八、  禅宗と仏道

 道元は「禅宗」という呼称を嫌い(26)、「禅師」という呼び方を嫌った。彼は自覚としては釋尊の仏法を伝えた沙門道元である。しかし、具体的に日本ではじめて《坐禅儀》を伝え、僧堂を建立し、上堂を創始して、清規を作ったのであり、それは禅宗というほかなかった。坐禅が〈仏法の全道なり〉という《辨道話》の宣言は、道元の中で禅宗と仏法の矛盾として生涯つきまとったと思われる(27)

 教外別伝・不立文字ではなく、仏経、仏道、仏教が大切だということは、仁治二年末の《仏教》、越前吉峰寺に移った寛元元年九月の《仏道》《仏経》、同年十月の《法性》の説示に明らかである。

 《法性》巻では、その冒頭に〈あるいは経巻にしたがひ、あるいは知識にしたがふて参学するに、無師独悟するなり。無師独悟は法性の施爲なり。たとひ生知なりとも、かならず尋師訪道すべし。・・・佛果 菩提にいたるまでも、経巻知識にしたがうなり〉とある。無師独悟と尋師訪道と従経巻知識という、常識的には相矛盾するあり方を、道元は法性の施爲として同じことだと示す。

 経典の重視は、しかしながら、やはり只管打坐の「さとり」(C悟)とは齟齬をきたす。経の説く無上菩提ないし菩提への道は、坐禅とは限らないからである。

 経典に従えば「焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を用いず」という宗門の正伝は、成り立たない。道元自身、すでに焼香礼拝は《看経》《洗面 》《三十七品菩提分法》《安居》巻でその必要を説き、《看経》の巻では具体的な看経の作法が説かれるし、《出家》では出家こそが最要であるというほか、戒律が第一とされる。また《洗面 》《洗淨》をはじめ、あらゆる清規(戒律)の制定そのものが、坐禅だけでは仏道ではないことを証明している。  坐禅だけでは何が欠落するのか。道元は《仏経》でこういう。

 〈杜撰の臭皮袋いはく、祖師の言句なおこころにおくべからず。いわんや経教はながくみるべからず、もちゐるべからず。ただ身心をして枯木死灰のごとくなるべし、破木杓脱底桶のごとくなるべし。かくのごとくのともがら、いたずらに外道天魔の流類となれり。これによりて仏祖の法むなしく狂顛の法となれり。〉 

 祖師の言句や経教が欠落するところでは、坐禅はただ仏向上が通 ぜず定に止まって滞るというだけでなく、外道や狂気になるとさえいう。

 さらに寛元四年、ほぼ一年ぶりで示衆された七十五巻本最後の《出家》は、戒律為先を謳い、道得も只管打坐もなく、ただ出家の勧めである。私は、《出家》を示衆せざるを得なかった道元に、弟子への深い絶望を読み取る。なぜ、これを最後に示衆したか。道得する弟子がいなかったからではなかろうか。聞き手が反応しないとき、説き手の気力、能力は萎える。

 ここで最後の問いに移ろう。

 一生参学の大事を畢了した道元が、寛元四年(四十七歳)夏解の前の上堂で、どうして「沙門道元、また誓願を発す。当来五濁の世に仏となり」というような誓願を起こしたのか。また鎌倉行化の後(五十歳)に『尽未来際不離吉祥山示衆』で、「その後永平、大事を打開して、樹下に坐して魔波旬を破り、最正覚を成ぜん」というのは、どういうことだろうか。

 私は懷弉以外に、道得しうる一箇半箇を打ち出せなかった道元は、深く自らの説得(D悟)についても動揺したのだと思う。このまま永平寺に留まっていたのでは、もう道は説き続けられない。事実、ついに示衆は永久に再開されなかった。

 その後の鎌倉行は、新しい聞き手を求めての、再起をかけた試みではなかったかと思う。かつて一度「仏法を国中に弘通 すること、王勅をまつべし」(『辧道話』)と述べ、『護国正法義』を朝廷に奏聞したが入れられず、さらにおそらく旧勢力から追われて越前に入った道元であったが、「若、仏法に志あらば、山川江海を渡りても来て可学」(『随聞記』巻三)という前言を翻しても、もう一度鎌倉に下り、新しい国のトップに働きかけてみようとしたに違いない。だが、それも失敗に帰した。

 鎌倉行化の後に、弟子たちとの間でもストレスがたまるような円滑を欠く事態があったことが帰山上堂や『御遺言記録』に窺われる。失意の道元の内で、只管打坐に対する信、換言すれば自らの承当(A悟)の確かさが揺れ動いたのではなかろうか。承当への自信を失った道元が、それでも仏道への至誠心を込めて未来世に向かって「その後永平・・・最正覚を成ぜん」というような発願をしたとしても、それは沙門道元のひたむきな誠意であろう。

  精神的ストレスは身体の病を引き起こす。「さとり」(C悟)が只管打坐のところに現成するものだとしたら、もはや身体の不調で坐禅できなくなったとき、そのさとりは失われるのだろうか。多くの禅僧が坐禅したままで亡くなるのは、坐禅は死ぬ まで行じ続けられるべき仏行だからなのだろう。生涯を坐禅で全うできないという最後の絶望に、建長四年、病んだ道元は直面 する。

 しかし、最晩年に再起の試みを、禅語録をテキストに示衆することは断念して、阿含(小乘)経典と論書を使ってしていく。新たな十二巻本『正法眼蔵』の著述である。十二巻本の道元の道得は、七十五巻本とはまったく違うし、思惟の後退と思えることも多い。だが、最晩年にさえ、もう一度仏の教えを聴聞して、『正法眼蔵』を書き改め、百巻にしようとした、その倒れてなおまっすぐ立ち上がろうとする姿勢に、真の菩薩・道元が拝される。

 七十五巻本の《出家》は狭く萎縮していたが、十二巻本ではまったく新たな《出家功徳》へと書き改められた。七十五巻本《発菩提心》の、どうみても波多野一族へのへつらいと思える造像起塔の賞賛の下り、〈而今の造像造仏等は、まさしくこれ発菩提心なり。直至成仏の発心なり。・・・是諸仏集三昧なり、これ得諸仏陀羅尼なり。これ阿耨多羅三藐三菩提心なり、これ阿羅漢果 なり、これ仏現成なり。このほかさらに無為無作等の法なきなり〉は、そのすべてを削除して、あらたな十二巻本《発菩提心》となった。十二巻本は、熟していない表現が多いが、それでもなお、禅宗から仏道への困難な歩みの第一歩ではなかったか。この新たな道得に着手してまもなく道元は不帰の人となる。

 私は思う。もし道元が『二入四行論』を達摩の真説として受容していたら、理入である只管打坐と、六波羅蜜を含む四行の双修を理解し、殊に「報怨行」によって今の迫害や苦しみ、病気に対する過去世からの因果 応報は説いても、未来へ仏果菩提を期すことはなかったとのではないかと。

 道元は仏か菩薩か、という問いほど愚問はない。道元でもだれでも只管打坐のところが不覚不知に仏であり、仏道を行じる者は誰でも菩薩であろう。

(26) 拙書『古仏道元の思惟』191頁以下参照

(27) 道元が祖師の語だけではなく、経論をテキストにしたということは、一見奇異に見えるが、実は禅語録が編集される以前は経典による証は当り前のことであり、初期の祖師たちの多くは、経典の言句をきっかけに道得したのである。しかし、道元の経典の読み方、扱い方は類を見ないものである。