邪見は、なにか外からきて付着したり、もともと肉体に存在する「あるもの」ではなく、念に執着してひきおかされる状態だからである。したがって「本覚の性もて正見を将いて度す」といわれるのは、その状態の中で一念目覚めたところが「本覚の性」で正見を用いる主体であり、それが「人」ではないところに意味がある。その人自身というより、自ら帰依すべしといわれた法身仏だといってもいいだろう。
そして、その度し方は度すべきものに応じて次のようにいわれる。
〔二一ー3〕「迷來悟度。愚來智度。惡來善度。煩惱來菩提度。如是度者是名真度。(迷、來れば悟もて度す。愚來れば智もて度す。惡來れば善もて度す。煩惱來れば菩提もて度す。是の如くの度とは是れ真度と名づく。)[84]。まことにそうではあろうが、色身から出てくる迷、愚、惡、煩惱に対して、いったいどのようであれば正見、悟、智、善、菩提が用いられるのか、やはりそれを用いることは難しいことではなかろうか。 その難しさのゆえに「無相戒」の説明だけではなく、般若波羅蜜法があらためて説かれねばならず、具体的にどうしたらよいのか、説かれねばならなかったのではなかろうか。
続く第二誓願と第三誓願については、かんたんに一言触れられているだけである。
〔二一ー4〕「煩惱無邊誓願斷。自心除虚妄。法門無邊誓願學。學無上正法。」
(煩惱は無邊なれど誓って斷ぜんと願うとは、自心の虚妄を除く。法門は無邊なれど誓って學ばんと願うとは、無上の正法を學す。)
煩悩については直前に「煩惱來れば菩提もて度す」といわれていた。ここでは「自心の虚妄を除く」となっているが、ここでもどのようにして虚妄を除くことができるのかが問題である。先に「既に正見、般若の智を悟らば、愚癡迷妄を除卻す」といわれており、次のところでも「迷執を遠離すれば覺智生ず。般若は迷妄を除卻す」といわれるのだから、やはり般若について説かれねばならないのである。法門については「無上の正法を学ぶ」と当然のことがいわれているにすぎない。
第四の誓願が仏道の成就である。
〔二一ー5〕「無上佛道誓願成。常下心行。恭敬一切。遠離迷執覺智生。般若除卻迷妄。即自悟佛道成。行誓願力。
(無上の佛道、誓って成ぜんと願うとは、常に下心もて行じ、一切を恭敬す。迷執を遠離すれば覺智生ず。般若は迷妄を除卻す。即ち自ら悟り佛道成じて、誓願力を行ず。)
この本文の解釈は特異である。ふつう仏道を成じるとは、阿耨多羅三藐三菩提を得ることだといえる。しかし、惠能はまったくそのようには解さない。「常に下心もて行じ、一切を恭敬す」という。「下心」とは謙虚な心ということ[85]で、それは一切の人やものを恭敬するへりくだった態度として「古本壇経」に一貫している。惠能は、『壇経』〔三〕に「遂發遣惠能。令隨衆作務。時有一行者。遂着惠能於碓坊。踏碓八個餘月(遂に惠能を發遣して、衆に隨いて作務せしむ。時に一行者有りて遂に惠能を碓坊に着けて、踏碓せしむること八個餘月なり)とあるように、弘忍の下で正式な出家僧としてではなく、見習い僧として作務(肉体労働)に従事にしていたと伝えられる。禅宗では修行者が肉体労働するのは、一般的特徴ではある[86]が、ここでは労働そのものより、「へりくだった心」こそ大切だといわれている。身分が低く卑しめられた人は、自分がひとかどの者になれば、とかく横柄になるが、惠能は「へりくだって、他人を敬う」ことを、仏道を成じる根本的誓願としたのである。また、ここでも「自ら悟る」内実は迷執を離れて般若知を得ることであり、いつでもまず「悟り」、それから行ずるという順序で説いている。したがって佛道を成ずることは、へりくだってあらゆるものを敬うという「誓願力を行ず」る実践、いわば行仏として示されている。
3)悪を作さないのが懺悔
続いて懺悔が説かれる。これは授戒においては必ずなされることであるが、惠能はまったく新しい懺悔を説く。
〔二二〕「今既發四弘誓願訖。與善知識無相懺悔三世の罪障。
大師言。善知識。前念後念及今念。念念不被愚迷染。從前惡行一時除、自性若除即是懺悔。前念後念及今念。念念不被愚癡染。除卻從前矯雑心永斷。名為自性懺。前念後念及今念、念念不被疽疾染。除卻從前嫉妒心。自性若除即是懺(已上三唱)。善知識。何名懺悔。懺者終身不作。悔者知於前非惡業恒不離心。諸佛前口説無益我此法門中。永斷不作名為懺悔。」
(今、既に四弘誓願を發し訖る。善知識と與に三世罪障を無相懺悔せん。
大師言く、善知識よ。前念後念及び今念、念念、愚迷に染せられず。從前の惡行、一時に除く。自性、若し除けば即ち是れ懺悔なり。前念後念及び今念、念念愚癡に染せられず。從前の矯雑心を除卻して永く斷たば、名けて自性懺と為す。前念後念及び今念、念念疽疾に染せられず。從前の嫉妒心を除卻して、自性、若し除かば即ち是れ懺なり。(已上三唱)。善知識よ。何を懺悔と名づくや。懺とは終身作さず。悔とは前非を知るも、惡業は恒に心を離れず。諸佛の前に口に説くも益なし。我が此の法門中には、永く斷ちて作さざるを名づけて懺悔と為す。)
この懺悔のもっとも目覚ましい点は、今現在、諸悪を除き、諸悪を作さないのを「懺悔」ということである。普通に懺悔と言えば、過去の罪悪に対して、反省して口で「懺悔します」と告白することである。 たとえば一般的な菩薩戒では仏に面して「我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、一切我今皆懺悔」(我、昔造る所の諸の悪業は、皆な無始の貪瞋癡に由って、身口意従り生ずる所なり、一切、我、今、皆な懺悔したてまつる)と唱える[87]
ところが惠能の「自性懺悔」は、今現に、悪や罪を除くことである。「自性、若し除けば即ち是れ懺悔なり」と言う言葉が繰り返される。除かれるものは「悪行」、「矯雑心」「嫉妒心」であるが、ここでも問題はどのようにして除くことができるのか、ということである。「前念後念及び今念。念念、愚迷(愚痴、疽疾=悪性の腫れ物の病)に染せられず」と三度いわれるのであるから「念」がその要であることが分かる。
「念」は、惠能の教えの中心をなすものの一つで、〔一七〕などに「念」の功夫が説かれているので、後で詳しくみたい。
この懺悔は一時的なものではなく、終生の行であることが「懺とは終身作さず」と明言され、「從前の矯雑心を除卻して永く斷たば、名けて自性懺と為す」、「永く斷ちて作さざるを名づけて懺悔と為す」と結ばれる。今断つだけでなく、永く断たねばならない。
もう一つの大きな特徴は、口でいうことの無効である。ふつうには、懺悔とは、口で告白することに大きな意味があるとされる。そのことを北宗『大乗無生方便門』と南宗神会の『壇語』の懺悔で見てみよう。
『大乗無生方便門』では「次各稱已名懺悔罪言過去未來及現在身口意業十惡罪。我今至心盡懺悔。願罪除滅永不起五逆罪障重罪」(次におのおの稱えれば已に罪を懺悔すと名く。過去未來及現在の身口意の業、十惡罪、我れ今ま至心に盡く懺悔す。願わくば罪、除滅し永く五逆罪障重罪を起さざることを)と称えること、それ自体が懺悔であり、それが例えば『無量壽佛観経』では仏名を称えるだけで無量の罪を除くという念仏信仰にもなる。
『壇語』も次のようにほぼ同じである。
「各各至心懺悔。令知識三業清浄。
過去未来及現在、身口意業四重罪、我今至心盡懺悔、願罪除滅永不起。/過去未来及現在、身口意業五逆罪、我今至心盡懺悔、願罪除滅永不起。
過去未来及現在、身口意業七逆罪、我今至心盡懺悔、願罪除滅永不起。/過去未来及現在、身口意業十悪罪、我今至心盡懺悔、願罪除滅永不起。
過去未来及現在、身口意業障重罪、我今至心盡懺悔、願罪除滅永不起。/過去未来及現在、身口意業一切罪、我今至心盡懺悔。願罪除滅永不起。」
(各各至心懺悔し、知識をして三業清浄ならしむ。過去未来及び現在の身口意業、四重罪(五逆罪、七逆罪、十悪罪、障重罪、一切罪)我れ今、至心に盡く懺悔したてまつる。願くば罪、除滅し永く起らざることを。)
神会の『壇語』は、形式的には『大乗無生方便門』とまったく同じで、罪の名称を増やしているだけである。これらの懺悔は過去現在未来に亘っているが、未来の罪が起こさないようにと願われてはいても、それを防ぐ具体性がない。これらは、このように称えて懺悔すれば清浄になるというが、惠能はそのような懺悔を「諸佛の前に口に説くも益なし」と批判して捨てる。口でいうことに対する批判は〔一三〕〔一四〕にもあって、惠能は口にいうのではなく「行ずる」ことを説くという点で一貫している。「諸仏の前に」とあるように、懺悔はまずは仏に対してなされるのが常であるが、他者に向かって過去の自分の罪悪について「懺悔す」と言うことは、真の懺悔ではない、という。
『壇語』や『大乗無生方便門』では「願」として「願わくば罪、除滅し、永く起さざることを」と希望されるに過ぎないものを、惠能は「永く斷ちて作さざる」と現在の事実、あるいは決意としていう。罪を犯さないなら懺悔はいらないではないか、という疑問もあろう。しかし、実際はどんなに過去の業を悔いても、悪の思いは心を離れない。「悔とは前非を知るも、惡業は恒に心を離れず」と言われる通りである。そうであれば、念念に善を思い、常に為さないという今現在のあり方に留まるほかない。道元が「諸悪莫作とねがひ、諸悪莫作とおこなひもてゆく。諸悪すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまちに現成す」《諸悪莫作》という通りである。それはまた報身仏帰依で「向前を思う莫れ、常に後を思え。常に後念の善なるを名づけて報身と為す」といわれたことに通ずる。なお、伊吹敦氏は「『懺悔』とは、仏の前で犯した罪を告白することなどではない。それは、これまで心を支配してきた煩悩を、自性によって取り除き、常に過去の行為を反省しつつ、心を清浄に保ち、過ちを犯さないことをいうのである」[88]という。最初のところはその通りであるが、「常に過去の行為を反省」するとはいわれない。「惡業は恒に心を離れず」という今の事実を凝視し、今、善を念ずることだけしかない。
ところで、この無相懺悔について、石井公成氏は『楞伽師資記』の道信章や『摩訶止觀』、『法華三昧懺儀』にも説かれている[89]とする。例えば道信は「普賢観経に云わく、一切の業障海は皆な妄想より生ず。若し懺悔せんと欲わば、端坐して実相を念ぜよ。是れを第一懺と名け、三毒心・攀縁心・覺觀[90]心を併除く」(『楞伽師資記』21)といって「普賢観経」を引用し、『摩訶止觀』には「思惟実相正破於此、故諸仏実法懺悔也」[91]とある。これらの文は、石井氏によれば『壇経』の無相懺悔の立場に近い。
たしかにそのような思想は初期禅宗さらには天台思想における画期的な宣言ではあろう。諸悪の根源である「妄想」を除いて実相を観ずると言う方が惠能より、もっと根源的だともいえる。だが惠能は悪に傾く心という現実を直視して、悪行をなさないという行動における倫理を説いており、止悪の働きをもつといえるのではなかろうか。
4)自らの三宝に帰依す
「無相戒」では普通には最初にくる三歸依が最後になされ、次のようにいわれる。
〔二三〕「今既懺悔已。與善知識授無相三歸依戒。大師言。善知識。歸依覺兩足尊。歸依正離欲尊。歸依淨衆中尊。從今已後稱佛為師。更不歸依邪迷外道。願自三寶慈悲證明。善知識。惠能勸善知識。歸依三寶。佛者覺也。法者正也。僧者淨也。自心歸依覺。邪迷不生。少欲知足。離財離色。名兩足尊。自心歸依正。念念無邪故即無愛著。以無愛著名離欲尊。自心歸依淨一切塵勞妄念 雖在自性。自性不染著。名衆中尊。凡夫解從日至日受三歸依戒。若言歸佛。佛在何處。若不見佛。即無所歸。既無所歸。言卻是妄。善知識。各自觀察莫錯用意。經中只言自歸依佛。不言歸依他佛。自性不歸無所依處。」
(今、既に懺悔し已る。善知識のために無相三歸依戒を授く。大師言く、善知識よ。覺兩足尊に歸依す。/正離欲尊に歸依す。/淨衆中尊に歸依す。今從り已後、佛を稱して師と為す。更に邪迷外道に歸依せざれ。願わくば自らの三寶、慈悲もて證明せよ。善知識よ。惠能は善知識に勸めて、三寶に歸依せしむ。佛とは覺也。法とは正也。僧とは淨也。自心もて覺に歸依するに邪迷生ぜず。少欲知足にして、財を離れ色を離れるを兩足尊と名づく。自心もて正に歸依するに、念念邪無きが故に、即ち愛著無し。愛著なきを以て離欲尊と名く。自心に淨に歸依して一切の塵勞妄念、自性に在りと雖も、自性の染著せざるを、衆中尊と名く。凡夫の解は日より日に至って三歸依戒を受く。若し佛に帰すると言わば、佛は何處にか在る。若し佛を見ざれば、即ち歸する所無し。既に歸する所無くば、言は卻りて是れ妄なり。善知識よ。各自、觀察して錯ちて意を用いる莫れ。經中には只だ自ら佛に歸依す[92]と言いて、他佛に歸依すと言わず。自性に歸せざれば依する所のことわり無けん。」
これが最後に来るのは、すでに最初に自三身仏への帰依がなされたためであろう。三宝帰依(あるいは戒を加えた四不壊浄)は、阿含経典中期[93]からなされてきた。この三帰戒文の表現自体はふつうの三帰とかわらない。敦煌写本には在家の布薩のために用いた「受八齊戒儀」があるが、そこには必ず三帰が含まれていたという。さらにテーラヴァーダ仏教でも表現に大差はない。
ただ惠能は、「佛とは覺也。法とは正也。僧とは淨也」と注釈するので、唱文にも「仏・法・僧」の代りに「覚・正、浄」となっている。文字を習わなかったといわれる六祖が、梵語の解説をするのは不自然と思われるかもしれないが、耳学問ゆえの誤謬もある。「仏は覚」はいいとして、「法」は梵音ではなく、義訳であり、「正」という意味はあまりないし、僧は梵語サンガの音写(僧伽)ではあるが、「和合」という意で「浄」という意味はない[94]。だが学問をしなかった惠能はこのように釈すことで、新しい三帰を説くことができたのである。
惠能の三帰依は、普通の三帰依を鋭く批判している。仏法僧を対象とする習慣的信仰を惠能は「凡夫の解は日より日に至って三歸依戒を受く。若し佛に帰すると言わば、佛は何處にか在る。若し佛を見ざれば、即ち所歸無し。既に所歸無くば、言は卻りて是れ妄なり」と批判する。普通の人は、日々、三帰依を唱えるが、仏はどこにいるのか、見えるのか。どこにもいない仏に「帰依する」といったら嘘になるという。帰依の対象として自己の他に何かを立てることはすでに最初の「三身仏帰依」で批判されていた。ここでもそれが広げられて「自らの三寶に歸依せしむ」といわれる。つまり惠能は仏法僧を徹底して自己自身のあり方とする。しかもそれに「帰依する」ということは、「自三身仏帰依」と同じく、少しも信仰対象への依存を意味せず、自らの善い正しい行為をいうのである。ここでは「自心もて覚に帰依し、邪迷生ぜず、少欲知足にして、財を離れ色を離るる」ことを「兩足尊」としている。どこまでも自分自身の仏法者としての具体的あり方を言っている。
ところで、考えてみれば、この「無相戒」には、普通の菩薩戒にある三聚淨戒も十重禁戒も、八齋戒すらもない。帰依と誓願と懺悔だけである。授戒とある以上、戒がないことは大変異常なことである。これは「無相戒を授けん」〔二〇〕ということで始まっている授戒会の記録なのだから、そこに戒本にあたるものがないのは定めて深い意味があるに違いない。惠能は自帰依に自らに課す戒を含ませたのである。自三身仏歸依でも悪行をやめ善行をすることが、重ねて説かれていた。その悪行に「殺・盗・淫・妄等」などもすべて入る。今、兩足尊帰依で、貪・癡はきわめて具体的に「少欲知足にして、財を離れ色を離る」と示されている。「~してはならない」という他律的な戒を、惠能は自己自身が自らに促す、まったく自律的なあり方としたのである。
法については「自心もて正に歸依して、念念邪無きが故に、即ち愛著無し。愛著なきを以て離欲尊と名づく」という。「離欲」というのであれば、先の「財を離れ色を離る」の方がぴったりとも思えるが、要は「愛著」しないことで「正」とはあまり関係ない。また「法」とは原始経典の時代から、ゴータマ・ブッダや佛弟子によって説かれた真実のあり方で、やがてそれは教えとして経・論も意味してきた。しかし、そのような法はここでは言及されないで、貪癡の根源である「愛著」を、念念の功夫で離れることが「離欲尊」に帰依することだという。ここにも戒の内面化が伺われる。
僧については「一切の塵勞妄念、自性に在りと雖も、自性の染著せざる」あり方、それを「衆中尊」というとされる。これもふつうの僧帰依とはおよそ異なる。「僧」はサンスクリット語のサンガの音写である僧伽(そうぎゃ)の僧だけとったもので、サンガは「和合衆」と漢訳されるが、僧団とは若干異なり、在家信者も含むものである。思えばゴータマ・ブッダも教団を組織したわけではなく、少人数で遊行したのであろう。惠能も曹谿山にいたとされるが、寺院[95]といったものはなかったようで、最後は新州の生家に帰って示寂している。いずれにせよ、惠能の「僧帰依」にはサンガへの帰依の意味はない。一切の塵勞妄念が自性に在ることを認めたうえで妄念等が在っても染著しないあり方を浄として、それが僧帰依だと惠能はいうのである。
このように惠能はそれぞれの人が自分のあり方を自分で律することのみを、「無相戒」の最初から最後まで説いている。だから「善知識よ。各自、觀察して錯ちて意を用いる莫れ。經中には只だ自ら佛に歸依すと言いて、他佛に歸依すと言わず。自性に歸せざれば所處(ことわり)無からん」とこの三宝帰依戒は結ばれるのである。
この三帰の特異性は、神会の『壇語』の三帰に比べるとよく分かる。
『壇語』は、表現は少し普通と異なって、「敬礼過去際一切諸仏。敬礼未来際一切諸仏。敬礼現在際一切諸仏。敬礼般若尊法修多羅蔵。敬礼諸大菩薩一切賢聖僧」(過去際・・.未来際・・・現在際の一切諸佛に敬禮す。尊法般若修多羅藏に敬禮す。諸の大菩薩、一切の賢聖僧に敬禮す)としている。しかし内実は、仏とは「一切諸仏」、法は「般若修多羅藏」すなわち般若経典であり、僧は「菩薩・賢聖」すなわち成仏を目指す修行者ということで普通の仏法僧の範疇を出ない。それに対して惠能は、三宝帰依に於いても、ただただ自己の内面的あり方を説くという点で極めて特異なのである。
先に惠能の菩薩戒には戒本にあたるものがないと指摘したが、他の菩薩戒ではどうなっているのだろうか。
『瑜伽論』菩薩地戒本では三聚浄戒[96]の第一摂律儀戒において小乗の在家出家のすべての戒を含める。『瓔珞經』では摂律儀戒に加えて「十波羅夷」すなわち十重禁戒となり、『梵網經』[97]には十重禁戒と四十八軽戒が説かれ、『菩薩善戒経』[98]には善人戒五種、一切行戒十三種など細々説かれるほか、小乗の「劫盜・貪・婬・惡口・妄語・兩舌・無義語・杖石打罵等」[99]の八戒、受持五法として「不食肉・不飲酒・不食五辛・不婬・不淨之家不在中食」[100]を入れている。玄奘訳の『菩薩戒羯磨文』にも三聚浄戒、四種他勝處法などが説かれる[101]。
禅宗でも神秀は「三聚淨戒・六波羅蜜」を「由持如是戒定慧等三種淨法故。能超彼三毒成佛道也。諸惡消滅。名之為斷。諸善具足。名之為修。以能斷惡修善。則萬行成就。自他倶利。普濟群生。名之為度」(是の如く戒定慧等を持するに由るが故に、三種の淨法の、能く彼の三毒を超え佛道を成ずる也。諸惡消滅す、之を名づけて斷と為す。諸善具足す、之を名づけて修と為す。能く斷惡修善するを以て、則ち萬行成就す。自他倶に利し、普く群生を濟う、之を名づけて度と為す)(『破相論』[102])と説き、外面的な「鋳像・焼香・散華・持戒・長明燈・六時行道・遶塔行道・持齋・礼拝」を内面化して、自己のあり方として説いている。
それに対し『壇経』は自仏身帰依・四弘誓願・懺悔・三帰だけであるが、自帰依の中に、今見たように具体的な正しいあり方、生き方が説かれており、それは神会の戒定慧の質問に「戒を将て其の行を戒む」[103]と答えた通りの内実になっている。しかしながら『壇経』の影響を受けたと見られる『壇語』『大乗無生方便門』などでは具体的な正しいあり方が説かれず、ややもすれば禅宗に倫理性が欠落することになるのではなかろうか。
三章、惠能の思想
一節 「見性」も「頓悟」も惠能の思想ではない
「無相戒」に表わされた惠能の思想は、「自性」が根本語となっていた。その「自性」は「自性は常に清浄」などと表現されたから「自性清淨心」すなわち「佛性」と同義語だと間違われやすく、その違いにもすでに触れてきた。しかしながら、惠能が「佛性」、「見性」を説き、「頓悟」を説いたという説は、ほぼ定説といってよいほど根強い。
鈴木大拙氏は「『見性』をその宗旨の眼目としたのは惠能からだと思う」[104]という。それは先に二次添加とした『壇経』〔三一〕「善知識。我於忍和尚處一聞言下大悟。頓見真如本性。是故以教法流行後代。令學道者頓悟菩提。各自觀心。令自本性頓悟。若不能自悟者須覓大善知識示道見性」(善知識よ。我れ忍和尚の處に於て、一聞して言下に大悟し、真如本性を頓見せり。是の故に教法を以て後代に流行す。學道の者をして頓に菩提を悟らしむ。各の自ら觀心して、自らの本性をして頓悟せしむ。若し能く自ら悟らざる者は須く大善知識の示道を覓めて見性すべし)を引いて、「本性又は自性亦は佛性を見るといふこと、即ち『見性』が慧能宗を貫く字眼であると認めてよい。『見』であるからまた『頓』でなくてはならぬ。・・・それゆえ見性は必ず頓悟である」[105]というように、厳密なテキスト批判をしない上に、安易に自性と佛性、あるいは本性を同じものだと見なしてきたからである。
柳田聖山氏は、『壇経』〔一九〕の「外に一切境界上に於て念の起らざるを坐となし、本性の乱れざるを見るを禅と為す」について「坐とは『念不起』のこと、禅とは『本性を見ること』、つまり『見性』のことである。『見性』の二字が一つの明確な概念をもって、禅の歴史にあらわれてくるのは、『六祖壇経』が最初である」[106]と述べる。鈴木氏と同様「本性」を「佛性」と読むからこのような言い方になる。また「今の場合は問題の多い敦煌本『六祖壇経』から『壇語』への影響を考えるよりも、かえって成立年代の明らかな『壇語』の中に嶺南曹谿の遺響を探り、敦煌本『六祖壇経』の中で此と共通する部分のみを、先ず以て最も確実な惠能の真説とすべきであろう」[107]という立場であるから、神会が説く「見性成仏」や「頓悟」を惠能の説とすることになる。
中川孝氏は『六祖壇経』[108]のはしがきで、「『壇経』は、・・・悟りに到達する根源である佛性はいかなる人にも普遍的に具わっているものであるから、各自が努力して自己本来の心性を見徹すべきであるとして、「見性」という言葉を掲げて、その要諦を示したのである。」、「しかし『見性』という言葉は、惠能の一家言であって、他人の模倣を許さない言葉である」という。
田中良昭氏は『惠能』で、惠能の禅風を説くのに、『壇経』〔一二〕の「善知識、菩提般若之智世人本自有之。即縁心迷、不能自悟。須求大善知識、示道見性。善知識、愚人智人、佛性本亦無差別。只縁迷悟、迷即為愚、遇悟即成智」(善知識よ。菩提般若の智は、世人本自り之有り。即ち心迷うに縁りて自ら悟る能わず。須く大善知識の道を示すを求めて見性せよ。善知識よ。愚人も智人も、佛性は本より亦た差別無し。只だ迷悟に縁って、迷えば即ち愚と為り、悟れば即ち智と成るのみ)を引いて「このように、佛性もその佛性を見る般若の智慧も、共に何人にも本来的にそなわっているという主張こそ、慧能の禅法の本質をなすものであり、そのことが慧能禅をして「頓悟」の禅とか「頓教」といわしめる縁由(よってきたる根拠)であったのである。」[109]という。また自性と佛性を同じものとして「この本来的な仏心、佛性を、慧能は『人性』『自性』『人の本性』等の用語で表し、それが何の礙げもなく自由自在であるのだから、その仏心、佛性にめざめ、それになりきること、そこに坐禅の基本をもとめるのである」[110]という。
この論拠となっている田中氏の『壇経』〔一二〕鈴木氏の〔三一〕は、この拙論においては「古本壇経」ではない部分である。
また伊吹敦氏は、原『壇経』を〔一〕の前半の一部、〔二〕の最初一行、〔一二〕後段、〔一九〕後の三分の一、「無相戒」〔二〇~二四〕、〔二五〕前半、〔二六〕前半、〔三〇〕、〔三一〕の前半の一部の二カ所として、それを独立の文献とした上で、そこに認められる惠能の思想を次の五つに纏める。
一、 如來藏思想に基礎を置く。
二、 如來藏思想を存在論的には「法性」「自性」、認識論的には「般若」「智慧」とし、後者によって前者を認識する「見性」を絶対視し、それ を「頓悟」とよぶ。
三、 すべて「見性」の立場から内面的に理解する。
四、 見性に至るには煩悩を離れ、「自性」に徹することが必要で、その為に「観心」を行う。
五、 指導者の価値を限定的にしか認めない。
ここでは「見性」「頓悟」「観心」「自性」「智慧」「般若」が重要な用語になっているが、「見性」「頓悟」「観心」「智慧」が見いだされるのは〔三一〕の前半の一部だけであり、〔一二〕の後段に「見性」、「般若」、〔三〇〕に「自性」「見性」「智慧」が見いだせる。すでに論じたことではあるが、これらの部分ははたして原『壇経』といえるだろうか。〔一二〕はその前段を含んで伊吹氏が後の付加と位置づけた惠能の伝記に続く部分であり、〔一三〕以降の定恵等学も伊吹氏自身が後の付加としたものだ。それを〔一二〕の後段だけは、元来存在したというのは、無理である。しかもここは、「佛性」という新出語があり、また「自性自悟」という惠能の基本思想に逆らって善知識の導きの必要を説く。〔三〇〕も同様にそれを説く。これらの内容から拙論では後代の付加とみなしたのである。また氏は〔三一〕においてその前段の傍線部分だけを原『壇経』としている。「善知識。我於忍和尚處一聞言下大悟。頓見真如本性。是故以教法流行後代。今學道者頓悟菩提。各自觀心。令自本性頓悟。若不能自悟者、須覓大善知識示導見性。何名大善知識。解最上乘法、直示正路。是大善知識。是大因縁。所為謂化道、令得見佛。一切善法、皆因大善知識能發起故。三世諸佛十二部經、在人性中。本自具有。不能自悟。須得善知識示導見性。若自悟者、不假外善知識。若取外求善知識、望得解説。無有是處。識自心内善知識、即得解脱。若自心邪迷、妄念顛倒。外善知識即有教授」。それに出所不明の「救不可得」がついている。このように〔三一〕の前段の二カ所だけ原『壇経』とすることは恣意的にすぎる。鈴木大拙がこの箇所を慧能宗の字眼の根拠としたから、伊吹氏は古層としたのではないかと疑われる。「我れ忍和尚の処に於いて、一聞して言下に大悟し云々」は、付加が明らかな〔二〕に基づくもので、「頓悟」「観心」という新出語や内容から見ても後のものといわざるを得ない。
この〔一二〕後段と〔三一〕前段を除けば、伊吹敦氏のいう惠能思想の二~五は消失し、ただ一の「如來藏思想に基礎を置く」だけが残ることになる。しかし、如來藏思想は常住なる「佛性」「自性清淨心」、「如來藏」などの用語なしには用いることの困難な概念である。ところが残る〔二〕〔一九〕後の三分の一、「無相戒」〔二〇~二四〕、〔二五〕前三分の二、〔二六〕前三分の二にはそれらが説かれないから一も成り立たない。
すでに「佛性」「見性」「頓悟」の語が、「古本壇経」に認められない以上、それらは慧能の思想とは言えないのであるが、「古本壇経」という拙論の主張自体が恣意的で、定説にはほど遠いといわれるかもしれない。それゆえに以下で初期禅宗で惠能以外の人が、佛性を見る(見性)こと、頓悟を説いていることを示して、「見性」「佛性」「頓悟」が惠能の独自の思想ではない[111]ことを証明したい。
実は東山法門は佛性、如來藏思想に深く彩られている。それは時代の主流思想がそうだったという面が影響していよう。
具体的には、『如來藏経』が420年に訳出されたが、そこでは「一切衆生は諸趣煩惱身中に在りと雖も、如来藏有りて常に染汚し」[112]、「一切衆生の如来の藏は常住不變」[113]と如來藏が定義され、「煩惱を除滅せば佛性を顯現す」[114]と説かれる。『涅槃経』(三本418-436年)では「佛性」という語で統一され、「見性」と定恵等が「定恵等しき者、明らかに佛性を見る」と説かれ、見性が即成仏であることが「佛性を見るとは阿耨多羅三藐三菩提を得るなり」[115]と説かれる。『勝鬘経』(436年)は「佛性」と同じ概念を「自性清淨心」と説くが、そこでも「常住なる自性は清淨、一切煩惱藏を離る」[116]、「如来藏とは、是れ法界藏、法身藏、出世間上上藏、自性清淨藏。此性は清淨なり。」[117]と自性の常住が説かれる。
初期禅宗に影響を与えた『楞伽経』は508年に重訳されて、「佛性」と同じ概念を「藏識」として説いている。また、546年に南海に来た真諦の訳した『佛性論』、『宝性論』、『摂大乗論』も如來藏思想を説く論書である。その眞諦訳と伝えられる『大乗起信論』[118](569年)では、「自性清浄心」が如来蔵とされる。天台智顗(598寂)の『摩訶止觀』にも「佛性」は67回も登場する。
梁武帝(549寂)の説と伝えられるものに、『涅槃経』(大経)に言及してこういう。「心に不失の性有り。真神は正因の体為り。已に身内に在れば、則ち木石等の心性に非ざる物には異なれり。此の意は因中に已に真神の性有るが故に能く真の仏果を得る、となり。故に大経の如来性品の初に云く、『我』とは即ち是れ如来藏の義、一切衆生に佛性有るは、即ち是れ『我』の義なり」(均正『大乗四論玄義』)[119]。ヒンドゥー教の我(アートマン)とほぼ等しいものが、「我」であり、「真神」であると説かれている。三論宗・吉蔵(623寂)の『法華玄論』でも「唯有眞如佛性爲眞實。修萬行爲欲顯此佛性。佛性顯故名爲法身。」[120](唯だ真如佛性有りて真実為り。萬行を修するは此の佛性を顕わさんとするが為なり。佛性顕われるが故に名づけて法身と為す)という。また中国撰述の禅宗系『金剛三昧経』にも「心本如故。衆生佛性。不一不異。衆生之性。本無生滅。生滅之性。性本涅槃。」[121](心本と如なるが故に、衆生の佛性は不一不異。衆生の性、本と生滅無し。生滅の性、性は本と涅槃なり)とある。
禅宗でもすでに述べたように『楞伽師資記』(713ー716)16によれば、二祖慧可に仮託された佛性思想は次のようなものである。
「十地經云。衆生身中。有金剛佛性。猶如日輪。體明圓滿。廣大無邊。只為五蔭。重雲覆障。衆生不見。若逢智風。飄蕩五蔭。重雲滅盡。佛性圓照。煥然明淨。華嚴經云廣大如法界。究竟如虚空。亦如瓶内燈光。不能照外。亦如世間雲霧。八方倶起。天下陰暗。日光豈得明淨。日光不壞。只為雲霧覆障。一切衆生。清淨性。亦復如是。只為攀縁妄念諸見。煩惱重雲。覆障聖道。不能顯了。若忘念不生。默然淨坐。大涅槃日。自然明淨」(十地經に云く、衆生の身中に金剛の佛性有り。猶お日輪の如く、體は明らかに圓滿し、広大無邊なり。只だ五蔭重雲に覆障せられて、衆生は見ざるのみ。若し智風の飄蕩するに逢えば、五蔭の重雲は滅盡し佛性は圓照して煥然として明淨なり。華嚴經に云く廣大にして法界の如く、究竟じて虚空の如し。亦た瓶内の燈光の如きは外を照らすこと能わず。亦た世間の雲霧の八方に倶に起りて、天下陰暗なるが如き、日光は豈に明淨なることを得んや。日光は壞せず。只だ雲霧に覆障せらるのみ。一切衆生の清淨の性も亦復た是の如し。只だ攀縁妄念、諸見煩惱の重雲に覆障せられて、聖道は顯了すること能わざるのみ。若し忘念にして生ぜず。默然として淨坐すれば大涅槃の日は自然に明淨ならん。)
「金剛」というのはダイヤモンドであり不壊、常住を意味する。また「衆生の清浄の性」とは佛性であることが分かる。
またその書の中で三祖粲禅師も18「粲印道信了了見佛性處。」(粲は道信が了了として佛性を見る處を印す)といい、智敏禅師(道信章)は26「能令學者。明見佛性。早入定門」(能く學者をして明らかに佛性を見、早やかに定門に入らしむ)と、修行者に明らかに佛性を見せることを教える。四祖道信は『入道安心要方便法門』で、坐禅して佛性を見ることを、永く生死を離れる法として説く。
29「初學坐禪看心、・・・觀察不明。内外空淨。即心性寂滅。如其寂滅。則聖心顯矣。性雖無刑。志節恒在然。幽靈不竭。常存朗然。是名佛性。見佛性者。永離生死。名出世人。是故『維摩経』云。豁然還得本心。信其言也。悟佛性者。名菩薩人、亦名悟道人。亦名識理人。亦名得性人」
(「初學にして坐禪看心せんものは、・・・観察分明なれば、内外空浄にして、即ち心性寂滅す。如(も)し、其れ寂滅するとき、則ち聖心顯る。性は無形と雖も、志節は恒に在り。然して幽靈は竭(や)まず。常に存して朗然たるを、是を佛性と名く。佛性を見る者は。永く生死を離る。出世人と名く。是の故に『維摩経』に云く『豁然として還た本心を得』と。信なりや其の言は。佛性を悟る者は菩薩人と名く。亦た道を悟る人と名づく。」(『楞伽師資記』29)
これを見れば、すでに四祖道信の時には、常住の「佛性」を「見」ることが坐禅の最重要な目的であって、『涅槃経』に説かれたように「見性」が仏道の究竟と見なされ、「佛性を悟る」ことが目指されていたことが分かる。それでも『伝法寶紀』には佛性は説かれておらず、佛性思想は『楞伽師資記』(713ー716)の編者、浄覚の思想だ[122]というのであれば、五祖弘忍の著作で確かめたい。
五祖弘忍の『修心要論』では「自性円満清淨之心」が説かれ、慧可に仮託されたのと同じ言葉が次のように言われる。「問曰、何知自心本来清浄。答曰。十地論云、衆生身中、有金剛佛性。猶如日輪、體明圓滿、廣大無邊。只為五蔭重雲所覆。如瓶内燈光不能照。譬如世間雲霧、八方倶起、天下陰闇。日豈爛也。何故無光。答曰、日光不壊。只為雲霧所覆[123]。一切衆生清淨之心、亦復如是。」(『修心要論』二、問うて曰く、何ぞ自心は本来清浄なるを知らん。答えて曰く、十地論に云く、衆生の身中に金剛の佛性有り。猶お日輪の如く、體は明らかに圓滿し、広大無邊なり。只だ五蔭重雲に覆障せらる。瓶内の燈光のよく照さざるが如し。譬えば世間の雲霧の八方に倶に起りて、天下陰闇なるが如し。日は豈に爛せんや。何の故に光なきや。答えて曰く、日光は壞せず。只だ雲霧に覆われる所なり。一切衆生の清淨心も亦復た是の如し。)
弘忍はそれゆえに「如者為真如、佛性自性清淨心源。真如本有不從縁生。」(『修心要論』三、如とは真如佛性為り。自性は清浄なる心源なり。真如は本と有りて縁生に從らず)ともいう。さらに「見性」もこのように説かれる。
「譬如磨鏡塵盡自然見性。」(『修心要論』十、譬えば磨鏡の如し。塵盡き自然に見性せん。)その逆は「爾時無有定慧方便。而不能得了了明見佛性。」[124](その時、定慧、方便あることなければ、了了として佛性を明見することを得ること能わず)といわれる。
このように五祖弘忍が「佛性」、「見性」をいうのだから、六祖惠能の禅の特徴が「佛性」「見性」にあるなどとは言えない。
いっぽう、宗風が違うといわれる北宗系でも「佛性」「見性」は説かれている。
神秀の『観心論』[125]では、『修心要論』に引かれた「十地経に云」と同じ引用で次のように「佛性」が説かれる。
「十地經云。衆生身中。有金剛佛性。猶如日輪體明圓滿廣大無邊。止為五陰重雲覆。如瓶内燈光不能顯了。又涅槃經云。一切衆生皆有佛性。無明覆故。不得解脱。佛性者即覺性也。但自覺覺他。智慧明了。離其所覆則名解脱。」[126](・・・止
た
だ五陰の重雲に覆う所と為れるが如く、瓶内の燈光の顯了せる能わざるが如し。又た涅槃經云く、一切衆生は皆佛性あり。無明覆うが故に解脱を得ず。佛性は即ち覺性なり。但だ自覺覺他、智慧明了にして其の覆する所を離れば、則ち解脱と名づく。)
「佛性」は『観心論』でこの他、「且真如佛性。非是凡形煩惱塵垢。本來無相。」[127](且く真如佛性は是れ凡形、煩惱、塵垢に非ず。本來無相なり)など計七回言及されるが「見佛性」は説かれない。なぜなら神秀は「自心は本来清浄」「自心は本来不生不滅」などと「観心」することをもっぱら説くからであろう。
『大乗無生方便門』(北宗系)でも、冒頭近くの戒(後の付加の可能性)のところでこう四回も「佛性」に言及する。
「譬如明珠沒濁水中以珠力故水即澄。清佛性威徳亦復如是。煩惱濁水皆得清淨。汝等懺悔竟三業清淨。如淨琉璃内外明徹。堪受淨戒菩薩戒。是持心戒。以佛性為戒。性心瞥起即違佛性。是破菩薩戒。」[128](譬えば明珠の濁水中に沒するがごとし。珠の力を以ての故に水、即ち澄む。清き佛性の威徳も亦復是の如し。煩惱の濁水、皆、清淨なることを得。汝等、懺悔し竟れば三業清淨なること、淨琉璃の内外明徹するが如し。淨戒菩薩戒を受けるに堪うるは是れ心戒を持す。佛性を以て戒と為す。性心、瞥起すれば即ち佛性に違す。是れ菩薩戒を破す。心不起なるを護持すれば即ち佛性に順ず。是れ菩薩戒を持すなり。)
ちなみにここでは「戒」は、すべて佛性を持すことに収斂されて、具体的な諸悪莫作、修善には言及されないきわめて特異なものである。「見性」の語は『大乗無生方便門』にはないが、「了見心性。性常住名究竟覺。」[129](心性を了見す。性、常住なるを究竟覺と名づく。)といわれている。
敦煌文献の『法性論(擬題)』(北宗系[130])には、「言う所の見性とは、是れ其の佛性の、上は諸仏より下は螻蟻に至るまで平等に共に有りて失われず壊れざるも、金の鑛に在りては諸の砂礫に雜りて顕現すること能わざるが如し。若し銷鎔に遇わば便ち真金を得、諸の環釧及び荘厳具と作る。種種殊なると雖も、金性は易らず。一切衆生も{亦復}〔ま〕た是の如し。諸の習漏に覆蓋さるが為に法身顕現するを得ず。若し善知識の指示に遇い、一切法は文字に著せず、諸の分別を離れ、内証の所行は諸の言論を絶すことを知れば、妄想を起さず、自然に佛性を顕現す。」[131]と説かれる。
『血脈論』[132]では「若欲覓佛。須是見性。性即是佛。若不見性。念佛誦經持齋持戒亦無益處。・・若要覓佛。直須見性。性即是佛。佛即是自在人」[133](若し佛を覓んとせば、須く是れ見性すべし。性は即ち是れ佛。若し見性せずんば、念佛・誦經・持齋・持戒も亦た益する處無し。若し仏を覓めんと要せば、直に須く見性すべし。性は即ち是れ仏、仏は即ち是れ自在人なり)、「若見性即是佛。不見性即是衆生」(若し見性せば即ち是れ佛。見性せざれば即ち是れ衆生)、「前佛後佛只言見性」[134](前佛後佛、只だ見性と言う)と説かれる。神会の影響を受けたと見られる『歴代法寶記』にももちろん見性や佛性は多く説かれる。そして「見性成仏」が禅の標語になっていくのである。
惠能以前の禅宗文献では「佛性」を言わない方がよほど少なく、牛頭[135]の『絶觀論』、恵光[136]の『頓悟真宗論』くらいのものである。このように師、弘忍を初めとして、四祖道信、北宗系の人々が「佛性」「見性」を多用しているのだから、惠能はよほど自覚して「佛性」を使用しなかったといえる。
ただ、今見たように惠能が説かなかった「佛性」「見性」「頓悟」が敦煌本『壇経』前半の付加部分に多用され、『曹谿大師伝』にも「佛性」が多く見られて、まもなく惠能の思想だということになってしまったのである。これには神会の存在が大きく関わっている。彼の『定是非論』『雑徴義』に「佛性」は頻出し、『壇語』には「見性」「佛性」のほか「頓悟」「頓教」が何度も説かれている。しかも神会はあたかも惠能も見性を説いたかのようにいう。
「我が六代の大師は、一一皆な、単刀直入、直了見性と言いて、階漸を言わず、夫れ学道の者は頓に佛性を見て漸に因縁を修し」(『定是非論』)
神会の思想がどのように惠能のそれと異なるかは、後に詳述したい。神会は惠能の弟子の中でも、とりわけ「佛性」「見性」にこだわった人である。『景徳傳燈録』によれば、神会は惠能が「吾に一物有り。無頭無尾無名無字無背無面。諸人、還た識るや」と大衆に尋ねた時、しゃしゃり出てきて「是れ諸佛の本原。神会の佛性」と答え、六祖に「向に汝に道う、無名無字と汝は便ち本原佛性と喚ぶ」[137]と叱責されている。この「無頭無尾無名無字無背無面」こそは、その後の祖師たちが「佛性」などという用語を決して使わず、苦労して道得してきたものであり、馬祖は例えば「即心是仏」といい、臨済は「一無位の真人」[138]といい、洞山が「我、渠にあらず、渠まさに是我」といった「渠」であろう。
惠能がもし佛性を説いたとすれば、それは弟子たちの問答の中に出てくるはずである。慧忠国師の「佛性」は「南方の佛性」に問題があるとい
うことではじめて出てきたもので、自ら「佛性」を主張したのではない。むしろすでに「佛性」は問題視されていた、と見ることができる。『景徳傳燈録』は行昌の問いに「無常は佛性なり」と答えるのはその批判の一例である。敦煌本『壇経』後半でさえ、弟子との機縁四人のうち、誰も「佛性」、「見性」を尋ねず、惠能も一言もそれらに言及しない。
『祖堂集』で「佛性」の語は、この慧忠国師以外には、六祖の弟子のだれも用いていない。青原・石頭系で「佛性」が初出するのは石頭の弟子、尸梨和尚一人だけであり、他の石頭の弟子である丹霞、天皇道悟、藥山、大顛、招提、など誰も用いず、藥山の弟子たちも誰も用いず、藥山の弟子の道吾の弟子の石霜和尚に至ってやっと用いられている。また南嶽、馬祖の伝統でも馬祖には「佛性」「見性」の語はない。百丈が質問した言葉に初めて「教中道。了々見佛性。猶如文殊等。既是了々見佛性。合等於佛。爲什麼却等文殊。」と使われる。また『百丈広録』には「佛性」は頻繁に使われている。だがすでに六祖から四代目であって六祖の思想とは無縁といえる。『景徳傳燈録』は「佛性」を好み、南嶽馬祖系を優位にしているため、しばしば使われることになる。
「頓悟」「頓教」などはどうであろうか。確かに道信のような「定」を重視する行法では「頓」は説かれにくいかもしれない。だが、「佛性」はすでにもともと衆生に有るのだから、見性すればただちに成仏であり、「頓悟」の必要条件は存在するといえる。
弘忍は「若願自早成佛者會是無為守真心。三世諸佛無量無邊。若有一人不守真心、得成佛者。無有是處。」(『修心要論』九、若し自身、早く成佛せんと願う者は、是れ無為にして真心を守るを会せ。三世諸佛は無量無邊なり。若し一人、真心を守りて成佛を得ざる者あらば、是の處あることなし。)という。早く仏になるには守心すればよいので、頓の思想といえよう。また「願わくば皆な本心を識りて、一時に成佛せんことを」[139]と願われている。「真心」「本心」はすでにあって、あらためて獲得するものではないからである。
神秀も「頓悟」という用語は使わないが、「超凡證聖。目撃非遙。悟在須臾。何煩皓首」[140](凡を超え聖を証するは目撃にして遙かにはあらず。悟は須臾に在り。何ぞ皓首を煩わさん。)というのは、まさに頓悟の思想である。その為に神秀の弟子の系統、北宗禅の文献には「『頓悟大乗正理決』(摩訶衍)、『大乗開心顕性頓悟真宗論』(慧光)、『頓悟真宗金剛般若修行達彼岸法門要決』(北宗系)など「頓悟」の語を冠するものが多い。『法性論』には「今、頓教の理門に約せば真(直)了に性を現す」[141]といわれる。
ところが慧能は首題の「南宗頓教・・・」にもかかわらず、「頓教」「頓悟」とはいわない。
〔一七〕「善知識よ。我自(わ)が法門は、從上已來、頓漸、皆立て」と、はっきり自分の法門は頓も漸もあるという。その詳細は後に述べたい。
ところが神会は『頓教解脱禅門直了性壇語』という題で、「頓教」をいう。『壇語』16「各各至心、令知識得頓悟解脱」各々至心なれ、知識をして頓悟解脱を得しめん」という。すでにみたように弘忍も北宗といわれる他の禅者も頓悟思想はあるのだが、神会は北宗への批判をこめてこういう。「見諸教禪者、不許頓悟、要須隨方便始悟。此是大下品之見。明鏡可以鑒容、大乘經可以正心。第一莫疑依佛語。當浄三業、方能入得大乘此頓門一依如來説修行、必不相悞」(諸の禪を教ゆる者を見るに、頓悟を許さず、{要須}〔かな〕らず方便に隨いて始めて悟らしめんとす。此れは是れ大下品の見なり。明鏡は以って容を鑒〔うつ〕すべく、大乘經は以って心を正すべし。第一に佛語に依るを疑うこと莫れ。當に三業を淨くして、方〔はじ〕めて能く大淨に入り得ん。此の頓門は一〔ひと〕えに如來の説に依りて修行せば、必ず相い悞(あやま)らず。)(『壇語』28)
神会は自らこそ「頓門」であると自負し、敦煌本『頓悟無生般若頌』も神会のものとされるが、そこでは「一念相応すれば、頓に凡聖を超ゆ」[142]といわれ、それは北宗の頓悟とはまた違ったもの[143]であろう。惠能が「頓悟」等を説いたという謬説は、『壇経』前半の付加部分に、頓教〔二九〕〔三二〕〔三三〕、頓見〔三〇〕頓法〔三一〕頓悟〔三一〕などの用語が見えることにも大きく起因する。
このことによって、当時の禅宗があげて「佛性」「見性」「頓悟」を使ってきたのに、惠能はそれを断固として使わず、神会以外はその弟子たちも使わなかったことが立証されたといえよう。
二節 自性上の万法
「佛性」、「見性」の思想が道信、弘忍、神秀、神会、神秀などに共通するものであることが明らかになった。かれらが引く『十地経』では、その常住の佛性が五陰や無明の重雲に覆われてその光が現れず、見えない、したがって解脱できないと説かれた。ではどのように煩悩の雲を払い、五蘊、無明を除いて見性するのだろうか。
道信は、坐禅の仕方を二段階に説いており、第一は「若初學坐禪時。於一靜處。直觀身心」。(若し初學、坐禪の時は、一の静処に於いて直に身心を観ぜよ)(『楞伽師資記』28)と、最初は心身を観察して[144]自身が空であることを悟り、さらに「常觀攀縁。覺觀妄識。思想雜念。亂心不起。即得麁住」(常に攀縁・覚観・妄識・思想・雑念・乱心の起らざるを観ずれば、麁住を得ん)(同)といわれるように、さまざまな妄想が起らないように努力する。そうすることで、煩悩の雲が晴れる一応の定を得る。すると第二段階で「即心性寂滅。如其寂滅。則聖心顯矣。性雖無刑。志節恒在然。幽靈不竭。常存朗然。是名佛性。見佛性者。永離生死。」(心性寂滅す。如し其れ寂滅するときは、即ち聖心顕わる。性は形なしと雖も、志節は恒に在り。然して幽霊は竭まず。常に存して朗然たるを、是を佛性と名づく。佛性を見る者は永く生死を離る)(『楞伽師資記』29)といわれる。心性が寂滅するのであるから対境である万法もなくなる。そこに顕われるものが、「佛性」であるが、これは諸経に説かれたように常住不変の実体であり、太陽のように朗然としている。その「佛性」を見ることが目指されるのである。には万法は存在しないといえよう。
佛性を顕現する方法であるが、「観ずる」という語があるので、慧とも関わるように見えるが、重点は定におかれる。例えば、「守一不移者。以此淨眼。眼住意看一物。無問晝夜時。專精常不動。其心欲馳散。急手還攝來。以繩繋鳥足。欲飛還掣取。終日看不已。泯然心自定。」(守一不移とは此の空浄の眼を以て意を注いで一物を看る。晝夜の時を間(へだ)つること無く、專精にして常に不動なるなり。その心、馳散せんと欲れば、急手に還た攝し來り、繩を以て鳥足に繋ぐが如く、飛ばんと欲れば還た掣取し、終日看じて已まず。泯然として心、自ら定む」(『楞伽師資記』27)と精神集中による心の不動、すなわち「定」を説く。そのようにすれば、「守一不移。動靜常住。能令學者。明見佛性。早入定門。」(守一不移。動靜、常に住して能く學者をして明らかに佛性を見、早やかに定門に入らしむ)(『楞伽師資記』26)と、心が住する、すなわち静止する状態になり、そこにもはや、外界の対象(万法)にまったくかかわらない佛性が顕われ「見性を得る」ということが起こる。いかなる対境もない、自らの本来的心(聖心、佛性)のみの状態が見性であろう。
弘忍は「既體知衆生佛性本來清淨、如雲底日。但了然守真心。妄念雲盡、慧日即現。何須更多學知見、帰生死苦。一切義理及三世之事。譬如磨鏡。塵盡自然見性。」(既に衆生の佛性は、本來清淨にして雲底の日の如くなるを體知す。但だ了然として真心を守らば、妄念の雲盡き、慧日即ち現る。何ぞ更に多く知見を學し、生死の苦に帰するを須いん。一切義理及三世の事は譬えば鏡を磨くが如し。塵盡き自然に見性せん)(『修心要論』一〇)という。佛性が客塵煩悩に覆われて見えないので、塵のついた鏡を磨くように、坐禅して「真心を守る」(六、七、九、一一、一二)、すなわち「恒常凝然」(七)[了然守心(一三)という精神集中を行う。精神集中とは五官を通して入ってくる万法を、一法に限るように意を用いる。その一法さえ停めないようにすれば、見性に至る。。その場合、まず「定」において妄念を追い払いそれから「慧」、という順序が見られ、「定慧の方便」[145]が要される。『楞伽人法志』には「師獨明其觀照。四議皆是道場。三業咸僞佛事。蓋靜亂之無二。乃語默之一」(師(弘忍)は独り其の観照を明らかにす。四儀は皆な是れ道場、三業は咸な仏事を為す。蓋し静と乱とここに二なく、乃ち語と黙とここに一なり。『楞伽師資記』33)とあることも、「定」だけではなく、人のあり方全体が重要であるが、しかしやはり、「如無有生如無有滅。如者真如佛性自性清淨。清淨者心之原也。真如本有不從縁生。又云、一切衆生皆如也。衆賢聖亦如也。一切衆生者。即我等是。衆賢聖者。即諸佛是。言名相雖別、身中真如法体並同。不生不滅故言皆如也。故知自心本來不生不滅。」(『修心要論』三、如は生あることなく、如は滅あること無し。如とは、真如佛性なり。自性清浄心の源、真如は本と有って、縁より生ぜず。又云わく、一切衆生とは即ち我等是なり。衆賢聖とは即ち諸佛是なり。名相は別なりと雖も、身中の真如法体は並びに同なり。不生不滅の故に皆な如と言う也。故に自心は本來、不生不滅なるを知る)といわれるように、自らの真心、真如法性が不生不滅であり、そのような実体的「佛性を見る」ことを究竟としている。
神秀は『観心論』で、その行法を「唯觀心一法。惣攝諸行。名為最要。」[146](唯だ觀心の一法のみ。惣て諸行を攝めて名づけて最要と為す。)と「観心」の一行にしぼる。なぜならば心から万法が生ずるからである。「心者萬法之根本。一切諸法唯心所生。若能了心。則萬行倶備。猶如大樹所有枝條及諸花果。皆悉依根而始生。及伐樹去根而必死。若了心修道。則省力而易成。不了心而修道。則費功而無益。故知一切善惡皆由自心。若心外別求。終無是處。」[147](心は萬法の根本なり。一切諸法は唯だ心の生ずる所のみ。若し能く心を了ぜば、則ち萬行倶
すべ
て備う・・・若し心を了じて修道せば、則ち力を省きて成り易し。心を了ぜずして修道せば、則ち功を費して益なし。故に知る、一切善惡は皆な自心に由りす。若し心外に別に求めば、終に是の處無し。)
これは道信の「意を注いで一物を看る」坐禅や心の不動(定)を求めるのとは異なって、「慧」に重心をおいている。それは『十地経』の引用に続いて「佛性者即覺性也。但自覺覺他。智慧明了。」[148](佛性は即ち覺性也。但だ自覺覺他、智慧明了。)といわれることからも分かる。覚はさとる、目覚めるという意味で慧である。「説無為則兀兀如迷。」[149](無為を説きて則ち兀兀として迷うが如とし)には、定を重視する禅への批判さえ読み取れる。
ではどのように「心」を観じて覚するのだろうか。神秀は『大乗起信論』に依拠して「・・了見自心起用有二種差別。云何為二。一者淨心。二者染心。其浄心者、即是無漏真心、其染心者。即是有漏無明之心。二種之心法、尒自然。本來倶有。雖假縁合。本不相生。淨心恒樂善因。染體常思惡業。若真如自覚、不受所染。則稱之為聖。遂能遠離諸苦。證涅槃樂。」[150](・・自心を了見するに、二種の差別あり。云何が二と為す。一には淨心。二には染心。其の浄心とは即ち是れ無漏の真心、其の染心とは即ち是れ有漏の無明の心なり。二種の心は法爾自然にして、本來倶に有り。縁を假りて合すと雖も、本相い生ぜず。淨心は恒に善因を樂い、染體は常に惡業を思う。若し所染を受けざれば、則ち之を稱して聖と為し、遂に能く諸苦を遠離し、涅槃の樂を證す。)
淨心と染心が本来共にある、というのは、『起信論』で「衆生心」と「心真如」といわれたことであり、そのような心の機制を知ることも「観心」の大きな要素なのだろう。だが、どのようなことが「染」であり、どうしたら染を受けないようになるのだろうか。「三界業報唯心所生。本若無心。則無三界。三界者。即是三毒也。」[151](三界の業報は唯だ心の生ずる所なり。本と若し心無ければ、則ち三界無し。三界とは即ち是れ三毒なり。)ここでは、三界の業報すなわち苦しみは「心」によって生ずるのであり、三界とは三毒(貪瞋癡)であると決めつけられる。そうであれば、心が無い状態が望まれるが、その「無心」とは、染心が無いことである。それはまた三界がない状態であって「浄心」のみの状態ともいえる。それはこうも説かれる。「但能攝心。離諸邪惡。三界六趣輪迴之苦。自然消滅。即名解脱。」[152](但だ能く心を攝してが、諸の邪惡を離る。三界六趣の輪迴の苦、自然に消滅すれば即ち解脱と名づくるなり。)
このような「摂心」は坐禅においてなされるわけで、いわゆる外界に馳走する心を摂するには、次のような六根を調伏するという技術が使われる。「即是修諸覺行。調伏六根。淨行長時不捨。名為六時行道。遶塔行道者。塔者身也。常令覺恵巡遶身心。念念不停。名為遶塔。」[153](即ち是れ諸の覺行を修して六根を調伏し、淨行ならしめて長時捨
や
めざるを名づけて六時行道と為す。塔は身なり。常に恵を覺して身心を巡遶し、念念停らざるを名づけて遶塔と為す。)
弘忍が精神集中によって煩悩を払う努力をするのに対して、神秀は一瞬一瞬、感覚器官の放縦を意志によって制御する。より詳しくはこういわれる。
「欲淨六根、先降六賊。能捨眼賊。離諸色境。心無顧恪。名為布施。能禁耳賊。於彼聲塵。不令縦逸。名為持戒。能伏除鼻賊。等諸香臭。自在調柔。名為忍辱。能制舌[154]賊。不貪邪味。讚詠講説。無疲厭心。名為精進。能降身賊。於諸觸欲。[155]湛然不動。名為禪定。能摂意賊。不順無明。常修覺慧。楽諸功徳。名為智慧。」[156](六根を浄めんと欲さば、先ず六賊を降すべし。能く眼賊を捨て、諸の色境を離れ、心に顧恪無きを名づけて布施と為す。能く耳賊を禁じ、彼の聲塵において縦逸ならしめざるを、名づけて持戒となす。能く鼻賊を除き、諸の香臭を等して自在に調柔するを、名づけて忍辱と為す。能く舌[157]賊を制し、邪味を貪らず、讚詠講説して疲厭心なきを、名けて精進と為す。能く身賊を降し、諸の觸欲において湛然として動ぜざるを、名づけて禪定と為す。能く意賊を摂して、無明に順わず、常に覺慧を修し諸功徳を楽うを、名づけて智慧と為す。)
「必ず六情を禁ずべし」[158]といわれる、このような六根の調伏は非常な意志と努力が要る。それは「鎔錬身中真如佛性。遍入一切戒律模中。如教奉行。以充欠漏。自然成就真容之像。」[159](身中の真如佛性を鎔錬し、遍く一切の戒律の模
いがた
の中に入れ、教えの如く奉行し、以て欠漏を充たさば、自然に真容の像を成就せん)とあるように、真如佛性を溶鉱炉で練ると譬えられる。つまり坐禅や戒律を総動員して智慧を働かせ、「染心」を断除して「浄心」「真如佛性」のみにするのである。このように神秀には、「佛性」という用語はあっても、いわゆる「見性」の思想はなく、染浄二心を、努力して「浄心」のみにするのだということが明らかになった。
では「佛性」を説かないで自性(本性)を説く惠能においては、その自性とどのように関わって涅槃・解脱を得るのだろうか。あるいは「見性」に当たる言葉があるのだろうか。
まず、惠能の「自性」は、「佛性」とは出自を異にする。
惠能はいう、〔一九〕「菩薩戒(経)に云く、本源自性は清淨なり、と。善知識よ。自性の自ら淨なるを見て、自ら修し自ら作せ。自性は法身にして自ら佛行を行じ、自作して自ら佛道を成ぜよ」。
この惠能の「自性」は如來藏思想における常住なる「自性清浄心」には由来せず、『菩薩戒経』すなわち中国で造られたと見られる『梵網經』[160]に由来する。そこでは心地法門を説いて「吾今當爲此大衆重説十無盡藏戒品。是一切衆生戒本源自性清淨。」[161](吾れ今、當に此の大衆の爲に十無盡藏戒品を重説す。是れ一切衆生戒の本源、自性は清浄なり)という。『壇経』で、惠能は「自性清浄」を『菩薩戒経』の引用としてのみ使用しているのである[162]。この点は非常に重要である。弘忍や神秀にとって、究極的に到達するところが、常恒不変の「佛性」だからである。
だが、この「自性」は、『楞伽師資記』系の佛性の描写と似たような叙述となる。
『壇経』〔一八〕「人の性、本と淨にして、妄念の為の故に真如を蓋覆するなり。妄念を離るれば本性は淨なり。」
『楞伽師資記』16「衆生身中。有金剛佛性。猶如日輪。體明圓滿。廣大無邊。只為五蔭。重雲覆障。衆生不見。若逢智風。飄蕩五蔭。重雲滅盡。佛性圓照、煥然明淨」(衆生の身中に金剛の佛性あり。猶お日輪の如く、體は明らかに圓滿し、広大無邊なり。只だ五蔭重雲に覆障せられて、衆生は見ざるのみ。若し智風の飄蕩するに逢えば、五蔭の重雲は滅盡し佛性は圓照して煥然として明淨なり。)
禅宗でほとんどの禅師が使った「佛性」ではなく、あえて「自性」「本性」としたことに、重大な意義がある。この対比で目につくのは、『壇経』には「猶如日輪。體明圓滿。廣大無邊。・・佛性圓照」と『楞伽師資記』にあるような形容が「自性」「本性」にはまったくなされていないことである。そしてまた「自性」という、ややもすれば「佛性」と同じような実体をあらわすものと解しかねない用語に固執せず、次のように「世人の性」と換言していることも注目すべきである。
〔二〇〕「世人の性は本、自ら淨し」、〔一八〕「人の性、本より、浄」、〔二〇〕「世人の性は浄なること猶お清天の如し。」
したがってこの「自性」は、修道の究極に到達するものでも、それを顕現するものでもない。
〔一九〕「自性の自ら淨なるを見」るのは、神秀のいう「自心を了見する」と若干似ていて、いわゆる「見性」ではなく、「知る」ほどの意味である。しかしながら、神秀がその知に基づいて、「観心」をもっぱら続けて、染心を除却していくのと異なるあり方を、惠能は取る。
〔一九〕「自性の自ら淨なるを見て、自ら修し自ら作せ。自性は法身にして自ら佛行を行じ、自作して自ら佛道を成ぜよ」とあるように、自分の努力といっても、私ではなく、浄なる自性が「法身」として仏道を行ずる主体である。法身なる仏が、自ら仏道を行じて成道するのである。それに対して「世人」の現実とは、妄念に染まり、悪業をなす。どのように「妄念を離れる」のか、については、すでに「自らの色身中の邪見・煩惱・愚癡・迷妄に自ら本覺の性有り。只だ本覚の性が正見を將いて度す。既に正見般若之智を悟らば、愚癡迷妄を除卻す」といわれていた。ここでも『十地経』の「衆生身中に金剛の佛性あり」と似ているが、決定的な違いがある。迷妄の色身中に、浄い本覚の性があるのではなく、〔二八〕「邪見・煩惱・愚癡・迷妄に自ら本覺の性」があるという。 迷妄を止滅するというより、迷妄のまっただ中で、「本覚の性が正見」を働かすことができるのである。どのようにか。
それは今の一念一念において〔二〇〕「迷來れば悟もて度す。愚來れば智もて度す。惡來れば善もて度す。煩惱來れば菩提もて度す」と正念に帰る行である。今の一念が勝負なのである。
そのような「本覚の性が正見」する事態は、「定」すなわち坐禅の中で起る。これが一章で見た『壇経』〔一三〕「定惠の體は不一不二。即定は是れ惠の體。即惠は是れ定の用。即惠之時、定は惠に在り。即定之時、惠は定に在り」という修証一等にほかならない。
この正見は坐禅の当所の一念にあるのであって、坐禅していても一念が妄念であれば、迷妄のままである。そのことがこう説かれる。
〔二六〕「一(切)時中念念不愚、常行智惠、即名般若。行一念愚即般若絶、一念智即般若生。・・・念念若行、是名真有。悟此法者、悟般若法、修般若行。不修即凡。一念修行、法身等佛。」(一時中、念念愚ならず。常に智惠を行ずるは即ち般若と名づく。一念の愚を行ずれば、即ち般若、絶ゆ。一念、智ならば即ち般若生ず。・・・念念若し行ずれば、是れ真有と名く。此の法を悟る者は、般若の法を悟り、般若の行を修す。修せざれば即ち凡。一念修行せば、法身と等しき佛なり。)
他の箇所では〔二三〕「一切の塵勞妄念、自性に在りと雖も、自性の染著せざるを、衆中尊と名く」と説かれる。塵勞妄念のただ中で、一念、それに執さず、染まらず、それを継続すればそれでいい。
このような坐禅は道信の「應さに空閑に處して諸の亂意を捨て、相貌を取らず。心を一佛に繋ぐ」[163]、弘忍の「汝坐する時、平面に身を端して正座し、寛やかに身心を放ち、空際を尽して遠く一字を看よ」[164]という精神集中による一法の成就とはまったく違う。また神秀の長時の坐禅を努めて、心を摂し六官を制御して「浄心」のみを成就する坐禅とも違う。
〔一九〕「本性の自淨なるを定と曰う」といわれるように、努力を要することもなく、もともとが自性の浄なのである。だから、ことさらな技術を用いて努力する坐禅を、惠能はこう批判する。
〔一八〕「此の法門中に、坐禅は元より心に著せず。亦た淨に著せず。亦た不動を言わず。若し看心と言わば、心は元是れ妄。妄は幻の如くなるが故に看ずる所無き也。若し看淨と言わば、人の性、本と淨にして、妄念の為の故に真如を蓋覆するなり。妄念を離るれば本性は淨なり。自性の本と淨なるを見ず。心に看淨を起し、卻って淨妄を生ず。妄は處所無し。故に知る、看とは卻りて是れ妄也。淨は形相無し。」
ここでは「妄は處所無し」といわれるようにたとえば「衆生心」「染心」というモノがあるのではなく、「真心」「浄心」という常恒不変のモノがあるわけでもない。「淨は形相無し」といわれるように、浄はモノではない。
先の〔二〇〕「世人の性は浄なること猶お清天の如し」とは、人の性はモノではありえないところ、空の形容である。浄とは空だということである。〔二四〕「世人の性は空なること、亦復是の如し」といわれる通りである。そこが「佛性」とまったく異なるところである。
道信、弘忍、神秀などにおいては、究極帰処としての「佛性」は、「猶如日輪。體明圓滿。廣大無邊。・・佛性圓照」とあるように、日輪のようにその体が広大無辺で明らかで円満しており、その光は不壞であって、雲霧すなわち煩悩などを追い払えば、その佛性が太陽のように輝くという。惠能も一見似たようなことを言うように見える。
〔二〇〕「自性は常に清淨にして、日月は常に明らかなり・・・。惠は日の如く、智は月の如し。」
だがここで、自性は日月には譬えられていない。智慧が日や月に譬えられ明らかだといわれて、自性は空である。〔二〇〕「思量せざれば、性は即ち空寂」、〔二四〕「世人の性、空」といわれる通りである。
惠能において究極帰処は、〔二〇〕「忽ち惠風の吹散して雲霧の卷盡するに遇えば、萬像參羅、一時に皆な現ず」と言い、〔二四〕「能く日月星辰大地山河一切草木。惡人善人惡法善法天堂地獄を含んで盡く空の中に在り。」というように、佛性が輝くことではなく、森羅万象が現ずることである。自性は空であるからこそはじめて、森羅万象がそこに現ずることができる。
ひるがえって道信のような定による無念は次のように批判される。
〔一七〕「自らの念上に於て境を離れ、法上に於て念生ぜず。百物思わずに、念盡く除卻する莫れ。」
〔二四〕「心量は廣大にして猶お虚空の如し。定心に坐する莫れ。即ち無記空に落ちん。これは師の弘忍が「坐する時は、満世界に身心を放ち、仏境涯に住せよ。清浄法身は辺畔有ること無し」(『楞伽師資記』34)と、自身から仏へという方向であるのに対して、自性において万法を現ずるという仏から自身への方向としたとも言える。ここには仏境涯に住するという作意、努力がない。
惠能は「有る人」の教えとして「人を坐せしめ、心の淨なるを看じて、動かず起たざる」ことは、顛倒であると批判しているが、その批判は多様であり、惠能が弘忍門下や他所で接した当時の禅者の具体的あり方を踏まえているといえよう。
だが神会は相手の立場をただ一つのスローガン「凝心入定・住心看淨・起心外照・攝心内證」[165]でまとめてレッテルを張り批判している。そのようなためにする批判は、その批判が妥当でないことを露呈している。神秀にしろ、神会によって名前を挙げられている「嵩岳普寂禅師、東岳降魔蔵禅師」にしろ、このスローガン通りのことは説いていない。それゆえ他者の禅を批判するといっても惠能と神会ではその立つレベルが違うといえよう。
ところで、惠能のいう念上の森羅万象と、弘忍の「一切万法、自心を出ず」[166]や神秀の「三界業報唯心所生」とはどのように異なるのだろうか。惠能は〔二〇〕「萬法は自性に在り。一切悪事を思量すれば即ち行ずるに惡行を行ず。一切善事を思量すれば便ち善行に於いて修す。是の如く一切法は盡く自性に在るを知る」という。つまり自性の万法には悪事もあれば善事もある。という。これらは「思量すれば」あらわれる対境としての法であり、弘忍の万法、神秀の三界にあたる。それは「外に於いて境を看れば、妄念の浮雲に蓋覆せられ」といわれて妄念ともなる。ところが〔一七〕「自性、念を起して即ち見聞覺知すと雖も、萬境に染まらず而して常に自在なり」というあり方があるのだ。ふつうの見聞覺知とは、絶えず外の物を眼耳鼻舌身意の働きにおいて捉え、物を追うので、貪瞋癡の妄念が起る。だから対象を捉えること、捉えたモノに執着することをやめればいい。対象を捉えるというのは、そこで念が一処に集中することによって「停まる」ことである。
そうならない方法とは何か。
〔一四〕「一切法上に於て執著有ること無きを一行三昧と名づく。・・・心、不住に在れば即ち通流するも、住すれば即ち縛せらる」とあるように、対象に止まらず、執着しないこと、それが惠能の坐禅の功夫なのである。
〔一七〕「無念とは念に於いて而も念ぜず。無住とは人の本性の念念、住らざると為す。前念の念念、後念の念念、相続して斷絶あるなし。若し一念、斷絶せば法身即ち是れ色身を離る。念念時中に、一切法上に於て無住なり。一念若し住せば念念即ち住し繋縛と名く。一切法上に於て念念住まらざれば即ち無縛也。」
坐禅において一念一念ありのままにして、対象として捕まえず、払わず、そのあり方をつづけること、すなわち正念を行じてはじめて慧風が吹き、迷妄が晴れ、自性に萬像參羅が現ずる。
〔二〇〕「惠風の吹散して雲霧の卷盡するに遇えば、萬像參羅、一時に皆な現ず・・・迷妄を吹卻し、内外明徹ならしむるに遇わば、自性中に於て萬法皆現る。」
これがいわば「証」である。それは道元が『辦道話』で「證上に万法をあらしめ」というそこである。それが〔二〇〕「一切法の自性に在るを名づけて清淨法身と為す」といわれる仏でもある。
惠能にはこれ以上、見性も解脱も涅槃も正覚、菩提も説くことはない。
三節 仏行としての定恵等の頓修
先にこの章の一節で、惠能の法門は「頓漸皆立て」と云われていることを見た。その理由についてはこういわれる。〔一六〕「善知識よ。法に頓漸無し。人に利鈍有り。迷ならば即ち漸に勸むるも、悟る人は頓に修す。」人に利鈍があるから、鈍な人には、やさしいことから次第に深めるというやり方を勧める。利い人は、「悟る人は頓に修す」とあるように頓悟ではなく、すぐさま修行するのである。また〔一六〕「般若の法を悟り、般若行を修す。修せざれば即ち凡。一念修行せば、法身と等しき佛」といわれるように、般若を悟った人が、般若を修するのである。般若については後で詳しくみるが、修行はけっして悟るためにするのではない、悟るから修行するのである。その修は「一念」という今ここの行である。「一念修行せば、法身と等しき佛」といわれるのであるから、今ここの念に、修行しなければ、修行の機を失う。それゆえに惠能は「頓修」という言葉を使う。それも一念に如來地に超えるような一つの体験、頓悟ではなく、坐禅における一念一念のあり方であるから、「頓」はあくまで「修」についていわれ、そのさまが次のようにいわれる。
〔二〇〕「一念善なれば知惠即ち生じ、一燈能く千年の闇を除く。」
〔二二〕「前念後念及び今念。念念愚迷に染せられず。從前の惡行、一時に除く。」
頓に修すれば、頓に悪や妄念が除かれて、一念の修行で仏となる。そのことが〔二六〕「即煩惱は是れ菩提。前念迷を捉えれば即ち凡。後念悟らば即ち佛」といわれる。仏になるのも一念の悟、凡になるのも一念の愚迷である。
行のない時、仏はない。また「成仏」という究竟の境があるのでもない。念念のあり方がすべてであり、修行に蓄積や過去の実績はきかない。それゆえ〔一七〕「即ち迷に縁りて、人、境上に於て念有り。念上に便ち邪見を起し、一切塵勞妄念、ここ從り生ず」、〔二六〕「一念の愚を行ずれば、即ち般若、絶ゆ」といわれるように、今現在、邪や迷であれば、ただちに仏から凡人になる。今、今に具体的にどう行じるか、だけである。そうであればつねに今、頓修するしかない。道元が「恁麼の事を得んと要せば、急に恁麼の事を勤めよ」(『普勧坐禅儀』)と頓修をいうのに対応する。
それは従来のどの祖師が説いたものとも異なるあり方である。
道信は坐禅を委説して「先ず般若波羅蜜を聞いて説かれし如くに修行し、然る後に能く一行三昧に入る」(『楞伽師資記』)という次第があり、まず「恵」次いで「定」そして諸仏と等しい究極処がめざされる。
弘忍はまず「守心」をいう。それは「定」であろう。「我心既真。妄想即斷。妄想斷故即具正念。正念具故、即寂照智生。寂照智生故、即窮達法性。窮達法性故、即得涅槃。故知守心、是涅槃之根本」(『修心要論』八、我が心、既に真なれば、妄想、即ち斷ず。妄想、斷ずるが故に即ち正念具る。正念、具るが故に即ち寂照の智、生ず。寂照の智、生ずるが故に即ち法性を窮達す。法性を窮達するが故に即ち涅槃を得。故に真心を守るは是れ涅槃の根本なるを知る)と定から恵そして涅槃と順々に説かれている。
神秀は「但能攝心内照。覺觀常明。絶三毒永使銷亡。閉六賊不令侵擾。自然恒沙功徳。種種莊嚴。無數法門。一一成就。超凡證聖。目撃非遙。悟在須臾。」[167](但だ能く心を攝め、内に照らし、覺觀常に明らかにし、三毒を絶して永しえに銷亡せしめ、六賊を閉ぎて侵擾せしめるのみならば、自然に恒沙の功徳、種種の莊嚴、無數の法門、一一成就す。超凡證聖するは目撃にして遙かならず。悟は須臾に在り。)と記す。摂心は定、内照は恵ともいえようが、同時ではない。また「目撃」「須臾」といわれているが、先に見たように六根の調伏という時を要する修行が必要である。これらの禅師たちでさえこのように、定恵の重心のおきどころが異なるのであり、定恵の前後について種々に説かれていたことは容易に想像できる。そういう状況に対して惠能はいう。
〔一三〕「善知識よ。我が此の法門は、定惠を以て本と為す。第一に迷いて惠定別と言うこと勿れ。定惠の體は不一不二。即定は是れ惠の體。即惠は是れ定の用。即惠の時、定は惠に在り。即定の時、惠は定に在り。善知識よ。此の義即ち是れ(定)惠等し。學道の人、作意して先に定なれば惠發る。先に惠なれば定發る、定惠各別と言うこと莫れ。」
この惠能の説く「定慧等」は、当時説かれていた「定恵等学」とは、どのように異なるのか。
『涅槃経』には「諸佛世尊は定慧等きが故に明らかに佛性を見る」(p0547a)と説かれるが、この場合は、「十住菩薩智慧力多三昧力少。是故不得明見佛性。聲聞縁覺三昧力多智慧力少。以是因縁不見佛性」(十住菩薩は智慧力多く、三昧力少し。是の故に明見佛性を得ず。聲聞縁覺は三昧力多く、智慧力少し。是の因縁を以て佛性を見ず)と直前にあることからも、定恵の前後ではなく、その多少が問題になっている。
天台智顗の『天台小止観』には「定慧を均斉ならしめんが為に止観を修す・・」[168]と説かれ、『摩訶止觀』に「法性寂然たるを止と名づけ、寂にして常に照らすを観と名づく。初後をいうといえども二なく別なし、これを円頓止観と名づく」[169]という。「止観」の「止」は定、「観」は恵であるが、「初後をいう」とあるから、一応どちらかが先ということがあっても、それは不一不異だというので惠能の説き方に近い。また普通は定恵双修といっても、そのように修行して三昧に入り、やがて涅槃を証するというものであるが、智顗は「止觀即菩提。菩提即止觀」[170]と明言する。修行としての定恵等ではなく、証としての定恵等である。
惠能もまた「一念修行せば、法身と等しき佛」と修行と涅槃が同時であり、その修行が定恵等である。惠能においては禅定は智慧の体であり、智慧は禅定の作用であって、おなじ事態の二側面であるから、定といえば、そこに恵が入っており、恵といえば定を離れてはない。
〔一三〕は続いて「定惠各別と言うこと莫れ。此の見を作す者は、法に二相有り。口に善を説き、心は善ならず。惠定等しからず。心口倶に善、内外一種ならば、定惠即ち等し。自ら悟り修行するに口に諍在らず。若し先後を諍えば、即ち是れ人の勝負を斷たず。卻て法我を生じ四相を離れず」と続く。「この見」は文の流れからは「定惠各別」を指すのであるが、そのことと後の説明はうまく結びつきにくい。まさか、口に善を説くのは恵で、心が善であるのは定だというのではあるまい。私は「この見」を、定恵等を含めた「先後を諍う」ことと取りたい。『定是非論』などでも明らかなように、当時、定恵について論争があったのだろう。先に見たように「定恵等」も経典の言葉であり、それをいうことは「口に善を説く」ことになりかねない。それゆえ「若し先後を諍えば、即ち是れ人の勝負を斷たず。卻て法我を生じ、四相[171]を離れず。自ら悟り修行するに口に諍在らず」と戒められるのであろう。すでに大教団になった四祖、五祖の弟子達、あるいは惠能の弟子の間でさえ、その見解をめぐって論じ合ったにちがいない。それゆえか〔二四〕に「此の法は須く行ずべし」とあるほか、〔二五〕〔二六〕でも「迷人は口に念じ、智者は心に行ず・・・口に空しく説くこと莫れ。此の行を修せざれば、我が弟子に在らず」などと、口で説くことに対する批判はっきり言われている。したがって、「定慧等学」は、それを言うことより、それを「自ら悟り修行する」ことこそ大切である。それは「無相戒」の〔二〇〕「自悟自修」〔二一〕「自度」とぴたりと一致する。
今、定恵について見てきたが、戒定慧を惠能はどのように見たのだろうか。「戒定慧」については唯一カ所「古本壇経」の最後で〔二六〕「讚最上乘法。修行定成佛。無去無住無來、是定惠等、不染一切法。三世諸佛從中出、變三毒為戒定惠。」(最上乘法を讚じて修行せば定んで成佛す。無去無住無來とは、是れ定惠等しくして一切法に染まず。三世諸佛は中從り出ずとは、三毒を変じて戒定惠と為すなり)といわれている。戒は無相戒で自らの仏に帰依するのであれば、それに基づく定恵等が直ちに戒定慧であるのは、容易に理解できる。ところで、先に一章三節で定恵等学などを巡って神会が『壇経』を知っていて、『壇語』や『雑徴義』ができたとした。この「戒定慧」をめぐってはすでに柳田聖山氏が指摘しているように『壇語』4で「佛説道没語。經云、諸悪莫作、諸善奉行、自浄其意、是諸佛教。過去一切諸佛、皆作如是説。諸悪莫作是戒、諸善奉行是恵、自浄其意是定。知識、要須三學、始名佛教。何者是三學等。戒定恵是。妄心不起名爲戒、無妄心名爲定、知心無妄名爲恵。是名三學等。」(。佛は没〔なん〕の語をか説道〔と〕く。經に云く、「諸悪は作す莫れ、諸善は奉行せよ、自ら其の意を浄〔きよ〕くせよ。是れ諸佛の教えなり」。過去の一切諸佛は、皆是くの如きの説を作せり。「諸悪は作す莫れ」は是れ戒、「諸善は奉行せよ」は是れ恵、「自ら其の意を浄くせよ」は是れ定なり。
知識よ、要〔かな〕らず三學を須て、始めて佛教と名く。何者か是れ参學等し。戒定恵是れなり。妄心の起こらざるを名けて戒と爲し、妄心無きを名けて定と爲し、心に妄無きを知るを名けて恵と爲す。是れを三學等しと名づく。)といっており、それが『壇経』で志誠が先師の神秀の教えとして述べるところ、即ち『壇経』●「志城曰。秀和尚言戒定惠。諸惡不作名為戒。諸善奉行名為惠。自淨其意名為定。此即名為戒定惠。」と同じである。また神会の懺悔、三帰も伝統的な解釈を出ない。そこから柳田氏は、『壇経』が胡適のいうように神会が書いたのではなく、牛頭宗が作ったという論を導いた。私はこの定恵問題と戒は、神会にとって別問題であり、『壇経』神会章にもあるように神会にとっては「見性」やそこから見られた「定恵等」が、神秀や普寂とは異なる根本問題であって、「無相戒」の内実ではなく、しばしば授戒をしたそのことのみ惠能を模倣したのではないかと考える。『壇語』のはじめが一発菩提心、二三宝礼、三懺悔そして四七仏通戒であるところに、形式的に『壇経』をなぞっていることが見てとれると思われる。
さて、惠能において、その定恵等の修行は、あやまたず坐禅である。
〔一九〕「此の法門中に、何をか坐禅と名づくるや。此の法門中に一切礙げ無く、外に一切境界上に於て念の起らざるを坐となし、本性の乱れざるを見るを禅と為す。何か名けて禪定と為すや。外に相を離るるを禅と曰い、内に亂れざるを定と曰う。外に若し相有るとも内に性乱れずば、本性の自淨なるを定と曰う。只だ境を縁じて觸す。觸せば即ち亂る。相を離れて亂れざれば即ち定なり。外に相を離るれば即ち禪、内亂れざれば即ち定、外に禪、内に定なるが故に禪定と名く。『維摩経』に云く、即時に豁然として本心に還り得たり。菩薩戒経に云く、本源自性は清淨なり、と。善知識よ。自性の自ら淨なるを見て、自ら修し自ら作せ。自性は法身にして自ら佛行を行じ、自作して自ら佛道を成ぜよ。」
ここには坐禅のあり方として「外に若し相有るとも内に性乱れずば、本性の自淨なるを定と曰う。只だ境を縁じて觸す。觸せば即ち亂る。相を離れて亂れざれば即ち定なり」とある。本性がいつも浄であるわけではなく、境(五感の対象)に対して触す、即ち意識を働かせることで想いが乱れるのが普通の人の本性のあり方である。本性に相があっても相を離れることができるのは、見たまま、聞いたままで、取捨せず思いを手放しにできる坐禅以外になかろう。
ところで惠能も「一行三昧」に言及している。「一行三昧」も、「定恵等」と同じく、すでに多くの人によって説かれているものである。 したがって「一行三昧」を説くというより、むしろ、さまざまな人が説く一行三昧を批判しているのである。
智顗の『摩訶止觀』でも「常坐とは、文殊説文殊問[172]の両般若に出ず。名づけて一行三昧となす」とあって九〇日ひたすら結跏趺坐する行を指す。『文殊説般若經』では「法界は一相なり、縁を法界に繋くる、これを一行三昧と名づく」[173]とある。したがって坐禅して一相を集中する行が一行三昧といわれていたのであろう。また『楞伽師資記』の道信『入道安心要方便門』にはこの『文殊説般若經』によって「法界は一相なり。縁を法界に繋くるを是を一行三昧と名づく。若し善男子善女人にして一行三昧に入らんと欲するものは、当に先ず般若波羅蜜を聞いて、説かれし如くに修学し、然る後に一行三昧に入れば、退せず壊せず思議せずして無礙無相ならん・・・」[174]と説かれる。
『大乗起信論』でも「依如是三昧故。則知法界一相。謂一切諸佛法身與衆生身平等無二。
即名一行三昧。」[175](是の如くの三昧に依るが故に、則ち法界一相なるを知る。謂ゆる一切諸佛も法身は衆生身と平等にして無二なり。即ち一行三昧と名く。)と説かれる。
『楞伽人法志』によれば神秀も則天武后に対して「文殊説般若經の一行三昧に依る」[176]と答えている。さらには後に大珠慧海の『頓悟要門』にも述べられている。
それに対して惠能はいう。〔一四〕「一行三昧者、於一切時中行住座臥、常行直心是。淨名經云、真(直)心是道場、真(直)心是淨土。莫行心諂典、口説法直。口説一行三昧。不行直心。非佛弟子。但行直心。於一切法上無有執著。名一行三昧。迷人著法相。執一行三昧。直心坐不動。除妄不起心。即是一行三昧。若如是此法同無情。卻是障道因縁。」(一行三昧とは、一切時中に行住座臥するも、常に直心を行ずる是なり。淨名經に云く「直心は是れ道場。直心は是れ淨土」と。心を行ずるに諂典して、口に法直を説くこと莫れ。直心を行ぜざれば、佛弟子に非ず。但だ直心を行じて、一切法上に於て執著有ること無きを一行三昧と名づく。迷人は法相に著し、一行三昧を執す。直心に坐して動ぜず、妄を除きて心を起こさざる、即ち是れ一行三昧なり、と。)
ここでは『文殊説般若經』による智顗や禅師たちの坐禅における一行三昧は、「「直心に坐して動ぜず、妄を除きて心を起こさざる」ことを執するものとして批判されている。〔二四〕「定心に坐禅ずること莫れ」もそのような坐禅への戒めであろう。
それに対して惠能の一行三昧は「一切時中に行住座臥するも、常に直心を行ずる是なり」といわれるように、外的形や、精神集中ではない、生活のすべてにわたるまっすぐな心、取り繕いやはからいのない心のことなのである。したがって、惠能も「一行三昧」を説いた、という言い方は適切ではない。むしろ「一行三昧」を批判したのであり、そのように心を人為的に調え、三昧に執着するあり方を離れて、どこまでもとらわれのないあり方、はからいのない「直心」をこそ、三たび言及して説いたのである。
四節 口説批判
『壇経』〔二四〕は「今既自歸依三寶、惣(總)各各至心。與善知識説摩訶般若波羅蜜法。善知識」
(・・・善知識の為に摩訶般若波羅蜜の法を説かん)と始まり、惠能は般若の法を説いたといわれてきた。たしかに〔一〕では「大師に摩訶般若波羅蜜の法を説くを請う」という聴衆の要請があり、〔二四〕から〔二六〕には、それが説かれているとされる。続きを引用すればこうなる。
〔二四〕「雖念不解、惠能與説、各各聽。摩訶般若波羅蜜者、西國梵語、唐言大智惠彼岸到。此法須行、不在口念。口念不行、如幻如化。修行者法身、與佛等也。何名摩訶。摩訶者是大。心量廣大、由(猶)如虚空。莫定心坐禅即落無既空。能含日月星辰、大地山河一切草木、惡人善人惡法善法、天堂地獄、盡在空中。世人性空亦復如是。(念ずと雖も解らず。惠能、與に説かん。各各、聽け。摩訶般若波羅蜜とは、西國の梵語にして、唐には大智惠彼岸到と言う。此の法は須く行ずべく、口に念ずるに在らず。口に念じて行ぜざれば、幻の如く化の如し。修行者の法身、佛と等しき也。何をか摩訶と名づくる。摩訶とは是れ大なり。心量は廣大にして、猶お虚空の如し。定心に坐禅する莫れ。即ち無記空に落ちん。能く日月星辰、大地山河一切草木、惡人善人、惡法善法、天堂地獄を含んで盡く空中に在り。世人の性、空なること、亦復是の如し。
〔二五〕「性含萬法是大。萬法盡是自性。見一切人及非人、惡之與善、惡法善法、盡皆不捨。不可染著。由(猶)如虚空。名之為大、此是摩訶行。迷人口念、智者心行。又有迷人、空心不思、名之為大。此亦不是。心量広大、不行是小。莫口空説。不修此行。非我弟子。」
(性は萬法を含む、是れ大なり。萬法は盡く是れ自性なり。一切人及び非人、惡之れ善と、惡法善法を見て、盡く皆な捨てず、染著すべからず、虚空の猶如くなるを、之を名けて大と為す。此れは是れ摩訶行なり。迷人は口に念じ、智者は心に行ず。又迷人有って、心を空じて思わず、之を名づけて大と為す。此れ亦た是ならず。心量は広大なるも、行ぜざれば是れ小なり。口に空しく説く莫れ。此の行を修せざれば、我が弟子に非ず。)
〔二六〕「何名般若。般若是智惠。一時中念念不愚。常行智惠即名般若。行一念愚即般若絶。一念智即般若生。心中常愚。自言我修般若。般若無形相。智惠性即是。何名波羅蜜。此是西國梵音。言彼岸到。解義離生滅著境生滅起。如水有波浪。即是於此岸。離境無生滅。如水永長流。故即名到彼岸。故名波羅蜜。迷人口念。智者心行。當念時有妄。有妄即非真有。念念若行、是名真有。悟此法者。悟般若法。修般若行。不修即凡。一念修行、法身等佛。善知識。即煩惱是菩提。前念迷即凡。後念悟即佛。善知識、摩訶般若波羅蜜、最尊最上第一。無住無去無來、三世諸佛從中出。將大知惠到彼岸、打破五陰煩惱塵勞。最尊最上第一。讚最上乘法。修行定成佛。無去無住無來、是定惠等、不染一切法。三世諸佛從中出、變三毒為戒定惠。」
(何を般若と名づくや。般若は是れ智惠。一切時中、念念愚ならず。常に智惠を行ずるは、即ち般若と名く。一念、愚を行ずれば、即ち般若絶え、一念、智なれば即ち般若生ず。心中に常に愚にして、自ら我れ般若を修すと言う。般若は形相無ければ、智惠の性即ち是れなり。何をか波羅蜜と名く。此れは是れ西國の梵音、唐には彼岸到と言う。義を解れば生滅を離る。境に著すれば生滅起り、
水に波浪有るが如し。即ち是れ此岸に於てす。境を離るれば生滅無く、水の永く長流するが如し。故に即ち到彼岸と名づく。故に波羅蜜と名づく。
迷人は口に念じ、智者は心に行ず。念ずる時に当りて、妄有り、妄有れば即ち真有に非ず。念念に若し行ずれば、是れ真有と名づく。此の法を悟る者は、般若の法を悟り、般若の行を修す。修せざれば即ち凡、一念も修行せば、法身は佛と等し。善知識よ。即煩惱は是れ菩提。前念迷えば即ち凡、後念悟らば即ち佛なり。
善知識よ、摩訶般若波羅蜜は、最尊最上第一なり。無住無去無來、三世諸佛は中從り出で、大知惠を將て彼岸に到り、五陰煩惱塵勞を打破す。最尊最上第一なり。最上乘法を讚じて修行せば定んで成佛す。無去無住無來とは、是れ定惠等しくして一切法に染まず。三世諸佛は中從り出ずとは、三毒を変じて戒定惠と為すなり。)
しかしながら、「般若」も「定恵等」「一行三昧」と同じく、特に教家、三論宗などで「般若の法」は十分に説かれてきたのである。したがって、惠能はここでもむしろ「摩訶般若波羅蜜の法を説く」ことを批判して、〔二六〕「般若の行を修する」ことを説いたのである。
般若を説き、般若(経)を念ずることは、二次付加の〔二〕に「淨心念摩訶般若波羅蜜法」(淨心もて摩訶般若波羅蜜法を念ぜよ)とあることにも表れているように、当時広く行われていたと思われる。禅宗にさえ、『梁朝傅大士頌金剛經』が伝えられ、『楞伽師資記』を編集した浄覚は『注般若心経』(727年)を著し、惠能撰という『金剛経解義』さえある。
それに対して〔二四〕~〔二六〕に説かれる「般若の法」は、「摩訶般若波羅蜜」の「摩訶」を〔二四〕「摩訶とは是れ大なり。心量は廣大にして、猶お虚空の如し」という。「般若」は〔二六〕「何を般若と名づくや。般若は是れ智惠」、「波羅蜜」は〔二六〕「何をか波羅蜜と名く。此れは是れ西國の梵音、唐には彼岸到と言う。義を解すれば生滅を離る。境に著すれば生滅起り、水に波浪有るが如し。即ち是れ此岸に於てす。境を離るれば生滅無く、水の永く長流するが如し」と説かれる。いわばもっとも初歩的な語句の説明である。それに付随する説明は、すでに説かれてきたことの再説である。
「摩訶」の心が虚空のように広大であるについては、そこに一切万法が含まれることが、二四〕「日月星辰、大地山河一切草木、惡人善人、惡法善法、天堂地獄を含」むといわれていた。「般若」が〔二五〕「一切時中、念念愚ならず。常に智惠を行ずるは、即ち般若と名く。一念、愚を行ずれば、即ち般若絶え、一念、智なれば即ち般若生ず。」といわれるのも、〔二〇〕「一念善なれば知惠即ち生ず。一燈能く千年の闇を除き、一智は能く萬年の愚を滅す。」といわれた。「彼岸到」とは、境に対する執着を離れることで、〔二五〕「一切人及び非人、惡之れ善と、惡法善法を見て、盡く皆な捨てず、染著せず」というあり方である。それは〔二三〕に「愛著なきを以て離欲尊と名く。・・・一切の塵勞妄念、自性に在りと雖も、自性の染著せざるを、衆中尊と名く」と説かれた。また〔一七〕「前念の念念、後念の念念、相続して斷絶あるなし」といわれるように念が永続的に流れて無住となる、それが「生滅を離れる」ことである。
したがって、惠能が強調したことは般若がいかなる事柄をさすのか、という教法というよりは、どのような実践における状態かということである。般若を説くことへの批判があるのだから惠能自身も般若を説くということはないはずである。〔二四〕「此の法は須く行ずべく、口に念ずるに在らず。口に念じて行ぜざれば、幻の如く化の如し。」とは口で般若を説くことの批判である。ただ口で説くだけという行解不相応は、あってはならないこととして厳しく戒められる。
〔一三〕「口に善を説くも、心は善ならず。惠定等しからず。」
〔一四〕「口に法直を説き、口に一行三昧を説く莫れ。直心を行じざれば、佛弟子に非ず。」
〔一八〕「迷人は自身、動ぜず。開口すれば即ち人の是非を説き、道と違背す。」
〔二二〕「諸佛の前に口に説くも益なし。」
〔二五〕「迷人は口に念ず。智者は心に行ず。・・・口に空しく説くこと莫れ。此の行を修せざれば、我が弟子に非ず。」
〔二六〕「心中、常に愚にして、自ら我れ般若を修すと言う。・・・迷人は口に念じ、智者は心に行ず。」
およそ「口に念ずる」「口に説く」ことは、「般若」であれ「一行三昧」であれ、「定恵等」であれすべて批判されている。ここに惠能の説法といわれるものが、この『壇経』以外はきわめて少ない理由が存しよう。
このような惠能の批判は、その当時、口に説く禅者が多かったことを反映していよう。「口に説く」禅者とは、例えば『歴代法寶記』の中で弘忍から「汝、兼ねて文字の性有り」といわれた智詵は、著作もあって、あるいは惠能の批判の対象であったかもしれない。
だがもっともはっきりしているのは、神会である。彼は、しばしば論戦を挑み、次のように「口に説く」ことを重視した。
『壇語』22「經に云く、『當に如法に説くべし』と。口に菩提を説くとき、心に住する處無し、口に涅槃を説くとき、心は唯だ寂滅なり。口に解脱を説くとき、心に繋縛無し。」
神会がいかに「説く」ことに熱心であったかは『歴代法寶記』に神会について「知見を立て、言説を立てて戒定慧と為し、言説を破せずして云く、『正説の時が即ち是れ戒、正説の時が即ち是れ定、正説の時が即ち是れ恵なり』」[177]と言っていることからも分かる。これは真っ向から惠能の説くところと対立する。神会の修行については「『禅師は三賢十聖の修行において、何の地位をか証す。』会答えて曰く『涅槃経に云わく、南無純陀、南無純陀、身は凡夫に同じきも、心は仏心に同じ』(同)と答えて、「身は凡夫に同じ」と表明することで、修行がないことを暴露している。神会にはおよそ行もなく、行を説くこともない。したがって神会と慧能の思想はまったく異なるのである。
五節 無念・無相・無住のとらえ直し
慧能は〔一七ー1〕の冒頭で「善知識よ。我自(わ)が法門は、從上已來、頓漸、皆立て、無念を宗とし、無相を體と為し、無住を本とす」と宣言している。「無念、無住、無相」は、惠能以前にも説かれていて、「無念」は『大乗起信論』に「若有衆生能觀無念者。則為向佛智故。又心起者。無有初相可知。而言知初相者。即謂無念。是故一切衆生不名為覺。以從本來念念相續未曾離念故。説無始無明。若得無念者。則知心相生住異滅」[178](若し衆生有て能く無念を観ずる者は、則ち佛智に向うと為す故に。又た心を起す者は、初相に知るべきあることなくして、初相を知ると言う者は、即ち無念と謂う。是の故に一切衆生は名けて覺と為さず。以從本來念念相續して、未だ曾て念を離れざるが故に、無始無明と説く。若し無念を得る者は、則ち心相の生住異滅を知る)と説かれ、「無心」は『二入四行論』長巻子に、「無住」は『維摩経』『金剛経』に説かれる。南宗の神会もすでに触れたように「無念、無住、無相」を説くが、北宗でも『無心論』にはくどいほど「無心」が説かれ、その序に「大道無相爲接麁而見形」[179]と「無相」も説かれる。惠能の示寂(713年)後に書かれた『楞伽師資記』(713ー716)の浄覚序には「無為無事、無住無著」(7)「是の故に空を体して無相」(7)と説かれ、また求那婆陀羅章にも「無念にして身を安ず」(8)と説かれる。しかし、この部分は他に資料があるわけではなく浄覚の筆である。もっとも四祖道信[180]にも五祖弘忍にもこれらの用語は見られない[181]。
今、『壇経』〔一七〕の続く全文を掲げてみよう。
〔一七ー2〕「何を名づけて相と為すや。無相とは、相に於いて而も相を離る。無念とは念に於いて而も念ぜず。無住とは人の本性の念念、住らざると為す。前念の念念、後念の念念、相続して斷絶あるなし。若し一念、斷絶せば法身即ち是れ色身を離る。念念、時中に、一切法上に於て無住なり。一念若し住せば念念即ち住し繋縛と名く。一切法上に於て念念住まらざれば即ち無縛なり。無住を以て本と為す。善知識よ。外に一切相を離るれば是れ無相なり。但だ能く相を離るれば性體は清淨なり。是れ無相を以て體と為す。一切境上に於て染らざるを名づけて無念と為す。善知識よ。外に一切相を離るれば是れ無相。但だ能く相を離るれば性體は清淨なり。是れ無相を以て體と為す。一切境上に於て染らざるを名づけて無念と為す。自らの念上に於て境を離れ、法上に於て念生ぜず。百物思わずに、念盡く除卻する莫れ。一念斷ぜば即ち無にして別處に生を受く。學道の者、用心して法意を識らざること莫れ。自ら錯まるは尚お可なるも、更に他人に勸めて迷わさんや。自ら迷を見ず、又た經法を謗る。是を以て無念を立てて宗と為す。即ち迷に縁りて人、境上に於て念有り。念上に便ち邪見を起し、一切塵勞妄念、此こ從り生ず。然らば此の教門は無念を立てて宗と為す。世人は境を離れて念に於いて起こさず。若し念有ること無ければ、無念も亦た立たず。無とは何事をか無とし、念とは何物を念ずや。無とは、二相の諸塵勞を離る。真如は是れ念の體。念とは是れ真如の用なり。自性、念を起さば即ち見聞覺知すと雖も、萬境に染まらず而して常に自在なり。維摩經に云く、外に能善く諸法の相を分別して、内に第一義に於て而動ぜず。」
ここでは「無念、無住、無相」のうち、「無住」の説明に重点がおかれているので、それから吟味したい。
惠能の「無住」は〔一七ー2〕「無住とは、人の本性の念念住らざること為り」といわれるように、本来的な人のあり方[182]であり、人が見聞覺知の対象をことさら意識しないところで、例えば幼子に自然におこっている心のありようをいう。一瞬一瞬、念(思い)は変化し流れている。つまり、自然に起きてくる念は、住(とど)めなければ、それでいいのだ。「前念の念念、後念の念念、相続して斷絶あるなし」は、私たちが生きている上でのこころの風景である。息をするのに一息一息、留まらずに息し続けるように、心も環境世界に呼応して一瞬一瞬働きつづける。しかし、実際は「一念若し住せば念念即ち住し繋縛と名く」といわれるように、私たちはあらゆるものに目を留め、耳をそばだて、気にするわけであり、その念(思い)はそこに繋がれる。煩悶とか煩悩というものは、その対象・事柄が頭を離れなくなる状態である。その頭の捉われを放すとき、「一切法上に於て念念住まらざれば即ち無縛也」といわれるような解放が生じる。しかし、日常生活ではなかなか気になること、とらわれは心から離れない。坐禅はその放下を容易にする。
ところで、念(思い)は無くなそうとしても無くなるものではない。念念、生じてやまないその念が、完全に止まるとしたら、惠能が〔一七ー2〕「若し一念、斷絶せば法身即ち是れ色身を離る」というように死ぬ時である。しかし、坐禅を集中という方向で努力すれば、無念といわれるような五感が静止したような状態になりうるがそれは惠能の取るところではない。大切なことは念いに執着しないことである。この功夫は、実は慧能の教えの核心である。〔一四〕「心、不住に在れば即ち通流するも、住すれば即ち縛せらる」といい、懺悔でも〔二二〕「前念後念及び今念、念念、愚迷に染せられず」といわれている。ここで注意したいのはこの「無住」は、けっして『金剛經』の「応無所住而生其心」から来ているのではないことである[183]。金剛經と惠能の結びつきは、神会門下の二次付加の『壇経』〔二〕に始めて現れる。
神会も「無住」を説くが、たとえば、『壇語』14「『応無所住』とは、推すに知識の無住心、是なり。「而生其心」とは心の無住なるを知る是なり」である。この問答において神会が『金剛經』によって「無住」を言っていることが明らかである。つまり惠能の「無住」を継承しているのだが、その依る経が異なる。その上『金剛經』の文脈では、心が「心源」とか常住不変の「真心」に依って生じているのではなく、空なものとして忽然と生ずるそのことをいう。したがって「無住心」というような「心」があるはずがなく、まして「而生其心」のどこにも「知る」という要素が入り込む余地はない。したがって『壇語』14の神会の解釈は牽強附會といわざるを得ない。これには次のような問答が先行する。
「『心に住處有りや』。答う、『心に住處無し』。『和上言え、心既に無住なるに、心の無住なるを知るや』。答う、『知る』。『知るや知らずや』。答う、『知る』。『今推〔お〕して無住の處に到って知を立て、没〔なん〕と作す』。『無住は是れ寂淨なり、寂淨の躰は即ち名づけて定と爲す。躰上に從〔お〕いて自然智有りて、能く本寂淨の躰を知るを、名づけて恵と爲す。此れは是れ定恵等し。』」
神会の答えには、レトリックにとどまらない問題がある。「無住」とは『金剛経』では「心」のあり方であった。「寂靜」もまた形容、ありさま、性質である。形容には「体」ということはないだろう。神会は無住を、一つの「もの」として「無住の体上に自ら本智有り」『雑徴義』15という。「体」とはそのもの自体、構成要素、質料、本体、実体などの意味である。『起信論』でいえば「真如」[184]は、常住不変という形容詞のつく実体であるから「体」といいうる[185]。しかし常住の逆の無住に対して「無住の体」というのは、おかしい。神会はそれを
無住心」と言い換えて対象として知ったり、得たり、修行したりできるものとされる。「心」は『起信論』でも常恒なものだからである[186]。例えば次のように云われる。
『壇語』12「学道の人の如きは無住心を修す。」
『雑徴義』15「但し、無住心を得ば、即ち解脱を得ん」
『雑徴義』25「是れ本性の無住心なり。・・・『維摩経』に云わく、無住の本より一切法を立つ。」
しかし、元来無住とは、この『維摩経』の説が基本的に『金剛経』の無住と同じであるように、無住であるそのところから、心が生じ、一切法が生ずるという意味である。ところが神会は無住心を「知る」ということを強調する。だがいったい誰が知るのか。その主体の対象を知るという能所の能である知の働きそのものが妄であり、執であるのではないのか。もともと「寂静」とは、もはやすべての主体的な心の働きがやんだところである。また体用関係においては、知るものと知られるものという関係にはなりえない。同じものの働きが用であり、その本体(それ自体)が体なのであるからだ。
神会が「無住」以上に強調したものが「無念」であり、それも惠能の『壇経』に既に説かれていた。
惠能は「無念」について〔一七ー2〕「無念とは念に於いて而も念ぜず」という。一般に「無念」といえば、まったく念がないことだという印象を受けてしまうが、『壇経』では「念に於いて」とあって、念はたしかにあるのだが、それは主体的、主意的な念ではない。『金剛経』で「住するところ無くして而もその心生ず」といわれるように、自ずと生じる脳の生理作用としての心があり、念がある。その念を追わず、考えず、とらわれないことが「無念」である。つまり「前念の念念、後念の念念、相続して斷絶あるなし」という念念が住しないあり方における「念」が、「無念」といわれるものである。
普通に念を無くすことだと考える「無念」は、誤ったもので、それについて惠能は『壇経』〔一七ー2〕「若し念有ること無ければ、無念も亦た立たず。」と批判する。そして惠能のいう「無念」を「無とは何事を無しとし、念とは何物をか念ず。無とは二相の諸の塵勞を離る。真如は是れ念の體、念は是れ真如の用なり。自性、念を起せば、即ち見聞覺知すと雖も、萬境に染まず、而かも常に自在なり」という。「真如」という用語は、「古本壇経」ではこの〔一七〕と次の〔一八〕に見えるが、それは惠能のいう「自性」と同じ意味で使われており、『起信論』の「真如」とは違う。
「二相の塵勞を離る」とは、主体的念(知)の働きである有無、是非、善悪、彼此などを区別する分別知の働きを離れるのである。主体ではなく、自性(あるいは真如)が自ずから起こす働きが、「自性、念を起こせば」という知(般若)であり、そこに対象を限定しない見聞覚知がある。その働きそのままで境(対象)に引っ張られず、影響されないことが「万境に染まず」である。あくまで「念において」であり、それは「一切境上に於て染らざるを名づけて無念と為す」と言い換えられる。一切の境が念においてある、そこが証である。だから、念が起こらないように努めることや、「無念を見る」ことを求めることはない。
ところで神会には、この言い方と一見そっくりな言い方がある。
『定是非論』25「云何無念。所謂不念有無、不念善悪、不念有邊際無邊際、不念有限量無限量。不念菩提、不以菩提為念、不念涅槃、不以涅槃為念。是為無念」(云何が無念なるや。所謂る有無を念ぜず、善悪を念ぜず、有邊際、無邊際を念ぜず、有限量、無限量を念ぜず。菩提を念ぜず、菩提を以て念と為さず。涅槃を念ぜず、涅槃を以て念と為さず。是れ無念為り。)
これも「二種の塵勞」を説いているが、微妙な違いがある。惠能は塵勞を「離る」、萬境に「染まず」と説いているが、神会はそれら塵勞を「念ぜず」と繰り返し説き、念じないことを無念とする。
これは慧能が批判して〔一七ー2〕「自らの念上に於いて境を離るれば、法上に於て念生ぜず。百物思わず、念盡く除卻する」といった、誤った「無念」であろう。また〔一七ー2〕「世人は境を離れて念を起こさず。若し念あることなければ、無念も亦た立たず」と批判したような「念無し」、諸のことを念じない無念が神会の「無念」である。そのことは次の言葉でもあきらかである。
『壇語』21「但不作意、心無有起、是眞無念。」(但だ意を作さず、心の起ること有る無くんば、これ真の無念なり。)
念は住するところなくして起るのであって、「念あること無し」とはいかないのである。
慧能は念じないことを無念とする誤ったことを教える者に対して、〔一七ー7〕「學道の者、用心して、法意を識らざること莫れ。自ら錯まるは尚お可なれど、更に他人に勸めて迷わし、自ら迷を見ず。又た經法を謗ずるなり」と厳しく注意を喚起している。ここには明らかに神会の「無念」と惠能の「無念」の違いが見られる。
もうひとつ、神会には、惠能の言い方とそっくりな言い方がある。
『壇経』〔一七〕「真如は是れ念の體。念とは是れ真如の用なり。自性、念を起さば即ち見聞覺知すと雖も、萬境に染まらず而して常に自在なり。」
『壇語』15「但自知本體寂淨、空無所有、亦無住著、等同虚空、無處不遍、即是諸佛真如身。真如是無念之體、以是義故、故立無念爲宗。善見無念者、雖具見聞覺知而常空寂。」(但自〔た〕だ本體は寂靜にして、空無所有なるを知れば、亦た住著する無く、虚空に等同(ひとし)く、處として遍ねからざる無し。即ち是れ諸佛の眞如身なり。眞如は是れ無念の體なり、是の義を以ての故に、故に無念を立てて宗と爲す。善く無念を見る者は、見聞覺知を具すと雖も、而も常に空寂なり。)
ところが、よく注意すれば惠能は「眞如は是れ念の體」というのに対し、神会は「眞如は是れ無念の體」といっている。「念」と「無念」では正反対である。そして惠能は続いて「念は是れ真如の用なり」といったが、神会はけっして「無念は真如の用」とはいわない。「無念」であって「念」ではないから、その用をいうことができないのである。惠能は「念」が真如の用だから、念念があっても、とどまらないのであれば、「見聞覺知すと雖も、萬境に染まず」というのである。見聞覺知して、それによって万境があっても、それに触れず染まらず、したがって心が乱れないあり方がある。ところが神会は「無念を見る者は、見聞覺知を具すと雖も、而も常に空寂なり」という。いったい「無念を見る」ということはどのように可能だろうか。見る主体はだれなのか。無念であるものはだれなのか、常に空寂であるものが、対象(無念)を見るという働きをするのであろうか。このような論理の不整合は、『壇経』〔一七〕を念頭においているから生じたと考えることができよう。
神会が惠能の『壇経』を知っているといえるのは、もっとよく『壇経』〔一七〕に似ている表現が『雑徴義』にあるからだ。
『雑徴義』25は次のような問答であり、傍線部分が『壇経』〔一七〕とほぼ重なる。
「無者無何法、念者念何法。答曰、「無者無有二法、念者唯念眞如。又問、念者與眞如有何差別。答、亦無差別。問、既無差別、何故言念眞如。答曰、所言念者是眞如之用、眞如者即是念之體。以是義故、立無念爲宗。若見無念者、雖有見聞覺知、而常空寂。」
(『無とは何法が無きや、念とは何法を念ずや』。答えて曰く、『無とは二法有ること無し。念とは唯だ真如を念ず。』又問う、『念ずることと真如とは、何の差別有りや』。答う、『亦た差別無し』。問う、『既に差別無ければ、何故に真如を念ずと言うや』。答う、『言う所の念とは是れ真如の用なり、真如とは即ち是れ念の体なり。是の義を以ての故に、無念を立てて宗と為す。若し無念を見る者は、見聞覚知有りと雖も、而も常に空寂なり』と。)
『壇経』〔一七〕「・・・、無念を宗とし、無相を體と為し、無住を本とす・・・無とは何事をか無とし、念とは何物を念ずや。無とは、二相の諸塵勞を離る。真如は是れ念の體。念とは是れ真如の用なり。自性、念を起さば即ち見聞覺知すと雖も、萬境に染まらず而して常に自在なり。
ここでは先の『壇語』15とは異なり、惠能と同じく「其の念と言うは真如の用」とあり、つづいて「真如とは念の体なり」といわれている。
『雑徴義』よりも『壇語』の方が古いといわれていて、それを考えると先に『壇語』で、「真如は是れ無念の体」としたことが惠能の言葉と逆になっていることが気づかれて後の『雑徴義』25で「真如は念の体」と改められたのだろう。
しかし、この『雑徴義』で神会の立場が鮮明に顕われ、『壇経』を下敷きにするがゆえの綻びが、明白になっている。すなわち『定是非論』25で具体的に「有無を念ぜず・・」といわれていたことが、「二法有ること無し」とされ、惠能の「離れる」から「無し」に変わったことがはっきりする。また惠能が「念は是れ真如の用」としたことは、「無念」だけをいう神会には翻案が難しい。そこで苦肉の策として「念とは唯だ真如を念ず」と付け加えた。これまた「無念」との整合性がむずかしい。何かを念じたのでは「無念」にならないからである。そこで「『念ずることと真如とは、何の差別有りや』。答う、『亦た差別無し』。問う、『既に差別無ければ、何故に真如を念ずと言うや』」という同一論をひねり出して、やっと惠能と違わない「念とは是れ真如の用なり、真如とは即ち是れ念の体なり」という言説になし得た。しかし、そう簡単に惠能の「無念」と神会の「無念」はつながるわけはない。先に『壇経』15で「眞如は是れ無念の體なり、是の義を以ての故に、故に無念を立てて宗と爲す」としたことが、『雑徴義』25では「眞如は是れ念の體なり、是の義を以ての故に、故に無念を立てて宗と爲す」となってしまい、論理が綻びるのである。
それは、『壇語』注釈書『神会の語録』で「記述の上では矛盾するが、『雑徴義』25では「無念」を説明するのに「無」と『念』を分けてしまったために生じたものであり、思想のすわりは無念にあり、念といっても無念の念のことである」[187]ととり繕りえるようなことではない。論理の破綻であり、『壇経』剽窃の綻びを神会自ら露呈しているのである。
ところで、神会が「無念を見る」ことに固執したのは、『壇語』22に「馬鳴云、若有衆生觀無念者」(馬鳴云わく、若し衆生あって無念を観ずる者あらば)と引く馬鳴造の『大乗起信論』の言葉「觀察知心無念。即得隨順入真如門故」(T32、p0579c)の影響である。『起信論』では「観察」であるが、神会は「見性」「見佛性」など「見」を最重要用語としたので、それを「見」に代えて読み「善く無念を見る者」としたにちがいない。
「無念を見る」ことこそ神会が強調するもっとも大事な一点である[188]。「無念を見」れば、仏道が成就するのだ。
『雑徴義』19「能見無念者、六根無染。見無念者、得向佛智。見無念者、名爲實相。見無念者、中道第一義諦。見無念者、恒沙功徳、一時等備。見無念者、能生一切法。見無念者、即攝一切法。」
(能く無念を見る者は、六根無染なり。無念を見る者は、佛に向う智を得たり。無念を見る者は、名づけて實相と爲す。無念を見る者は、中道第一義諦なり。無念を見る者は、恒沙の功徳、一時に等しく備わる。無念を見る者は、能く一切法を生ず。無念を見る者は、即ち一切法を攝む)
ここで「向仏智」という分かりにくい語が使われるのは『起信論』の「若し衆生有って能く無念を觀る者は、則ち向佛智と為すが故に」(p0576b)に由来し、「六根染らず」は、「六塵の境界は畢竟無念」(p0579c)に由来しよう。 また『起信論』の「心性は常に無念なるが故に、名づけて不変となす」(p0577c)は、『起信論』における常住の真如の概念とあいまって、神会があえて「無念は真如の体」としたことを支える論拠にもなったのだろう。神会が「見」を非常に好んだことは[189]、「神会三十余年、学ぶ所の功夫は、唯『見』字に在り」『定是非論』(7)といっていることにも窺える。
最後の「無相」であるが、それについて、惠能は「無念」と同様に〔一七ー2〕「相において、しかも相を離る」という。つまり、ここでも、あくまでも「相において」、であって一切の「相」を無くするというのではない。相はすがた形であるから、目や感覚と関係しよう。「相において」とは全く見ない、聞かないのではなく、目を開き感覚器官を開いて、しかも特定の一つのものを見ない、聞かない、認識しない、したがって執しないありかたがここでいう「無相」であろう。例えば剣道で刀を構える時、どの方向から切り込まれても応じられるように、目を半眼に落として特定の何をも見ないようにする。いわゆる無相の構えである。そのような感覚の構え方こそ坐禅における身の功夫であるに違いない。〔一七〕「外に一切の相を離るれば是れ無相なり」といわれ、「外に・・離れる」とあるのに留意すべきだろう。「外に」とは外の対象に向かってということである。また次の〔一八〕坐禅の用心で「浄は形相なし。卻りて浄相を立てて是、功夫と言う」と咎められるように、「浄」であれ「無」であれ、構えて何かの相を功夫することであってはならない。〔一七〕の最後は「『維摩経』に云く、外に能善く諸法の相を分別して、内に第一義に於て而かも動ぜず」と結ばれる。相において、しかも、それに執せず、動じず、とどまらなければ、坐禅の中に〔二〇〕「自性中に於て萬法皆現る」のである。
神会も無相また次のように「無相」をいう。
『壇語』22「一切衆生、本來無相。今言相者、並是妄心。心若無相、即是佛心。」(一切の衆生は本来無相なり。今、相と言うは、並びに是れ妄心なり。心若し無相なれば、即ち是仏心なり。)
神会は「心、若し無相なれば」というが、衆生が本来無相であり、無相ならば仏だというなら、衆生は本来仏であるということになる。しかしながら惠能からいえば、〔一八〕「心は元是れ妄」である。心がおのずと相を把捉するからであり、相を無くすのではなく、相を離れよと惠能はいう。二人の主張は正反対であって、衆生が本来仏ならおよそ修行ということは不要になる。石井修道氏は、「神会の『無念』や『無相』とは、修行を否定することで成立しているのであり、それが同時に神会の頓悟思想の特色ともなるのである」[190]と評する。
いっぽう惠能にあっては修行のないところには仏はない。「自性中に於て萬法皆現る」のが般若の知で、それを行ずるのが般若行としての坐禅、定である。定恵一如、頓修による修証一如こそが惠能の思想の核心である。
註
[1] 『祖堂集』(中文出版社、1984)では「身非菩提樹、心鏡亦非台、本来無一物、何処有塵埃」、『景徳伝灯録』では「菩提本非樹、心鏡亦非台、本来無一物、何仮払塵埃」。
[2] 具さには「我今説法。猶如時雨溥潤大地。汝等佛性譬諸種子。遇茲霑洽悉得發生。承吾旨者決獲菩提。依吾行者定證妙果。」『景徳傳燈録』(T51、p0236b)
[3] 具さには「無常者即佛性也。有常者即善惡一切諸法分別心也」『景徳傳燈録』(T51、p0239a)
[4]『祖堂集』47b
[5] 恵能の伝記などの資料は田中良昭『恵能』臨川書店、2007、はしがきに詳しく、1、『薙髪塔記』(676)2、独孤沛『定是非論』(732)王維『六祖能禅師碑銘並序』(~761)4、『雑徴義』末「師資血脈伝」(758~775)6、『曹谿大師伝』(781~)を挙げ、敦煌本『壇經』を(781~801)としていて拙論とは異なる。その後に『壇經』異本三本を含めて十二種挙げている。
[6]「壇經考」1941年
[7] 『鈴木大拙全集』第二巻(1951年、岩波書店)
[8] 『初期禅宗史書の研究』(「柳田聖山集」第六巻、法藏館、2000)101頁
[9]中島志郎、『六祖壇經』第三期「禅語録傍訳全書」第二巻、
[10] 伊吹敦氏の論文「燉煌本『壇經』の形成ー恵能の原思想と神会派の展開」(「論叢 アジアの文化と思想」四、1995)註(54)参照宇井伯寿、柳田聖山、印順、小川隆各氏が言及している。
[11] 小川隆「敦煌本『六祖壇經』の成立について」(「駒沢大学大学院仏教学研究会年報」20号、1987)24頁
[12] 小川隆氏が「敦煌本『六祖壇經』の成立について」の註2の伝わっている『壇經』の首題は、『敦煌遺書総目索引』に()で入っている以外、他の三つはすべて「般若波羅蜜經」の字がない。
[13] 『景徳傳燈録』第二十八巻(T51、p437,8)
[14]柳田氏は「受」を「授」として、「兼ねて無相戒を授く。弘法の弟子法海」と読んでいる。『禅語録』95頁(世界の名著18、中央公論社、1978)
[15] 柳田聖山氏は題の第二行を第二次改変の増加部分とする。そして本来の題は牛頭派のものとする。前引書255頁
[16] 『初期禅宗史書の研究』前引書182頁
[17]小川隆「敦煌本『六祖壇經』の成立について(之二)」「駒沢大学大学院仏教学研究会年報」22号、1989、9頁
[18] 伊吹敦、前引書34、35頁
[19]〔三八〕では門下の僧俗は「約三、五千人」、〔一〕では「一万余人」であることがひっかかるかもしれないが、三、五千人とは一万五千人のことだという。
[20]古賀英彦氏は「無相戒が最古層をなすということは、柳田氏以前の何人によっても論証されていないし、氏自身によっても論証されていない」(「敦煌本六祖壇經研究雑記」6頁(「禅学研究」75号、1997)というが、〔一〕に「受無相戒」が明記されており、壇經の「壇」が戒壇に関係するだろうことは、神会の『壇語』も最初に菩薩戒に言及され、戒壇で説いたので『壇語』といわれる。(『神会の語録』12頁(唐代語録研究班編、禅文化研究所、2006)小川隆、伊吹敦両氏も最古層とみなしている。
[21] 小川隆「敦煌本『六祖壇經』の成立について」23頁
[22] ただ19について伊吹敦氏は「維摩經にいわく」以下を別の構成単位としていて、それは恵能の元来の説法とする。
[23] 神会の著述である『壇語』、『定是非論』、『雑徴義』(「神会語録」)について『壇語』は番号、原文、書き下しを『神会の語録』唐代語録研究班編、禅文化研究所、2006)により、『定是非論』『雑徴義』の段落は、その本の付録7による。
[24]外道の四相(我=アートマン、衆生=サットヴァ、寿者=ジーヴァ、人=プトガラ)
[25] ほとんど同じ言い回しが『宗鏡録』に南岳慧思の語の続きにある。
「即定は是れ惠の體。即惠は是れ定の用。定を離れて別の恵無く、恵を離れて別の定無し。即定の時は即ち是れ惠、即慧の時は即ち是れ定、即定の時は即ち定あるなく、即慧の時は慧あるなし。何を以ての故に。性自ら如なるが故に」(T48,941a)。『宗鏡録』に神会の言葉が入ったのかもしれない。問題はそれがどのような内実を持つかである。『宗鏡録』の場合、「無住は是れ本自性の体なり。寂にしてその心を生ずるは是れ照の用なり。即寂はこれ自性の定、即照は是自性の恵なり」とある。これであれば、坐禅して寂になったとき、つまり定の時に生ずる心(照)が恵である、ということで一応理解できる。
[26]『定是非論』8「和上言、唯嗟法師不定慧等學。又問、何者是禪師定慧等學。和上答「言其定者,體不可得。言其慧者,能見不可得體,湛然常寂,有恒沙之用、故言定慧等學。」
[27]小川隆『神会』「唐代の禅僧」(臨川書店、2007)107頁
[28] 小川隆、前引書、106頁
[29] ここには、他に『壇經』15とほぼ等しい灯光の譬えもある。また此の部分は禅師ばかりが掲載されており、直前に六祖に言及されその言葉も載る。六祖大和尚が誤って慧思となったのかもしれない。
[30] T48、p941a
[31] 大正蔵經にある「南嶽大乘止觀序」「法華經安樂行義」「南嶽思大禪師立誓願文」にはない。
[32] 【巻十五】故六祖云。本性自有般若之智。自用智慧觀照。不假文字。(T48、p498c)『壇經』2
故六祖云。邪來正度。迷來悟度。愚來智度。惡來善度。如是度者。即是真度。(505c)
如六祖偈云。菩提亦非樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何用拂塵埃。(p 0594c)
【巻九十六】第六祖慧能大師云。汝等諸人。自心是佛。更莫狐疑。心外更無一法而能建立。皆是自心生萬種法。經云。心生種種法生。其法無二其心亦然。其道清淨。無有諸相。汝莫觀淨。及空其心。此心無一無可取捨。行住坐臥。皆一直心。即是淨土。依吾語者。決定菩提。傳法偈云。心地舍諸種。普雨悉皆生。頓悟華情已。菩提果自成。(p0940a)
[33] 「江西舉體全真。馬祖即佛是心。荷澤直指知見。」(p0427c )
「六代相傳。皆如此也。至荷澤時。他宗競起。欲求默契。不遇機縁。又思惟達磨懸絲之記。達磨云。我法第六代後。命若懸絲 恐宗旨滅絶。遂言知之一字。衆妙之門。」(p0615c)
「荷澤云。見無念體。不逐物生。又云。一念與本性相應。八萬波羅蜜行。一時齊用。又頓悟者。不離此生。即得解脱。如師子兒。初生之時。是真師子。s即修之時。即入佛位。如竹春生筍。不離於春。即與母齊。何以故。心空故。若除妄念。永絶我人。即與佛齊」(p0627b)
[34] さらに『壇語』17の「家」という点に関しては『法性論』(擬題S2669)にも「即定の時は恵家の体、即恵の時は定家の用なり。体用斎等は即ち是れ菩提なり」とあって、ここでは「定とは萬縁起らざる、之を名づけて定と為し、能く諸塵を覚す。之を名づけて慧と為す」といわれていて、定恵の体用関係は、坐禅をするグループには広く共通することが知られる。
[35] 鈴木大拙、前引書292頁以下
[36] 『定是非論』22でもほぼ同様にいう。
[37] 『楞伽師資記』の道信章では一行三昧が念仏として説かれ、神秀も一行三昧を説いたとされる。
[38] 例えば天台智顗の『摩訶止觀』では、「一常坐者。出文殊説文殊問兩般若。名為一行三昧一行三昧」(T46p0011a)と常坐三昧として説かれる。
[39] 「『六祖壇経』と華厳思想」32頁(「禅学研究」69号、1991、花園大学)
[40] すべて『壇語』に出るほか、『雑徴義』4頓悟不思議、54大乗頓教頌、『定是非論』13頓漸不動などで論じられる。
[41] 『雑徴義』42には「人有利鈍、教有頓漸」とあって、「法無頓漸、人有利鈍」という『壇經』とは相容れない。
[42] T48、p0366c
[43] 敦煌写本に十二本のテキストがあり、『大乗無生方便門』という表題があるグループ四本、『大乗五方便北宗』の表題をもつ二本、表題を欠くものが五本、『通一切經要義集』の表題をもつものが一本あって、スタイン本2503にはこの三つの表題の内実に相応するものが連写されているから、河合氏は三本はすでに別のものとみなされていたという。『大乗無生方便門』が古い成立とみなされるが、その序品(授戒儀と看心看浄問答)は河合氏と伊吹敦氏によっては後の付加と考えられる。その内容は『楞伽師資記』の弘忍や神秀章に関連する記述が見られはするが、「五方便」という記載があるのは普寂の『斎読文』、「開方便門」は普寂の『大照禅師塔銘』などで普寂の系統でこのテキストが展開していったと見られる。(河合泰弘、「『北宗五方便』とその周辺」、駒沢大学仏教学論集24、1993)
[44]その他「大乘定者、不用心、(不看心)(依下文四問的次第、疑此處有此三字)、不看靜、不觀空、不住心、不澄心、不遠看、不近看、無十方、不降伏、無怖畏、無分別、不沈空、不住寂、一切妄相不生、是大乘禪定」
[45] 小川隆、『神会』71頁
[46] 『祖堂集』巻三神会章、巻十八香厳章
[47]伊吹敦氏は〔一三〕〔一九〕は「摩訶般若波羅蜜法」ではないから元来存在した部分ではないとする。〔一三〕~〔一九〕は般若という名こそ出さないが、定恵の恵は般若にほかならない。
[48]小島岱山、前引書31頁
[49]伊吹敦、前引書26頁
[50] 小川隆、「敦煌本『六祖壇經』の成立について」(1)21頁下段、なお小島岱山氏も全面的にこの説を支持。
[51] この「観照」は〔三一〕にも説かれる。
[52]小川隆、「敦煌本『六祖壇經』の成立について」21頁
[53] 伊吹敦「敦煌本『壇經』の形成」前引書、29頁
[54] 伊吹敦、前引書28頁
[55] 小川隆「敦煌本『六祖壇經』と『歴代法寶記』」「宗学研究」一八、1986
[56]伊吹敦、前引書30頁
[57] 『定是非論』胡適本284頁
[58] 同胡適本293頁
[59] 『歴代法寶記』に関しては『初期の禅史』�(柳田聖山、筑摩書房、1976)により、その段落番号による。
[60] 「慧忠国師語」『景徳傳燈録』巻二八
[61] 『鐔津文集』契嵩撰(T52,0703c)『鐔津文集』には「六祖法寶記」として達摩から六祖に至る經緯を記した文がある。『六祖法寶壇經』の成立に関係するかもしれない。
[62] 柳田聖山氏は、無相授戒儀を〔二〇〕~〔二六〕、般若三昧を〔二七〕~〔三〇〕として祖統説〔五一〕を加えて「古本壇經」とし、その作者を牛頭系の法海とする。前引書253頁とする。
[63] この三身仏名を柳田聖山氏は十仏名に由来するといい、それを小島岱山氏も支持するが、十仏名は第一「清浄法身毘盧遮那仏」、第二「円満法身盧舎那仏」、第三「千百億化身釋迦牟尼仏」第四「当来下生弥勒尊仏」で、「清浄法身」「円満報身」「千百億化身」という形容は、たしかにここと共通するが、禅宗で唱えられる「十仏名」の由来は定かではない。しめくくりの「摩訶般若波羅蜜」を含めて『壇經』の三身仏名から取られた可能性もあろう。
[64] 「慧忠国師語」『景徳傳燈録』巻二八
[65] 巻四T34、p390c
[66] T33、p801c
[67] 長阿含2遊行經(T1,015b)
[68]石井公成 「無相戒の源流」「宗学研究」132頁
[69] 石井公成 「無相戒の源流」「宗学研究」132頁
[70] T12、p0573c
[71] 敦煌本『二入四行論長巻子』の〔九〕から〔四九〕、〔五七〕から〔六三〕は慧可の言葉である。拙論「中国禅宗スタイルの創始者・慧可 禅文化研究所紀要 第二六号、2002、
[72] 『二入四行論』の番号、及び引用は、柳田聖山『達摩の語録』筑摩書房、1996による。
[73] 『楞伽師資記』の記者によれば慧可も「衆生の身中に金剛の佛性あり」と説いたことになる。
[74] 中島志郎『六祖壇經』115頁ではそう読んでいる。
[75] 六祖恵能の弟子、永嘉玄覚の作と伝えられる。
[76] これは唯識でいう阿頼耶識の三性、依他起性(化身)徧計所執性(報身)円成実性(法身)を想起させる。
[77] T32、p0576b
[78] T32、p0579b
[79] T46、p0056a なお四弘誓願は『天台小止観』の冒頭にも説かれる。
[80]違いは第三法門について「無辺」が「無尽」になっており、第四の仏道が「成」ではなく「証」になっている点である[80]。T85、p1273b)
[81] 『修心要論』 敦煌本『鈴木大拙全集』第二巻の本文による。307頁 なお『修心要論』は弟子によって665頃作られたと見られる。朝鮮で『禅門撮要』に『最上乘論』として入る。また燉煌本北京本では「一乗顕自心論」となっている。
[82] 「世人」はほかに『壇經』4、一二、35、三八、42、43、52、53にも使われており、古層の用語とはいえない。
[83]それでも衆生心と心真如の不一不二と似ていると言われるかもしれない。だが、その本覚の性は心の初起を覚するような働きは持たない。
[84] なお、この下りは宗鏡録にも次のように引かれている。「故六祖云。邪來正度。迷來悟度。愚來智度。惡來善度。如是度者。即是真度『宗鏡録』(T48、505c)
[85] 北宗系の『頓悟真宗論』では「五種下心」を次のように説く。「一誓觀一切衆生作賢聖想自身作凡夫想。二者誓觀一切衆生作國王想自身作百姓想。三者誓觀一切衆生作師僧想自身作弟子想。四者誓觀一切衆生作父母於自身作男女想。五者誓觀一切衆生作曹主想自身作奴婢想」(T85、p1281b)
[86] 『歴代法寶記』には弘忍について「常勤作務。以禮下人。晝則混跡驅給」T51、p0182aと伝える。
[87] 例えば道元の「出家略作法」(『道元禅師全集』第六巻、198頁
[88]佛駄跋陀羅訳(359-429年)の訳經。彼は『泥洹經』(6巻)も 417 -418年訳出(法顕、寶雲との共訳)
[88]伊吹敦、前引書67頁
[89] 石井公成、前引書126、7頁
[90] 覚観心とは部派佛教以来の概念で『起信論』にも説かれる「微細念」と麁大念である。
[91] T46、p13c
[92] 例えば『華厳經』淨行品には「自歸於佛當願衆生體解大道發無上意、自歸於法當願衆生深入經藏智慧如海、自歸於僧當願衆生統理大衆」(T9、431a)
[93] 拙論における4期。該当箇所は雑阿含如来誦摩訶男相応(929など)
[94] 『大乗無生方便門』にも同様の説き方があって、「佛は是れ西國の梵語なり。此地に往き翻じて名けて覺と為す。涅槃は西國の梵語。此地に往き翻じて圓寂と名づく」などとすべて正確に記している。
[95] この敦煌本『壇經』、『王維碑文』、『雑徴義』付嘱血脈伝、『歴代法寶記』には三十六年間曹谿で化導したと伝えるだけである。『曹谿大師伝』に至ってはじめて寶林山国寧寺の名が見える。
[96]律儀戒・攝善法戒・饒益有情戒
[97]中国での偽經との説がある。
[98] 菩薩善戒經九巻本と一巻本、いずれも劉宋 求那跋摩訳(T30 P0960以下とP1013以下)
[99] T30、p1018a
[100] T30、p0996c
[101]T24,1105a
[102] T48、p0367c
[103] 「洛京荷沢神会大師語」『景徳傳燈録』巻二八
[104] 鈴木大拙『鈴木大拙全集』第二巻、333頁
[105] 同右、334頁
[106] 柳田聖山、『禅語録』(世界の名著18、中公バックス、1978)40頁
[107] 柳田聖山、『初期禅宗史書の研究』、158頁
[108] 中川孝『六祖壇經』(筑摩書房「禅の語録4」、1976)
[109]田中良昭『慧能』202頁(臨川書店、2007)
[110] 田中良昭、前引書220頁
[111] この点については伊吹敦氏も
[112] T16、p0457c
[113]T16、 p0457c
[114] T16、p457c
[115] T12、p783c
[116] T16、p221c
[117]同p222b
[118]如來藏思想を説く『不増不減經』には、ここでいう「法身」を「舎利弗よ、如来の法身は常なり。不異の法を以ての故に。不盡法のを以ての故に。舎利弗よ。如来の法身は恒なり。常を以て歸依す可きが故に。未来際平等なるを以ての故に。舎利弗よ。如来の法身は清涼なり。不二の法をを以ての故に。無分別の法をを以ての故に。舎利弗よ。如来の法身は不變なり。非滅の法を以ての故に。非作の法をを以ての故に」(T12、467b)と常・恒・清涼(浄)・不変といわれているものである。さらにこの經は「衆生界中亦三種法。皆眞實如不異不差。何謂三法。一者如来藏本際相應體及清淨法。(如来蔵は清浄法と無始時来共存し、しかも本質的に結合している)。二者如来藏本際不相應體及煩惱纒不清淨法(如来蔵は客塵煩惱によって汚染されている不清浄法と無始時来共存してはいるが、しかし本質的に結合していない)。三者如来藏未来際平等恒及有法(未来には平等恒有)と説かれる。ここから『起信論』の「一者心真如門。二者心生滅門」(T32、p0576a)が不一不異であることが説かれる。
[119] 伊藤隆寿「梁武帝『神明成仏義』の考察」227頁、駒沢大学仏教学部研究紀要第四十四号、1986
[120] (T34、390c)
[121] T09、p0370a
[122] 『楞伽師資記』によれば六祖恵能も「我印可汝了了見佛性處。是也」と語ったとなる。
[123] 『鈴木大拙全集』では「映」とあるも、文意から『禅門撮要』版の「覆」をとった。
[124] 『鈴木大拙全集』308頁
[125] この本文および読み下し文は、田中良昭「『菩薩惣持法』と『観心論』」(二)、」駒沢大学仏教学部研究紀要」第44号、1986年による
[126] T48、p0367a
[127] T48、p0369b
[128] T85、p1273b
[129] 1274a
[130] 鈴木大拙は普寂か處寂(北宗系)であるといい、伊藤隆寿は「牛頭系の作とされる」という。「見性の歴史的考察」120頁
[131] 『鈴木大拙全集』第二巻、四四四頁)
[132] これがいつできたか、定説はないが、唐中期という。神会の諸書よりは後であろう。
[133] T48、p0374a
[134] 同p0375c
[135] それでも牛頭宗の六祖には『見性序』があったという。
[136]北宗系嵩山慧安の法嗣
[137] T51、p0245a
[138] 『臨濟録』(3)
[139] 『修心要論』15、p0379b
[140] 『観心論』(T48、p0369c)
[141] 『鈴木大拙全集』第二巻(岩波書店、1968)444頁
[142] 『神会の語録』156頁(前引書)
[143]大珠慧海禅師(馬祖道一の弟子)撰述という『頓悟入道要門論』があるが、選者は疑われており、神会の影響を受けた者が編んだとも考えられている。
[144] その仕方は、『起信論』の影響と思われる念の初起を覚すこと、念不起にも言及する。「坐する時は、当に識心の初めて動くを覚すべし。・・これ菩薩の一相法門なり」(『楞伽師資記』22)、「若し心が異境を縁じて、覚の起こる時は、即ち起る処の畢竟じて不起なるを観ぜよ」(同28)
[145] T48、p0379a
[146] p0366c
[147] T48、p0366c
[148]『観心論』 p0367a
[149] p0369c
[150] T48、p0367a
[151] p0367b
[152] p0367b
[153] p0368c
[154] テキストは「六」と作るも、文意により大正蔵經の「舌」を取る。
[155] テキストは「心」を付加するも、四字句で統一されている箇所だから大正蔵經によって「心」を省く。
[156] p0368a
[157] テキストは「六」と作るも、文意により大正蔵經の「舌」を取る。
[158] p0368c
[159] p0368b
[160] 羅什訳と伝えられる。この『梵網經』も佛性を説くが、ここでは関係ない。
[161] T24、1003c
[162] 〔三一〕でも『菩薩戒經』の引用としてこの語を引く。
[163] 『楞伽師資記』
[164]一(切)時中念念不愚、常行智惠、即名般若。行一念愚即般若絶、一念智即般若生。心中常愚、自言我修般若。般若無形相、智惠性即是。何名波羅蜜。此是西國梵音。唐言彼岸到。解義離生滅、著境生滅起。如水有波浪、即是於此岸。離境無生滅、如水永長流、故即名到彼岸。故名波羅蜜。迷人口念。智者心行。當念時有妄。有妄即非真有。念念若行、是名真有。悟此法者、悟般若法、修般若行。不修即凡。一念修行、法身等佛。
[165] 『定是非論』11「今言不同者,爲秀禪師教人『凝心入定,住心看淨,起心外照,攝心内證』。縁此不同。」など
[166] (『修心要論』12)
[167] p0369c
[168] 『天台小止觀』関口真大、岩波文庫106頁
[169] 『摩訶止觀』24頁(関口真大、岩波文庫)
[170] 『摩訶止觀』(T46、p0010a)
[171]我(アートマン)、衆生(サットヴァ)命(ジーヴァ)人(プトガラ)
[172] 『文殊師利問經』『(梁・僧伽婆羅訳)、文殊師利問菩提經』(姚秦・鳩摩羅什訳)『文殊師利問菩薩署經』(後漢・支婁迦讖譯)のいずれにも一行三昧は説かれない。
[173] T8、p731
[174] 『楞伽師資記』20
[175] T32、p0582b
[176] 『楞伽師資記』36
[177] T51、p0185b
[178] T32、p0576c
[179] T85、1269a
[180]『文殊説般若經』を引いて「一行三昧に入れば法界の如く縁じて、退せず、壊せず思議せずして、無礙無相ならん」(『楞伽師資記』20)というが、その「無相」について説かれることはない。
[181]神秀は「且く真如佛性は是れ煩惱塵垢の凡形に非ず。本來無相なり」『観心論』(p0369b)と「無相」にだけ言及している。
[182]田中良昭『慧能』では、本文でいわれていない「佛性」を読み込んで「無住とは、人の本性としての佛性のはたらきが、一瞬一瞬も住まることなく、前の一瞬、今の一瞬、後の一瞬と、一瞬一瞬れんぞくして断絶することのないこと」(212頁)だという。
それが一瞬でも途切れたならば、法身、すなわち真理そのものとしての佛性は、たちまち色身、すなわち私たち人間の身体から離れてしまう」(213頁)とあるが、肉体から離れるような佛性を恵能はまったく説いていない。
[183] 恵能が引用した經典は『維摩經』であり、ここでは明記されていないが、「無住は本爲り」(T14、0547c)「無住の本より一切法を立つ」(14,0547c)とあるからここから「無住」を言ったと考えられる。
[184]「真如自體相者。一切凡夫聲聞縁覺菩薩諸佛無有増減。非前際生非後際滅。畢竟常恒。」『起信論』(T32、p0579a)
[185]慧能も〔一七〕「真如は是れ念の體、念は是れ真如の用」というが、このような用法が当たり前である。
[186]「心即常住名究竟覺」(T32、p0576b)
[187] 『神会の語録』91頁(前引書)
[188]神会の影響が強い『歴代法寶記』は、「無念」という言葉を継承している。無住の説法では師の金和上は「無憶是戒。無念是定。莫妄是惠」(T51、p0185a)と説き、無住和尚は「無念なれば即ち見無く、無念なれば即ち知無し。衆生は念あるが為に、假に無念と説くも、正も無念之時、無念も自ならず。又金剛經を引いて云く、『尊者大覺尊、無念の法を生ぜよと説く。無念なれば心生ぜず。心は常に生じて滅せずと。又た『維摩經』を引いて云く、『不行是れ菩提。憶念なきが故に。常に無念にして實相の知惠を求む。楞伽經に云く、聖者は證する所を内にして。常に無念に住す』(T51、p0189b)と説く。ここでも「無念」の内実は微妙に神会とは異なる。
[189] これについては「荷沢神会の見の思想」鈴木哲雄132頁以下
[190] 石井修道「南宗禅の頓悟思想の展開 荷沢神会から洪州宗へ」「禅文化研究所紀要」20号、1994年