七、弟子のさとりと道得
示衆や上堂には聞き手がいる。したがってもちろんその聞法者、弟子が弁肯し、大事を明らめるために説いているには違いない。只管打坐のところにいくら「さとり」が現成していても、それを当人が承当し、道得しなければ、当人にとって生死の問題は解決しない。〈自家の鼻孔は自家が牽〉き、〈地に因って倒れる者は地によって起〉きるほかない。弟子は道元が説く法を、聞取し道得することが必要なのだ。
興聖寺開堂間もないころ、「今夏三分は已に過ぎぬ 。一句道い得る也未」(『永平広録』10)と道元は弟子に詰問している。弟子の弁肯を師が確認するためには、弟子の一句の道得が必要である。一句道得は承当(A悟)によって可能となるものであり、弟子にとっては、D悟の最初ともいえよう。宗門の伝統は、およそいかなる意味でも悟りを求めることを否定するが、それは間違いである。「証せざれば得ることなし」(『辧道話』)、「道うことなかれ、諸人證契のところなかる好しと」(『広録』18)と注意されているように、C悟のみならず、A悟は必要なのである。
只管打坐の行と言葉における道得と、両方が必要だということは、思えば古くからの禅宗の伝統である。上堂10はそれをめぐっており、大慈の「一丈を説得せんよりは、一尺を行取するに如ず、一尺を説取せんよりは、一寸を行取するに如ず」を、道元は、〈一丈を説得して、未だ一丈を行得せざる者あらず、一尺を説得して、未だ一尺を行得せざる者あらず〉と、行説等しく重いと言い直し、洞山の「説き得ざる底を行取し、行じ得ざる底を説取す」に対しては、「行じ得ざる底を行取し、説き得ざる底を説取す」とまことに見事な切り返しをはかっている。まさに只管打坐は、馬祖の問答にあったように、何もしないことをを行じるのであるし、《夢中説夢》であきらかなように、説くといっても、はじめから論理的に説けないことを説くのである。
ところで道元の説法は、主として示衆(『正法眼蔵』)であり、上堂ははじめは、仁治元年八月十五日までほぼ四年間に十二回だから、年に三回程度であり(25)、儀礼的なものであったと思われる。上堂とは中国禅宗で行われた正式な説法であり、日本では小参とともに興道元が始めたもので、伝統的に古則公案の拈提商量 である。しかし、古則公案は、本来は住持の説法や、日常会話に対する学人の臨機の応酬だったもので、それを再び商量 したのでは、いづれにしろ二番煎じは免かれず、宋代には半ば儀礼化しており、それを補う意味で入室問答(室内)という別 の手段が必要になったのだろう.
だが、道元は室内という個人指導ではなく、大衆に古則や教論を説いて示すという道を選んだ。もっとも最初の上堂に「興聖門下且く道え」とあり、その後も「山僧が語を弁じ得れば、汝諸人に一隻眼を許さん」(『永平広録』35)など、しばしば「如何が道わん」と門弟との一対一の応答を求めているが、自分自身もそれで承当をえたわけではない上堂に多くを期待したとは思われない。またその上堂が漢語調であって、それを聴衆が理解できにくかったとしても少しも不思議なことではない。外国の宗教を移入する時つきまとう問題である。実際、日本では今日に至るまで、経典の漢文棒読みは、ほとんどだれにも意味が分からないまま千年以上続いてきたし、カトリックでもルターがドイツ語訳するまでは聖書も儀式もラテン語であり、一般 民衆に意味は伝わらなかったのである。
ところで、まさにそのルターの時代に当時の日本はなっており、法然や親鸞、日蓮などが和語で、だれにでもわかる教えを説いていた時代である。道元自身の承当も如淨の懇切な説示によったのであるから、やはり主眼は和語の示衆(『正法眼蔵』)におかれたのだろう。それが今日の臨済宗の室内とは違った伝統を道元門下に形成した。つまり『正法眼蔵』などの参究であり、それらが書き残された事によって、時空を超えて広く多くの人が道元に参じる道が開かれた。
さて、弟子の一人一人が道得するための〈参究すべし〉という要請は、《礼拝》《仏性》《仏向上事》《説心説性》など三十四巻に及んでなされている。本来それは道元の要請である前に、学人自身の要請であるはずなのだが、弟子が承当し道得できるかどうかは、師の道元にとっても大問題である。道得しうる弟子がいて、はじめて法は伝わるという面 を持つからである。したがって道元はただ自らの道得として説法するだけではなく、道得しうる一箇半箇を打ち出すために示衆し上堂したといえる。
道元の弟子たちは、はたして承当し道得しえたのか。おそらく懷弉だけが示衆ではない指導で道得したのみであろう。思うに弟子たちの文字通 りの道得を、越前に入る一年ほど前(四十三歳)に《道得》を書いた道元は、次に見るように諦めたのではなかろうか。
《道得》では、まず次のようにC悟とD悟およびA悟の関係が綿密に説かれている。〈ただまさに仏祖の究弁あれば仏祖の道得あるなり〉とあるのは、A悟とD悟の関係である。道得とは、自分で努力して色々試みて言ってみて、いつか当たるというようなものではない。〈正当脱落のとき、またざるに現成する道得あり。心のちからにあらず、身のちからにあらずといへども、おのづから道得あり〉といわれるように、承当(A悟)があって、おのずから道得(D悟)があるのだ。
続いて〈この道得を道得するとき、不道得を不道するなり〉といわれるが、ここがポイントである。A悟とC悟の関係である。《現成公案》で、海がその人にとって実際にどう見えたとしても、〈参学眼力のをよぶばかりを見取会取するなり、万法の家風をきかむには、方円とみゆるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし〉とあるように、見えないこと、知らないことが無限にある。というよりC悟そのものはどこまでも不道、不覚不知であり、そう押さえなければならない。
そしてまた道得した悟り(D悟)は、打坐のところにすでにずっと成り立っていたもの(C悟)である。その構造を《道得》では〈このときは、その何十年の間も道得の間隙なかりけるなり。しかあればすなはち、證究のときの見得、それまことなるべし。かのときの見得まこととするがゆゑに、いまの道得なることは不疑なり。ゆへにいまの道得、かのときの見得をそなへたるなり。かのときの見得、いまの道得をそなへたるなり〉という。「証究のときの見得」といっても、そういう別 なさとりがあるわけではない。見得すなわち承当(A悟)と、証究すなわち無上菩提(C悟)の関係である。ただ、この後で《道得》の論調は大きくうねる。
巻の中ほどで帰結されることは、道得しなくても道得だということである。すなわち趙州の「汝、若し一生不離叢林なれば、兀坐不道ならんことの十年五載すとも、人の汝を唖漢と喚作することなからん。已後には諸仏も也、汝に及ばじ」を引用して、不道ではあっても、叢林を離れなければ道得であると強弁される。
〈一生不離叢林は、一生不離道得なり。兀坐不道十年五載は道得十年五載なり。〉
ここでわずかに議論が趙州の主旨からずれる。趙州は兀坐不道でも、といっているのに、あるいは別 のところで趙州は「理を究めて坐して看よ、三二十年もし道を会せざれば、老僧が頭を取り去りて、大小便を酌む杓に作るべし」(『永平広録』33)といっているのに、道元は〈しかあればすなわち、仏祖の道得底は一生不離叢林なり〉という。兀坐あるいは究理辨道が不離叢林へとずれている。
このずれがやがて《出家》巻の成立となるのではないか。一生不離叢林は只管打坐があるかぎり道得なのだといえばいえるかもしれない。つまり、承当(A悟)がなくても只管打坐(C悟)には欠けていないということになる。しかし、そのときは道得の意味が、承当としての悟り(A悟)から打坐としての悟り(C悟)へとずれる。加えて、問題は叢林に坐禅はあっても只管打坐は稀だということだ。かつて〈大宋国の諸山に・・諸寺にもとより坐禅の時節さだまれり。住持より諸僧ともに坐禅するを本分の事となせり、学者を勧誘するにも坐禅をすすむ。しかあれどもしれる住持人はまれなり〉と、道元は嘆いたではないか。承当がなければ暗証の邪禅に退落するのだ。
もっとも、その結びとして道元が挙す雪峰と庵主の話は、また真実の承当としての悟りを表わしている。すなわち、雪峰がひそかに山奥に住み、髪が伸びてしまった庵主に〈道得ならば汝の髪を剃らず〉という。「一口言ったら、悟っているのだから髪は剃らないでおこう」というほどの意味であろう。そこでうっかり、悟りの心境でも一句言ってしまえば、雪峰に引っかかったことになり、悟っていないことを露呈するだけである。人に言ってみせれるような悟りなどあるはずもない。〈ときに庵主かしらをあらひて雪峰の前にきたれり〉と続く。庵主は雪峰に騙されず、仏道の有り様として、頭を剃るという行履に随順する。それこそが、ほんとうに承当したことである。〈道得不道得、かみをそられ、かみをそる〉とあるのは、不道得というC悟を庵主は道得(A悟)しているから、「不道」という身体表現(D悟)を示すのである。
それは何も分からなくて(A悟なし)、ただ叢林に雲水として坐禅して居るというのとは、やはり違う。道元の只管打坐は、十年五年という時間の長さが問題だったのではなく、〈而今の大悟は、自己にあらず、他己にあらず、・・いはくの今時は人人の而今なり。令我念過去未来現在、いく千万なりとも今時なり〉《大悟》という、今ここのありかたではなかっただろうか。
それゆえかつては〈あはれむべし、十方の叢林に経歴して一生をすごすといへども、一坐の功夫あらざることを〉《坐禅箴》と嘆いて、ただ坐禅すればいいのではなく、どのように打坐を功夫し、証得し道得するかを、問題として突き付けたのだ。
ところがこの《道得》巻は、不道が道得として強調され、加えて一生不離叢林が道得とされることによって、本来の道得(A悟およびD悟)の必要性が根こぎになってしまった。これでは坐禅であればなんでも道得になってしまう危険性がある。また黙照邪禅と、《辨道話》でいう信の坐禅と、どのように人は区別 することができるのか。いったい道得(A悟)なくして「さとり」(C悟)は本当に伝えられるのだろうか。
ところで道元がD悟において使用したテキストは、祖師の語録だけではなく、経論も含まれる。それは道元の伝えたものが禅宗ではなく、仏法の全道だという問題を前面 に押し出す。
(25) それから五年間、寛元七十五巻本をほぼ説き終える寛元三年末までに上堂は百二十九回であるから、平均すれば月2回ほどになる。またすでに指摘されているように鎌倉行化後は示衆はなく、上堂が圧倒的に増えている。