姫路藩最大の冤罪事件

姫路慶雲寺近くの、米問屋「但馬屋」の長女「お夏」(16歳)と恋仲の手代「清十郎」(22歳)が、駆け落ちしようとして、飾磨湊で捕らえられた。罪状は、但馬屋主人「善兵衛」の「店の金700両」がなくなったとの申し立てがあったからである。
※7百両=現在の価値に変換するのは難しいが、約5600万円もの大金だ。(千両箱を8000万円程度に考えた。1両≒8万円)

手代:但馬屋は、大問屋ゆえ「旦那」(社長)以下「大番頭」(専務)や数名の番頭(取締役)、十名の手代(課長)のほか20数名の丁稚が勤めていた。手当て(給料)が支給されるのは、手代まで。丁稚には年2回の薮入り(1月と8月の15日前後の数日間)に小遣いが出て、親元に帰れた(ボーナスの起源)。昭和30年代までは、嫁が結婚後に実家に帰れるのは、この薮入りの習慣が見られた。今では跡形もない。

姫路藩50万石の米蔵、大蔵前町の倉庫群には連日のように、米の流通があり、多くの米問屋が存在した。

武士階級でない商人の取り締まりは、町奉行の管轄となる事件であったので、与力「岡部左久馬」が、取調べに当たった。
町奉行:1名、150石以上。以下「与力」10名50石以下(岡部は50石)、同心30俵5人扶持程度(与力の下に数名)、以下士分でない「目明し」(数名)、「手先」(各目明しに1〜2名)が付く。
50石:1石は10斗=100升。50*10=500斗。4斗=1俵なので、500/4=125俵。当時は米は高価だったのだが・・・2万円換算で、250万円(年収)。これに、裕福な商家などから取り締まりに手心を加えて欲しくて「袖の下」(心づけ)が、大枚あったので、優雅な暮らしであったようだ。

岡部左久馬の事件後の供述:店の金700両(5600万円)も見つかっていないし、二人で逃げようとしたのは関係があると考えた。
そこで、清十郎の生家「造り酒屋、清花」がある室津に同心「井上親昌(ちかまさ)」を送り込みました。
井上の調査報告によるた、清十郎は、参勤交代の寄港地として大変栄えている室津の遊郭に入り浸り、散在を繰り返し、清花主人も困り果てた。そこで、勘当同様に、伝手を頼って但馬屋に送り、心を入れ替えまじめにさせようとしたようである。ただ、遊郭での清十郎の人気は、色男でもあるし、金離れも粋なので大変なものであったとの報告を受けた。但馬屋善兵衛も、娘可愛さと大金を盗んだことで厳罰を望んみました。

女子手伝い「よね」の供述:清十郎さまには、着物の裾に縫いこんであった「恋文」(遊女からの)が、洗濯のときに見つかってからも、おなごしには、大変な人気で、付文を渡すおなごしも多くいました。今は、まじめに仕事に取り組んでいる姿勢も好感がもてました。
そんなおんな達の人気にお嬢様も興味をもたれたようでした。いつから恋仲になったのか存じません。

しかし、私は迷うことなく「死罪」(斬首)を判断しました。
当時は、司法機関がなく、庶民には取り調べに当たった与力が、そのまま刑を言い渡したのである。

しかし、まもなく但馬屋の金蔵の一隅から、件の金が出てきたので・・・騒ぎが大きくなった。
お夏は、主人の説得も聞く耳をもたず、悲嘆にくれる日々となった。そして気鬱が高じて自殺(未遂)をしてしまった。そのご、家出ののち・・・・不明のままである。
もちろん、武士階級の町奉行配下には、一切のお咎めなし。

その後、こられの悲恋を聞きつけた「井原西鶴」(好色5人女、第1章姿姫路清十郎物語)や「近松門左衛門」(50年忌歌念仏)などの作品で有名になった。

のち、慶雲寺に二人の墓ができ、8月9日に「お夏清十郎慰霊祭」が執り行われている。

(もちろん人物名など一部は創作です)