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悲劇の利神城は築城400年を迎え、旧因幡街道の通りには「利神城 築城400年」の
幟がはためいていた。利神城は「関が原の戦い」以後徳川の治世になって、池田輝政
姫路城の出城になったので、「姫路城の秘密U」に書くつもりでしたが、付近の旧跡を
巡るうちにページ数が多くなりましたので、「おもしろスポットに行く」に変更しました。
徳川家康の次女「督姫」(1565〜1615)がからんできます。督姫は相模小田原城主
「北条氏直」に嫁ぐも、小田原の役(1583)で豊臣秀吉に降伏した。のち、氏直が病没
したので三河城(家康)に戻る(19歳)。文禄3年(1594)28歳のときに、秀吉の媒酌
で、吉田城主「池田輝政」に嫁ぐ。政略結婚全盛の時代こんなに長期に渡って一人身
を通すのは珍しい。池田輝政にはこれが幸いする。家康の天下になった時に、秀吉の
味方や家来は遠ざけられていく中で、秀吉近習であったのに輝政は異常ともいえる出
世を果たす。姫路城52万石を与えられたんですが、のち、督姫との間にできた5人の
男子にもそれぞれ城主の地位を与えている。
エピソード 池田輝政は尾張清洲城「池田恒興」の次男に生まれた。父と兄はなんと家
康に滅ぼされてしまう。次男というのは恵まれた身分とは言えず、城主になるのはまれ
といえるんですが、数奇の運命が奇跡の道を歩ませることになった。親の敵の娘を娶っ
たのが、秀吉を頭に頂いていたのに家康の中国、九州に対する睨みとなる姫路城主の
太守となったのである。督姫とは晩婚と言えるんですが、10年も嫁がなかったのは身
体的に欠陥があった訳でもなく、見栄えも悪いとは言えなかったのでしょう。それどころ
か、5人もの男子を儲けている。夫婦仲は良かったんでしょう。
さて、輝政の子供ですが、先の妻女「糸姫」との間に「池田利隆」(姫路城主)を儲けて
いる。(そこで病弱になり、実家に帰る)利隆も子「池田光政」が出来て5年後という早さ
で亡くなり、光政は6歳で姫路城主、のち因幡鳥取城主でなんと千姫の子「勝姫」と婚
姻、のち、名君と称えられる備前岡山城主となる。
そして、督姫との間に池田忠継(ただつぐ、岡山城主)、池田忠雄(ただかつ、洲本城主)
、池田輝澄(てるすみ、播磨山崎城主)、池田政綱(まさつな、赤穂城主)、池田輝興(て
るおき、佐用城主)がいる。輝政は姫路宰相100万石と言われた。
さて、本題の利神城(平福)なんですが、輝政は甥の「池田由之」を2万3千3百石で送っ
た。由之は早速、利神山山頂に近世城郭の形式の利神城を5年もの歳月でもって築い
てしまった。総石垣造りの難攻不落の城で、城下の平福から見える姿は雲をも突き抜け
るように見えることから、雲突城(くもつきじょう)とも言われた。(この地方は朝霧が低く
立ち込めるのが有名)これが、余りにも強固だったために、謀反の心があると進言され、
失脚。城は取り壊されてしまった。(本当に不運で、残念です)石垣や瓦礫は今も残って
往時を偲ぶことが出来る。地元は築城400年を祝っている。
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