酒井忠以(ただざね、号宗雅)は、酒井家三代目の姫路城主である。江戸藩邸に生まれる。
父(忠仰)が病弱のために、祖父(酒井二代目城主、忠恭)の養嗣子となり、18歳で姫路藩主(1772〜1790)
となる。 大好きな時代(ほとんどの藩財政は疲弊したが、なぜか茶の湯や洒落や穿ちの文学も大成した。
大名の遊びとしての遊女も繁栄した。)その時代に絵画などに才能を開花した「酒井抱一」は実弟。(秘密29)

25歳の時に、日光東照宮の修復を命ぜられた折に、出雲藩主の松平冶郷(はるさと、号は不昧)と知り合い
、不昧の茶道(石州流)に影響され、親交を深めて弟子となる。
宗雅は、几帳面で筆まめだった。22歳の正月より書き始めた「玄武日記」と、33歳の正月より書き始めた
「逾好日記」を残している。33歳で病を得て死去。
歴代姫路城主の中でも几帳面さという面では軍を抜いている。正月に日記を始めても、すぐ飽きてしまったり
書くことがなくなったりする。ブログの記入だって多岐に渡る記述で誤魔化しているが、私事を書き続けること
は困難なことですから・・。茶の湯も不昧の後を継ぐのではないかという程の才能だった。


宗雅が師と仰いだ「松平不昧」は、疲弊した藩財政が国許の努力で改善し、蓄財も出来たのに、茶の湯に対
する打ち込みようは異常で、天下の茶器を集めて、高価なものは2000両(1億5000万円くらい?)もしたの
に、多くを集めた。この趣味のために藩財政は疲弊したから、罪な大名です。

しかし、不思議なことに出雲の人々は、この殿様が大好きでした。酷税にくるしめられたのに愛するなんて驚き
です。
230年も経っているのに、今も出雲地方(島根県)では、人々は日常的に「お抹茶」を飲む習慣がある。

酒井 宗雅の時代