道元の「さとり」
一、問題
「さとり」という和語は、実は微妙にニュアンスの異なる二つの概念、すなわちインドの「覚り」と中国の「悟り」の双方に用いられる。
インドの覚(bodhi)は、ゴータマ・ブッダの覚りであり、漢訳経典では伝統的に「菩提」と音写 してきた。この菩提はゴータマが七日間その三昧を楽しんだといわれるように、体験というよりは、状態であり、またそこで縁起を思惟したと描写 され、知慧と深くかかわっている。
菩提はまた涅槃(nirvana)や解脱(moksa)とほぼ同意語として用いられてきた。ニルヴァーナとは(煩惱や自我の)火が消えることであり、なにか特殊な体験ではない。原始仏典にこう説かれる。 「ヘーマカよ、この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。」(「スッタニパータ」^)
涅槃が死と同義語になったり、「涅槃寂靜」と熟語されたりすることにも、体験というよりは状態を示すものであることが窺える。また解脱は元来、死後の生を受けて輪廻する存在からの脱出、あるいは無明による生老病死からの解放であって、これも状態を意味するだろうし、原始仏典に慧解脱と心解脱と対になって説かれており、慧解脱が覚や観の側面 を、心解脱が三昧や止の側面をいうのだろう。
一方、「悟り」は禅宗以前に、中国の論師や釈師によって説かれた。道生の「頓悟成仏、悉有仏性」という句が広く影響を与えた_が、「頓悟」も「仏性」もサンスクリットに一つの原語を求めえない中国の思想用語である。慧思は「大乗頓覚無師自悟疾成仏道」`といい、頓覚は成仏と結びついて説かれた。つまり「悟り」は成仏という特殊な体験を指す語となったのである。
禅宗では、主にこの悟りを継承し、かつてのゴータマの覚りは、『祖堂集』には「明星出時大悟す、便ち偈を造りて曰く、星に因って得悟す・・」と描写 され、機縁によって忽念と悟る体験とされた。そのような機縁による一時的特殊体験の代表が、霊雲桃花や香厳竹声である。
しかし、禅宗にはこれらとは異なった悟りの用法もある。達摩が「教に籍りて宗を悟り」aと使ったように、言葉を媒介して根本的に理解するという意味で、「解り」bとも書かれる。それは法華経の「開示悟入」のように、いわば慧解脱に相当しよう。いま仮にそれをA悟と呼ぼう。いっぽう体験的悟りは見性(自性、法性、仏性を見る)とも表現され、やがて『大乗起信論』に代表される本覚(如来蔵、仏性)に目覚める(始覚)という思想と結合したのである。見性成仏とは、「教外別 伝・不立文字」と並べられるように、言葉を媒介する知慧を斥け、精神集中的行や頓智的会話に触発されて起こる心理的体験である。このような体験としての悟り(見性c)をB悟と呼びたい。
ところで、道元が「さとり」という場合、いったいどのような意味を持つのだろうか。
注
^ 『ブッダのことば』190頁、中村元、岩波文庫、1958
_ 他にも例えば僧肇が「妙悟」(『般若無知論』T45、159b)、華嚴宗の智巖が「頓悟乗」と使っている。
` 『法華経安楽行儀』(T46、697c)
a 『略弁大乗四行論』(『達磨の語録』54頁、柳田聖山,ちくま学芸文庫、1996所収)
b いわゆる「二入四行論」に多用される。前掲『達磨の語録』101、108、113頁等
c もっとも、現在の日本臨済宗でいう見性は、たくさんの境地の最初の段階として使われているようである。