三、初期の開悟の要請
道元はたえず自らの著述に手を加えており、現在見られる形での著作は、必ずしもその奥書に記される年代の思想ではない。道元の初期資料を、いま三十九歳以前のものとすると、天福本『普勧坐禅儀』(二十八歳作、三十四歳浄書)、草案本《辨道話》(三十二歳)、『学道用心集』(三十五歳)、『正法眼蔵随聞記』(三十六歳〜三十九歳頃)、真字『正法眼蔵』(序三十六歳)、『永平広録』に含まれる頌古や法語の一部等である。
まず問題になるのは興聖寺創立の年になる『学道用心集』である。《辨道話》では、只管に打坐すれば自ずから承当すると教えたのであろうが、三年近く経って纏められたこの書には、明確に「右、身心を決択するに自ずから両般 あり、参師聞法と功夫坐禅なり」(十)と聞法が挙げられている。そして、そこには、後に自らが批判する公案によって忽念と悟る中国宋朝禅の要素が、色濃く見出せる。
例えば、無字の公案は、「無の字の上において擬量 し得てんや、擁滞し得てんや、全く巴鼻なし。且く手を撒して看よ。身心如何、行李如何、生死如何、仏法如何、世法如何、山河大地人畜家屋畢竟如何と。看来り、看去れば、自然に動靜の二相了然として生ぜず。」(8)と、理性では理解できないことを強いて問い詰め、意識を遮断する手段として使われる。ここでは、坐禅は直ちに証(C悟)ではなく、むしろ悟るための手段であり、したがって無所得・無所悟ではない。
「その風規たる、意根を坐断し、知解の路にむかわざらしむ。これ乃ち初心を誘引するの方便なり。その後、身心を脱落し、迷悟を放下す、第二の様子なり。・・・・人、試みに意根を坐断せよ、十が八九は忽念として見道することを得ん」(9)といわれる。この見道が迷悟の悟ではないことは明示されているが、「忽念として」とあるので、鎌倉時代の学人には、体験としての悟り(B悟)と聞こえても無理からない。
それに呼応するように、悟りを得て仏になる禅宗の伝統が、次のように説かれる。「釈雄調御菩提樹下に坐して、明星を見ることを得て忽念として頓に無上乗の道を悟る。その所悟の道は声聞縁覚等の能く及ぶ所にあらず。仏能く自ら悟り、仏仏に伝えて今に断絶せず。その得悟の者はあに仏にあらざらんや」(『学道用心集』9)
また、初期の法語には「這の一段の公案」(2、4)の参究要請があり、B悟と受けとられかねない「新条特地」(5)という表現も見られ、「得法の者これ少なし。・・・悟道の者これ少なし」(『学道用心集』6)という言葉もある。
このような指示は、ほとんど宋朝禅と変わらない。道元は帰朝後しばらくは、中国で実践した臨済禅のやり方を、踏襲したのであり、それは当時の修行者が新しい禅に期待したこととも合致したのだろう。天福本『普勧坐禅儀』が、宗臣責の『坐禅儀』とよく似ていることは、指摘されている通 りである。