姫路藩士をしくじった、松岡青羅は

松岡青羅(まつおかせいら、1740〜1791)姫路藩主が酒井家の時代、武士としては精勤さを欠く、
のんびりやで出世にも意欲がなかった。「釣りバカ」の「浜崎(ハマチャン)」のような存在でした。
そして、自分から転進するというような形ではなしに、お役御免のように、姫路藩士を辞めささ
れました。現代ではリストラ社員と言えます。

【青羅は前橋藩酒井忠恭(ただずみ)時代(後、姫路藩に転封)の江戸藩邸に生まれました。
竹沢氏の養子となり御勘定方として出仕しますが、ここでは不身持の理由で姫路に移されます。
東京本社勤務から、姫路工場(禄米の生産地)への転勤を命じられてしまいました。】

2度目の失敗で姫路からも立ち退き、出家して諸国吟遊の旅に出ます。しかし、趣味の俳諧が
後の人生を
大転換させます。
青羅は明和年間(28歳ころ)加古川にやってきます。当時の大庄屋「中谷慶太郎」の厚い庇護を
受け、三眺庵(栗本庵)を建ててもらい、俳諧師として活躍します。
青羅は以後「栗の本」を名乗るようになりました。(栗の本青羅(くりのもとせいら))
青羅はたぴたび句会を催し、句集を発行し、芭蕉の句碑を建立し、俳諧師として盛んな活動をし
ます。 姫路には、多くの俳人が遊びましたが、栗本庵は、松岡青羅から始まる栗の本社(くりの
もとしゃ)からは、多くの俳人が生まれました。
一時は、3000人も弟子がいました。加古川の「※光念寺」には、辞世の句の句碑があります。
姫路には、姫路市立城内図書館に「青羅発句集」が蔵書されています。
青羅が愛されたのは、句風が平明で解かり易く、それでいて枯淡味があるからでしょう。

「士農工商」の身分制度が敷かれた時代に、武士を捨てるのは勇気がいることでしょう。
反対に江戸の武士(徒歩、将軍警護の下級武士)、「太田南畝(おおたなんぼ)」は、10代にして
「蜀山人(しょくさんじん)」(筆名)として黄本で江戸の意気と穿ち(うがち)や狂歌で人気でしたが、
時代が変わり、華美や軟弱な風俗を廃する政策(12代家慶のとき、老中水野忠邦による「天保の
改革」)になると、純粋に武士「太田直次郎」として生きる決意をします。
40歳を過ぎて学問吟味(幕府の登用試験)に挑戦して、主席合格の伝説の人です。
そして、出世の道を上り詰めます。その南畝も姫路藩の「仁寿山黌(私塾)」や「好古園(藩校)」で
講義もしましたし、名勝八家の小赤壁(頼山陽が中国の赤壁に似た景観から名づけました)に遊
びました。

松岡青羅の冬の句はどんなものでしょう。

しら菊に 赤みさしけり 霜の朝
難波津や 橋めぐりして 夜の雪 (難波津・おおさか)
三日月に 行き先暮るる 枯野かな
冬篭り 米つく音を 算へけり  (算へけり・かぞえけり)
うき時は 灰かきちらす 火鉢かな (うき時・うれしいとき)
薮入りや ついでに古き 墓参り (薮入り・正月、お盆に嫁家や奉公先から実家に帰ること)
行く年や かしらをあぐる 田のひばり
燈火の すわりて氷る しも夜かな・・・・・。今でも解かる平易さです。

「※光念寺」