五、懷弉の承当

 『学道用心集』は、禅宗に期待をもって集まった修行僧に対する指南書である。しかしながら、すでに《現成公案》草稿を書いていた道元が、いったいどうして、弟子に開悟を迫る言葉を使ったのだろうか。

 その答えになるような上堂が、時期はずれるが『永平広録』136にある。

「汝等諸上座、瞿曇比丘の因由を知らんと要すや。一つには天童の脱落の話を聞き得るに由りて仏道を成ず。二つには大仏挙頭の力、諸人の眼睛裏に入ることを得るに由る。」

 ここでは明らかに如淨の「脱落の話」を道元が聞きえたことと、それに加えて、道元の渾身の言葉(大仏挙頭の力m)が、本当に弟子たちに聞こえる(諸人の眼睛裏に入る)必要があるといわれる。つまり他から法を伝えられ、また他に法を伝え得て、はじめてゴータマの成仏といわれうる円環的出来事が完成する。成仏は体験ではないから、個人の成仏ということはあり得ない。成仏とは仏が仏に伝えていくものなのだ。

 道元は、その円環的成仏のために、是が非でも他者に法を伝えなければならなかった。そこで方便として、初期には開悟の要請がなされた。方便といってしまっては語弊があるかも知れない。證会しても證会しなくても、只管打坐のところにC悟は現成するから、「端坐修練するに、仏向上の事たちまちあらはれて、一生参学の大事すみやかに究竟するものなり」(『辧道話』)と、只管打坐がただちに大事の究竟であるともいわれる。「証を覚前に得る」(『学道用心集』3)という事態である。

 しかし、現にそうであることを、自覚するのとしないのでは大いに異なる。例えば哲学などはすでに存在し、認識している我々の現事態をいかに自覚するかという営みであるともいえる。自覚としての覚り(A悟)が、法を継承していくためには必要なのである。

 ところで、初期のB悟と誤解されるような表現を、道元は後に止めたのでありn、『辧道話』定稿では、すべてではないが、「心地を開明する」や「坐の力」など体験的開悟を思わせる表現を書き改めている。このような変化は、懷弉の得法を境に明確に指導方法の新たな展開として自覚されたと思われる。そのことを、『学道用心集』が整った翌年、すなわち文暦元年から始まる長円寺本『随聞記』oに辿ってみたい。

 懷弉が興聖寺に入門してからは、かつて一度なされた公開の『正法眼蔵』示衆は止まり、もっぱら、門人指導ともいえる小参が増え、それらは『随聞記』に細かく記録されている。そして『随聞記』が擱筆された暦仁元年から、五年ぶりに『正法眼蔵』示衆が再開される。 道元はこの間、懷弉の得法に賭けたのであろう。承当(A悟)する一箇半箇を打ち出して、はじめて道元の得法の意義も成り立つからである。

 『随聞記』巻一から巻三までは開悟の体験(B悟)があるかのように教示される。

「学道の人、若し悟を得ても、今は至極と思て行道を罷ことなかれ。道は無窮なり。さとりても猶行道すべし。」(巻一)

「道を得ることは、根の利鈍には依らず。人々皆法を悟るべき也。只精進と懈怠とによりて得道の遅速あり。」(巻一)

「この語を聞て学人も頓に悟入すべし。」(巻二)

「これほどの心、一度不発して、仏法悟る事はあるべからず。」(巻二)

「如今、各々も一向に思い切って修して見よ。十人は十人ながら可得道也。」(巻二)

「我心も又自本習い来る法門の思量 をばすてて、只、今見る処の祖師の言語行履に、次に心を移しもて行也。如是すれば、智恵もすすみ、悟も開くる也.」(巻三)

「只管打坐して大事を明め、心の理を明めなば、後には一字をも不知とも、他に開示せんに用ひ不可尽。・・・是、真実の道理也と思て、其後ち語録等を見ることをとどめて、一向に打坐して大事を明め得たり。」(巻三)

「或は只管打坐の時、或は古人の公案に向はん時、若は知識に向かはん時、実の志をもて、なさんずる時、高とも射つべし、深くとも釣ぬ べし。是れ程の心、不発して仏道と云程の、一念に生死の輪廻をきる大事をば、いかが成ぜん。・・・かならず悟道す。」(巻三)

「然れば明日死に、今夜死可しと思ひ、あさましき事に、逢たる思をなして、切にはげみ、志をすすむるに、悟をえずと云事無き也。中々世智弁聡なるよりも、鈍根なる様にて、切なる志を出す人、速に悟得也。」(巻三)

「只今ばかり、我命は存ずる也、不死先に悟を得んと、切に思て仏法を学せんに、一人も不得は不可有也。」(巻三)

  懷弉はその著作『光明蔵三昧』に多くの経典禅録が引用されていることからも推し量 られるように、仏教知識が豊富だったため、あえて「意根を坐断し、知解の路にむかわざらしむ」ための方便として、道元は開悟を強く要請したのではないだろうか。しかし、ここで道元が「悟」といっているものは、懷弉をはじめ大方が期待するようなものではなかった。

 第三巻の終り近くには、悟(B悟)は実のところないのだという、次のような重大な教えが開示される。

「坐すなわち仏行なり。坐即不為也。是即自己の正体也。此外、別 に仏法の可求無き也」。

 これ以上雄弁に只管打坐の内実を言い当てた言葉はないと思われるが、道元も如浄の最初の示しに得心がいかなかったように、懷弉もその真意を掴めず、なお体験的悟を求めたようである。

 第四巻になると開悟というよりは、仏法に入り、行を続けることのみが大事で、むしろ修行の果 を求めないことが説かれるp

「今、仏祖を行ぜんと思はば、所期も無く、所得も無くして無利に先聖の道を行じ、祖々の行履を行ずべき也。所求を断じ、仏果 をのぞむべからず。・・・一期、行じもてゆけば、是を古人も打破漆桶底と云也。」(巻四)

 明らかに説示の調子が変化している。「打破漆桶底」という明らかにB悟を表す言葉が、一生坐禅することだと強弁されるのである。そのような強弁が通 るのは「知識、若、仏と云は蝦蟇蚯蚓ぞ、と云はば蝦蟇蚯蚓を仏と信じて、日頃の知恵を捨也」と教えて、師たる道元の言葉に対する絶対的信を担保にとっているからである。しかしながら、それはまた教外別 伝的に、聖教も語録を見るなといったq頃とは異なって、聖教を大切にする教えとも結びついている。

「仏祖の行履、聖教の道理にてだにもあらば依行すべし。」(巻四)

 そして懷弉が首座になる直前の示衆にはこうある。

「昔、倶胝和尚に使えし童子の如きは、いつ学し、いつ修したりとも見へず、不覚ども、久参に近づいしに、悟道す。坐禅も、自然に、久しくせば、忽念として大事を発明して、坐禅の正門なる事を、知る時も有べし。」(巻五)

 このような話の展開はいかなる語録にもない(21)。自らの真字『正法眼蔵』にすら、指を切られた倶胝の童子が首を廻らせた時、「師、却って一指を竪起す。童子、忽念として了悟す」と記述しているのだ。けっして坐禅を久しくしたから自然に悟ったのではない。むしろ久しく見慣れて自然に立ててしまった指を、切られてから悟ったのだ。ところが道元はそれをこうひっくり返して見せた。懷弉はすでに大事畢了というのは、悟り体験ではなく、坐禅こそ仏行なのだということを、薄々気がついたのかもしれないが、この指示において、開悟を期すという教えが方便であったことを、明らかに自覚させられたのであろう。  

 『随聞記』のその後の説示は、自分の開悟のためにではなく、仏道のために生涯坐禅することが強調される。

「仏道修行の功をもて、代わりに善果 を得んと思ふ事勿れ。・・如是心にねがひて、もとむる事無ければ、即ち大安楽也。」(巻六)

「我をはなると云は、我が身心をすてて我が為に仏法を学すること無き也。只、道の為に学すべし。」(巻六)  

「仏道は人の為ならず、身の為也と云て、我身心にて仏になさんと真実にいとなむ人も有り。是は、以前の人々よりは、真の道者かと覚れども、是も猶を、吾我を思て、我身よくなさんと思へる故に、猶を吾我を離ず。又、諸仏菩薩に、隨喜せられんと思ひ、仏果 菩提を成就せんと思へる故に、名利の心ろ、猶、捨てられざる也。是まではいまだ百尺竿頭をはなれず、とりつきたる如し。只、身心を仏法になげすてて、更に悟道得法までも、のぞむ事なく、修行しゆく、是を不染汚の行人と云也。」(巻六)

 そして開悟、得悟ではなく承当が説かれ始める。承当は、盲目的坐禅を超える身心の頷きである。

「我身仏道をならん為に、仏法を学すること莫かれ。只、仏法の為に仏法を行じゆく也。たとひ千経万論を学し得、坐禅とこをやぶるとも、此心無くば、仏祖の道を不可学得。只、須く身心を放下して、仏法の中に他に随ふて旧見なければ、即ち直下に承当する也。」(巻六)

 ここで、道元は方便の教えをやめて、仏果 菩提や悟をも求めるべきでないことを明らかにして、更に念を押して学道は坐禅のみであるという。

「一日、弉、問云、叢林の勤学の行履と云は如何。示云、只管打坐也。或は閣上、或は楼下にして常坐をいとなむ。人に交わり物語せず、聾者の如く、唖者の如くにして、常に独坐を好む也。」(巻六)

「示云、学道の最要は坐禅、是第一也。大宋の人、多く得道する事、皆、坐禅の力也。一文不通 にて、無才愚鈍の人も、坐禅を専らにすれば、多年の久学、聡明の人にも勝れて出来する。然ば、学人、只管打坐して他を管ずる事なかれ。仏祖の道は只坐禅也。他事に順ずべからず。」(巻六)

 しかし、なお懷弉は、聖教を見、語録公案を見て、悟りを開くことにわだかまっていたようである。そこでこう問う。  

「弉、問て云、打坐と看語とならばべて是を学するに、語録公案等を見には、百千に一つ、いささか心得られざると、覚る事も出来る。坐禅は、其程の事もなし。然ども、猶、坐禅を好むべきか」。

この感慨から見れば、懷弉の坐禅には特別 な体験はなかった。道元もそうである。それはいかにも不確かなことに思われる。香厳聞声や霊雲桃花のような体験が人間には欲しいのだ。ああ、そうかと身をもって体験して得心したいのである。それに対して道元は示す。

「語録話頭を見て、聊か知覚ある様なりとも、其は仏祖の道に、とをざかる因縁也。無所得無所悟にて、端坐して時を移さば、即、祖道なるべし。古人も看語祇管坐禅ともに進めたれども、猶、坐をば専ら進めし也。話頭を以て悟をひらきたる人有とも、其も坐の功によりて、悟の開くる因縁也。まさしき功は、坐にあるべし。」(巻六)

 ここで『随聞記』は終わっている。この示しで懷弉はついに最終的な承当を得たのである。開悟(B悟)を期すという教えが、坐禅に親しむための方便であったことが明らかにされ、法は伝わった。もっとも『光明蔵三昧』には本覚思想に後退した表現が多いが、それでも「若シ纔モ所得アラバ二段ナルベシ」と無所得が明らかにされている。ああ、分かったというようなことがない、ということが分かったのである。不知を肯ったのである。こういう証会(A悟)はあるし、必要なのだ。

 そしてこれを得ることが難しい。どうしてか。それは「初心の辨道すなはち十分の本証を無為の地にうる」(草案本『辧道話』)ということに納まりかえってしまったら、身命を賭けるほどの切実な坐禅が、かえってできなくなる。命懸けの気力と体力を傾け、悟りを開くという仮の目標を設定してでも努めなければ、人間根性は払拭できないのだ。そういわれて坐禅をし続けることにより、知らず知らずにすみやかに心が静まる。その境地を初期の道元は「自然に四大軽安、精神爽利、正念分明、法味資神、寂念清楽」(天福本『普勧坐禅儀』)と言い表わし、「定力を護持し」「定力に任す」(天福本)と、坐禅による精神安定を記した。やみくもにでも、必死で坐禅する五年十年が必要なのだ。(もっともこの表現では無所得ではなくなり。個人的な力を付けることになってしまうので、流布本では削られたのだろう。)その上で、その只管打坐において現じていることこそ、「さとり」であると身心でうなづくことが必要であるが、それができる人はごく少ない。

「大宋国の叢林にも、一師の会下に数百千人の中に実の得道得法の人は僅か一二也」(『随聞記』巻三)とあるように、A悟を得るのは難しいのである。

 以上のように、初期の道元における開悟、得道の要請は、一種の方便であることが明らかにされたと思うが、かつての懷弉と同様に、それでも、香嚴が竹音を聞き、霊雲が桃花を見たのは、体験としてのB悟ではないのかという疑念が、根強くある(22)

たしかに道元はそれを「聞くに豁然として大悟す」《谿聲山色》、「忽念として悟道す」《行持下》、「桃花をみて悟道し」《仏経》と引用している。しかし、あくまでそれは引用であって、『正法眼藏三百則』には、香嚴については「忽念大悟」、霊雲については「見桃花悟道」と書かれており、道元はこれによって示衆していると思われるからである。

 『辨道話』ではかれらについて、「古今に見色明心し、聞声悟道せし当人、ともに辨道に擬議量 なく、直下に第二人なきことおしるべし」と答えられている。「聞声悟道」の一時より、「辨道に擬議量 な」きことに重点がおかれ、それは三十年もの状態であり継続である。それが心理体験ではないことは「見色明心聞声悟道のごときも猶、身を得也。然れば心の念慮知見を一向にすてて只管打坐すれば・・」(『随聞記』巻三)に明らかである。「悟は只管打坐のみなることを」(『永平広録』319)は動かすことはできない。とりわけ懷弉の最初の秉拂の後の小参には、「見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明めし。竹、豈に利鈍有り迷悟有らんや。・・・只久しく久参修持の功にこたへ、弁道勤労の縁を得て、悟道明心する也」(『随聞記』巻五)とあって、長年の坐禅弁道が要請されているのである。  

 今見たように道元も懷弉も、師の教えによって承当することを得た。それは教えを教えとして理解したのでは全くない。いっぽう覚知に交わらない「さとり」は、「かたればくちにみつ、縦横きはまりなし」と『辧道話』で吐露されたが、それは真字『正法眼蔵』という周到な用意と懷弉という聴き手を得て、『正法眼蔵』示衆として迸り出たと見ることができよう。

 だが、それは懷弉を接得した言説とはおよそ異質なものである。『随聞記』の道元の言葉は普通 に理解できるものであるが、『正法眼蔵』の言説は、ほとんど取りつくしまがない。いったい弟子たちに何を期待して道元は示衆したのか。中期や後期において公案や経論は道元や弟子にとってどんな意味があったのか。そのことを次に考えてみたい。

m ちなみに「挙頭」のことを鉄拳制裁ととるのはおかしい。殴ることではなく、話を挙すことであり、大仏は大仏寺にいた道元の自称である。

n たとえば、柏田大禅氏が「悟り」の用例として引く「只色を見心をあきらめ、声をきくに道をさとるのみなり、こころを明むといふ心は仏の心にてあるべし。さとるといふ道は仏道にてあるべし。仏道のなか仏家のうちには、ただ見色明心聞声悟道のみあり、さらに一物なし」(「道元禅師の只管打坐の真意」『道元思想体系』8巻280頁)というのは《仏向上事》の草本である。

o 『随聞記』は、この版の他に巻の順序が六、一〜五になっている面山版本がある。

p それも開悟の要請とと併せて説かれたのである。例えば「長老にならんと思ふことをば古人是を耻しむ。只、悟道のみ思て不可有余事」(巻四)「発心修行すれば、得道すべしと知て、即ち発心する也」(巻五)「学道の人、悟を得ざる事は、即ち己見を存する故也。・・・本執をあらため去ば、真道を得べき也」(巻五)「只、久参修持の功にこたへ、辨道勤労の縁を得て、悟道明心する也」(巻五)などと説かれる。 

q 詳しくは拙書『古仏道元の思惟』 前掲 194頁以下参照

(21) 道元は『景徳伝統録』巻11を見たのだろうか。他にも『碧巖録』『無門関』『五灯會元』『汾陽録』『從容録』に説かれる。

(22)  挙げればきりがないが、たとえば板橋興宗「悟と信の問題」(『道元思想体系』8、1995、305頁以下)、下室覚道「身心脱落の一視点(上)」(「宗学研究所紀要」第十二号、曹洞宗学研究所、1998 所収)23頁以下、など。